第111話 はじめましての距離


 新橋颯斗さんが蓑原高校に通っていることは、地元の人には有名な話だった。公表していなくても、ちょっと調べれば、すぐに情報が出てくるほどに。

 小学生の頃に見た『明日の手紙』というドラマから、ずっと颯斗さんが推しだった私は、一生懸命勉強して、自分の偏差値よりも高い蓑原高校に入学することが出来た。


 颯斗さんは今年で三年生。同じ学校に通える一年間は、一秒も無駄に出来ない。

 だから私は、颯斗さんと同じ演劇部に、二人の友達と一緒に入部した。私は演技は出来ないけれど、中学生までは美術部だったので、小道具係になろうと思っている。


 演劇部の練習場所でもある第二音楽室に、私たち新入生が集められていた。これから、新入生のオリエンテーションが開かれる。

 男女比は、三対七で、女子が圧倒的に多い。その理由は、颯斗さんに会いたいからだと、すぐに察せられた。


「ねえ、颯斗さんに会えたら、何の話をする?」


 先輩たちが来るまでの間、友達の美由子にそう尋ねられた。ほっぺが赤くなって、興奮しているのがよく分かる。

 「うわー、どうしよー」と考え込んでしまう。『明日の手紙』を見ていましたと伝えたいし、「ずっとファンでした!」とも言いたい……。


「やっぱ、第一印象が大事だからねー。こんなにたくさん一年生がいるんだから、普通の挨拶とかじゃあ、忘れられちゃうよ」


 もう一人の友達の香奈も、困ったように笑いながら言う。でも、彼女は背も高くて、クールな顔立ちをしているから、「よろしくお願いします」と真っ直ぐ目を見つめて頭を下げるだけでも、印象に残ると思う。

 彼女は、演者希望なので、颯斗さんと舞台上で共演する可能性が高い。昨日の帰り道、「颯斗さんの相手役に選ばれたらどうしよう!」という話で、かなり盛り上がった。


 ちなみに、美由子は衣装係になった。「サイズを測るときに、颯斗さんに触れるかもしれない!」と、彼女も昨日騒いでいた。

 私はどうだろう、と思う。作った小道具を颯斗さんから褒められるという展開は、妄想でもちょっとしづらい。でも、私が描いた絵を背景に、颯斗さんが演技をしている所を想像すると、胸が高まっていく。


 そんな風に、私たち三人でああ言おうか、こう言おうかと話している間に、先輩たちが隣の準備室からこの音楽室へ入ってきた。ざわざわしていた室内は、波が引いたように静かになる。

 私も含めたみんなが、黒板の前に注目している。一番最初に入ったのは、三年女子の石井部長、次が三年男子の安田副部長、その後に三人の先輩が続いた。だけど、その中に颯斗さんの姿がない。


「皆さん、こんにちは。部長の石井百合です。この演劇部を選んでくれて、ありがとうございます」


 石井先輩は私たちを見回して、微笑みかけた。堂々として凛々しいけれど、私たちを眺める眼差しは優しい。

 この演劇部の歴史やそれぞれの役割について、石井部長は説明してくれたけれど、半分以上の新入生はそれを聞いていない。マナーは悪いとは思うけれど、ずっと楽しみにしていた颯斗さんがいないのだから、しょうがない部分もある。


