03.

 月理は土曜日にライブがある週、毎日高校に通った。あまり休みすぎると愛梨が本気で泣く。泣く子と愛梨には勝てないのだ。

 今週は、売人の成敗も控えた。理由は、シアの存在だ。あんなのにうろちょろされていてはたまらない。こちらは、綿密に調査し、それ相応の寿命を奪い取るのが役目だと思っている。しかし、やつの左手は問答無用に相手を殺すのだ。

 そこに、罪の多寡など斟酌する余地はない。シアが悪だと思ったら即成敗。それで、良く正義の味方が名乗れるものだ。

 しかし、一理はある。巨悪を倒すのが巨悪なら、それに対抗するのが正義の味方の場合、そのやり方は破天荒なくらいでなくては抑止力にはならないだろう。

 そんなこんなで、情報収集に重きを置いた。アンドロマリウスは、三十六の軍団を指揮すると言うが、その中にネズミやカラス、クロネコなんかも含まれる。そいつらを放って調べさせていた。

 久しぶりに、放課後はバンドの打ち合わせに集中することができた週だ。だが、そうやって、ライブハウスや、スタジオに顔を出しながらなにか悪い噂がないかと耳だけは敏くアンテナを広げていた。その結果、得られたのは、いつもと同じ噂。どこどこの誰々が輪姦されたという話だったり、誰々が学校に来なくなったとか、その誰々が麻薬所持で捕まったり、果ては自殺したとか。そんな話ばかりだ。

 それらの噂は、全てが本当ではないが、火のないところに煙は立たない。そういう話は少し踏み込めば、一部の犯人はまるで名誉のように誇っていることがあり、そんな馬鹿を追い詰めるのは簡単だった。

 麻薬もそう大変ではない。売るためにルートを開拓しなくてはいけない連中は総じてガードが甘くなりがちだ。一番厄介のは、呼吸するかのように犯罪を犯し、そしてそれを誇らず隠れるようにやっている連中だった。他人にやらせて自分はなにもしないようなやつはなお悪い。

 だが、そういう連中は潰すと他の木っ端犯罪者どもがくっついてくるので効率の点でいったらそう悪くない。そういう自分を汚さず他人を穢し、踏み躙るタイプの犯罪者が一番月理は嫌いだった。

『次はどいつに目標を定めたんだ?』

 アンドロマリウスは、ともすればわくわくしていそうな口調で尋ねた。

「そうだな、薬売ってるやつらの尻尾が見てきそうだからそいつらを追ってみるかな」

『おまえが一番嫌いなタイプか』

「まあね。自分は選ばれているんだという勘違いしているやつは特に嫌いだ」

『よろしい。では、存分に俺を揮って狩りを楽しむがいい!』

「楽しくなんて……ない……」

 興奮しがちなアンドロマリウスに対して、月理はあまりにも冷めた声を絞り出していた。

 

 

 今日は、待ちに待った土曜日。月理は、愛用のギターを背負って、愛梨と共にスプリーラウンジ《らんちきさわぎ》という名の店に来ていた。

 古ぼけた雑居ビルの地下にあるそのライブハウスは、いかにも素行のよろしくない人間が集まるような雰囲気を持っていた。見た感じ上の方は使われているのかどうかわからない様なビルである。人気が感じられない。そして半地下になっている店までの通路は確かに、入りにくい感じを醸し出している。

 ネオンで作られたスプリーラウンジの文字に光が点っているのが唯一生きている部分だった。中に入ると、そう大きくもない黒塗りのロビーがあって、その奥にライブハウスが控えている。その作りから音が外に漏れることは皆無だ。ステージのある部屋へ続くドアを開けると、そこからステージ向けられて発せられている光が漏れてくる。

 そこに溢れるのは人のいる証。生きている音。囁くような会話や、身じろぎに軋む皮のパンツ、擦れ合うチェーン。ガラスとガラスがぶつかる音、リズムに合わせて叩かれるテーブル、楽しそうな笑い声。外見と違って、中は生に溢れている。

 月理は、ロビーからまっすぐステージのある部屋に向かい、中でリハーサルをしているキョウゴと名乗る男と挨拶を済ませる。すぐに音楽などの情報を交換し始めた。その様子を愛梨は、微笑ましく見守っている。月理は、のんきにきししと笑っていた。

