4-3

 大きくはないが、ゆったりと身を横たえられるサイズの湯船。大理石から削りだされたそれは、白金の四脚に飾られ支えられている。エルフォンソと薬湯を満たした、ハーブの香る風呂は何よりの御馳走だった。身を沈めれば、床のタイルへと熱い湯が溢れて流れる。

「ふう、一心地といったとこかな。……それより、あの、一人でできますから」

 夕日が差し込む風呂の一室に、エルフォンソは湯を手ですくいながら部屋の隅を見る。

 そこには、城の使用人と思しき女中達が、着替えとタオルを手に控えていた。

「旦那様から、失礼のないよう仰せつかっております」

「どうぞ、ゆるりとお寛ぎくださいませ、殿下」

 年の頃は、プリミと同じ位だろうか? プリミの年齢を容姿だけで比べるなら、七、八歳は年嵩の、モノクロームに切り分けられた簡素な服装のメイド達だ。

 エルフォンソは先程から、彼女達の存在が、その緊張した面持ちが落ち着かない。粗相があってはとカチコチに畏まられれば、気持ちも休まらないものだ。

 もっともエルフォンソとて皇族、かしずかれるのには納得しているつもりだが。他の兄弟姉妹と違って、彼は自分で自分の世話が焼けるようになるや、近衛女中に身の回りの面倒をかけなくなっていた。それでも実際には、何かと姉気取りは口煩いが。

「うーん、ええと、じゃあそろそろあがろうかな……お、お願いします」

 この、人を使うというのがエルフォンソにはいまひとつ慣れない。それでも彼女等も仕事なのだから、無下に下がってよいとも言えない。公爵にも彼女等にも、失礼にあたるだろう。

 やれやれと身を起こし、やや痩せ型と言っていい裸体をさらすエルフォンソ。

 その時、タイルに反響する悲鳴のような声が聞こえてきた。良く知った一対のやり取りが、その言葉の波紋を広げながら近付いてくる。

「いっ、いやじゃ! わしは敵地で風呂など入らぬ! ……風呂は好かんのじゃあ」

「お伊那さん、逃げたって駄目ですからねっ! もうっ、エルだってこんなに世話を焼かせやしないってのに……あっ、お伊那さん待って! すばしっこい、どっち……こっちかしら?」

 不意に、白く煙る風呂場に、湯気より尚白い人影が飛び込んできた。

「おっ、お伊那さん!? あ、いや、何て格好で……」

「! そっ、そそ、それはわしの台詞じゃあ。エッ、エエ、エル! 隠せ、隠すのじゃ! 乙女にかようなものを晒しておくでないわ!」

 乙女の悲鳴が幾重にも連なり響いた。

 既に女中達は、突然現れた獣人と入れ違いに、タオルやバスローブを放り出して叫び逃げていた。

 今、湯を滴らせるエルフォンソも、両手で目を覆う伊那も全裸だった。

 二人の間を遮るものは、いくばくかの湯気しかない。

「お伊那さんこそ、何て格好で……目じゃなくて、他に覆うところがあるでしょうっ!」

「え、ええい、うるさいっ! うう、見てしまったのじゃあ」

「見られるのはいいんですか、見られるのは」

 再び湯船に腰を下ろして、鼻まで浸かってエルフォンソは赤面を逸らした。彼の一言で我が身のあられ姿に気付いて、再度伊那は悲鳴をあげた。

「ひええっ! くっ、屈辱じゃあ。戦場で武装を脱いだばかりか……み、見たかや?」

「いっ、いいえ! 見てません! 見てませんから、早く出て行ってください」

 ちらり横目で、それでも伊那の白過ぎる裸体を盗み見る。彼女は両手で胸を覆い、ゆるゆると揺れる尾でぐるりと腰元を隠していた。その顔が真っ赤になって、耳がピコピコと動いている。

