第十三章 この手の中に

 数日が何事もなく過ぎ去って、レビンがリゼリア王国に帰る日がやって来た。予定はつつがなく消化され、メリアとレビンの縁談は残念ながら破談とはなったが、両国はより一層の親交と、友好的な関係を推進していくことで合意した。二人の署名が入った宣言書が作成され、レビンはリゼリア王にアークライト王家からの親書を持ち帰ることとなった。

 後ろ盾としてアークライト王国が名指しで立ってくれることになり、リゼリア王国としては十分な成果を得たといえる。アークライト王国側にとっても、隣国との友好関係、小国へのサポートをアピールしておくことは、北方の中でリーダーシップを取るための重要な布石になる。お互いに得るところのある、有意義な会談だった。


 城内で、レビンの隊列が出発の準備を始めていた。様々な贈り物もあり、馬車の数が二台に増えた。一台はアークライト城のもので、そのまま積荷ごとリゼリアに献上される。

 出発が近付いて慌ただしいところに、メリアとウィルは見送りに訪れた。

「レビン王子、今回は色々とお騒がせして申し訳ありませんでした。また改めておもてなしさせてください」

 メリアはうやうやしく一礼した。

「とんでもない。私としても国にいい土産ができました。それに」

 くすり、とレビンは笑みをこぼした。

「メリア王女がどういうお方か判っただけでも、良い収穫でした」

「・・・どういう意味だよ?」

 メリアが上目づかいにレビンを睨んだ。ウィルが顔を掌で覆い、ウェイドが肩をすくめる。レビンは子供のように無邪気に声を出して笑った。それを見て、メリアも明るく破顔した。

 最後の数日間、メリアとレビンの仲は、目覚ましいほどに進展した。少なくともこういう場でなければ、メリアはウィルを相手にしている時と変わらないくらいの態度でレビンと接する。パメラが呆れて言葉を失い、ウェイドがウィルに同情するくらいだ。

 猫をかぶっていた反動もあったのだろうが、二人は本当の姉弟のように仲良くなった。

「今度は、メリア王女がリゼリアにいらしてください。みなさんきっと喜びます」

「ええ、是非に」

 その言葉に偽りはない。近いうちに、一度はリゼリアの地を訪れる必要があるだろう。レビンが護ろうとするリゼリア王国がどんなものなのか。ウィルもメリアも興味があったし。

 何よりも、これから二人が過ごしていく土地なのだ。

 贈り物を積み込む馬車の脇に、一同は立った。貨物用のものではなく、賓客用の馬車だ。建前上は都合のつくものがこれしかなかった、としてある。しかし、天下のアークライト城で、馬車の一台も準備ができないなど、そんな話があるわけがない。

 開け放たれた扉の向こうから、カリムとルイザが顔を出した。


「メリア様、レビン様、ここまでしていただいて、何とお礼を言えばいいのか」

 カリムはうなだれるようにして頭を下げた。ルイザは眼を伏せたまま、何も言おうとしない。その表情は暗く、目の周りには泣きはらした跡があった。

 リゼリアは騎士団の影響が少ない。ほとぼりが冷めるまで身を隠す場所としては最適だ。カリムとルイザの身柄を預かることについて、レビンはこころよく承諾してくれた。

「カリム殿とルイザ殿は、客人として丁重に扱わせていただく。両国の友好の証。何も心配なさらないでください」

 騎士団からは、すでにカリムとルイザの破門宣告書が届けられている。騎士ではなくなった二人の所在について、アークライト城の方は知ったことではない。仮に二人がリゼリアにいることが判ったとして、パイプがない騎士団側は簡単には手が出せないだろう。アークライト王国に協力を仰ごうにも、事の真相を知るメリアが相手では強気には出れないはずだ。

「レビン様」

 ルイザが馬車から身を乗り出した。

「私はレビン様の命を狙った者です。このような扱いは――」

「ルイザ殿」

 レビンはルイザの言葉をさえぎった。

「話はうかがっております。お二人が騎士団でないのなら、もうルイザ殿に私の命を狙う理由はありますまい?」

「それは、そうですが」

 まだ何か言いたそうなルイザに向かって、レビンは優しく微笑みかけた。

「そうですね、じゃあ騎士団がリゼリアと直接交渉に訪れてきた際には、お二人には交渉を有利に進めるための切り札になっていただきましょう。もっとも、いざという時には、お二人にはリゼリアの国外に逃げられてしまうかもしれませんが」

