2. 羽を広げて
九月になって、学校は新学期に入った。
今月末に迫った文化祭のチケットはずっとカバンに入ったまま。なかなか彼に渡せないでいた。
「こないだ借りたCDすごく良かった。ピアノパートがジャズ調でカッコ良くてさ、最近毎朝聴いてるんだ」
塾の中で他校生同士が話していることは滅多にないから、いつもドキドキする。他の人にはどう見えているんだろう。ただの友達として見えるのかな。それとも……恋人みたいに見えるのかな。ううん、きっと他の人には私たちのことなんて見えてないんだ。それが普通。塾では他人のことなんて気にしない人が多いから。なのにこんなに気になってしまうのは、私が彼を——頭に浮かんだ言葉をかきけすようにして、私は自分のカバンの中を漁る。次に貸すCDは決めていたのだ。
「あのCDが好きだったら、今度は——」
「ごめん、もう借りれない」
「え……?」
私は彼の顔を見上げる。一瞬、柊斗くんの言葉が外国語になってしまったかのようだった。鼓膜に音だけが焼き付いて、頭の中にその意味が入ってこなかった。
「塾やめることになったんだ。音大行くために、ピアノの練習に専念することになって。来週が最後なんだけど、
来週は文化祭前最後のバンド練習の日で。私は塾を休む予定だった。練習用のスタジオももう予約してしまったし、
「会えるのは、今日が最後なの?」
声がかすれる。ちゃんと友達になれたかも怪しいのに、唯一の共通点がなくなってしまうなんて。突きつけられた絶望に、私は冷静に言葉を選ぶ余裕もなかった。
「もっと、話したかったな……」
自分の口から出た言葉とは思えなかった。本当に、包み隠さず頭の中で考えていたことがそのまま漏れてしまったのだ。恥ずかしい。顔から火が吹き出そうだった。でも、柊斗くんはふっと微笑んだ。
「じゃあ、今日時間ある? 授業終わったら駅前のカフェでちょっと喋ろうよ」
授業が終わって、私たちは駅前のカフェに入った。心なしかカップルのお客さんが多くて、恋人同士でもない男女でここに入るのはなんだか居心地が悪かった。私が注文カウンターに並ぼうとすると、柊斗くんは「何がいい? 注文しとくから席で待ってて」と言った。本当は季節限定のラテが気になっていたけれど、メニュー名が長くて注文するのは大変だろうと思って、普通のカフェラテをお願いした。
駅前だからか混んでいて、あまり席を選ぶ余地はなかった。二人席は空いていなかったから、横並びのカウンター席を二つ取る。でも柊斗くんがラテを持ってきて座った時、ちょっと失敗したなと思った。横並びの席は思ったより距離が近くて、少しでも身動きしたら身体が触れてしまいそうだった。……ううん、本当は触れてみたい。でも、そんなことしたらきっと引かれてしまう。終始そんな緊張がつきまとったせいで、せっかくゆっくり話すチャンスだったのに彼の話も自分が何を話しているのかもあまり頭の中に入ってこなかった。
「あれ、シュウトじゃない?」
後ろの方で、女の子の声が聞こえた。ポニーテールがよく似合う、スレンダーで可愛らしい女の子。制服のシャツのポケットに刺繍されたエンブレムは、柊斗くんの通う学校のものだった。
「藤さん。偶然だね、この辺来るんだ」
「うん、ちょっと買い物のついでに。あれ、もしかしてデート中だったりする?」
藤と呼ばれた彼女は私の方を覗き込んできた。反射的に顔をそらしてしまう。柊斗くんは軽く笑って言った。
「そんなんじゃないよ。ああそうだ、今度の音楽の授業のチーム合奏なんだけど、一箇所どうしても気になってる場所があってさ」
——そんなんじゃないよ——
二人はクラスメートらしく、学校の話題で盛り上がっていた。
そうだ、彼には私の知らない世界があるんだ。むしろ普段の学校とか、家族とか、そういう世界が彼にとっては中心で、私と一緒に過ごす世界はその外側にあるおまけみたいなものなんだ。いつでも切り離されてしまう、おまけ。
そんなことを考えていたら……藤さんと柊斗くんがどういう関係なのかとか、二人が話している授業ってどういう雰囲気とか、最初は苛々するくらい気になっていたのに、だんだん気にしてもしようのないことに思えてきてしまって。
「私……そろそろ帰るね」
その言葉を搾り出すだけで精一杯だった。
お別れの挨拶とか、文化祭のチケットとか、そんなことはもうどっかに消えてしまっていたんだ。
最後のバンド練習の日。休憩時間にこの前あったことを千佳に話したら、彼女は急に無表情になった。
「
他のバンドメンバーにそう言って、千佳は私の腕を掴みスタジオの外に連れ出す。私のギターが入ったケースを勝手に持って。
「ちょっと千佳ちゃん! どこ行くの!」
千佳は答えず、ずんずんと進んで行く。私の腕は
「歌って」
千佳は無表情のままそう言った。
「無理だよ、ここ人目もあるし……」
「いいから歌って」
千佳の鋭い眼差しは、まるで私の身体をはりつけにする釘のようだった。逆らえない。私はおずおずと自分のギターを受け取った。なんでもない公園でいきなり楽器を持った女子高生に、注目が集まらないはずがない。公園の中にいた人たちの視線がこちらに向けられてくる。「やっぱりやめよう」そう言おうとしたけど、千佳にきっと睨まれて言葉にならなかった。仕方ない——私は公園のベンチに腰掛けて、弾き語りをした。