 伊那はしかし、エルフォンソがのぼせはじめても、一向に浴室を出て行こうとしない。

「大体何ですか、そんな格好で。プリミがついてて、どうしてそうなるんです」

「そうじゃ、あやつめ。わしをていよく脱がした上で風呂に入れようとしたんじゃぞ!」

「公爵が快く湯を沸かしてくれたんじゃないですか。旅塵を落としてください、って」

「わしは風呂は苦手じゃ。そんなにまだ汚れておらんしの……それに、ここは敵地ぞ」

 徐々にはれゆく湯煙の中、身を畳むように立ち尽くしながらも、伊那はキッパリ言い放った。

 ここが敵地、戦場だと。

「まだそんなことを。いいですか、お伊那さん。先程も話したでしょう。あの件は――」

「見つけたっ! さあ、お伊那さん? 逃げないで、ちゃんとお風呂に入って頂戴っ!」

 僅かばかりの緊張感が、弾けて消えた。伊那を追ってきたプリミの登場で。彼女もまた、タオルを胸元に巻いただけの半裸姿だった。これでは、宮中の華たる近衛女中の威厳もへったくれもない。

「ぬかった……ま、待つのじゃプリミ。風呂はよい、我慢する……我慢はするがここは」

「犬や猫じゃないんですから、お風呂位ちゃんと入らないと。一応仮にも、お伊那さんだって後宮の寵姫なんですからね? 公爵の前では品位が問われるんですから。さあ!」

「わしは狐じゃ、犬猫と話は別じゃ。い、嫌じゃあ。わしはまっこと、風呂だけは苦手なんじゃあ」

「嘘仰い、御茶や踊りも駄目でしょうに。ホントにもうっ!」

 エルフォンソは途方に暮れた。伊那はにじり寄る小さなプリミから、それこそ犬猫のように逃げ回っている。たちまち小さな浴室は、エルフォンソの湯船を中心に乱闘騒ぎとなった。周囲をぐるぐると伊那が逃げ回り、それをプリミが追う。

 エルフォンソは湯船から出るに出られず、途方に暮れた。

 暖かな水蒸気を満たしたこの部屋で、伊那の耳と尾の先だけが鮮やかに赤い。それと、エルフォンソの頬も。

「そりゃ、後宮の寵姫ほどうるさくは言わないけど。お伊那さん? 正直、ちょっと臭うんじゃなくて? ねえ、エル」

「これくらいは普通じゃ。後宮のおなご達の方こそ、香水臭くて鼻が曲がるぞよ。のうエル。……でも、わしはそんなに臭うじゃろうか」

 湯船のエルを挟んで相対した伊那とプリミは、右に左に、どちらにも逃げたり追ったりできる体勢で固まった。エルフォンソとしては、窓側の伊那を見るわけにもゆかず、さりとて扉側のプリミも見れたものではない。

 それでも、夕日の逆行を浴びながら、自分の匂いに鼻を鳴らす伊那の輪郭は、まるで芸術品のようだった。火ノ本の獣人像が、それも飛び切りの女神像が現れたようだ。

「あ、あの……とりあえず、僕はあがってもいいかな?」

 おずおずとエルフォンソは、睨み合う二人の視線を手で遮り、両者を交互に見た。

「お伊那さんも、エルみたいにいい子にしてお風呂に入るっ! 逃がしませんからね」

「ぐぬぬ……まあ、このお伊那とて、別に不衛生にしておる訳ではない。ほれ、この尻尾の毛並みを見るがよいぞ? わしはじゃから、風呂は今日はまだ」

「いけません! 本当ならあたし、迅雷だって丸洗いしたいくらいなんだからっ」

 ぺっこりと伊那の耳が垂れ、次いで彼女は肩を落として深い溜息をついた。

 どうやら観念したようで、それでも上目遣いにプリミへと哀願にも似た視線を送る。

「火ノ本では湯には入らないんですか? 霧湯サウナとかなのかな」

「……わし等とて湯浴みはするし、火ノ守なれば決められた沐浴は欠かさぬ。火ノ本では温泉もあるし、湯治の習慣もあるぞよ? ……わしが、その、個人的に好かんのじゃあ」

「駄々をこねても駄目よ? さ、行きましょ。このままだとエルがのぼせちゃう」

 確かに、プリミの一言は言いえて妙だ。既に湯船に張った湯は、二人のドタバタのせいもあって、ぬるくなり始めている。それでも、陽光の残滓が切り取る伊那の裸体は、エルフォンソの目には毒、それも猛毒だった。その肌は白妙よりも白く、起伏は優美な曲線を象っている。

