肆・蒼き月に吠える

5-1

 その夜、エルフォンソは母親に再会した。

 病床の母親にすがり泣く、幼い自分自身にも。

 それでぼんやりと、エルフォンソは夢を見ているのだと自覚することができた。

 後宮の一室、筆頭寵姫というには余りに簡素な寝室が、母マリアルデの全てを物語っていた。その中央、天蓋付きのベッドが、周囲の質素な調度品から浮いている。やせ細ってなお美しい、マリアルデの美貌を内包すれば、さらに浮いて見えた。

 幼い、まだ十に満たないエルフォンソが、その部屋で一番価値の重みが沈んでいる場所で泣いている。

 今夜の晩餐会で、伊那が公爵の母の形見を……それでエルフォンソは今、こんな夢をみているのだと思った。

 エルフォンソはただ瞼の裏に、去りし日の再現を俯瞰している。

 部屋を満たすのは、声を限りに泣き叫ぶ、この帝國の第十七皇子の嘆きだけだ。

 ただもう、懐中時計を見守り沈黙する医師が、結末を知らせている。

『さあエル、泣かないで。涙を拭いて、その顔を母によく見せて頂戴』

 かすれた、か細い声だ。やせ細って節ばった手で、マリアルデが息子の頬に触れる。その最期のぬくもりを、今でもエルフォンソははっきりと覚えていた。自分の手を重ねた、その感触も。

 当時の筆頭寵姫として、マリアルデは後宮にその人ありといわれた人物だったが。そのいまわの際にしては、余りにも周囲は寂しい。先のない者へ時間を割く寵姫は、この後宮にはいないのだ。すぐにも勢力図は塗り替えられ、その中で自分の地位を占めるのに奔走する。

 ただ、一人だけを除いて。

『サフィーヌ、そこにいるかしら?』

『はい、マリアルデ様。私はお傍に』

 サフィーヌ・グレイデル。彼女だけが、今宵も病床のマリアルデを訪れてくれていた。毎日そうであったように。

 この近衛女中から召抱えられた寵姫は、その育ちからか酷く律儀だった。難病を患ったマリアルデに、恩義を感じて親切だったし、エルフォンソ達姉弟のことを何かと気にかけてくれた。

 当然とも思えた……サフィーヌはエルフォンソの姉の、第九皇女ルベリアの近衛女中だったのだから。マリアルデは、かつて仕えた主の母に当たる。だから特に、若くして父の右腕となって戦う、ルベリアのことをずっと想っていた。

『いままで、よくわたくしを支えてくれました。あなたもまた、この後宮で自分の立場を築いていかねばならぬというのに……それをおして、今日まで、よく』

『マリアルデ様、何をおっしゃるのです。私がこうして後宮で何とか生きてゆけるのも、全てはマリアルデ様の導きがあったからこそ。どうか弱気は仰らないでくださいませ』

 マリアルデの枕元にサフィーヌが立った。マリアルデは泣き止まぬ息子の頭を撫でながらも、やつれて頬のこけた顔を彼女に向ける。

 病魔に蝕まれ、死に直面して尚、その気高さと美しさだけは健在だったとエルフォンソは思う。記憶としてさだかでなくとも、そう感じるのだ。

『母上、どうして父上は来てはくれないのです? 姉上も……どうして、母上がこんなに苦しんでいるのに! どうして! ねえサフィーヌ様、どうして……どうしてなのですか』

 幼いエルフォンソには、この時まだ理解できていなかったのだ。

 母が天に召されんとしている、この瞬間も……父や姉は戦っていた。

 大陸平定を目指して、戦に剣を振るっていたのだ。

『エル、陛下はお忙しいのです。わたくし如き小事に捉われるようなお方では……』

『嫌だっ! あの人は意地悪だ……姉上も酷いや。そんなに大事なお仕事なのですか!』

『あの方は王、それも力で全てを併呑する、天が遣わした覇王……その荒ぶる覇業を、誰が邪魔などできましょうか。エル、どうか解ってあげて』

 マリアルデは、どこまでも無条件に優しかった。

 無償の愛をエルフォンソに、ルベリアに、そしてアルビオレへと注いでいた。それが、どうしても子供のエルフォンソには解らなかった。愛することで愛される、そういう幸せな育ち方をした彼には、母がこんなにも家族を愛する、自分以外にも愛を注ぐ理由が飲み込めなかった。

 アルビオレは、マリアルデを寵愛した。だから姉ルベリアと自分がいる。しかし、エルフォンソには決して、心から愛したようには思えない。その気持ちは今も変わらない。

『それと、サフィーヌ。あなたも。どうかあの方を……陛下を許してあげて頂戴』

『マリアルデ様、そんな……私はマリアルデ様より、寵姫の何たるかを学びました。今更何を……一生、これからもずっと、陛下にお仕えします』

 マリアルデはサフィーヌの言葉に、確かにあの時微笑んだ。

 肩の荷が下りたように、穏やかな表情を一層柔らかくしたのだ。

『ルベリアの近衛女中だったあなたには、いくらお礼を言っても足りません。あの方の求めに応じてくれたばかりか、ルベリアを育て守り、エルのことも気にかけてくれた』

 サフィーヌの瞳が潤む。それはエルフォンソの夢が見せる幻だろうか?

