04.

 次の日、月理は学校を休んだ。もりもりの薬と相手の強さを思えば自明の理であると言えた。

 男との戦いで、千切れた筋肉が痛みを叫び、腕が内出血で真っ黒になってしまったのだ。さすがにこれを他人に見せるわけにはいかない。お手製の回復促進剤を飲んで、寝転がっていた。腕が全く役に立たず、促進剤のせいで体がだるいので、そうするしかない。

「腹減ったなー」

『ここまでやられるとは、珍しい。と言うか、俺と契約してからは初めてだな』

「あの体格差はねえよ。正直勝てる気がしなかった」

『わくわくしてただろう?』

 きっと、アンドロマリウスに顔があれば笑っていただろう。

「ちっ。ばれてたか」

『わからいでか。そなたとも長いからな』

 郷愁の込められた口調に月理はスッパリ切り捨てるように言う。

「おまえはそうかもしれんが、あたしはまだ過去を振り返る歳じゃねえ」

『そういうな。あれは、そなたが十になった頃だったか』

 アンドロマリウスは、月理の静止を振り切って過去を語り始めた。

 

 

 えーん、えーん。

 女の子が一人泣いている。まだ、小学生くらいの少女は真っ黒なドレスを着て悲しみに身を切らせていた。涙は、右目からだけ流れている。

「さあ、月理。おばあちゃんにお別れしましょうね」

 月理の母は、泣きじゃくる娘に優しく別れを促した。

 大好きなおばあちゃんが死んだのだ。タランダ・ベイルノートは、死体も見つかっていないが、事故で死んだらしい。誰が、どこで起した事故かは誰も知らなかった。そこにいる大人たちでさえ知らなかったのである。旅行が大好きだったおばあちゃん。東南アジアで旅行中に事故に巻き込まれてたということだけが、みなの聞かされている全部だった。

 死体のないお葬式。空っぽの棺は月理の心をも虚ろにし、現実味を奪っていく。だけど、いつも頭をなでてくれたおばあちゃんはもういない。大人たちは月理にそう告げた。どうやっても現実の味がしない。

 当時八歳だった月理には、おばあちゃんがいなくなったことしか理解できなかった。だが、子供の心に深い悲しみの影を落とすのにそれ以上はいらなかった。

 周りは、言葉も通じないような外国人ばかりだった。変人と呼ばれていたタランダの元に別れをつげに来るものは少ない。

 それが、月理の心に孤独という寂しさを印象付けた。父はその外国人たちと会話していたが、日本人の母と月理はぽつんと取り残されている。

 歳の近い親類たちもいた。だが、彼らのほとんどが純系だ。日本語をわかる者は望むべくも無かった。幼いのは、ときに残酷で彼らは久しぶりに会えた親類との再会を喜び、祖母の死を悼むものなどない。

 タランダは、いろんな国の言葉を操る天才である。月理に接するときはもちろん日本語で話し、月理は滅多に会えない祖母に懐いていた。タランダもなぜか、数いる孫のうち、唯一ハーフである月理を特に可愛がったのだ。まだ小さい月理より優秀な子はいたし、将来が有望なものもあった。だがしかし、タランダは片目のせいで引っ込み思案で、恥ずかしがりで、小学校の段階で学力に遅れの見える月理を寵愛していたのだ。

 色んな話をしてもらう。旅の話もしたし、秘密の話もした。世の中の真理について八歳なりに一生懸命理解して頑張ったつもりだ。その甲斐があったのかタランダは、よく日本に寄っては月理と話をした。

 その中に、タランダは普通では辿り着けない秘密をこっそり混ぜて月理に分け与えてくれる。月理は、その話を誰にもしたことはない。いつも、一緒に遊んでる愛梨にさえ話していない。何度口を滑らせそうになったかわからないが、でも我慢してきた。

 さらに、タランダは小さな小さな月理に一番大事なことも残していいく。それは、二人の秘密はとても危険であるということだ。パパが大事で、ママが大事で、愛梨が大事ならそれは言ってはならないことをきちんと伝えていた。月理と内緒の名前を決めて、まるでゲームのように親に内緒にして二人で秘密を共有していたのだ。

 月理の愛梨にさえ言えない秘密。そう錬金術のことだ。タランダは錬金術師だったが、そのことを知るのは月理だけだった。月理を、二人のときはミシェルと言って可愛がったのだ。それは魂の名であり、人に知られたら大変なことになるからと、二人だけの秘密の暗号としていた。タランダは、辞世の際も秘密の世界の基礎を月理に残していった。本格的なことは何もない、スタート地点の立ち方だったけれど。