 火照る頬の赤さを、エルフォンソはぬるい湯のせいにしようと決め込んだ。

「せっかく髪も肌も綺麗なのに。さ、いらっしゃい。隅々まで今日は洗ってあげます」

「うう、プリミは手厳しいのう。お手柔らかに頼みたいのじゃあ」

 先程まで公爵を斬ると息巻いていたのが、まるで嘘のようで。すごすごと湯船と窓の隙間から這い出ると、しょんぼりうなだれ伊那はプリミの横に立った。腰に手をあて、その姿をプリミは勝ち誇って見上げる。

 残念ながら直視するまでもなく、エルフォンソには明暗の分かれた二人だった。

 姉気取りの近衛女中は優秀だが、小柄で華奢な上に、ふくよかさに決定的に欠けているのだ。

「とりあえずプリミ、文化も違うんだからあまりいじめないであげてよ」

「そうじゃあ、エルの言う通りじゃあ」

「お伊那さんのは文化の違いじゃなくて、単なる好き嫌い! ほら、風邪引く前に行きましょ」

 伊那の手を引き、ようやくプリミが出てゆく。エルフォンソは近衛女中に連れられてゆく白い背中と、その下でしんなりしてしまった尻尾を見送った。

 が、ふと伊那が足を止め、肩越しに一度だけ振り返る。

「じゃがの、エル。覚えておくがよいぞ? 戦場で悠々風呂に浸かるは、大陸人でもおめでた過ぎる話じゃあ。ここはの、エル……まだまだ波乱の敵地よ」

 僅かに険しさを強めた、伊那の語気が鈍色に尖る。まるで研がれた刃のように。

 その意図するところを量りかねて、エルフォンソは思わず反論に立ち上がった。

「お伊那さん、もう終ったんですよ! 誰も斬らなくていいんです……誤解だったんです、全ては」

「ぬしは見えぬからそんなことを――ばっ、馬鹿者っ! 丸見えじゃ、また見てしまったではないか! は、はようそれをしまえ……ううう、大陸まで来てまさか、初めて見てしまうとは不覚じゃあ」

 身を翻して伊那は縮まり、振り向くプリミの背中にしがみ付いた。そのまま小さな背に隠れて、耳だけを覗かせている。

「まあ、お伊那さんも大げさね。兎に角、エル? その見慣れたものをしまって頂戴」

「あ……でっ、でも、僕は別に見せてる訳じゃない。だいたい元を正せば、プリミ達が勝手に入ってきたんじゃないか」

 慌てて三度、恥ずかしさからエルフォンソは湯に沈んだ。

「お、覚えておれエル……必ずいつか、責任を取らせてやるのじゃあ」

「はいはい、いいからいきましょ。折角のお風呂がぬるくなっちゃ、なっちゃ……へっぷし!」

 小さなくしゃみを残して、プリミは伊那を引きずるように浴室を出て行った。

 ようやく一人になって、エルフォンソは湯船から解放され、茹で上がった自分を残照に晒す。

 タオルを拾い上げれば、静かになった浴室に自分の影が長く色濃く刻まれていた。伊那の不吉な一言を、杞憂であればと心の中で呟き、

「お伊那さんは考え過ぎだよ。まるで人の心が見えるような……まさか、な」

 つい口をついて出た言葉に、自分で否定を零す。

 そうであれば今頃、見透かされた自分の気持ちに気恥ずかしさを覚えるから。

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