夕景
三角海域
第1話
夕景が妙に濃い色に見えた。
バスを降り、疲れた身体をひきずりながら歩いていたのに、なぜだか足を止めてしまう。
塀に寄りかかり、煙草に火を点ける。周りが少しずつ薄暗闇に飲み込まれ、煙草の火がくっきりと浮かび上がってくる。
妙な気分だった。夕暮れというのは、特別な意味があるみたいなことを昔習った気がするが、不思議な郷愁じみたものを感じてはいた。いつもならとっくに家についている時間だった。俺はいまだにここにとどまり、三本目の煙草に火を点けている。
なにがこんなに心を惹きつけるのか。
夕景が? それとも別の何かが? 少し考えてみたが、何も浮かばなかったので考えるのをやめた。
キイキイと音をたて、自転車が俺の前を横切っていく。そんなものさえ、今は不可思議めいたものにみえてくるのだから面白い。
そうして、少しずつ、薄暗闇は黒に塗りつぶされていく。夕暮れには淡く見える街灯が夜になるとただの光でしかなくなるように、俺の中の郷愁も消えていく。
そろそろ、帰るか。
煙草を携帯灰皿に押し込み、歩き始めた時だった。
前から、身体を引きずるようにして歩いてくる老人がいた。比喩ではない。本当に、ずりずりと身体を無理やり引っ張るようにして歩いている。見えない紐に引かれているのではないかとすら思える。
ひぃひぃと荒い呼吸。よく見ると、カメラを手にしている。あまり見ては悪い。そう思いつつも、目がいってしまう。
すれ違う瞬間だった。
ぷつりと見えない紐が消えたかのように、老人の身体が前に倒れた。慌ててその身体を支える。驚くほど軽かった。片腕で支えられるほどに。そのおかげで、老人の手元から落ちたカメラも、つかむことができた。
「大丈夫ですか?」
そう声をかけると、老人はひぃひぃと荒い呼吸をしながら、「カメラ、カメラは」と言った。身体を起こし、カメラを渡してやると、老人はにっこりと笑い、愛おしそうにカメラを撫でた。
「ありがとうございます」
ゆっくりと小さい身体を折り曲げ、老人が言った。そうして、また見えない紐で引かれているかのように、身体を引きずるようにして歩き始める。
「あの」
なぜか、声が出た。
「もしよろしければ、家まで送ります」
老人はゆっくりとこちらを見て、小さく笑った。
老人のペースでゆっくりと歩く。こんなにゆっくりとこの道を歩いたことがあっただろうか。
朝はバスに乗るため足早に。帰りすら、早く家に帰りたいという思いが足を忙しなく動かす。
何もないと思っていたが、意外と悪くない。
夜の中に浮かぶ、家々の明かり。
時折吹く風の心地よさ。
遠くに聞こえる虫の声。
見ようとすれば、何気ないものでもきれいだと思うことができる。そんな見落としてしまいがちな何かが、日常の中に埋もれているのかもしれない。
「ここです」
なだらかな坂を中ほどまでのぼったとき、老人が言った。
「写真館?」
表札の横に、香川写真館と薄く書かれている。
「もうやってないんですがね」
暗闇のせいでよく分からないが、なんとなく、老人の顔は物悲しく見えるような気がした。
「少し、休んでいかれませんか?」
老人が言う。
「いいのですか?」
「ええ」
妙な気分だった。夕景にあてられたのか、この見知らぬ老人の家に足を踏み入れることに、驚くほど警戒も抵抗もなかった。
「では、少しだけ」
老人のあとに続き、家の中へ入る。入ってすぐのところは待合室になっていた。明かりがつくと、どうやらこのスペースは写真館を経営していた時の名残らしい。
棚に、カメラが何台か並び、日焼けした写真がいくつか飾られていた。
「どうぞこちらへ。いま茶を淹れてきますんで、座ってお待ちください」
居間に通され、言われた通り座って待つ。写真館の方と違い、老人の居住スペースは壁一面に大きな布がかけられている以外は、殺風景だった。
「どうぞ。安物なんで、味はいまいちかもしれませんが」