 愛梨は、ジーンズのスカートに長袖のTシャツと半そでのTシャツを重ね着している。Tシャツもは、こういうところであんまり浮かないようにと、月理が贈った一張羅だ。だが、愛梨の育ちのよさや、性格の温厚さはそんなシャツ一枚でごまかせるわけもなく、やっぱりちょっと会場との違和感を醸し出してしまっていた。だが、当の本人は気にせず、会場の中で月理の登場を心待ちにしている。

 そこへ、日々野が不審者もかくやという腰の引け具合でライブハウスに入ってきた。やはり、格好が周りより浮いている。特に、その三つ編みと真面目を張り付けたようなメガネは、ある意味とても個性的だった。

 そのおかげか、愛梨の目にすぐ止まり、縋るように声をかけた。

「こんばんわ、日々野さん」

「ああ。幸田さん。すぐに見つかってよかったわ。なんか異世界に迷い込んだみたい」

 日々野は、心底ほっとしたような表情を浮かべる。ぽつりぽつりと人が入ってきていたが、明らかに愛梨や日々野とは別次元に生きている。

 二人は、はじっこに用意された丸テーブルとそこに置かれたスツールに腰掛けて小さくなって時間が来るまでじっとしていた。 

 ようやく時間になり、月理がステージに現われた。肝心の月理はというと。ドロップショルダーのシャツで、その縫い目のところから袖が釣ってある。左肩のところが大きく開いており、所々に皮のストラップが飾りでついていて色は黒。袖は、本来七分丈なのだが、サイズがなかったのだろう、手首のところまできていた。少し広めに開いた首にはクロスのついた皮製のチョーカーをつけている。下は黒のショートパンツに、白と黒のニーソックスを履いていた。そして、左手首には皮の拘束具風のリストバンドをしている。もちろん左目にはドクロの眼帯が当てられていた。これは、リアルに作られた方で、愛梨にはいまいち不評な方である。

 顔には、星のマークを目の下に入れて、少しけば気味に化粧されていた。普段の月理とはまた違った雰囲気だ。愛梨と日々野は月理を凝視していた。その視線を感じ取ったのか、月理は二人にとびっきりのウィンクを送る。

 月理はご機嫌だった。ドラマーのシュウイチに挨拶をして、ベースのリオの遅刻をものともせずハイタッチを決める。演奏す《や》る前からテンションは最高潮だった。

 時間になり、月理は割と知った顔の最前列を見渡した。

「ヤス、今日は一人なんだ。やっぱりねえ。あんたにあの子は無理だと思ったからな。今日は、あたしがクールな子守唄歌ってやるから枕ぬらして寝な」

 いつものように軽口を叩いた。皆はそれに湧き、徐々にテンションを上げていく。月理が始める合図にエレキギターをじゃんと鳴らした。

「あ、ワン、ツー、ワンツースリーフォー!」

 足でリズムを取りながら、キョウゴのオリジナルの新譜をかき鳴らす。

 少女は謳う、反抗の歌を。あらん限りの声で。その顔には年相応の苦痛と、爽快感に溢れ、結果満面の笑みだった。生き方がロックだとかそんな細かいことは気に留めていない。ただ単に、そうしたいからそうしているだけ。今はギターを片手に叫びたいだけ。見事なまでの刹那さ。それを聞いてる少年少女はみなそれに乗る。共感なんてくそったれ。自分が楽しければそれでいい。そう叫んでいる。

 社会は、大人は、現実はそんな若者達から目を逸らす。ならば、力ずくでこっちに向かせてやろうと訴える。そうして、大人たちが歩んできた足跡を見せ付けてやろうと意気込んでみせるのだ。

 前途有望な若者をそうさせてしまったのは、誰か。少女達は知っている。でも、こうすることでしか発散できない、それを謳い上げるのだ。

 卑近な距離の歌い手と観客。その距離が手伝って、一体感をさらに高めていく。一方、月理は、新しい曲でテンションを上げた後は、皆がすでに知っているものを演奏し、さらに乗ってきやすいようにライブを構成していた。

 ときには一緒にシャウトし、ときには交互にマイクを向けて互いに叫ぶ。リードギターのキョウゴがソロを披露し、月理たちもそれに続いて見せ場を作ってもらう。愛梨はそんな月理を尊敬の表情で注視していた。まるで、恋人を見るような目だ。それも誇らしく、人に見せびらかしたいタイプの視線である。

 日々野も同じ様に見つめていた。だが、それは少し憧れというか、同一化願望が含まれていた。

 興に乗って、難しい姿勢でエレキギターを振り回す月理のパワフルさは、小柄な体のどこにそのエネルギーをしまっていたのかという勢いだ。

 途中、皆楽器を置き、会場の客と足を踏み鳴らしながら、歌を歌ったりした。それは、月理がボーカルのときには必ず組み込まれる曲だった。「今に見ていろ。今は好き勝手やってるだけかもしれないが、いつの日か世界を支配するのは自分たちだ」と、謳い上げた。