 リゼリアとしては、騎士団と関係が持てるのであれば、それも望むところだ。交渉が始まれば、事情が事情だけに騎士団側はリゼリアに対して下手したてに出るしかない。

 リゼリアに有利な条件を提示する際に、騎士団側は二人の引き渡しを要求してくることも考えられる。だが、仮に護送の直前になって二人に逃げられてしまったとしたら、それをどうこうしろというのは流石に無茶な話だ。そして恐らく、その場合には確実に逃げられる。そういうことにしておこう。

 レビンの意思を察して、ルイザは深く頭を下げた。その眼から、枯れたと思っていた涙がまたあふれ出していた。


「カリム殿、もしまだメリア様を護る剣でありたいと願うなら、義勇兵団にいつでもいらしてください」

 カリムのメリアを想う気持ちを、ウィルは認めていた。第二王女付き警備兵としてのカリムの姿勢は立派であったと思うし、まだまだ学ぶべきところは沢山ある。このままアークライト王国から失ってしまうには惜しい人物だ。

「警護役の方も、いつでも受け入れられるようにしておきます」

 メリアもうなずいた。カリムが望むのであれば、いつでもアークライト城に戻ってくれば良い。その際にはまた考慮すべきことが大量に出てくるのだろうが、その時は、その時だ。カリムの存在に替えられるものではない。

 カリムはウィルとメリアの二人を見比べて、静かに微笑んだ。

「メリア様、ウィル殿、ありがとう。せっかくの申し出だが」

 ウィルの目を、カリムは真っ直ぐに見つめた。お互いに、力任せに殴り合って。その気持ちの強さは確かめた。だからこそ、カリムは今、こうしてアークライトを去ることができる。信じられる、任せられる。だから。

「メリア様を護る剣は、ウィル殿の役目だ。私の分もたくした。しっかりとまっとうしてほしい」

 もう、カリムの役目は終わった。

 ウィルは敬礼した。カリムが護り続けてきたメリアを、ウィルは必ず護ってみせる。同じ、メリアを愛した男として。メリアへの想いを、決して無駄にはしない。カリムが去った後、ウィルは絶対にメリアを悲しませたりなどはしない。

 カリムにできなかったことを、きっと成し遂げてみせる。

 ウィルの覚悟を察して、カリムは敬礼を返した。これはウィルにしか頼めない。他の誰であってもダメだ。ウィル・クラウド。メリアを一人の女性として愛し、メリアから一人の男性として愛されている、彼でなければいけない。

 メリア様を、頼む。

 言葉には出さず、カリムは胸の中でそっとつぶやいた。



 レビンの隊列が城から出ていくのを、ウィルとメリアは見送った。最後の騎兵が外に出て、城門が音を立てて閉ざされた後で。

 メリアは、初めて涙をこぼした。

「カリム、今までありがとう。あなたの気持ちにこたえられなかった私を許してほしい。でも」

 すぐ横に立つウィルの手を、メリアは握った。チェーンのブレスレットが、ちゃり、と音を鳴らした。

「私は、自分の気持ちを裏切れなかった。あなたを選ばなかったことを後悔しないように、私は、自分の想いを貫いてみせるよ」

 涙をかず、メリアは毅然きぜんとしてそこに立ち続けた。

 メリアの柔らかい掌を感じながら。ウィルは、メリアのことを心から美しいと思った。



 馬車の窓から、アークライトの街が見える。カリムとルイザは、向かい合って座っていた。ごとごとという振動。第二王女付き警備兵の制服を着ていない二人が、こうして馬車に乗っているという状況は、カリムにはなんだか夢心地だった。

「アークライト城が、遠くなっていきます」

「そうだな」

 カリムが、七年の月日を過ごした城。美しい姫に騎士の誓いを立て、ずっと護ってきた場所。まだ子供だったメリアに手を焼き、女性を感じるようになれば婚姻について考えさせられ。帝国の軍勢を前に、共に覚悟を決めて。