「それじゃあ、何か質問ある人」


 話が一段落して、石井部長がそう呼びかけた時、一番前に座っていた女の子が真っ先に手を挙げた。

 当てられた彼女は、ドキドキした様子で、立ち上がる。


「颯斗さんはどこですか?」


 予想通りの質問だったのか、石井部長は苦笑を浮かべる。

 当然、私もそれが一番気になっていたので、体全部を耳にしてじっと聞いた。


「映画の撮影で、今日は来ていないのよ。しばらくは、休みになると思うわ。ごめんね」


 美由子も香奈も、「ああ」とため息をついていた。私もがっかりはしたけれど、内心、しょうがないかなとも思っている。

 颯斗さんは、ドラマや映画に引っ張りだこな大人気俳優なのだから、仕方ない。演劇部で待っていたら、必ず会えるはずだと、確信を持っていた。






   □






「今日は、颯斗さん、来ているかなー」

「まだ撮影なんじゃない?」


 美由子と香奈とそんな話をしながら、私たちは第二音楽室へ向かっていた。演劇部に入って三日目。毎日、放課後は同じ話題をしている。


 教室のある棟から、音楽室などがある棟へ続く渡り廊下も入り口で、人だかりができていた。「なんだろうね?」と顔を見合わせて、私たちはそちらへ歩み寄る。

 見ると、集まっていたのはみんな女生徒だった。その真ん中に、綺麗な長い銀髪を三つ編みにした先輩らしき女子生徒が立って、困った顔をしている。


「あ、あの人」

「香奈、知ってるの?」

「うん。颯斗さんと同じクラスの先輩だよ」

「そう言えば、見たことあるかも」


 香奈と美由子が、颯斗さんのクラスメイトまで知っていることに驚いた。でも、ただのクラスメイトにどうしてこんなに人が集まっているんだろう?


「先輩! 颯斗さんは何のお弁当食べてました?」

「颯斗さんの得意な教科って何ですか?」

「今、撮影で忙しいと思うんですけど、居眠りとかしていなかったですか?」


 どうやら、颯斗さんのクラスでの様子が知りたくて、彼女を囲んでいるらしい。気持ちは分かるけれど、流石にこれはやり過ぎだと思う。

 真ん中の先輩も、「ええと……」と心の底から困っている様子だった。話しかけた相手に目を向けるけれど、何と答えたらいいのか分からないみたい。


「おい! 何してんだ!」


 私たちの後ろから、そんな怒声が聞こえて、全員が押し黙った。

 振り返ると、短い金髪の男子生徒が、そこに立っていた。左のほっぺに、深い切り傷が横向きに走っている。私たちを睨みつけたまま、彼は女性との間を縫って、囲まれた先輩の元まで歩み寄った。


「……行きましょう」

「ええ……」


 不服そうな顔をした女子たちをよそに、彼は先輩の手を繋いで、人の群れから抜け出した。そのまま、校舎の階段を下りていく。

 私は、隣の香奈の腕を叩いた。


「ねえ、あの人も先輩?」

「さあ……。多分、二年生だったと思うけれど……」


 情報通の香奈でも、よく知らないらしい。あんなに目立ちそうなのに、不思議だなぁと私も首を傾げる。

 颯斗さんのクラスメイトが立ち去ったので、集まっていた女子生徒たちも解散になった。その一部は、私たちと同じように音楽室へ向かって言った。


「颯斗さんのことが知りたいからって、あれはダメだよねぇ」

「うん。先輩、めっちゃ困っていたよ」

「ファンなら、ちゃんとわきまえないとねー」


 私がそう呟くと、美由子も香奈も同意してくれた。二人とも、同じ気持ちなのが嬉しい。

 颯斗さんのファンとして、人の迷惑になることはしない。そんな当たり前のことを忘れちゃったら、颯斗さんを推す意味なんてないよなぁと思いながら、私たちは第二音楽室に入った。