 月理は、タランダの本を手に入れ、日本語だって怪しいというのに一生懸命ラテン語を勉強した。学校の成績は、理数系ばかりが目立ってよくなり、他は、急落していく。

 ある日とうとう、月理は、本の中から手紙を一通発見した。ミシェルへと書き始められたラテン語の手紙。最初は、これを読めるようになったことを褒めてあり、そして、引き返せないところまで連れてきてしまったことを詫びてあった。

 その先には、驚愕の事実が記されていた。悪魔はいるということ。そして、タランダもアンドロマリウスという悪魔と契約していたこと。その事実だけが無機質に書かれていた。時が来たなら、月理も力を借りることを検討しなさい。悪魔は、思っているほど悪くはない。本当に怖いのは、人間です。そう締めくくられていた。それを読んだ月理は、十歳にしてこう答えた。

「知ってるよ、おばあちゃん」

 その日から、月理はタランダの日記を漁り、暗号文を見つけては片っ端から解いてくようになる。そう難しいことはなかった。生前のタランダとの会話の中に答えの鍵は転がっていたのだから。

 それは、皆が寝静まった深夜の十一時五十八分二十秒。

 本当は、猫や犬や兎、鶏といった小動物の血があると便利だが、十歳の月理はその覚悟がなかった。だから、毎日少しずつ、布に自分の血で魔法陣を書いた。その魔法陣をタランダが残した銀の釘で固定し、残された呪文を淡々と唱えていく。

 悪魔の召喚というものが、どういう意味を持つのか全く考えられることなく、呼ぶ間際も頭を掠ることなく。

 人間のような男が魔法陣から現われた。ただ、人間と違うのは右手が蛇であること。これは、タランダの残した記録と合致する。月理は、少し興奮した。

「我は、アンドロマリウス。召喚に応じ参上した。汝の名を告げよ」

「我が名は、ミシェル・ベイルノート」

 右手が蛇である男は、その蛇をミシェル――月理の体に這わせた。月理はいやな顔一つしないで受け入れる。男は蛇を体に沈ませた。彼女の魂を縛り、調べる。

 アンドロマリウスは、正義の伯爵とも呼ばれており、悪の魂を持つものには厳しい罰を与えるといわれている。月理が、契約に相応しいか、調べているのだ。

「汝に、我との契約の証を刻むなり」

 月理の左目に痛みが走る。

「いたっ!」

 白目の部分が黒く染まっていった。ぞわぞわと黒い触手が眼球を侵し変えていく。月理は、見えない左目を生贄に悪魔を呼び出した。人生で初めて左目が光に反応する。一筋の涙が、伝う。そこに込められた感情はわからない。だが、一粒だけ涙が伝った。

「これより、我は汝と共に在るもの。内に棲み、汝が望みを叶えん」

 男の体が半透明になり、一歩前に進み出て月理と重なり消えてった。

『ベイルノート《災い知らず》か。久しぶりに聞いたよ。弾ける笑顔のやんちゃタランダを思い出した』

 この声は、月理にしか聞こえていない。重々しい契約の儀が終了したのか、口調は一気に砕ける。内から響く声に底知れぬ恐怖と違和感と、ほんの少しの安堵を感じた。儀式は成功したのだ。月理は、尊敬する祖母と同じ道を歩みだしたのだ。

「そうだろうね。タランダはあたしのおばあちゃんだかんね」

『ほう。ならば望みは同じか?』

「知らない。おばあちゃんがどういった望みを持っていたかなんてわからない。あたしは、あたしの欲しいもののためにあんたを呼んだの。それでいいでしょ?」

『かまわない。どうせ悪魔を呼ぶ連中なんてどいつもこいつも人でなしだ。そなたもその口なんだろ?』

「極上のね」

 幼い月理は、不釣合いの獰猛な笑みで答えた。



『あのときから、もう六年か。早いものだ。そして、全く成長してないな、そなたは』

「あっ、それ胸か? 胸のことか?』

『違う……といいたい所だが、それも含めて全体的にだな』

「おまえが養分吸い取ってるんじゃないのか?」

『失敬な、俺は精神力で生きているのだぞ。そなたの貧弱極まりない肉体からなにかを奪うなんて極悪なことできるわけがない。そなたは悪魔か?』

「悪魔はおまえだろっ! それに! 貧弱ってなんだよっ? 無駄のないスレンダーな体と言ってもらいたいね」

『そなたは、必要な肉もないだろう? おなごにとって、ある程度のふくよかさは必須。そなたの体は、まるで、小学生のよう。その素寒貧な様は、涙をそそる。それでは、そなたを娶りたいと言う男も現われるのか、疑わしい』

