第70話 今日も町に夜が来た


 スマホのホームボタンを押して、時間を見る。十九時十五分。

 約束の時間から、もう十五分も過ぎているのに、香介はまだ来ない。


 ポケットの中にスマホを戻して、空を見上げた。

 闇の中へ溜息を吐くと、白い息になる。


 もうそろそろ、彼と別れてもいいんじゃないか、そんな気持ちが芽生えてしまう。

 別に、遅刻が嫌だという訳ではないけれど。なんかもう、疲れてしまったんだ、色々と。


 そんなことをぼんやり考えている私の左側から、靴がアスファルトを蹴って走る音がしてきた。

 弾かれたように、そちらを見る。香介だった。


 私と目が合った香介は、無邪気な笑顔で大きく手を振ってきた。

 それを見て、私はまた溜息をつく。だけど今度のは、一度目とは違う温度をしていた。


 彼の幸せそうな顔を見ると、しょうがないという変な諦めの気持ちが湧いてくる。

 結局私は、彼に振り回せる運命なんだと思いながら、香介に私も笑顔で手を振り返した。






   △






 今日はアイツが来る。

 月が丸い夜は、そんな予感がして、ぼくは落ち着かない気分になる。


 おうちから出て、空気を嗅いでみる。

 家族の匂い、食べ物の匂い、車が出す臭い匂い……色々な匂いが混じっている中で、アイツの匂いもどこかにあるような気がする。


 いやいや、気のせいだ。さっさとおうちに戻って寝てしまおう。

 そう思っても、目線は遠くの家の屋根の方へ向けている。


 その先に、アイツがいた。

 真っ黒な服を着たアイツ。屋根の上を、猫のように走り、隣の家へとぴょんぴょんと飛び越えていく。


 こっちの方には来ないけれど、ぼくは怖くなって、アイツに向かって吠えていた。

 四本の足で踏ん張って、こっちに来るなと、人間のアイツには伝わらなくても必死に叫ぶ。


 しばらくして、大きなおうちの上から、「うるさいよー」という野々ちゃんの声が聞こえて、ぼくは黙った。

 アイツからぼくたちのおうちを守っているのに、野々ちゃんはそのことが全然分からない見たいみたいで、悲しくなってしまう。


 おうちの中に戻りながら、もう見えなくなっていたアイツのことを考えていた。

 アイツは、友達のチャールズが追い返したと自慢していた、泥棒とは違う気がする。チャールズによると、泥棒は目立たないようにこっそり家に入ろうとしていたらしいから、あんなことはしないだろう。


 ……アイツのことを考えていたら、なんだかムカムカしてきた。

 もう放っておいて、今夜は寝てしまおう。






   △






 ……リア友の蒼子が、またSNSに新しい動画をアップしていた。

 ベッドの上で寝ころんだまま、それを再生する。気は進まないけれど。


 狭い四角の中に写っているのは、夜の町、屋根と空だ。

 右側から、走ってくる人物が入ってくる。それは、まるで忍者のような黒い衣装と黒い布で顔を隠した男性だった。


 男性が屋根の上を走るのを、スマホのカメラが必死に追う。

 そして、その男性が隣の屋根へと跳び移ると、今度はカメラの追えないその屋根の向こうへとジャンプして、見えなくなり、動画が終わった。


 私は、深く深くため息をつく。一分にも満たない動画を見ただけで、すごく疲れている。

 それから、この動画に付随している、「また忍者を見つけた」というメッセージを眺めた。


 蒼子は、ある時から突然、二か月に一回くらいのペースでこのような忍者の映像をSNSに投降するようになった。

 最初の頃は驚かれて、色々と拡散されていたけれど、最近はすっかり飽きられて、私のような蒼子のフォロワーしか見ていない。


 どう見ても、蒼子とこの「忍者」は組んでいる。

 蒼子は、SNSでの質問でも、私の対面式の追求でも、あくまで「この動画は偶然撮れたものだ」という主張を押し通しているが、示し合わせていないとああいうアングルが不可能なことくらい、素人でも分かる。