 あっという間の一時間半。月理は、全力で駆け抜け、弾き抜いた。最後の曲となったところで息を切らせながら、しかし声の張りは失われていない頼もしい声で一言だけ伝えた。

「いつものいくぜ!」

 月理を知っているものなら誰もが知っている。必ず、最後にクィーンの伝説のチャンピオンを歌うということ。

「罪を犯してもいないのに、罰を受けた。それを償ってきた。僕らはチャンピオンだ、友人たちよ」

 途中の歌詞がわからないやつらも、「オレたちがチャンピオンだ」の部分だけは大声で斉唱した。皆、自分たちを誇って謳う。ここにも月理が人気である理由が垣間見えた。

 

 

 ステージ裏で、月理は、愛梨と日々野と会っていた。タオルで汗を拭きながら、水分を補給していた。まるで、スポーツ選手のようだ。

「やあ、日々野さん。よく来てくれたね。どうだった、ライブ?」

「すごい興奮したわ。ロックとか良くわからないけど、楽しそうな柏音さん見てたら、こっちも楽しくなったわ。素敵だった」

「そいつは、ハッピーだね。それ以上の評価はないよ」

「でも……」

「でも?」

「意外。柏音さんて英語の歌、歌えるのね」

「まあ、好きこそものの上手なれってね。まあ、意味わからないで歌ってるのも多いし、今はCD買えば、対訳ついてるし」

「なんだ、感心して損しちゃったわ」

 それが冗談だと分かり合えた。だから、笑いあう。まだ、三、四日一緒に食事をしただけだが、普段より仲が深まるのが早い気がする。それは、互いに互いを知ろうと努力した結果だと思う。

「この後、奥で打ち上げするけど、日々野さんも来る? アイリはいつもいるから大丈夫だよ」

「いえ、ここで失礼するわ。わたし、人ごみ苦手なの。それに、知らない人って怖いから」

「そう? 気をつけて帰ってね」

「うん、大丈夫よ」

 そう言って、日々野はライブハウスから引き上げていった。

 

 

 今回も盛り上がって終わった後の楽屋で、月理は皆と乾杯をしていた。

「イェー、今日も大成功おめでとう!」

 紙コップを掲げながら月理の一際元気な声が響き渡る。

「やっぱ、ツグリが居ると違うね。集まる人の数がちげえ。嫉妬しちゃうね」

 と、今日の声かけ役のキョウゴが本当に妬ましそうに言う。だが、そこに暗い感情はない。あるのは羨望だ。

「本当だぜ。愛梨ちゃんが居なけりゃ、俺告白したいぐらいだ」

 そう嘯いて見せたのは、ドラムのシュウイチだった。

「おまえ、そんなこと言って、また彼女とケンカしても責任は取らんからな」

 キョウゴも、シュウイチもルックスは上の下くらいだ。彼女とかには困らないレベルではある。実際、今も楽屋に来ている彼女にシュウイチは頬を抓り上げられている。彼女と直接の関わりはないが、その発言を冗談と受け取ってもらえるくらいには月理は理解されていた。

 それを見て、げらげらと皆で笑い転げている。

「あたしをゲットしたけりゃ、アイリよりいい女になんな!」

 月理は、そのうち溶けた雰囲気についていけてない愛梨を抱き寄せた。愛梨は、嬉しそうな表情をしながらはにかんだ。

「まず、そのぺったんこをなんとかしろよ。最低Dカップな」

 月理は、げっひゃひゃという表現が似合うような下卑た笑いをした。それでも周りは慣れたのか誰も引かない。むしろまたかと和むくらいだ。

「俺Dカップになったら、こいつ《彼女》だけじゃなく、観客にも見捨てられちまうよ」

「そうだそうだ。腹がつっかえて、スネア打てないんじゃね?」

 噴き出しながら、キョウゴが突っ込む。

「あっはっはっ、腹つっかえて叩けねえってどんだけだよ?」

 ひとしきり笑って、月理は、涙目になりながらはーっと息を吐いた。

 月理は、憂いを込めた表情になる。周りもそれを見て馬鹿騒ぎをやめた。ベースのリオがあまり楽しそうではないからだ。

「どうした、リオ? ライブで発散できないモンでも抱えちまったか?」

「うん、ツグリ、聞いてくれる?」

「ああ、話してみな」

「あのね、先月のことなんだけど――」

 リオには、アヤカという友達がいる。アヤカは月理たちとも顔見知りで、こういうイベントのときは互いに顔を出し合う仲である。

 そのアヤカという少女が、麻薬を買ったということである。正確には、買わされた、らしい。次の日、お腹や、腕など普段は服を着ていて見えない位置に痣を作っているのを、リオには見せた。そして、二週間後急に連絡が取れなくなったのだという。