 二人とも原因は承知の上で、こういう会話をしている。だが、薬を飲まなくても成長は見込めなかっただろうというのが、アンドロマリウスの感想。そんなことはない、というのが月理の願望、だった。

「な、なんで、この歳で結婚のことを気にしなきゃならないわけ? それに、アンディにしてもらう心配じゃない」

『ふむう。あの、藤崎とか言う男。体は強く、料理も出来る。仲もよい。どうだろうか?』

「聞けよ! なにがだよ! なんで、そこであいつが出てくんだよ?」

『だが、あの男、けしからんことにミシェルを女として認識していない。まあ、致し方ないともいえる。自業自得、だな』

 きっと、アンドロマリウスは、できるならば遠い目をしていたことだろう。

 ふう、とアンドロマリウスはため息を一つついた。

『いや、わかっていることだがな。に、しても』

 月理の体が幼いのは成長が遅いからとか体質だからではない。能力増強剤のせいなのだ。実は、月理が飲んでいるのも売人が売ってる薬も同じ薬なのである。ただ、月理のは月理の体に合わせてチューニングしてあるため、副作用が限りなく抑えられているだけだ。

 月理は、自分専用の薬を調合し、「適合者」として振る舞っている。そうでなければ、このような無理、利く訳がない。

 そのことをわかっていながら、アンドロマリウスは月理をからかったのである。質の悪さでいったら、確かにアンドロマリウスは悪魔なのだった。

「なんだよ? まだ、なんかあるのか?」

『だが、いまだ心の中だけでコミニュニケーション一つ取れないようではな。ため息の一つ、許されていいと思うが』

 今の月理は、アンドロマリウスの相手が関の山だった。会話の刺激は、回復促進剤による利尿作用によるトイレ通い。足は、少し重いぐらいで苦痛はなく動くので、重い腕を懸命に動かすのだけが重労働だった。

 鈍い痛みが常にあり、力のかかり具合によっては鋭い痛みが走る。だが、トイレに入って出てくるのにそんなに鋭い痛みは味わわなくて済んだ。ただ、疼痛と痛痒が絶え間なく月理の意識を占拠している。本来ならば、眠るという行為は月理に必要なことであったが、彼女はそのせいでアンドロマリウスといらない問答を繰り返していた。

 正に自問自答の形。禅問答の様相を呈している。それも、もう一人の自分はかなり口が悪く、性格も悪いときた。月理のへこむことばかりを言う。そんなのがもう一人の自分であってたまるか。月理は、頭の中でそう思った。

 ぐううぅぅぅ。盛大に腹が鳴った。

「あー、腹減った」

 話は頭に戻る。腕が満足に動かず、家の中で出来ることがない月理は、寝たきりだった。時折腰が痛むので、体を伸ばしたりしている。たまに、床に座ってベッドに寄りかかったりもしていた。だが、基本していることは、アンドロマリウスとの問答だ。実際にはアンドロマリウスの憂さ晴らしを含む月理いじりに終始していたが。

 時間は夕刻に向かって、陽を傾けていた。秋口になり、だいぶ陽の傾く時間が早まっている。窓から見えるマンションや家々が少しずつ朱に染まり始めていた。

 そのときだった。部屋のチャイムが来客を告げる。最初は、うざったいからと月理は居留守を決め込んだ。だが、チャイムが決められた符合で鳴らされた。月理は慌てる。慌てて、アームウォーマーをなんとか装着し、急いだせいで激痛が走ったが、顔をしかめただけで足早に玄関へと向かった。

「超べ級だぜ」

 戸を開けると、そこには愛梨と日々野がいた。さっきのチャイムの鳴らし方は、愛梨が来たことを知らせるもので居留守常習犯の月理が出迎えに行かねばならない符号なのだ。

「ひび、のさん?」

 月理は、愛梨の後ろで申し訳なさそうに立っている日々野に驚いた。

「うん、つぐりんが、休んでるから覗きに行くって聞いたらついてきてくれたの」

「そ、そうなんだ。どうぞどうぞ」

 月理は、少し喜色を浮かべながら、家の中に二人を招き入れる。

 二人は居間に通され、愛梨はいつもの席に着き、日々野はその隣りに座る。月理は、鈍くなった腕を必死に動かして、コーヒーを淹れようとした。額には玉のような汗が浮かんでいる。それを見咎めた日々野は、そっと後ろから手を伸ばし、悪戦苦闘しているインスタントコーヒーの瓶を開けてくれた。