 最後には、その幸せを願って、こうして後にする。騎士でもなくなって、何もかもを失って。

「カリム様、申し訳ありません」

 気が付くと、またルイザが泣き出していた。ここ数日はずっとこうだ。事あるごとにカリムに謝罪し、涙を流す。人というのはどれだけ泣くことができるのかと、感心させられる程だった。

「私のせいで、こんなことになってしまって」

 ルイザのせい。そうだろうか。ルイザに他に選択肢はなかった。ルイザを追い込んでしまったのは、カリムだ。臆病でメリアに想いも伝えられず、ルイザのことを見もしていなかった、カリムの責任だ。

「良い。ルイザも苦しかっただろう。お前を苦しめてしまったのは、私の責任だ」

 強い騎士であれ。カリムの姿から、ルイザはそのことを学んだ。だが、心まで殺すことはなかった。カリムがそうしていたからこそ、ルイザもまたそうであろうとしてしまった。愚直なまでに任務を遂行しようとしてしまった。

 本当に、愚かだ。カリムは自らのふがいなさを恥じた。

「ですが」

 まだ何かを言おうとするルイザに向かって、カリムはそっと手を伸ばした。ルイザの涙を指でぬぐう。冷たくて、温かい。パメラから譲り受けた町娘の服装をしたルイザは、可愛らしい一人の女性だ。それが、カリムを想って涙してくれている。

 どうしてだろう。胸の中が、熱くなってくる。ルイザには、笑っていてほしいと思う。凛々しくて、恐れを知らない彼女より。観劇の時に垣間かいま見せてくれた、少女のような笑顔を見たいと思ってしまう。

「ルイザ、騎士団を抜けて、アークライトの城を出て、今の私には何もない。私にはお前だけなんだ」

 ここにいるのは、カリム・ファーガソン。白銀騎士団の騎士ではない。アークライト王国第二王女メリア・アークライトの警護担当でもない。何の肩書きもない、カリムという名を持つ、ただの男。

 その男に寄り添う、やはり一人のただの女性。ルイザ・レインハート。赤髪の美しい、泣いてばかりの女。

「そんなお前が泣いていては困ってしまう。私のそばにいてくれるのだろう?どうか、私を導いておくれ」

 全てを失くしたカリムが、たった一つだけ残すことができた、赤い宝石。大切にしなければならない。失いたくない。どんなに時間がかかっても、彼女に残してしまった悲しみを取り除いてあげたい。

 笑顔を、取り戻したい。

「はい」

 ルイザは力強くうなずいた。大丈夫だ。ルイザは、たくましい。


 きっと二人は、歩いて行ける。




 数日が経ち、アークライト城の中はいつものような平和な空気に包まれていた。

 カリムとルイザが騎士団から破門されたことについては、様々な憶測が流れたが、他の騎士たちにも事情は判らず、メリアも詳細は伏せたため、皆意図的に口をつぐむようになった。ただ「二人はきっと駆け落ちされたのだ」というまことしやかな噂が流れ、一部のルイザファンたちが涙にくれたということだ。当たらずとも遠からず。メリアはそう言って大笑いした。

 第二王女付き警備兵は、しばらくの間補充されないことになった。騎士団からは、カリムの後釜については特に何も言ってこなかった。メリアのことを警戒しているのだろう。当分は化かし合いみたいなやり取りを繰り広げることになる。義勇兵団の方から、これを機会にと何件かの紹介があったが、メリアは全く興味を示さなかった。

 必要なのは、権力との繋がりではない。メリアは、欲しいものを手に入れてしまったのだ。メリアを護る剣。これ以上は、もう何もいらなかった。

 警護担当が一人となって、ウィルは一日中メリアと一緒にいることになった。メリアは嬉しそうだったが、パメラも睨んでくるし、警備兵としての建前もある。あんまり自由にサボらせるのもどうかと思って、ウィルはメリアに対して今までよりも少し厳しめに対処することにした。そうでなくても一人だけの警護担当なのだ。なんやかやと言われるのは目に見えている。

「別に、そんなの今更だよ」

 メリアはそう言って抗議してきた。確かに、メリア直々のご指名に近い感じで城に入って、いきなり抱擁ほうようまでされているのだ。目障りな騎士団まで追い出して、やりたい放題と見て取れないこともない。メリアによると、国王の耳にまで入っているということだった。ウィルは真っ青になったが、メリアは楽しそうだった。