 それから一度だけ連絡が来た。もう、私はダメ。今まで友達でいてくれてありがとうと、携帯電話の留守録に残っていた。

「――それから、私、アヤカの家に行ってみたんだ。そしたら、鍵も閉めないで、部屋の隅でがたがた震えてるの。私のこともわからないみたいで、ただひたすらなにかから逃げようとしていた。そして、今は病院にいる」

「そっか、よく話してくれた」

 月理は、座っていたスチール製の椅子から腰を挙げ、リオのところに行って流れている涙を手で拭ってやった。優しく頭を抱いてやる。

 リオは頭をうずめたまま、声を押し殺して泣いた。

「私、今日のライブ、ちゃんとすれば、また、アヤカが見に来てくれるって思ってたけど、会場のどこ見てもいないの。私、憎い。アヤカをあんな目に合わせた奴が!」

「そうだな、あたしもだよ」

 月理はより強く、リオを抱きしめた。



 帰り道。いつもなら月理は、愛梨と一緒である。だが、月理はアヤカの件があったので愛梨だけ先に帰した。すっかり遅くなった夜道を、隣駅まで歩く。

 今日もまた、アンドロマリウスの軍団の一つ、ネズミを使って情報を集めにかかった。さらに、月理もまた聞き込みをして歩いた。

 皆、アヤカを知っていたし、月理のことも知っている。割と楽に、知ってることを話してくれた。男女問わず、協力的な傾向にある。

 もちろん、反抗的なやつもいたが、それは極少数に限られた。月理はその性格も手伝って、見知らぬ男にも平気で声をかける。それは、悪事の征伐という裏事情があっての行動だが、周りからすれば怖いもの知らずに映った。そうやって、いつの間にか柏音月理はかっこいいと女子の間で評判になり、ファンレターのようなラブレターが増えることとなる。

 今日も、自分より三回りは大きい男に声を平気でかけていた。男には、邪険にされたが、その男はそういう人間なんだと、決めて月理は気にせず次に行く。そんなことの繰り返しで、顔見知りがどんどん増えていった。中には、情報屋まがいのものまでいる。だが、今夜は空振りに終わったようだ。

 夜道を歩きながら、月理は強く手を握り締めた。汗ばむ手をすっかり涼しくなった夜風でも冷やすことが出来ない。それぐらい強い感情を伴っていた。

「あたしは、世の中で悪いことしてるやつに、憎悪の念を抱くことはある。だが、それは漠然としたもんだ」

『それで?』

「だけど、今回の敵は違う。あたしの身内に手を出した。あたしは、今この手にはっきりと憎しみを握り締めている」

『……』

「なんだよ? 言いたいことがあるならはっきり言えよ」

『本来、正義とは信念である。正解はない。だが、そなたの行おうとしている正義には強い不安を感じる。憎しみをもって犯罪者を裁くのは、正義の執行ではない。単なる復讐に成り下がる』

「それのなにがいけない? まさか悪魔様がいけないことを問おうっていうのか?」

『いいとか、悪いとかの問題ではなく、それは正義ではないということに問題の本質がある。そなたの行いたい実現すべき正義は、個人の感情で動くべきではない種類のものだ。だが、復讐は徹頭徹尾個人の感情に彩られるものだ。もしくは義務感に追われたものの末路か。どちらも確かに美しい。しかし、そなたの揮おうとしている力、信念はどちらとも相容れない。つまり、そなたが動く理由にはならない。それでもやるなら、俺に頼らずやってくれ』