老人が運んできた茶を飲みながら、とりとめのない話を少しした。
俺の仕事のことや、写真館を経営していた時の老人のこと。妻が早くに亡くなり、娘と二人で暮らしていたこと。その娘がある時失踪し、その後写真館をやめたということ。
「不思議なものでね、いい写真が撮れなくなったんです。幸せな家族写真を撮っても、妙に悲し気に写ってしまう。私の気持ちが写真に乗ってしまうんです」
老人はそう言った。俺は茶を飲みながら、老人の話を聞いていた。老人の声は小さいが、しっかりと耳に届いていた。
時計の秒針が刻む音と、老人の言葉が心地よい旋律となっている。荒かった息も、落ち着いていた。
「幸い、蓄えはありました。意外と儲かっていたんですよ」
老人がくすくすと笑う。
「最初の数か月は、何もせず、ただ警察からの連絡を待ってました。でも、半年くらいたったときでしょうか。なんとなく、カメラを持って外に出てみようと思ったんです。自分でも娘を探そうと持ったんです。カメラを持って、探したところを全部写真におさめる。もしかしたら、そこに娘がいるかもしれないと、その時はそう思っていたんです」
気が付くと、自分の湯飲みが空になっていた。老人は新しい茶を注ぐと、続きを語り始めた。
「毎日朝早くに家を出て、とにかく色々なところに行き、シャッターを切りました。そうして、家に帰り現像して、娘の姿を探すのです。しばらくすると、家の中は風景写真で埋まりました。そこら中にいろんな景色がある。居間にはさびれた空き地が、台所には川が。不思議なもんで、そんな写真を見ていると、心が落ち着いていくんです」
老人が息を吸い、吐く。
「そのうち、私が写真を撮る目的は、娘を探すことではなく、私の心を埋めるためになりました」
老人がゆっくりと立ち上がる。
身体を引きずるように、まるで、見えない紐で引っ張られるかのような歩き方で、壁に掛けられた布の前に行く。
「それから長い時間が経ってしまいましたが私の心の中にあるものを、埋めていく作業は続いているんです」
老人が布を留めているクリップを外すと、そこには、「時間」が刻まれていた。
「モザイク、写真?」
テレビで時々見かけるもの。だが、これは今までみたそれらよりも迫力があった。
おそらく、若いころの老人と失踪したという娘だろう。二人が手を取り合い、笑いあう姿が一枚一枚の写真で巨大なモザイク写真になっている。老人と娘が歩んできた時間と、歩むはずだった時間が、老人が娘の欠片を求めて撮り続けた写真で、壁に刻まれているのだ。
老人を引っ張る見えない紐は、きっとここから伸びている。そう思えた。無理やり引きずられているわけではない。この巨大な写真に宿る老人と娘の思いが、老人の心を引いているのだ。
「私は、私の命が続く限り、写真を撮り続けます」
老人は、涙を流しながらそう言った。
帰宅すると、すでに夜の九時を過ぎていた。
風呂に入り、ビールを飲みながら今日のことを思い出す。
不思議な体験だった。
夕景が、俺をあそこに引き留めなければ、あの老人と出会うこともなかったろう。
不思議な縁だと思う。夕暮れには不思議な力が働いているというのも、あながち嘘ではないのかもしれない。
ビールの缶を片手に、窓を開けた。
最近取り付けられたLEDの街灯が、強い光を放って夜道を照らしている。夜道で迷わぬようにそこにあった光は、今はもう安全のための物というイメージに成り代わった。
誰もが、迷っているのかもしれない。
道を照らす光を、みな探しているのかもしれない。
あの老人は、きっとその光を見つけたのだろう。
ビールの残りを飲み干す。いつもより、ビールが美味く感じた。
夕景 三角海域 @sankakukaiiki
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