   □






 演劇部は、七月に開かれる舞台に向けて、動き出していた。少し前に書き上がった脚本を見て、演者さんたちが役割を決めたり、舞台裏のことを考えたり。

 私たち小道具係も、早速その準備に取り掛かろうとしていた。今日は、みんなで集まって、どんな道具を作るかの話し合いだ。


「……で、他に何か、必要なものは何だと思う?」


 小道具係のリーダー、三年の男子生徒の小林先輩が、同じテーブルに座った皆を見回して尋ねる。

 真っ先に、「先輩、良いですか?」と口を開いたのは、私と同じ一年女子の鈴木さんだった。


「颯斗さんは、いつ来ますか?」

「あー、どうだろう。映画の撮影期間は、正直、教えてもらっていないからなぁ」


 この場の女子たちが一番気にしていたことを言ってもらえて、私は心の中で、鈴木さんに拍手を送った。

 でも、小林先輩は歯切れが悪い。嘘をついているわけではなく、本当に知らない様子だ。そんな先輩に対して、鈴木さんはさらに訊いてくる。


「七月の舞台には間に合いますかね?」

「いや、僕も詳しくは知らないけれど、出ないものとして話を進めておいて、って、言われているみたいだよ?」


 颯斗さんの演技を近くで見るという夢は、これでお預けになってしまった。しょんぼりとした心で、ふと、気になっていることが浮かんできた。


「どうして、颯斗さんはこの演劇部に入ったんですか?」

「あー、それ、毎年絶対に訊かれるねぇ」


 小林先輩は苦笑しながら頷いた。先輩方にとっては、耳にタコができるほど言われた質問かもしれないけれど、私達にとっては一番の疑問だった。

 颯斗さんは、小学生の時から子役として活躍している。その時から今まで、素晴らしい演技と存在感で、いつも画面の内で光っていた。そんな演技のプロの颯斗さんが、わざわざ演劇部に入る意味はあるのだろうかというのが不思議だった。


「僕たちの二つ上に、水瀬先輩って人がいたんだよね。その人の演技がすごくって、演劇の大会で、賞を貰ったくらいなんだよ。その演技をたまたま見ていた颯斗が、この人の元で学びたいって、わざわざこの高校を選んだらしいよ」

「へえー。そんなにすごかったんですかー」


 意外な理由に、素直に目を丸くしてしまう。颯斗さんから、学びたいと思えるほどの演技力を持つ先輩を、見てみたかったと思う。

 そこへ、鈴木さんが目をキラキラさせて質問を重ねた。


「もしかして、その水瀬先輩も、俳優さんになったんですか?」

「いや、お笑い芸人をしているよ。アオハルって、コンビで、相方もここの出身なんだけど……知らないよね?」


 小林先輩に恐る恐るという様子で聞かれても、正直私にはぴんと来なかった。周りの一年生たちも、顔を合わせて「知ってる?」「ううん」と話している。

 話は、また颯斗さんの映画撮影のことに戻った。やっぱり颯斗さんは、撮影が多いので、演劇部に来るのは本当にまれだという。


「颯斗も大変だよな」


 座っている横から、そんな声が聞こえた。顔を向けると、三年男子の水田先輩が呆れた様子でみんなを見ている。

 私はそんな先輩に、微笑みかけながら頷いた。


「そうですよね。やっぱ、売れっ子ですから」

「……ま、そうだよな」


 水田先輩も笑みを返しながら言う。ただ、その目が、どきりとするくらいに冷ややかだった。






   □






「秋穂、帰りに、新しくできたクレープ屋さんに行かない?」

「あー、ごめん、今日は部活が……」


 放課後のチャイムが鳴ってから、私の席に来た香奈に誘われたが、頭を下げて断った。

 すると、香奈の隣の美由子が、盛大に眉を顰める。


「えー、今日も?」

「たまにサボってもいいじゃん」

「ごめん、準備が大詰めで、人手が足りないんだ」


 二人のブーイングを潜り抜けて、私は第二音楽室へ向かった。

 六月になっても、演劇部に颯斗先輩は来ていない。先輩目当てに入ってきた一年生は殆ど辞めてしまい、美由子と香奈も幽霊部員状態になっている。


 音楽室の隅では、小道具係の人たちが集まって、ちまちまと小道具を作っていた。小道具、という地味な仕事ゆえに、ここに入った一年生の女子で、残っているのはもう私しかない。

 先輩たちに挨拶をして、小林先輩から指示を貰う。私は、水田先輩と一緒に、背景の空の色を塗るようにお願いされた。


「お疲れ様です」

「ああ、河東か。あっちの方から頼む」

「はい」


 四月に、冷ややかな目をしているのを見てから、私は水田先輩に対して、ちょっと苦手意識を持っていた。ぶっきらぼうで、職人気質な性格だということが少しずつ分かってきたけれど。

 水田先輩は左端、私は右端から、こつこつ塗っていき、大体真ん中くらいで隣り合った。肩はぶつからないけれど、声は届くという微妙な距離で、こういう時話しかけてもいいのかどうか悩んでしまう。