「だけど、悪であることには変わりないよな? 悪を潰すという事実にも。ならつべこべ言わず協力しろ」

『この前、そなたに正義に味方を勧めたな?』

「ああ」

『そして、そなたはあの薔薇十字団の女に向かって、はっきりと宣言した』

「だから?」

 少し苛立ちが混じる。

『そなたは、正義の味方の道を選んだ。それ故、個人の感情で動いてはならない』

「なにが違うってんだよ? あたしの正義と憎しみと、どこが違う? そんな言葉で区切ることの方がよっぽど偽善だぜ」

『ならば、偽善でいい。そなたは、正義に基づいた行動と、憎しみに基づいた行動。それらの違いを知らねばならぬ』

「あたしは、元からそうだった。嫌いだから潰そうとしてるんだ」

『違う。違うんだ、ミシェル。そなたの抱いてきた憎しみと私怨は違う。そなたの正義は人のためにあるが個人のためにあってはならないんだ』

「わかんね。個人を無視してなぜ集団の幸せに辿り着けるんだよ?」

『そなたのしてることが、個の生存ではなく、集合体としての人、つまり種としてのヒトを守るためにしていることだからだ。集団を選ぶために、個人を殺してる。本当に個人を尊重してるなら裁いて歩くことなんてできやしない。してはいけないんだ。でも、それをしているということはすでにその道を選択したということに他ならない』

「……この返事は後でする」

 有力な情報がないまま、一人家路を進んでいるというのが現状だった。街灯が照らすまばらな光。街灯と街灯の間は真っ暗な闇に覆われている。一箇所、電球が切れてぽっかりと黒い空間が広がっていた。目に見えないなにかが、月理を飲み込もうとしている。そんな錯覚に襲われた。その様子を冷め切った目で、自分が見ている。この世に悪魔があれど、本当に怖いのは人間。闇なんて、ただ光が届いていない場所の呼称に過ぎない。なにがいたって、それはきっと人間より怖いはずはない――そんな自嘲を伴いそうな感情が月理の中を支配した。

 だが、そこを過ぎてしまえば、次の街灯が月理を照らす。背中に背負った影は、大きな蛇を腕に巻きつけた男の影。男は、さも楽しそうに身を捩っていた。

「ツグリさん」

 それも一瞬のことだった。声をかけられた瞬間、瞬きをしたらもうそれは月理という小さい少女の影。

 月理は、目の前の空間に目を凝らす。一人の少女だ。見覚えがあった。

「こんな夜中になんか用?」

 少し脅しを込めた月理の視線に、少女はびくりと身を震わせる。

「いえ、あの、その、ツグリさんが麻薬について聞き込んでるって聞いたから……」

 おずおずと明るいところに出てきた少女は、いかにも真面目そうな雰囲気の女の子であった。三つ編みが固そうな性格を印象付ける。美人ではない。だが、人懐っこそうな顔をしていた。

「薬ってSS《ジーツヴァイ》、ですよね?」

「そうだよ」

 月理の声は、どこまでも冷たい、事務的な口調だった。

「あの、わた、私、売ってる人を知ってます」

 月理の目の色が変わる。

「そいつはクールだ。じゃあ、駅前のオスバーガーでも行こうか」

「は、はい。す、すいません」

「なんか謝ることした?」

 少女は、怒られたと思ったのか、また身をすくめた。

「ご、ごめんなさい。私なんかが、ツグリさんのお時間とっちゃって……」

 月理は、呆れてしまった。

「んなこと気にすんな。ほれ、もっと背筋を伸ばして歩け」

 月理は女の子の背中を叩いて伸ばす。小さい月理と同じくらいに縮こまっていた女の子は、顔半分月理より大きかった。

 二人は、オーシャンバーガー、略してオスバーガーに入った。三つ編みの少女は、紅茶だけを注文し、月理は、マグロカツバーガーとコーヒーを頼んだ。

 トレイを持って席に着く。

「んで? 先ずは、おたく、誰?」

 月理は席に着くなり、先ずは相手が誰かを確かめにかかった。

「わ、私、森口 苫子もりぐち とまこって言います」

「その、とまちゃんはあたしのライブよく見に来てくれてるよね? いつも、友達と一緒にわりと後ろの方で」

 勝手に、電光石火でとまちゃんとかあだ名をつけてしまう。

 苫子は、そこまで月理に知っていてもらえているとは思っておらず、大きい目をぱちくりとさせてた。

「あれ? 違ってた?」

「い、いえ! あってます。うわあ、嬉しいです」

 苫子は、幸せそうに胸に手を当てて俯いた。

 月理は、自分のファンらしい苫子の反応に少し戸惑った。今までなら、「ツグリ良かったぜ!」とか、直に言われてきたので、このような芸能人にあったような反応には免疫がない。

「今日も来てたの?」

「はい。行きました。一人でしたが。あの、友達が来週スプリーラウンジで初めて歌うはずでした。今日も、本当はツグリさんと同じステージに立てることを喜びながら聞くつもりだったんです」