前奏を弾くと、砂場で遊んでいた小さな子たちが私の周りに集まってきた。あまり大きな声で歌うのは迷惑になるからと思って口ずさむ程度にしようと思った。でも、一番のサビに差し掛かって写生をしていたおじいちゃんがこっちにやってきて、手拍子を叩いてくれた。それにつられて、手前にしゃがみ込んで聴いている子どもたちも手を叩く。私の歌を、聴いてくれている——そう思ったら、喉の中にすっと澄んだ風が通り過ぎたような、そんな感覚がして。
気がついたら、私は今までの練習でも出したことのないくらい大きな声で、一曲最後まで歌いきってしまっていた。拍手、拍手。「お姉ちゃん、もっと歌ってー」と可愛らしいリクエスト。私はドラえもんのコードを弾いてみた。すると子どもたちが声を揃えて歌い出す。その表情はとっても楽しそうで、つられて私も笑顔になっていた。
いつの間にか、30分は経っていたと思う。千佳にポンと肩を叩かれて私はハッとした。
「さすが、私たちのバンドのギターボーカル」
にやりと笑みを浮かべる彼女。私は急に自分がしたことを理解して、恥ずかしくなって、慌ててギターをケースにしまった。子どもたちからはブーイングが上がったけれど、そろそろ戻らないとせっかく予約したスタジオの時間が終わってしまう。
再び雑居ビル街に戻る途中、千佳はぼそりと言った。
「私、そんなに友達が多いわけじゃないの。だから彩羽のことはとっても大事。私が大事にしているあなたが、自分を大事にしないのは……すごく嫌なの」
私は返事をしなかった。千佳も私の方を見て話していたわけではなく、返事も期待していない気がしたから。彼女はそのまま続けた。
「もっと自信を持って彩羽。あなたならきっと大丈夫。もしその柊斗って男に見る目がないんなら、私が思う存分彩羽のこと励ましてあげるから。だから……勝手に恋を終わらせないで。あなた、このままじゃきっと後悔する」
スタジオに戻り、少し合わせ練習をした。出来は上々。当日の演出や衣装についての打ち合わせもバッチリ。スタジオの壁掛け時計は17時。まだ練習できる時間は残っていたけれど、私は意を決して言った。
「……みんなごめん。私、今から抜けてもいいかな」
「ふふ。そうこなくちゃ」
千佳はそう言って私に一枚のCDを差し出した。私たちの練習を録音したCDだった。
塾の終業時間は17時半。ギターケースを背負って塾の前で待っているのは場違いな感じで溢れてて、一刻も早くその場を離れたい衝動を抑えるのが大変だった。やがて、塾の中がざわめきたつ。授業が終わって生徒たちが帰り支度をする音。
「彩羽さん?」
塾から出てきた柊斗くんが驚いた顔で私に声をかける。それはそうだよね。今日欠席って言ってたはずだし、塾の前でギターケース背負ってるなんて変だし。何で私がここにいるのかなんて、きっと分からないだろうな。私も……上手く伝えられないや。
「最後に、どうしても聴いてほしいCDがあったの」
そう言って、さっき千佳から受け取ったばかりのCDを差し出す。ケースの歌詞カードのところには、ずっと渡せなかった文化祭のチケット。
「今度、文化祭でバンドやるんだ。もし良かったら聴きに来て欲しいの」
「へぇ、そうなんだ。もちろん行——」
「今返事しないで!」
急に大声を出したからか、塾から出てきた生徒が何人か私たちの方を見る。体温がカーッと上がってきて、もう秋になり始めているのに制服が汗ばむ。
「CD、聞いてみて決めて。興味なかったら来なくていいから。じゃあね」
本当はもっとゆっくり話したかった。でも、これが私の伝え方。柊斗くんが何か言う前に私は彼を振り切り、その場を離れた。
文化祭当日。私たちのバンドの出番になった。
どこかで千佳が出演するというのが噂で流れてしまったのかもしれない。名前の知れてない覆面バンドなのに、私たちの出番が始まる前にすでに数百人くらいは集まっていた。
「柊斗くん、いた?」
黒地の大人っぽい衣装に身を包み、蝶の形をした仮面をかぶった千佳が私に耳打ちする。私たちのバンド名は『黒アゲハ』。普段フリフリの可愛らしいアイドル衣装を着てばかりの千佳は、こういう衣装でステージに立てることが嬉しいのか、いつになく口元が緩んでいる。
「分からない。人が多すぎて見えないから。でも、私ちゃんと歌うよ」
舞台袖でバンドメンバーとアイコンタクトを交わした後、彼女たちは舞台へと駆け登っていく。そして楽器だけの前奏が始まる。ボーカルの私は一番最後の登場だ。少しだけ足が震える。でも、大丈夫。きっと大丈夫。私は目を閉じて頭の中にあの公園での映像を浮かべた。聞いてくれた人たちの笑顔。拍手の音。
ふと、塾の前で会った時の驚いたような柊斗くんの表情が浮かんだ。
——ちゃんと気づいてくれたかな。チケットに込めた……メッセージ。
それ以上考えると恥ずかしさで足がすくんでしまいそうだった。私は自分で自分の頬をつねる。そして打ち合わせたタイミング通り、ステージへの階段を駆け上がった。声援と、拍手。眩しすぎるスポットライト。私の身体を包みこむ、温かい音。スタンドマイクの前に立つと、それまで考えていた色んなことは全部まっさらになった。
今、私の中にあるのはたった一つ。
「——聴いてください、『サナギの歌』」
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