 記憶にはない細部の再現をしかし、信じられるだけの人柄を、サフィーヌはずっとエルフォンソに示し続けてくれたから。だから本当にあの時、サフィーヌは泣いてくれたんだと思う。

『エルフォンソ殿下のことは、どうか心配なさらずに……プリミ・テルミルは優秀な近衛女中です。腕も確かですし、日頃の二人はまるで本当の姉弟のよう』

『そう……サフィーヌ、プリミに伝えて頂戴。わたくしから、どうかエルをよろしくお願いします、と』

 黙ってサフィーヌは頷いた。その頬を、一筋の光が流れ落ちる。

 ただマリアルデの死へと向かう、セピア色の光景をエルフォンソは見せられ続けた。

『最期の心残りは……エル、あなたとルベリアを残してゆくこと。エルはまだ、こんなに小さいというのに。そしてルベリア……サフィーヌを奪われて尚、あの子は陛下の右腕たらんと、気丈に剣を振っている。わたくしは、それが心苦しい』

 本来ならば、それこそ今のプリミとエルフォンソのような関係を、マリアルデは娘と息子との間にも望んだ筈だ。

 だが、その願いは適わなかった。

 エルフォンソとルベリアは、険悪なわけではない。寧ろ、姉は優しく理解がある。それでも、どこか姉弟としての、もっと単純で当たり前な交わりが決定的に欠けていた。

 ルベリアはいつでも帝國第九皇女、何より天帝の右腕としてあり続けた。

 そしてエルフォンソは、そんな姉に敬愛や親近感よりも、畏怖と畏敬の念を感じてしまったから。今、マリアルデが旅立たんとしてるこの瞬間には、居てくれないことに怒りさえ覚えていたと思う。

『ルベリア殿下は立派に育たれました。どうかマリアルデ様、ご安心を』

『サフィーヌ、あなたが言ってくれるなら安心です。これからはあなたも、この後宮であなたの戦いをはじめなさい。エル、あなたも……自ら求めるものへと、全力を尽くすのです』

 不意に、最期の力を振り絞るように、マリアルデの細面が引き締められた。

 こんなことを母は、本当に言ったのだろうか? 懐かしさが脚色した幻想か? だが、エルフォンソは見下ろす光景から目が離せず、耳に響く声を拾い続ける。

『願い、祈るだけでは、何もなしとげられません。想いだけでは、駄目なのです』

 まるで、見下ろす今のエルフォンソを見透かすように、マリアルデは天を仰いだ。

『サフィーヌ。これからはわたくしの庇護を失い、一人で後宮に生きねばなりません。幸い、あなたはあの方のご寵愛も厚い……きっとよくしてくれましょう』

『……はい、マリアルデ様』

『この後宮は、女の情念が渦巻く魔窟です。心して暮らすのですよ……そして、もしまた、あの方の気まぐれで……ふふ、陛下は常に、心に少年と獣を秘めているのです。だから』

 マリアルデが咳き込み、その口元を押さえる手が血に汚れた。

 背後に控えていた医師が、いよいよと時計に眼を落とす。

『だから、サフィーヌ。もしまた、無垢な娘がこの後宮に迷い込んできたら……力になってあげて。わたくしに代わって、愛憎渦巻く後宮の寵姫達の、希望になって欲しいの』

『マリアルデ様……必ず。私がマリアルデ様から戴いた全てを引継ぎ、次なる寵姫達へと示しましょう。そのために私も戦います。この後宮で』

 戦に剣をふるうだけが、戦いではない。この言葉はアルビオレのものだが、マリアルデもまたその信念を共有していたのだ。だから二人は、強く惹かれて結び付いたのかもしれない。

『エル、あなたも……必要とあらば、ためらわず戦いなさい。あなたは誇り高き、アルビオレ・ジル・クーラシカの子、クーラシカ帝國第十七皇子エルフォンソ・ミル・ラ・クーラシカ。民のため、大事なもののため、何より自分のために』

『母上! そんな……どうしてあの人と、父上と同じことを言うのです! 僕は、優しい母上の方が好きだ! どうしてみんな、母上のように優しくなれないのですか……僕は、父上より母上を目指します』

 幼いエルフォンソが、ベッドの上に泣き伏した。その姿に今の自分が重なる。

 我が子の髪を撫でながら、マリアルデは毅然と言葉を紡いだ。死神に手を引かれる身とは思えぬ、力強く温かく、何より優しい声音で。

『戦に剣を振るうだけが、戦いではありません。しかし、それが必要な時に、迷ってはなりません。そうでしか開けぬ道があることも、認めねばなりません。理想や夢、野望……富や民、権力。戦と平和。これからあなた欲するものは、ただねだるだけでは何も得られないのですよ』

 徐々に、母の声が遠くなる。エルフォンソの視界が狭くなる。

 目覚めの時が近付いてきたのだ。それをエルフォンソに押し付けるように、何処からともなく別の声が、どこか聞き慣れた気安い声が響いてくる。エルフォンソは夢の中へと、必死で思惟を押し留めた。

 気付けば彼は、亡き母の名を呼び叫んでいた。

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