毒霧 ~ドクギリ~

夕奏琉

第1話「泣くほど辛い、か」

何もかも嫌になったその日、本当に死んでも良いと思った。いつもみたいに仕事を終えた後、帰り道で死のうと決意した。道路に飛び出て思い切りトラックにでも撥ね飛ばされれば一瞬で終えるとそう思ったんだーー。



「危ない!」



ふらっと道路に出ていこうとした詩丘(しおか)はいきなり手を引っ張られ、歩道に戻されてしまった。その瞬間、大型トラックが物凄い勢いで走り抜けていった。今のに轢かれれば身も心も跡形なく消えただろうに……。

詩丘を引き留めたのは、端整な顔立ちをした青年。肩まで伸びている金色の髪は艶があって綺麗だった。カジュアルな服装がスラリとした細い体型を強調させていた。



「なに、自殺志願者だった?なら、余計な事したかな」



青年は身形を整えながらまだ地べたに座り込んでいる詩丘に聞いた。



「……何で、止めたんですか?」

「だって轢かれると思ったから。目の前で惨いの見るのは嫌でしょ」

「だったら見逃せば良かったのに」

「無理無理。オレそういうの気付いちゃうタイプだから」



にこっと柔らかい笑みを見せながら青年は膝を屈めて詩丘と目線を合わせた。間近で見ると更に美形だ。瞳が蒼いのはカラーコンタクト?



「立てる?どこか痛めちゃった?」

「……折角……死ねると思ったのに……」



詩丘は俯きながら震える声で呟く。



「あれは痛いよー?いや、どの死に方も後味悪いけどさ。流石に引くよね」

「もう……どうでもいい……。あたしなんか居なくなった方が世の為だ……。何にも出来ないクセに手間ばっかかけて悪目立ちして……。最初から、夢なんか見なきゃ良かった……」

「夢?何を描いたの?」

「……もういいの……。叶わない……。どんなにあたしがもがいたって、理想に裏切られるだけだ。何も上手くいかなくて失敗ばかりして怒られて……。あたしが生まれてきた意味なんかあるのかなって思ったりもして……。本当にもう鬱なんじゃないかって、気持ちばっかり堕ちてく……。もうやだよ……」



名も知らない青年の前で詩丘は泣きながら本音を吐いた。親にも言った事のない愚痴。見ず知らずの彼に気持ちを晒した所でもう止まらない。どうにでもなればいい。考える余裕すら間に合わなかった。



「そっか。それは泣きたくもなるよね」

「弱い奴だって思ってるだろ……。こんなの逃げだって……。自殺なんか馬鹿馬鹿しいって見下してんだろ……!」



泣きながら叫び、顔を上げた瞬間、青年は黙って詩丘を抱き寄せた。誰かも解らない人にいきなり抱きしめられて、訳が解らない。これもセクハラに入るのだろうか。でも、もうどうでもいい。死ぬ覚悟だったんだ。今更セクハラに遭った所で何も変わらない。



「……もっと泣いて良いよ。オレは君の事知らないから幻滅なんてしないし、見下す権利もない。洗いざらい吐いちゃいなよ。嫌な事はイヤだって口に出さないと、本当に辛い時、言葉さえ忘れちゃうよ……。全部、出しちゃいな。思いっきり泣いてスッキリしなよ」



何で、この人がそんな事を言うのか解らなかった。顔も見れないし、動けないし。でも、その言葉に蓋を開けられた気がした。今まで奥底にしまいこんでいた雑念と辛苦。それが納めていた箱の中から漏れだしてくる。次から次へと。雪崩のように止まらない。一気に込み上げてきた感情は、その名前すら思い出せない程に涙が溢れ出てきた。



それは言葉と表現して良いのか定かではない位に思い切り声を上げて泣いた。こんなに大声で、誰かの胸で、こんなに思いを吐き出せたのはいつ振りか。こんな声も出るんだと自分でも感心する程に、詩丘は泣き続けた。



「……ぅ……ぁあ……っ……!」

「いいよ、我慢しないで。自分で歯止めを掛けたらもう感情は動かないよ」



青年はずっと抱きしめてくれていた。優しく頭を撫でていてくれた。手を、離さないでいてくれた。その温かさにまた涙が溢れてきて、もう制御すら敵わないくらいに感情が暴走していたーー。