「はず。つもり。ふうん、なにが起きた?」

 月理は、マグロカツバーガーにかぶりつきながら、違和感のあった部分に突っ込みを入れる。

「友達が、その薬を売りつけられて……。うぐっ、ひぐっ……」

 苫子は泣き始めてしまった。大体想像がついた。

「売りつけられて、ご破算になった。そして、今は病院のベッドがあんたの代わりに友達を温めていると。誰が、売りつけたんだ?」

 苫子は、頷くとしゃくりあげて話を続けようとする。

「あの子は、無理矢理薬を飲まされて、中毒にさせられてしまったんです!」

 苫子は、ある男の名を口にするが、その男の名は聞かない名前だった。

 SSは、今月理が追いかけている吸血鬼化薬の名前で、「非適合者」が飲めば、強力な中毒症状と多幸感とせん妄症状が現れる。ありえない快感と妄想の間で、「非適合者」はあっという間に中毒者となってしまう。

「そいつは友達が入院したこと知ってるのか?」

「今日入院したばっかりで、多分知らないと思います」

「おまえは連絡先知ってるのか?」

 食いかけのマグロカツバーガーを置いて、月理は真剣な目で問いかけた。この先の答え一つで作戦が大きく変わっていく。

「あの子のケータイを預かってきました」

 そう言って、派手にデコレーションされた赤い携帯電話を取り出した。

「グッド。薬がなくなるのはいつだ?」

「昨日買いに行ってたみたいだから、まだあるんじゃないかと思いますけど……」

「じゃあ、来週まで買いに行かなくても大丈夫そうだな」

「なにをするつもりなんですか?」

 不安に満ちた声で、苫子は月理に聞いた。

「ちょっと、そいつにはまってもらおうかと思って。今からあんたにやってもらいたいことがあるんだ。いいかい?」

 苫子は不安そうな顔をしたが、友の仇の方が勝ったのか恐る恐る頷いた。

「オーキードーキー、ハニー。先ずは……」



 次の週の日曜日。ビルとビルの間にある、暗い路地裏。覗く空も狭くとても頼りない。そこにいるだけで、暗澹たる気持ちになる場所だった。

 そこに小柄な少女と、平均より随分と大きな男が立っていた。身長は月理より頭一つ以上大きい。体重は三桁に届いているだろう。

 少女は後ろから、男に声をかけた。

「てめえは、誰だ? そして、あたしは誰だ?」

「あん? 誰だ? おまえは……」

 男は不機嫌そうに振り返り、言葉に詰まる。あまりに特徴的な隻眼の少女をそう見間違えるわけがない。それに、彼女こそ男の周りを嗅ぎ回っているという情報のある少女だ。

「ここらのやつなら、あたしを知らないやつはいねえ」

「てめえはどんだけ自意識過剰なんだよ?」

「じゃあ、なんであたしを知ってる風なんだ?」

「たまたま、歌ってるところを見たからだよ。たまたまだ」

「たまたま、ね。まあ、たまたまだろうさ。それは昨日か?」

「引っ掛けようとしても無駄だぜ。おまえは特徴的だからな。先週の土曜だ」

「仲間から聞いたが、おまえは、昨日もスプリーラウンジに来たと言っていた。そして、今あたしを特徴的だと言った。じゃあ、聞くがなんで昨日もステージに登っていたのを知らねえんだ?」

 昨日、苫子の友達がステージに立つことになっていた。だが、その少女は一週間前に入院したのだ。代わりに月理が立ち、代わりに派手にやった。見に来てたのなら知らないはずはない。

「嘘こくなよ。昨日は違うやつのステージじゃねえかよ。俺は確かにこの耳で聞いてたんだからな」

「そいつは嘘だ。滅多に参加しないあたしが二週連続でステージに上がったのは、その子が歌えないからだ。それを知らないのはなぜだ? それはその時間、その子の友達に薬を渡してたからだ。おまえは昨日のステージを見ていない」

「なにを根拠にほざきやがる?」

 昨日、薬をもって苫子は買わされたと警察に行った。男から買ったと当然主張するようにしむける。だが、彼の仲間はその時間はスプリーラウンジに一緒にいたとアリバイを主張した。

 普段見たことのない彼らを、スプリーラウンジに呼び寄せたのは月理。そして、舞台に上がっていたのは月理であって月理ではなかった。

「あたしは、昨日、苫子の友達の名前でステージに上がったんだ。だから、おまえの仲間は、あたしの名前がその子の名前だと思っている。見ていなかったおまえは間違った名前を聞かされたって訳だ」