「正直、辞めると思っていたよ」

「え?」


 そんな呟きが聞こえた時、まさか自分のこととは思えずに、顔を上げた。

 水田先輩は手を止めずに塗り続けているけれど、珍しく、口元が上がっている。


「いや、君も、颯斗に会いたくて、入部したんだろ?」

「まあ、そうですね……」

「けど君だけは、ずっと続けているから、びっくりしているんだよね。どうして?」


 先輩の歯に衣着せぬ言い方に、私は、正直な心の内を話さないといけないのだと覚悟した。

 振り返ってみると、違和感に気付いたのは四月の頃だった。小道具の会議で、水田先輩の私たちに対して冷ややか目をしているのを見てから、自分の態度を考え直した。


「今考えると、私、すごく失礼だったんですよね。颯斗さんに会えるかも! ってだけで、演劇部に入部して、先輩方へも颯斗先輩に関する質問ばかりで。それなのに、自分は礼儀正しいファンのつもりだったんですよ。演劇部は、颯斗先輩に会うための場所じゃないのに」


 だから、私は、颯斗先輩を特別扱いするのを辞めようと決意した。心の中でも、先輩とつけて呼ぶようにしたり、無関係な所では名前を出さないようにしたり。

 でも、演劇部として、仕事を与えられたのなら、それはちゃんとやり遂げようと思っている。今は純粋に、一月後に迫った舞台のことが楽しみになっていた。


「俺は、颯斗が入部すること、反対だったんだよ」


 一心不乱に筆を動かしながら、水田先輩は告解をするような静けさで話し始めた。


「懸念通り、女子がいっぱい入ってくるし、颯斗は全然来ないし、演劇部は酷く混乱していたんだよな。なんで颯斗さんはいないんですか! って、正面から文句言われたこともあったし。けど、演劇部に来た颯斗は、誰よりも熱心だった。先輩たちにたくさん質問したり、裏方の仕事を手伝ったり、賞をもらった時は泣いていたり。それを見て、俺も一方的な見方しかしていなかったって、反省したんだ」

「そうなんでしたか……」


 うまく答えられずに、言葉も硬くなってしまう。

 ただ、先輩の口から語られた颯斗先輩の姿は、普通の高校生みたいだった。やっぱり私は、メディアを通した颯斗先輩の姿しか知らない。


「まあ、さっきはああ言っちゃったけれど、河東がいてくれて、大分助かってるんだよな。絵が上手いのは、無条件に戦力になるから」

「中学まで、美術部でしたからね。先輩の色塗りテクニックもすごいですよ」

「いや、これは効率を求めた結果だから……」


 お互いに気恥しくなって、そんな話をし始めた時に、音楽室のドアが開いた。何だろうと顔を上げた時に見えた顔に、あっと声が漏れてしまう。

 「失礼しまーす」と入ってきたのは、颯斗先輩だった。テレビで見るより、背が高い。目鼻立ちがくっきりしていて眩しい。髪にパーマがかかっているけれど、撮影している映画の影響なのかもしれない。


 そこまで考えて、いけない、と頭を切り替える。ここでは、颯斗さんじゃなくて、颯斗先輩だ。ずっと好きだった人に思いがけず会えちゃったから、舞い上がってきてしまったけれど。

 颯斗先輩が石井部長と何か話しているのを目逸らして、色塗りに集中する。青色を、上から下へ。むらなく、むらなく……。


「一年、ちょっと集まってー」


 突然、石井部長からそう呼ぶ仮枯れて、ばねで飛び上がったかのようで立ち上がった。あまりに勢いが良かったので、水田先輩が吹き出している。

 そんな先輩を一瞬睨んでから、カチコチに固まった手足を動かして、部長と颯斗先輩の前へ行く。初日から大分数の減った一年生たちの、緊張した面持ちの群れに交じった。


「えーと、わざわざ言わなくてもいいとは思うけれど、三年の新橋颯斗君です」

「はじめまして。演者担当の、新橋颯斗です。一年間、よろしくね」


 颯斗先輩がニコッと笑い掛けて、私は心臓の音がずっと早くなったのを感じた。でも、同じ空気を吸ったら失神しちゃうかもと考えていた初日と比べると、大分成長している。

 それから、部長の一番近くにいた一年生から、一人ずつ自己紹介をお願いされた。ドキドキしている間に、四番目の私の番が回ってくる。


 初日、何と言おうか悩んでいたけれど、今はそんなの関係ない。

 ストレートに、でも誠実に、そして正しい距離感で、私は、颯斗先輩に頭を下げた。


「はじめまして。小道具担当の河東秋穂です。よろしくお願いします」

















































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