どれぐらい泣いていたのか。気が付いた時には青年から飲み物を受け取っていた。いつの間にかコンビニの休憩場所に座っており、ここまでに至る経緯を全く覚えていない。



「喉、平気?声、出るかな?」



そう言われ、詩丘は咳払いしながら声を出してみた。掠れてはいるが失ってはいない。こんな声でも掠れたりするのかとまた感心してしまった。



「……大丈夫……みたいです」

「なら良かった。一生分の声出したのかと思っちゃったよ」



青年はクスッと可愛らしく笑いながら安堵していた。コンビニには二人以外の客は居らず、店員もレジに立ちながら暇そうに欠伸をしている。



「……ご迷惑おかけしました」

「とんでもない。誰だって泣きたい時はあるよ。どお?スッキリした?」

「はい……。お陰様で」

「うん。其なら大丈夫みたいだね」

「すみません。服、汚しちゃいましたよね……」

「あぁ、全然平気。ってか、そんな事気にしてたの?面白いね」

「だって……!初めて会ったばっかなのに……。此処まで付き合って貰っちゃって……」

「放って置けない質なんだよねぇ。あ、偽善者振ってるとかじゃなくてさ。キミがさっき夢の話をしたから、聞いてみたかったんだ。そうだ、名前まだ聞いてなかったよね?」

「……詩丘って言います……。保育士です……」



詩丘は躊躇い気味に自己紹介した。名前を言うのは好きじゃない。いつもこの名前に揺らされる。



「しおか?詩人の詩に丘って字かな?」

「はい……。その通りです……」

「良い名前だ。じゃあ、詩丘ちゃんて呼ぼうかな」

「……どこか良いの?変な名前だって言われる。変わってるって……」

「えー?そうかなぁ?だって、詩の丘でしょう?素敵だと思うんだけどなぁ」

「誉めるの上手ですね」

「本当に思ってるよ。詩丘の詩は“うた”とも読むでしょ?それの丘って事はさ、その丘には詩(うた)が溢れてるって思わない?詩(うた)は最高だよ。生きる気力さえ与えてくれるんだから。ね?素敵な名前じゃない」



その時の彼の優しい表情を詩丘は一生忘れないと思った。そんな風に名前を誉められた事も、意味を素敵だと解釈してくれた事も初めてだ。詩丘は自分の名前に自信を持てたような感覚を得た。



「……ありがとうございます」

「あ、笑った!え、ちょっと可愛いんだけど!もう一回笑って」

「えっ……?えっと……」



今どんな表情をしたのか自分でも解らなかったので、詩丘は戸惑ってしまった。



「あぁ、ごめん。無茶振りした……。気にしないでね」

「はぁ……」

「オレはね、縁深名(えみな)。今はアパレルのバイトと副業をね」

「えっ……!大学生じゃないんですか?」

「え?そんな若く見えた?多分、詩丘ちゃんと同い年位だと思うよ」

「え、じゃあ……24才……?」

「んーとねぇ……早生まれだから今年25才なんだ」

「あ、ならあたしも今年25才になるので……」

「そっか。なら、オレの方がちょっとお兄さんだね」

「すみません、大学生とか言っちゃって」

「全然オッケー。寧ろ若く見られて嬉しかったし」



縁深名は飲み物と一緒に買ったチョコを開け、詩丘にも分けてくれた。お礼を言いながら一口食べるとその甘さにほっとした。



「保育士って言ったっけ?」

「あ、はい……」

「24才て事は、2年目?」

「今年で2年目です……」

「さっきの様子だと、仕事辛い?」

「……辛い。1年目から……当たりが厳しいっていうか……」

「そう。仕事は辛いもんだよ」

「分かってます……。でも、何とかなると思ったの。今までもそうだったから……」

「社会人になって色々見えてたものが変わったでしょ」

「めっちゃ痛感しました……」

「でも、1年目から辛いのによく2年目まで続けたね」

「……途中から、程よい感じになって園長との関係も大丈夫になってたの……。だから面談でも続けますって言っちゃった……」

「そっか」

「……今は、先輩の先生と上手くいかなくて辛い。あたしのやる事が気に入らないみたいで何かと口挟んできて……。今日も、子どもが怪我した事を伝えたら何で防げなかったのって怒られて……。確りしろって怒鳴られた……」