「お父様には『義勇兵団の』ではなくて『英雄』ウィル・クラウドとして評価している、とお伝えしているよ」

 やはり肩書は必要か。それなら英雄として恥じない態度であるべきだろう。ウィルはメリアの抗議を却下して、きちんと公務をおこなわせるようにした。メリアを甘やかすような英雄がそばにいるなど、カリムの耳に入ったら激怒されてしまう。

 その代わり、メリアへの気持ちは隠さないことにした。立場とは別に、感情がある。ウィルは、メリアのことを愛している。そのことはきちんと伝えておくべきだ。


 たまっていた決裁が一段落したうららかな午後、ウィルはメリアと共に中庭の花園を訪れた。きちんと仕事をすれば、ご褒美として少しばかりの自由時間を設けることにしていた。パメラもそのぐらいは許可してくれた。メリアの性格上、締め付けすぎると反動でとんでもないことをしでかす。定期的なガス抜きは必要不可欠だ。

 以前レビンと歓談した花の海を、今度はウィルとメリアが並んで歩いている。ほとんど訪れる者がいない花園は、二人の貸切状態だった。色とりどりの花びらの中に立つメリアは、きらきらとしていて、まるで妖精のようだ。白金プラチナブロンドが柔らかく揺れる。いつも近くにいるのに、少し立場から離れるだけで、こんなにまぶしく感じられるものなのか。メリアの美しさに、ウィルはすっかり心を奪われた。

「そういえば、レビン様とはここで何を話してたんだ?」

 ウィルに訊かれて、メリアは記憶を手繰たぐる素振りをして。

「ああ、えーっとね」

 軽く言葉を濁してから、そっとウィルの左手を取った。

「私に、好きな人がいるって、話」

 へへ、とメリアは笑った。公務では決して見せない、メリアの笑顔。ウィルの左手首で、チェーンが、ちゃり、と音を立てた。金と鉄が一つに絡まり合った、二人の絆。一つになった、メリアとウィル。

 森で出会った女の子を、ウィルはずっと追いかけてきた。あの時護りきれなかったことを、ずっと後悔していた。ウィルは、どうしても彼女を自分の力で護りたかった。何故なら。

「メリア様」

「ウィル、今は自由時間。立場を離れるんでしょう?」

 アイスブルーの瞳。最初にこの眼に見つめられた時から、ウィルは想い焦がれてきた。メリアの近くにいたい。この瞳を、いつまでも見ていたい。ウィルの姿を映していてほしい。

「じゃあ、メリア」

 久しぶりに呼び捨てにして、ウィルは逆に違和感を覚えた。メリアも同じだったのか、くすくすと笑っている。そんな顔も、第二王女の時には見せないものだ。無防備で、全てをさらけ出して。

 まるで、あの森の中で出会った時みたいに。

「ウィル・クラウド」

 メリアはウィルの名を呼んだ。その名前を忘れたことはなかった。メリアにとってその名前は特別で。他の誰とも等価ではない。

「覚えていますか? 子供の頃のこと」



 光り輝く木漏れ日の下で、少年は少女に出会った。

 シルクの白いワンピースに、金のチェーンのブレスレット。太陽の光を受けて、きらきらと輝く白金プラチナブロンドの髪。少年は、森の妖精ドリアードに出会ったのかと思った。

 にっこりと微笑んで、「この辺りの子?」と質問されて、ようやく人間だと判った。ただ、少女は少年が今までに見たこともないくらいに綺麗で、まるで身体が光でできているようだった。


「魚を捕る罠を見に行くところだったんだ」

 ウィルの言葉に、メリアはうなずいた。

「そうそう。私、とっても興味があってね」


 川の中に仕掛けられた、細長い筒を少年は拾い上げた。片方は網で塞がれていて、もう片方はちょっとしたバネ仕掛けで、通り抜けるとふたが閉じるようになっている。川岸に運んでふたを開けると、中から銀色に光る魚がこぼれ落ちた。

 ぱたぱたとねるその姿に、少女は目を輝かせた。


「あの後、さばいて焼いて食べたんだったか」

「私、手伝うって言ったらウィルに驚かれた」

「そんなことをするようには見えなかったからな」


 帰る場所がないという少女に、少年は困りあぐねた。村に連れて行こうとしたが、少女はそれを拒んだ。あまり人には見つかりたくないらしい。仕方なく、少年は森の奥にある山小屋に少女を案内することにした。