「そうか、おまえか。俺を警察に売ったのは」

 男はへらへらした表情から、苦虫を噛み潰したような顔になった。

「おまえ、苫子に薬を売ったな?」

「変だと思ったぜ。本人から連絡こねえからよ。ああ、売ったよ。本人はどうした? 飲み過ぎで逝っちまったか?」

「小さな救いだが、彼女はまだ生きている。残念だったな。おまえはここで警察に捕まる」

 月理は、ポケットから、カセットレコーダーを取り出した。停止ボタンを押し、中指を立てて挑発した。

「ツグリさんよぉ、そんなちっこいなりで俺をどうにかできると思ってんのか? これからも人気者でいたかったらそれをこっちに渡しな」

 男が、微塵も焦った風なところはなく、威嚇を込めた目で月理を睨みつける。

「やっぱりあたしのこと知ってるじゃねえか。おまえごときにあたしはやられない」

 男は、薬を売って欲しいとこの裏路地に呼び出されている。ここは、人の目は届かない。恐らく声も届かないだろう。そのような場所で、体格的に五回り弱余裕のある男は怯みはしない。だが、月理も全く怖じた感じはない。

 さらに、男が余裕で構えてられる理由が明らかになる。男は、ボクシング経験者のようで、脇のしまったファイティングポーズをとった。ゆさゆさと体を上下に揺すり、リズムを作っていく。

「女、殴んの趣味じゃねえけどな、沈め」

 速さのある踏み込み。鍛えこまれたジャブ。もろに食らう。のけぞる月理。男はいけると思い込んだことだろう。ここまで無警戒に殴られれば。月理を素人だと判断した。だが、のけぞった月理の目に灯がともる。

 身体能力増強剤の薬もばっちり飲んでいた。しかも、いつもよりも二割り増しで。それでも、初撃を食らうまで目が覚めなかった。

「片目でボクサーのパンチよけれるわけねえ、だろ!」

 一番力の乗る高さに月理の頭はあった。大振りのフック。当たれば死ぬかもしれないその一撃を頭を下げてかわした。唸りを上げて拳が過ぎる。月理は、顔を上げながらアッパーを振り上げた。だが、当たらない。

 男の次の一撃が振るわれる。それを、左腕で受けた。骨が嫌な音を立てて軋んだ。強引にもう一度右フックをねじ込んでくる。カウンターに右のストレート。その拳が男の頬にめり込む。浅い。身長差がありすぎる。さらに、月理の腕の方が先に悲鳴を上げて、筋肉が軋めいた。

「はっ、ロックだぜ」

 月理は、あまりの戦力差に独りごちる。だが、内心盛り上がりを見せている部分があった。月理の悪いくせだったが、どうしても勝機のない勝負ほど燃えてしまう。

 月理は、男の攻撃を紙一重でかわし、ひたすらローキックを打ち込んだ。執拗に繰り返す。かわす。蹴る。よける。蹴る。これなら身長差があっても問題ない。

 男も蹴る。左腕でガード。しかし、吹っ飛ばされてごろごろと裏路地を転がった。だが、闘魂逞しくすぐに起き上がり、男の下へと間合いを詰める。パンチをよけ、蹴る。かわし、蹴る。

 カウンター気味にけん制のパンチもいれていった。疲れとダメージで男は見る見るうちに鈍くなっていく。足は上がらなくなり、大きく肩で息を始めた。小柄な月理のほうがエネルギー効率がいいのだ。

「ヘイ、ジャンボ。ダンスがスローテンポに変わってきたぞ」

「はあはあ、てめえ、なんか薬でもやってんのか?」

「てめえほどじゃないさ」

 もりもりでな。心中で呟く。体がついていける限界量だ。これ以上は反動が怖くてどうなるかわからない。でも、おかげでボクサー崩れの攻撃を見切れるし、反撃も出来る。だが、筋肉を実際増やしているわけではなく、リミッターをはずしているだけだ。当然、体は無理をすれば壊れていく。

 だが、その効果ももうじき切れてしまう。男が計算より粘っている。腕は、先ほどから筋肉の断裂でずきずきと警告を発していた。息も上がり始めている。それでも、月理は心を鎮め、焦りを捨てるよう努めた。

