沼のエルフ

志村亨

第1話 エルフの案内人

木の寿命は短いね

うん

永遠の森って人間は言うよね

そうなの?

永遠ってなんだろう

引っ越したくないの?

うん 本当に永遠か確かめたい





 青年は丘を登り切ったところで足を止めた。疲れもあった。だが、青年が足を止めたのはそれだけではなかった。

 黒い髪をした青年の名は、スパイトと言った。擦り切れた外套……泥をかぶった革の長靴……日に焼けた顔……黒い髪……。肩で息をするスパイトは、丘から見える光景に息を呑んだ。

 風に木々が笑っている。風向きは西だ。スパイトは春の訪れを確かに感じていた。花の香りが行き交う。空が澄んでいる。森が見える。あの森に違いない。スパイトは息を呑み、目を凝らした。

(あそこにエルフの霊薬が……)

 永遠の森。木々が生い茂り、美しい花が咲き乱れ、罪人の心も洗い流すエルフの森……。言い伝えだけを頼りに、スパイトはようやく見つけたのだ。懐に大事にしまい込んだ羊皮紙の地図を、スパイトは自分でも気づかぬうちに握りしめていた。

(これで王の……父の命が助かる)

 スパイトは森に向かって走った。外套が丘に吹く風にたなびいた。長靴の乾いた泥は風に引きはがされる。驚くほどスパイトの体は軽くなっていた。長旅の疲れはどこかに置き忘れられたらしい。息が上がっても、スパイトは走っていた。森が待っている。スパイトは森の中へとただ走った。

 だが、その足を止める声があった。

「止まるんだ」

 女の声だ。竪琴のような澄んだ、美しい声だ。止まった途端、スパイトの体にまた疲労が帰ってきた。砂袋を全身に背負わされたように体が重くなる。耐えがたい、鈍い苦痛にスパイトが顔をゆがめていると、スパイトの頭上、白い幹をした木の上からもう一度女の声が弾むように降りた。

「進むべきじゃないな。前へ進むのはいいが、向きを変えて進むんだ」

 声の主をスパイトは探した。すぐに見つかった。白い木の枝に、ゆったりと一人の女が座り込んでいる。スパイトは息を呑んだ。

(まさか……エルフか?)

 風に揺れる、絹のように柔らかな金色の髪……宝石の光をそのまま閉じ込めたような瞳……研いだナイフのような耳……。

 まばたきも忘れ、スパイトは枝の上で長い足を弄ぶエルフに見とれていた。

「どうした?迷子なら右を向いて真っ直ぐ歩け。そのうち町か海にでも出るだろう」

 目尻を下げ、頬杖を突いたエルフはゆらゆらと体を揺らす。スパイトは幾つもの疑問に言葉を奪われていた。永遠の森の入り口に現れた、伝承通りの容姿をしたエルフ……。だが、彼女の態度だけは言い伝えと合致しない。

「お前はエルフか?」

「俺がエルフだ」

 スパイトの問いかけの調子に合わせるように、彼女は笑みを浮かべて答えた。美貌と美声からは想像の付かない、つかみ所がない……エルフ……。

「私が知っているエルフとは違うな」

「お前が何を知っているかなんて、俺に関係があるか?俺は知ってる。お前みたいなのを間抜けというのさ」

 エルフはスパイトを指さして笑った。突然の侮辱に、スパイトはただ呆然と目を見開くしかなかった。

「何の準備も無しに森に入ろうなんてお前は、間抜けじゃないか。森が怖いところだって知りもしないんだから」

「……どういう意味だ?」

 絞り出すように、スパイトはエルフに問うた。またエルフが肩を震わせて笑う。

「なんでもかんでも自分の思い通りにはならないってことさ。道を開くのは自分だし、転ぶのも自分だって話」

「頼みがあって来たのだ。話を聞いてくれないか?」

 スパイトが言うと、エルフが目を見開いた。小鳥のように首をかしげたかと思うと、エルフはまた体を揺らした。

「話しているじゃないか。森は危ないし、危ないのが嫌なら来た道を引き返した方がいいだろう?」

「道案内を頼みたい。エルフのお前なら森の道は詳しいだろう?」

「どうだろうな」

「礼はしよう。私は約束を反故にはしない」

「その家を知りたければ番人を見ろ。番人がいなければ門構え、門がなければ玄関。客を歓迎しているかどうかはそれですぐにわかる」

「お前は番人なのか?」

「残念ながら違うね。そもそも番人なんか必要ないんだ。森は危険だからね」

「案内さえしてくれればいい。これでも私は武芸をたしなんでいる」

「山道を行くのに船を使おうっていうのか?」

「いい加減にしてくれ!」

 スパイトはわき上がった苛立ちのままに声を張り上げた。エルフののらりくらりとしたかわし方にスパイトは我慢ならなかった。そしてすぐに、頭を冷ました。非礼は自分にあるのだ。突然やってきて、挨拶も無しに話を進めようとした自分に非がある。スパイトは息を深く吸い、肩の力を抜いた。エルフは枝の上からじっとスパイトを見つめている。スパイトは頭を下げ、謝罪した。

「すまない、非礼を詫びる。焦っていたので、つい声を張り上げてしまった。許して欲しい」

 頭を下げていたスパイトの目に、靴が見えた。

「門の前で騒いで頭を下げて、人間は忙しいな」

 頭上から聞こえていた声が、スパイトの目の前から聞こえる。スパイトが顔を上げると、いかにも困ったように笑うエルフがいた。

「私はスパイトという。身分を伏せていても仕方がないな。私はここトルータス国の第一王子だ」

 スパイトは全てを話した。スパイトの父であるトルータス国の王は、難病を患い眠ったままなのだ。医師は半ばさじを投げ、父は日に日にやせ細っていく。どうにも出来ないもどかしさを抱えたスパイトは、幼い頃に聞いたエルフの伝承を思い出した。どんな病気も癒す霊薬を、永遠の森のエルフが持っていると……。

「私は王を、父を助けたい。力を貸してくれないか。エルフの霊薬が必要なのだ」

「知っていても避けられないことの方が多い。死はその最たるものだ。他には雨と二日酔いだな」

「森の番人である以上、私を通すわけにはいかないのか」

「番人?俺のことか?」

 エルフが跳ねた。羽のように軽やかに。

「番人なのだろう?」

 金の髪を風に揺らしながら、跳ねたエルフは宮廷道化師のようにおどけて見せた。

「まさか。言っただろう?森は危険だ。俺に肩書きを無理矢理にでも付けるのなら、番人じゃなくて助言者だな」

「その肩書きに、案内人というのは足せるのか?」

 音もなく降り立ったエルフは、笑みを少しも絶やさぬままに頷いた。不意に木々の隙間から光が差し込み、エルフは淡い光に包まれた。幼い頃、乳母が読んでくれた絵本の挿絵そのままだ……。

「あ……な、名前を教えてもらえないか?」

「ウェルテナだ。沼の渦って意味だ」

「沼のエルフ、か」

 森の奥から風が吹き逃げていく。風を案内するように枝がしなる。道を示す落ち葉が、森の奥へと踊っていった。



                               ―― 続く

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