「よく俺についてこようとか思ったな」

「食べ物をくれる人に、悪い人はいないわ」

「それでよく今まで誘拐されなかったもんだ」

「ふふ、これでも、人を見る目はあるのよ」


 木の上になっている実を、少年が登って採ってきた。少女は自分もやると言って、白いワンピースが汚れるのも構わずに木に登った。並んで枝に腰かけて、木の実をかじって。二人は笑った。


「少なくとも、ポスラの村にはそんなことをする女の子はいなかったよ」

「美味しいのにね」

 メリアの返事に、ウィルは呆れ返った。


 陽が落ち始めて、少年と少女は山小屋に辿り着いた。誰もいない、ほこり臭い小屋の中で、二人は身を寄せ合った。少年は少女が心配で、置いていく気にはなれなかったし。少女は、真っ暗な森を見ておびえていた。


「流石に夜の森は怖かったか」

「まあ、それはそうでしょう。今だって焚き火なしでの野営は無理だよ」


 震える少女の肩を抱いて、少年は窓の外を指差した。夜空には、無数の星がまたたいていた。少女は星の光を見て、恐れがやわらいだようだった。二人はそのまま、抱き合うようにして眠りについた。


「王女様と夜を共にして、どうでしたか?」

「すごく、良い匂いがしたよ」

 メリアは絶句して顔を赤くした。その様子を見て、ウィルは子供みたいに笑った。



「ウィルと別れた後も、私、何度か城を抜け出してね」

 人知れず城から脱走したメリアは、一人で近隣の森の中を散策した。ウィルがしていたことを思い出して、木の実を採ったり、魚を捕まえて焼いて食べたりした。

「でも、あんまり楽しくなかったんだ」

 冒険のわくわくは、確かに感じた。ウィルに出会う前から、メリアは城から飛び出して山野を駆け巡る子供だった。城の外の世界に、いつも心を躍らせていた。


 ・・・はずだった。


 メリアの世界には、何かが足りなくなっていた。決定的な何かが欠けていた。

 あの時に感じた胸の高鳴り。すぐ横に黒髪の少年がいて、その体温を感じながら見上げた夜空。メリアの中で、その思い出がどんどんと大きくなっていく。木々の間をどんなに走っても、川の中に飛び込んでも、上書きして消し去ることができない。

 何をやっても、心が満たされない。

 別れ際に見た、ぼろぼろに傷ついた少年の顔が、まぶたの裏から離れない。


「パメラに、私は恋をしているって言われて、その時初めて知った。これが、恋なんだって」

 メリアの胸には、ぽっかりと穴が開いている。何をしても満たされない、空虚な穴。本当に欲しいものでなければ、この穴を満たすことはできない。その存在に気が付いてしまった以上、もう、メリアには他に欲しいものなんて何もない。


 欲しいのは、欲しかったのは。


 たった一人の、男の子。


「ウィル、私はずっと、あなたに会いたかった」

 少年は、少女を護れなかったとなげいた。

 少女は、少年に二人の絆をたくした。

 いつかまた、きっと会える。

 少年は、少女がくれた絆を頼りに、自らを少女を護る剣とすることを誓った。


「メリア、俺はずっと、君を追いかけてきた」

 護りたい。どんな悲しみからも、彼女を遠ざけたい。ウィルの中には、その想いだけがあった。

 自警団に入り、義勇兵団に入り。ウィルはただ走り続けた。苦しくても、つらくても、左手首に巻かれた鎖を見れば耐えられた。

 あの時護れなかった悔しさ。悲しさ。


 ウィルの元に舞い降りた、光そのもののような少女。ウィルだけの妖精。

 彼女がこの国の王女だというのなら、ウィルはこの国を護ってみせる。彼女のためなら、英雄にだってなってみせる。


 そして、少年は、英雄になった。

 英雄ウィル・クラウド。

 少女を、この国の王女メリア・アークライトを護る剣。


「ずっと待っていました。あなたのことを。あなたがこうして、私を護ってくれることを」


 誓いは、果たされた。

 謁見えっけんの間でウィルの姿を見た時、メリアは自分を抑えることができなかった。ずっと残っていた、心の穴。あの時、置いてきてしまった想いと、傷だらけの少年。

 アークライト王国の第二王女。メリアはずっとその名前を背負ってきた。メリアはこの国の王族、王女だ。王女としての立場があり、王女としての振る舞いがある。

 それが全て、吹き飛んでしまった。目の前には、メリアを護るために、英雄にまでなってしまった男がいる。恋をしていると知ってから、ずっとその穴を埋められないでいた、メリアの一番欲しい人。愛しい人は、英雄だった。メリアのために、国まで救ってくれるような、馬鹿馬鹿しいくらいに素敵な英雄。