話している内にまた嫌になり、涙が溢れてきた。詩丘は手で顔を覆い、気持ちを治める。



「泣く程辛い、か……」

「……仕事場では泣かないって決めてるから……」

「じゃあ、オレの前ではいっぱい泣きなよ。流せない涙をずっと溜めていくと、本当に泣きたい時に出てこないからね」



縁深名に向き直ると彼は優しげに微笑み、けれどどこか哀しげな表情で詩丘の頭を撫でながら囁いた。



「一度泣き出したら止まらなくなるので……」

「もう知ったよ。あんな大声で泣けるなんて羨ましい。枯れちゃわないようにね」

「……ありがとうございます」

「今日は吐き出せた?まだあるならもっと愚痴っていいよ」

「……なんか、カウンセリングみたい」

「よく言われるー。まぁ、単に人の話を聞くのが好きなんだよ。詮索とかじゃなくて、その人の人生みたいなのを知りたいだけ。そしてネタにする」

「ネタ?」

「そう。オレ、シンガーソングライター目指してるから。歌詞の参考にしたいの」

「カッコいいですね!ギターとか弾くんですか?」

「お?食いついたね。そうだよ、アコースティックギター弾いてるんだぁ」



そのあどけない笑みに詩丘はドキッとした。綺麗というよりも、可愛い……なんて。



「あたしもギターやりたくて」

「おぉ!じゃあ、オレが教えてあげるよ」

「本当ですか!ありがとうございます」

「ギターは持ってるの?」

「あ、いえ。これから購入予定で……」

「そっか。なら、一緒に選んであげる」

「わぁ!ありがとうございます!助かります!」

「うん。やっぱり笑った方が可愛いね」



そんな風に真正面から誉められたのは初めてで、詩丘は喜んでいいのか解らなかった。



「……あたし、自分の笑った表情、好きじゃない。なんか……くしゃって感じになるし……」

「笑い方なんて人それぞれだよ。其を否定する権利なんか誰にもない」



急に影を落としたみたいに、縁深名は静かな声色で言った。



「……そう、ですか……」

「詩丘ちゃんは笑ってた方が良いよ。感情、表に出すの苦手?」

「……はい。喜び方とか……はしゃぎ方とか……なんか恥ずかしく感じちゃって……。上手く顔に出せないっていうか……。冷めてるって言われたりもするし……」



昔の記憶だ。子供の頃の、無邪気な軽蔑、中傷。素直な言葉が凶器になる事さえ知らない純粋な感想。けれど、言われた本人だけは忘れない。思い出さないように蓋をして、記憶からなかった事にするんだ。そうすれば、また笑える。何もなかったかのように……。



「……どうした?嫌な事聞いちゃった?」

「え、あっ……、いえ……!すみません、ちょっと思い出しちゃって……」

「そっか」



嫌な事があるといつも以前に受けた嫌な記憶が固まって押し寄せてくる。それを拭うのも一瞬じゃない。



「ーーあ!そういえば、まだ詩丘ちゃんの夢聞いてなかったね」

「夢……」

「保育士が叶えたい夢だった?」

「……違う。本当にしたいのはもっと別の事……」

「夢はね、誰かに話した方が叶うんだよ」

「えっ……」

「オレも教えたし、多分もうすぐ実現出来ると思うし。だからさ、言ってごらん?あるんでしょう?」



縁深名の微笑んだ表情を見ると何故か委ねたくなるような感覚になる。夢を明かしても多分この人は笑ったりしない。抱いた夢の重さを知っている。



「……小説家……です」

「へぇ。スゴいね!オレの夢と似てる。作品とか掲載してるの?」

「ネットのサイトで……いくつか載せてます」

「もう動き出してるんだね。何のサイト?オレ読むよ」

「えっと……【未来の小説家】って言うサイトで……《迦藍の鳥籠》ってネームでやってるんですけど……」

「迦藍……の、鳥籠……。おー、あった。これ?」



見せられた携帯画面には詩丘のマイページが表示されていた。人の携帯から自分のサイトを見たのは初めてで新鮮だった。



「はい。ジャンルは色々なんですけど」

「結構書いてるんだね。読み応えありそう」

「どうしても長編になる事が多くて……」

「平気平気。読書好きだし。今日から読んでみるね」

「はい!ありがとうございます!」

「歌詞の参考にしてもいい?」

「はい。どうぞ」

「ありがとう。未来の小説家さんかぁ。いいねぇ。夢を持つ事は大事だよ」



詩丘は自分の夢に誇りを持った。今まで誰にも明かした事のない想い。夢のままで終わらせたくないとこの時、強く誓った。



「あー……もうこんな時間かぁ。ごめんねぇ、長々と付き合わせちゃって」



コンビニの時計に視線を向けると時刻は21時を回っていた。仕事の残業という事にしてしまえば親も納得するだろう。焦りはなかった。



「大丈夫です。こちらこそ.ありがとうございました」

「いいよ。これも何かの縁だし。詩丘ちゃん、連絡先教えて」

「あ、この間携帯変えたばっかなので使い方がまだ解ってなくて……」

「じゃあ、借りてもいい?オレの連絡先入れといてあげるね」

「はい」



携帯を渡すと縁深名は器用に使いこなしていた。



「縁深名さんは、時間大丈夫なんですか?」

「あぁ、うん。夜は平気」

「そうなんだ」

「ーーはい。オレの入れといたから確認しといて」

「ありがとうございます」

「詩丘ちゃん、また会って貰える?」

「はい。大丈夫です」

「良かった。お家この辺?遠かったら送ってくよ」

「自転車ですぐなので……」

「そっか。じゃあ、気を付けてね」

「はい。今日はありがとうございました」



コンビニから出て分かれる際、詩丘は深々と頭を下げながら改めてお礼を言った。縁深名は優しく微笑んで詩丘を見送った。




その夜。

詩丘はベッドで横になりながら携帯をいじっていた。縁深名の連絡先を眺め、今日の出来事を思い返す。久々に泣いたせいかまだ喉の調子が整わず変な咳払いが出ていた。咳をこじらせても構わない。自分の声を何よりもコンプレックスに感じている詩丘はいっそ声変わり出来たら良いのにとさえ考えていた。こんな曖昧な声じゃ誰もついてきてくれない。もっと大きな声を出せとあと何回言われるのだろう。あの人にはきっと分からない。詩丘が死のうとさえ思っている事も、泣く程辛い思いをしているのだということも。気付かずにまた誰かを傷付けるのだろう。あの人には言い訳なんか通じない。

変われれば良いのに。性格を変える手術があればいいのに。そんな無いものねだりを考えながら、いつの間にか詩丘は朝を迎えていたーー。

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