「くたばれ、このアマぁ!」

 先に音をあげたのは男だった。捨て身の攻撃を振りかぶる。月理にはものすごく遅く感じられた。その攻撃より少しだけ先に、手を出す。それで、勝負は決した。

 顎を打ち抜かれた男は、意識を失い、薄汚れたビルに背を預けてずるずると崩れ落ちた。

 月理は切れた口の端の血を拭った。口の中に溜まった血を唾とともに吐き捨てる。一息つくと、ポケットから今日まで調べ上げた男の罪状を書いた紙を取り出した。眼帯をはずし、赤と黒の目を露わにする。

「残念。あたしは、もう片目じゃないんだよ」

 月理はその紙を無感情な目で見ながらつらつらと、罪名を挙げていく。それは些細なことから薬の売買など裁判で裁かれるようことまで大小さまざまだ。共通するのは、月理が悪と判断しているということである。

「契約名ミシェル・ベイルノートの名においてアンドロマリウスに命じる。その力を我が望みの為に行使せよ」

 倒れている男に手を当て、その中から白い紙の様なものを引きずり出す。

決済チェック!」

 それをレシートをちぎるように切り離す。男の体がびくっと一瞬痙攣した。

 携帯電話を取り出し、警察へと電話をかけ、薬の売人がいることを告げる。警察も無能ではない。ここら近辺で多発している犯罪者の受け渡し。犯人はみな気絶した状態で警察の厄介になっている。その通報が必ず女の声であることも共通していた。

 それを警察は暢気に正義の味方現るとは思っていないようだ。犯人は少なからず傷を負っているのだ。仲間割れかもしれないし、縄張り争いかもしれない。とにかく更なる犯罪者との関わりを疑っている。だが、通報されている犯罪者たち全員に共通することはない。大半には、薬が関わっているが、それを前提に考えられる警察官はいない。

 今日も、月理は離れたところから男が連行される様を確認して家路に着いた。もちろん、薬の所持の現行犯だ。執行猶予がついたって警察にマークされる。それに、本当の対価はあいつが命で払った。びくびくと警察を恐れ、小さくなって都会の隅っこで生きていく中で、不自然に早死にするだろう。だが、その行いに誰も不審がることはない。天罰だ。皆、そう言うだろう。

 月理は、月理に声が入ったテープを警察に提出する気はなかった。自分の正体のわかる問答の入ったテープの提出など論外だ。仮面のヒーローの仮面がはずさないのと一緒だ。

 起きた男も誰にやられたか覚えていないだろう。それは、決済の際にアンドロマリウスが力を貸していた。だから、一度会った相手は必ず決済しなければならないハンデを抱えている。警察に捕まっても、犯罪者扱いはされないかもしれないが、正体についての言及はされるだろう。錬金術師についても無傷ではいられないだろう。

 目指すところは正義の味方なのに、警察から逃げ回る。これでは悪党ではないか。いや、むしろ正義の化身そのものであろうとしているからかもしれない。完全な正義は、神という独裁者が下す裁可そのものだ。よって、悪人正機を歌う警察とは大いに齟齬を生じさせてしまう。実際のところ、命を奪う行為は偏った正義と言わざるを得ないと、月理自身も自覚していた。その歪な在り方をアンドロマリウスは嬉々として眺めている。

 でも、誰かの涙を止められるなら。きっとすぐに違うやつが泣かせに来るとわかっていても、一瞬笑顔になれるなら。月理は、そのためにその偏った正義を己が旗とし、剣とし、敵を制することを選ぶのだ。

「アンディ、返事するぜ。あたしの正義は個のためではなく群のためにあるってやつのな」

『聞こう』

「あたしとおまえ、どっちが正しいかで言ったらおまえなんだろうな。今までおまえは正論以外吐いたことはないからな。だけど、あたしはあたしの憎しみでもってあいつらを潰す。あたしは逆にそうでなくてはいけないと思うんだ。悪さをしたやつはやったことに対する対価で潰されなきゃならない。そうでなければ納得がいかないはずだ。だけど、おまえの言いたいこともなんとなくわかる。だから、あたしは世間に成り代わって世間の恨みであいつらを潰す。それでいいか?」

『冷静な思考、結論に敬意を示そうではないか。おまえは世界の代弁者であるべきだ』

「へ、あたしが良くないことをしてる自覚ってのはあるんだぜ。あたしはあいつらの母ちゃんの代わりにけつを引っぱたいてやらなくちゃならないってことだろう。それくらいはするさ。世界を守れるんならな」

『そなたには、正義の味方になってもらいたい。行動が実際そう見える必要はない。そういう風に生きてもらいたいのだ』

「クールに生きていくだけさ。過程で、そう見えるかもな」

 照れ隠しを含んだいたずらな笑みとともに呟いた。まるで、祈るように。

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