「あ、ありがとう」

 珍しく、月理がしおらしく礼を言った。

「そんなに辛そうにして、大丈夫?」

「あんま大丈夫じゃないかも」

 月理は苦笑いを浮かべた。さらに珍しいことに自分の状態も他人に告白してしまう。

「じゃあ、座ってて。コーヒーは私が淹れるわ」

「えっ? あ、うん。ありがと」

「幸田さんは、お砂糖入れるの?」

「う、うん。二杯ほど……」

 完全に出遅れた、愛梨は歯切れ悪く応える。

「どうしたの? つぐりん? 珍しく弱気だね」

「いや、さすがにちょっときついかな。ご飯も食べれてないんだ」

「そうなの? 風邪? 顔ちょっと赤いよ?」

「そんな感じ、かな?」

 腕が動かないからなどという訳にはいかず、曖昧に頷く。それに、回復促進剤のせいで体が少し温度が高くなっていてだるいのも事実だ。

 それに、素早く反応したのはまたもや日々野だった。日々野は、愛梨と一緒に買ってきた袋を見せ、強い口調で提案をする。

「よかったら、簡単な食事を作ってもいい?」

「えっ? そこまでしてもらったら悪いよ」

「いいの。私、病気の友達の看病するの夢だったから」

 月理もそうだったが、日々野もまた、友人とのあり方に理想を抱き、距離のとり方に些か苦手さが見て取れた。だから、月理も、日々野も友達になりたいとなったら思わず突っ込みがちになる。

「台所借りるわね。あ、あとお米はある?」

「うん、そこの食糧庫の一番下」

 日々野は、米をとぎ、それを鍋に入れて煮始めた。次にねぎを取り出し、刻み始める。リズミカルにねぎを刻む音は慣れを感じさせるものだった。そこはかとなく楽しそうにも聞こえ、料理をするその後姿は、まるで新妻のようだと、月理はなんとなくそう思った。

「日々野さんて、料理好きなの?」

「わからないわ。でも、嫌いじゃないことは確かね」

 苦笑いしながら曖昧に答えた。

「でも、アイリたちはなんで今日お見舞いに来たのさ。あたしが一日学校休むのなんて珍しいことじゃないじゃん」

「そうなんだけど、わたしが行きたいって言い出したの」

「休んでるあたしを叱りに?」

 月理は、わざと意地悪なことを言った。

「そう。今日も、田中先生へこんでたから。また柏音はいないのかぁって」

 くすくすと笑いながら、日々野は真似をして見せた。

「あはは、似てる似てる」

 半ば、腹を抱えるように月理は笑っている。

「あら、心外。わたし、あんなに怖くないわよ?」

「いやいや、マジな日々野さんの迫力も中々だよ?」

「もう、そんなことないわよね、幸田さん?」

「えっ、いや、日々野さんは迫力あるよ。私いつもどきどきしてたもん」

「わたしって、将来は三角めがねのコースに乗っちゃってる?」

「このままだと危ないかもね」

 痛みなど忘れ、楽しそうに月理は笑っている。愛梨も笑っている。日々野も笑っている。まだ、話し始めて二週間であるというのにもっと前から仲が良かったかのようであった。

 

 

 空になった鍋を前に、月理は満足そうにごちそうさまを言った。

「いやあ、日々野さん本当に料理上手だね。こんなんだったら、また風邪ひこうかな」

「うふふふ、お粗末さまでした」

「ねえ、アイリもそう思うしょ?」

「うん、味見させてもらったけど、すごく美味しいよ」

 愛梨の嫌味にならない褒め言葉が出た。

「そんなに褒めてもなにも出ないわよ?」

「あれ? もう出ないの? デザート出してよー」

「はい、チョコレート」

「わ。ホントに出てきた」

 冗談で言っていたのに、本当に出されるとばつが悪くなる。月理は照れながら、チョコレートに手を伸ばした。

 愛梨も、すごいすごいと言いながらチョコレートをつまむ。

「ちょっと、失礼」

 愛梨が席を立った。行き先は言うまでもない。

 個室に入ったのを確認して、日々野が口を開いた。

「腕、どうしたの?」

「えっ? どうもしないよ」

 月理の背中に嫌な汗が伝う。

「嘘。コーヒーの瓶すらまともに開けられないのに?」

 日々野は咎めるような口調で質す。

「熱で力が入らないだけだよ」

 月理は、痛むのを押して平気とばかりに腕を振って見せた。

「じゃあ、これは?」

 日々野はポケットから、月理がいつも口にしている三十分おかまいキャンディを取り出した。それは棒付きのアメで、アメの部分が少し固めのビニルで覆われている。開けるのには、それなりの指の力を必要とした。

