01.

「この世に二人、至宝薬エリクサーに近づいた錬金術師がいる。一人は、ヘルメス・トリスメギストス。古代の偉大な錬金術師様だ。もう一人は、タランダ・ベイルノート。つまり、あたしのおばあちゃん」

 ぴっと、指を人差し指、中指と立てていく。細く、繊細な指だ。肌理も細かく、日本人しては白い肌が、夜半の寝室で映える。蛇が自分の尾を食っているモチーフの指輪が左手の小指と右手の中指で光っていた。

 声の主は、柏音月理かしわねつぐりという少女。小柄で、線も細い。まるで、小学校の高学年で成長が終わってしまったかのようだった。

 だが、顔は可愛らしく、満開の笑顔のときと、荒事のときの猛々しい顔のときにその魅力を一番開花させる。右目は、大きく今にもこぼれそうな黒い瞳。左目は、医療用の眼帯をしている。

 髪型は、黒の短髪。時折、男子にも間違われる。でも、月理は動きやすいこの髪型は気に入っていた。

 服装は、寝間着用のシャツにショーツ一枚。

 外から漏れ入る光によって、その白い肌が浮き彫りにされて、暗い寝室にまるで幽体がいるような錯覚に囚われる。その儚げな感じこそが、月理という少女を端的に表しているかも知れない。

『ふむ。耳たこだな』

 答える声の主は姿を持たない。青年のような声を持ち、死後、月理の左眼をもらう契約で彼女の中に住まう悪魔のアンドロマリウス。ソロモンの七十二柱の七十二柱目に数えられる「正義の伯爵」の名を持つ希有な悪魔である。

「あたしは、それを引き継いだ」

『そうだな。それゆえにその幼い四肢があるのだろう?』

 ある薬の影響で、月理は成長障害を起こしている。小学校高学年の様な体型なのはそれが理由だった。

「早く完成させなくちゃ」

『焦ることなどない。そなたの時間は半無限だ』

「でも、あたしが死なないと、おまえは契約を履行できなくて困るんじゃないのか?」

『我々は、概念。同時に幾人も並行して存在できる身。そなたの心配には及ばんよ――それよりも、眠れ』

「んだよ、わかってんだろ? 薬囓ったから、目が冴えてるってこと」

 異常なまでの興奮覚醒と、老いの防止、筋力の増強が薬の主な効果だ。応用すれば、体の病気を治療したり、寛解させたり、先延ばしにすることもできる。

『だが、明日はあの娘が迎えに来る予定なのだろう?』

「あー、そうだった。少しでも眠っておかないと」

 ごろりと、気怠げに寝台の上で姿勢を変えた。

 眠気などないはずなのに、夢の世界に引っ張り込まれる。体は、自分が思っているよりもはるかに疲労しているらしい。十分もした頃には、穏やかな寝息だけが寝室を満たしていた。



 次の日、七時四十五分ちょうどに、玄関のチャイムは来訪者を家主に伝えた。月理は、まだ寝足りてない頭を一所懸命動かし、よたついて壁にぶつかりそうになりながら、廊下を進み客を出迎えに行く。

 ドアスコープの向こうにいたのは、期待通りに幼馴染の幸田愛梨こうだあいりだった。長い黒髪に、大きなリボン。大きなパッチリとした目。少し幼さの残っているが故に男子に人気があるあどけない端整な顔立ち。女性として魅力的な豊満な胸。見間違うことなき幼なじみの姿。月理は、鍵を開けて、中に招き入れる。

 茶のブレザーにチェックのプリーツスカート姿だった。胸には、一年である証の赤いネクタイが目に付いた。これが、月理の通う高校の制服。

「やっぱり、まだ寝てたんだぁ」

 愛梨の行動は、素晴らしいと評価されるべきものだった。遅すぎず、早すぎず、寝惚けた月理が準備をするのに充分な余裕のある時間だったからだ。正に幼馴染だからこそできる業であった。

「ああ、今日もいい時間だ。助かるよ、アイリ。ふぁー、あふあふ」

 月理は大きなあくびをし、凝り固まった体をぐいっと伸ばす。

 寝室に戻った月理は、着ていた大き目のだぼだぼTシャツと、ショートパンツをぺいっと脱ぎ捨てて、学校に行くための制服に袖を通していく。その動作は、とても緩慢だった。

 忘れず、左目に眼帯を当てる。それは、医者のところに行けばもらえるタイプのシンプルなやつだった。

 たっぷり五分かけて服を着替えた月理は、愛梨の待つリビングルームへと鞄を小脇に抱えながら向かう。

 おもむろに席に着くと、昨日から用意してあったゆで卵と野菜スープを啜った。

「ほらぁ、つぐりんは女の子なんだから、ちゃんとしなきゃダメだよ」

 そう言って愛梨は、月理の髪をブラシで梳き始めた。

「んあ、あー気持ちいい」

 低血圧状態の月理は、それに身を任せ、暢気な感想を漏らした。正直、薬の反動で体がめちゃくちゃだるい。

「うん、今日も可愛いよ、つぐりん」

「ああ、アイリもかあいいよ。アイリが男なら、人目憚らず蹂躙するのになぁ。それがあたしの夢、むにゃ」

 血の巡りの悪い頭で、月理は本音を吐露してしまう。

「できれば蹂躙はして欲しくないかな。後、人目も憚って」

 愛梨は苦笑する。

 月理が朝食を終えて、時計を見れば、八時五分。いい時間だった。

 二人揃って、廊下を歩き玄関へと向かう。月理は、玄関の靴箱の上に置いてある鍵と三十分は保つというのがキャッチコピーだった、三十分おかまいキャンディをポケットに滑り込ませる。