 ウィルの身体を抱き締めて、メリアはその時しっかりと悟った。そうだ、ずっと欲しかったのは、この人だ。メリアは、ウィル・クラウドのことを、ずっと求めていたんだ。


 メリアはウィルに顔を寄せた。ウィルが少し驚いて。

 戸惑いながらも、メリアの背中に腕を回した。そう、それで良い。メリアが微笑んだ。

 言葉なんかなくても、望んでいることなんて判る。これは当たり前のことなのだから。


 ウィルの鼻孔を、懐かしい匂いがくすぐった。メリアの匂い。少年の頃に嗅いで、ずっと覚えている。身体が震える。そうだ、ずっとこうしたかった。この腕の中に、きらめきそのもののようなメリアを抱いて。自分のものにしたかった。

 メリアの瞳。アイスブルーの瞳。ウィルの顔を映しているその眼が、とても恋しかった。すぐ近くで見たかった。そこに、自分の姿が映るのを、もう一度で良いから確認したかった。メリアは、ここにいる。幻でも、妖精でもない。

 生きている一人の女性。ウィルが愛する人。ずっと恋焦がれて。この手に抱いて、全てを奪ってしまいたいと思わせる人。メリア・アークライト。森の中でウィルが出会った、美しい少女。


 ここにいるのは。

 ウィル・クラウド。

 メリア・アークライト。

 その名前を持つ以外の、何者でもない。


 愛し合うだけの男女。お互いに恋をして、お互いを求めて。

 触れ合うことで、心の穴を埋めるために。ただひたすらに、近付こうとする。肌を、身体を、ぬくもりを。

 確かめ合って、幸せだと、感じる。


「愛しています、ウィル」

「愛しているよ、メリア」


 二人は、そっと唇を重ねた。柔らかくて、溶け合うようで。

 とても甘美で。気持ち良い。ずっとそうしていたくなる。心も身体も、何もかもが満たされる。

 それどころか、次から次へと湧き出してくる。愛して、愛されたい。繋がった鎖のように、このまま一つになってしまいたい。


 風が吹き抜けて、数多あまたの花びらが宙を舞い。



「う、うぎゃああああああ!」


 物凄い悲鳴が、花園全体にとどろいた。驚いて二人が振り向くと、そこには鬼の形相を浮かべたパメラが、仁王立ちで二人を睨み付けていた。

「メ、メリア様、王族の口づけが何を意味するか」

 ウィルとメリアは、きょとんとして顔を見合わせた。ああそうだ、すっかり忘れていたが。

 メリアはアークライト王国第二王女で。

 ウィルはその警護担当だったのだ。

「あ、ああ。ごめん、なんか盛り上がっちゃって」

 わなわなと震えるパメラを尻目に、メリアはちろっと舌を出して見せた。

 どかどかと足音を立てながら、パメラが二人に詰め寄ってくる。あまりに凄まじい剣幕に、ウィルは慌ててメリアの背中に回した腕を離した。

「しかもこんな場所で。なんという破廉恥はれんちな!」

 メリアはあっけらかんとパメラの視線を受け流した。

「えー、花園って十分雰囲気あるよ。だよねぇ、ウィル?」

 パメラの眼が、ぎょろんと動く。殺気を感じる。ウィルは背筋が、ぞくり、とした。やはりこの侍女は、何かの武術の達人なのではなかろうか。

「いやその、俺はメリアを護る剣だって話を・・・」

「呼び捨て! まったく調子に乗って。護るなら一緒にメリア様の貞操も護ってください!」

 二人のやり取りを聞いて、メリアはけらけらと笑い出した。目に涙を浮かべて、心の底から愉快そうに。

「だから言ってるじゃないか、私は――」


 姫様なんてむいてない。

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