「う。アイリには内緒だよ?」

 内緒の話をするように小声で言う。

「ちょっとライブハウスで、態度悪いやつがいてそいつに注意したら逆切れされてさ、ケンカしたんだよ。ホント、アイリは勘弁して。知られると、危ないところの出入りは禁止とか言って行けなくなるからさ」

 日々野は、ぷっと吹き出した。月理がなにかおかしかったのかと訝しんでいるが、上品に笑い続けている。

「柏音さんて、本当に幸田さんに弱いのね。まるでお母さんみたい。ふふふ」

「泣く子と、アイリにゃ頭は上がりませんから」

 ぽりぽりと頭をかく。

「どうしたの? なんか面白い話?」

 トイレから戻ってきた愛梨は目の前で展開されている状況を素直に尋ねた。

「柏音さんは、幸田ママにしっかりしつけられているいい子だって話」

「なにそれ? 私がなにもしなくてもつぐりんはいい子だよ?」

「ねー?」

 月理が可愛らしくダメ押しする。

「うん。いい子いい子」

 愛梨は月理の頭までなでだす。

「本当、妬けるわ」

「日々野さんもする? いい子いい子?」

「いや、いいわ。遠慮する」

 日々野は頬を赤く染めながら慌てて、手をぱたぱたと振って断る。

 それを微笑みながら見ている愛梨。それを見て日々野がぽつりとこぼす。

「本当にお姉さんみたい。同じ年には見えないわ」

 愛梨は目を丸くして驚きを表した。

「やっぱり、私おばさん臭いかな?」

 照れながら、そして少し萎縮しながらそう呟いた。

「私、今年で十七なの。本当に、つぐりんたちよりお姉さんなの」

「えっ?」

 日々野は自分の耳を疑うように聞き返した。

「私、中学まではつぐりんの先輩だったの」

「あたしってさ、今では欠片もないかもしれないけど、もっと内気で、引っ込み思案だった。今の自分で見たらもっとしっかりしろよって背中を叩いてる。絶対。……それで、まあ、わかりやすく片目だし、いじめられてたわけ。それを慰めてくれたのは、いつもアイリだった。めそめそしてても、泣き止むまでずっと一緒にいてくれた。中々泣き止まなくて、そのうち日が暮れて、親に怒られたこともあったけど、アイリは一度だってあたしをいいわけに使ったことなかったよ」

「でもね、でもね。そんなことが出来たのは、小学生まで」

 愛梨はぎゅっと制服のスカートの上に乗せた手を固く握る。

「どんくさくて、人をかばうようないい子ちゃんは――」

 日々野が引き継ぐ。

「いじめられる。わかるわ。多分、わたしもそんな人がいたらいじめはしなくても、いじめられることは黙認する。そして、空気のように扱うわ」

 だからこそ、月理は、今度は自分が守らないといけないそう強く思った。そうして、強くなってきたはずだ。

「うん。そうだよね。だから、今の私は嘘なの」

 ぽつりと愛梨が漏らした。

「それは違うわ」

 月理が否定しようとするより早く、日々野が言った。

「わたしは、今のあなたたちを見て友達になりたいって思った。たち、よ? わかる? 別に、柏音さんだけと友達になりたかったわけじゃない。たまたま突っかかったり、きっかけが多かっただけ。それは、幸田さんを否定しているわけじゃない」