 こんなことをしだす前の蒼子は、「バズるためなら、どんなことでもやってみたい」とかなんとか言っていたけれど、「ここまでして注目されたいの?」と問い詰めてみたい。

 彼女に付き合わされているこの男の人も可哀そうだ。


 その時、庭の方でトオルが激しく吠え出した。

 私は上半身を起こして、ベッド側の窓を開けて、庭のトオルを見下ろす。


「うるさいよー」


 一言注意すると、空に向かって吠えていたトオルは、「クーン」と耳をぺたんこにしたまま、犬小屋に戻っていった。

 あんまり無駄吠えしない子だけど、たまにあんな風に吠えることがある。人間には聞こえないくらい遠い所で、サイレンでもなっているのだろうかと、夜の空を眺めながら思った。






   △






 幸福な気持ちで、夜の町を歩いていく。

 体の芯まで堪える寒さだが、頬が上気して、そのままスキップしてしまいそうだ。


 俺が住んでいるとんでもなく家賃の安いアパートは、大きく窪んだこの町でも、特に窪んだ場所にあった。

 辺りは空き家が多くて、人通りも少ない。その真ん中に、廃墟になった神社が建っていた。


 家がその先にあるので、鳥居の前を通る。鳥居よりも低い石段を横目に、ざわざわと木々が揺らす葉の音に耳を澄ます。

 その時、背後から足音がして、びくっとして振り返った。俺が言えたことではないけれど、夜のこの辺りで、人が歩いているのは珍しい。


 すぐ後ろにいたのは、アラサーくらいの男性だった。

 くたびれた緑色のジャージで、猫背のまま歩いている。目の下には、三日間丸々寝たくらいでは落ちなさそうなくらいに、頑固なクマがこびりついている。


 その男性は、足早に俺を追い越して右に曲がった。神社を囲むような道を辿っている。

 俺もそちらが帰り道なので、同じ方向へ曲がった。そして足を止めた。


 道の先には、誰もいなかった。この先の曲がり角までは百メートルくらいあり、オリンピック選手くらいの足の速さじゃないと、俺が見えないところまでいけないだろう。

 隣の神社の森は鬱蒼と茂り、入れるわけがない。反対側の家は、道が玄関と接していなくて、こちらにも入れない。


 背中から風が吹く。

 その寒さに身震いしながら、俺は興奮して、口を開いていた。


「……本物の、忍者だ……!」






   △






 今日も、町に、夜が来た。


 暗闇に包まれた空には、嘘のように美しい満月が浮かんでいる。風に黒い色をした雲が流されて、目を凝らさなければ見えないくらいに小さな星々を隠す。

 それと対比するように、眼下の町の灯りは眩く、人々の生活の音が微かに遠く聞こえている。


 鳥居の上で、いつもは曲がっている腰を心持ち伸ばして、僕はそんな光景を眺めていた。

 窪んだ地形にすっぽり納まった、この「町」の上にいる者たちの思考を、僕は全て読み取ることができる。何の変哲のない光景でも、住民たちの悲喜こもごもは筒抜けだ。


 例えば、町に住む女性の蒼子は、恋人の香介と別れるかどうかを悩んでいた。

 そのきっかけは、香介が自身のパルクールの練習に付き合わされているからだった。しかもそれは、忍者の格好をして人の家の屋根を走る香介を、映像に取らせて拡散させるというものだった。


 だが、蒼子の友人である野々は、蒼子がその行為をすることを心底止めてほしいと思っている。

 さらに野々の飼い犬であるトオルは、屋根を走る香介の姿に気付いていて、いつも怯えている。


 さて、一通り屋根の上を走り回って、ご満悦の香介の前に、僕は珍しく、一瞬で消えるという現象を見せてあげた。

 あんまりこういう目立つことは好まないけれど、今夜は気が向いた。一度は注目を浴びたものの、今では殆ど忘れられて、まだ彼の行為を見ている者たちにも嫌がられていることを知らない彼の純粋さに、ちょっと報いてやろうと思ったからかもしれない。


 彼の反応は想像通りで、僕のことを「本物の忍者」だと思っているようだった。

 今、香介は家に帰り、自室で蒼子に、「忍者を見た」というメッセージを送ろうとしている。僕に未来を予知する力はないけれど、これを受け取った蒼子が心底呆れた表情になるのを予想できる。


 香介への恋心ゆえに、別れを思いとどまった蒼子だが、このメッセージを受け取った後はどうするのだろう。明日の朝には答えが出ているだろうか。

 そんなことを考えながら、僕は鳥居の上で踵を返す。視線の先に佇む、ボロボロだけど一応自分を祀ってくれている神社に向かって、大きくジャンプした。


















































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