「でも、本当の私は……」

「本当って何? 今日は、わたしと二人だったけど楽しくなかった? わたしは、嬉しかった。ずっとお話したかった幸田さんと二人でお話できたんだもの。どうだった?」

 少し、怒りを含めた声で日々野はまくしたてた。

「楽しかったよ。私、日々野さんが怖い人だと思ってたから、違うんだって思ったときには私も嬉しかったよ」

「じゃあ、わたしの前にいたのが本当の幸田さんだと思う」

 うんうんと月理は頷いてる。

「アイリは運動は得意じゃないけど、いじめられているのが本質なわけない。それは、あたしが許さない。それを真理というなら、神様だって殴ってみせる」

 神というのがいるのであれば、だが。しかし、悪魔や天使がいるのだ。神の一人二人いたって不思議じゃない。そう月理は思っていた。

「ふふふ、柏音さんらしい」

 日々野は、楽しそうに頼もしそうに笑った。

「ね、つぐりんは私の自慢の妹です」

 自信を失っていた愛梨が一気に胸を張る。

「ところで、それが、なんで同じ学年になってるの?」

「それはね、私、高校入試の日入院してたから」

「病気?」

「ううん。車に撥ねられたの。信号無視した車に。でもね、撥ねられた瞬間、ほっとしたんだ。ああ、これで高校に行かなくても済むかもって。でも――」

 愛梨は月理を見やる。月理は複雑な笑顔を浮かべている。

「でも、なぜか、駆け寄ってきた最初の人はつぐりんだった。つぐりんは私のために泣いてくれたんだ。中学校の間、いじめられても我慢してたのに、私のために涙をこぼしてくれた。そしたら、私生きなきゃって思ったの」

 このときの交通事故は、月理の初失策による敵の逃亡が原因だった。だから、近くにもいたし、自分がアイリを巻き込んでしまった後悔に打ちひしがれて涙したのだ。そのせいで、一見美談であるが、月理は心の底から笑えない。むしろ、申し訳なさでいっぱいだが、謝ると自分のしていることを話さなければいけない。よって、微妙に照れたような引きつった笑いを浮かべるに留まるのだ。

「目を覚ますと、やっぱり泣いてるつぐりんがいて。親の顔は覚えてないけど、つぐりんの泣き顔だけは覚えてる」

 愛梨は優しく微笑む。月理は、照れたかのように目を離した。

「で、結局、入試は受けなくて。再試も行かなかったの」

「そ。で、どうせならあたしと同級にならないかって話したんだ。地元の中学はやなやつ多いから、ここの私立にしたんだ」

「そうなんだ。意外だったわ。二人ともそんな風に見えないから」

「まあ、過去を振り切ってますから」

「そう言うとかっこいいね」

「でしょ?」

 すっかり椅子の上で胡坐をかいている月理は、しししっと笑った。

「でも、そんな感じがするわ。人に話せるっていうのはそういうことなんだと思う、きっと」

 日々野が呟くように、そのやり取りに見惚れながら言った。

「わたしは、そんな特別なことはなにもない。でも、この年の頃ってそういう特別なことに憧れたりしない?」

「んー、わかる! なんか選ばれた人間になりたいみたいなってことでしょ」

「そう。でも、わたしに特別なことは起きなくて。いや、起きたんだけど」

 口ごもる日々野。月理たちは、良くわからずに首をひねる。

「でも、それって碌なことじゃなくて。起こって欲しいと願ったことなのに、でもそれはただ辛いだけで。って、せっかくのいい話の後に、なに暗い話しているのかしらね」

 苦笑して誤魔化す、日々野。

「力が欲しいなら貸すよ? これでも結構アングラにだって顔が利くんだから」

 月理は、肝心の所は告げずに協力を申し出てみた。

「う……ん。わたし、我慢強いからまだ大丈夫だと思うの。本当にダメなときが来たらお願いするわ」

「あんまり、我慢しちゃダメだよ?」

 愛梨の母性溢れる言葉。なぜだか、愛梨の言葉にはそういう力がある。

「あり、がとう。わたし、このことを誰かに話したくても話せる友達がいなかったから、今日はすごく嬉しい。少し肩の荷が下りた気分」

 まただ。また、寂しげな顔で笑う日々野。

「日々野さん。全然、笑えてないよ。あたしは、友達がそんな顔で笑っているのを見過ごして生きていけるほど、穏やかな性格してないんだよね」

「でもね。あと、もうちょっとなの。あと少しで終わるから。そしたら、心の底から笑えるかも知れない。虫のいい話だけど、それまで、待ってて欲しいな」

「虫がいいことは全然ない。そこを認めあえるから友達って言えるんじゃないかな?」

「私もそう思うよ」

「ありがとう」

 日々野は、嬉しさのあまりか、泣きだしてしまった。これは、泣く愛梨にも勝てないが、泣く日々野にも勝てないな。なんてことを月理は不謹慎に思ってしまった。

 愛梨も同じことを思ったのか、月理を見て、寂しそうに笑っている。


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