「好きだね、キャンディ。いっつも舐めてるのに、どうして太らないの?」

 愛梨は、少し妬みの感情が入った声音で尋ねた。

「んー、なんでだろ。人より消費カロリー多いのかも」

 中にもう一人いるからね、と心の中で付け加えた。

 柏音月理は錬金術師である。この事実を知るものは、今は行方不明の祖母と本人だけだ。当然、親友の愛梨も知らないことだった。彼女の目には、理数系に強い稀有な女の子という風にしか映っていない、ハズである。

 それは、親友だからこそ巻き込めない事情があるからだ。錬金術師という生き方は、科学万能のこの時代においても形を変えて生き残っており、それは堅気とは相容れない部分が多々ある。それは、押しなべて危険を意味していた。

 月理は、その意味を知っているだけに、愛梨だけは絶対に巻き込みたくなかった。普通に幸せを掴むなら、それは知らない方がいい。この歳で月理はそう悟っていた。特に、月理のようなタイプの錬金術師を目指すならなおさらだ。

 月理のタイプ――それは、賢者の石を作りだす作業によって自身を高め、自身を神と同格にし、宇宙の再生を目指す――アルス・マグナ派である。だが、月理は宇宙を再生することに関心があり、自身を高めることは目指していない。異端であるといえば異端であるが、しかし、人間の是正は神に近づくことでそうなったと勘違いした人間ではなく、同じ目線で生きているからこそできることであるという祖母の哲学に基づいている。

 悪党は、必ずその身をもって清算しなければならない。そして、世の中ではそれが常識であるということを知らなければ、人の世は堕落する。それを広めるための錬金術である。

 すなわち、月理にとって錬金術は手段であり、目的ではない。錬金術師は、生き方の手本のようで理想像ではない。彼女は、人間が好きである。その人間皆が幸せになってほしい。一人残らず。そんな小学生じみたことを本気で願っているのが月理という在り方だった。

 人が十人いれば、十通りの幸せがあり、それら全てを満たす公約数のような幸せはないとわかり始めているし、恐らく、それを満たすのは、金であることも気付いてもいる。だが、月理が目指すのはそんな世界ではない。そんな物がなくても、幸せに感じられる感性を持った人間が住まう世界。それが、彼女にとって正に理想郷アルカディアだ。

 だが、錬金術は科学である。魔法ではない。故に、錬金術が持つ理論的な判断を採用し答えを導けば、それは不可能であるという回答に至る。月理は、いわゆる聞き分けのいい大人になることを全力で拒否している。聞き分けなんて悪くていい、自分の評価など塵芥同然でもいい。だけど、せめて愛梨たちの幸せは守ってやりたい。そのために、自分は祖母から学んだ拙い錬金術を振りかざすのだと、そう言い聞かせていた。

「どうしたの? つぐりん?」

 マンションの階段を下りながら、無口な月理を心配そうに愛梨は覗き込んだ。

「朝は、血圧が低くて。それだけだよ」

「そう? なんか難しい顔してるよ? 具合悪いなら休む?」

「大丈夫だって。エンジンかかれば良くなるさ」



 歩いて二十分のところに高校は建っている。もう季節も秋になり、少し肌寒い風が足元を撫でていくようになった。二人は閑静な住宅街を歩いている。通勤、通学で少し活気ついている気持ちのいい朝だった。

 愛梨は、正面に鞄を据えて上品に歩いている。一方、月理は右手で肩口から背中にたらすように鞄を持っていた。制服の着方も、月理の方が少しだらしなく着崩れている。

「ねえ、つぐりん。今週の土曜にまたスプリーラウンジ《らんちきさわぎ》で歌うんだって?」

「ああ、一応ね。キョウゴのやつが急にやろうぜって声かけてきてさ」

 月理は、フリーランスのボーカルとギターを趣味としていて、仲のよい仲間から声がかかるとそれに応じてライブに参加する。

「うんうん、わかるわかる。つぐりんの歌う姿好きだよ。かっこいいもん」

「そう? アイリにそう言ってもらえると嬉しいね」

「キョウゴ君たちだと、パンク? だっけ」

「いや、違うよ。ビジュアル系なだけで、中身は普通のロックだよ」

「でも、派手にお化粧するんでしょう?」

 愛梨は、目を輝かせながら期待を込めてそう聞いた。

「う、いや、まあ。でも、目新しくないよ」

 月理は、その期待に応えられないという予感につい謙虚に、かつ挙動不審気味にたじろぐ。

「ライブのときのつぐりんは、かっこいいから私今から楽しみ」

 愛梨は弾むように言った。愛梨は、見た目の優等生さに反して学生らしい〔嗜み〕を心得ている。月理と一緒ならば大抵の場所に出入りしてきた。だけど、愛梨はそこに渦巻く悪意に致命的に疎かった。

 月理がフリーランスなのには、そこのところも関係していた。本当は、バンドを組んで入り浸りたい気持ちもあったが、そうなったら愛梨を巻き込んでしまうからだ。後は、錬金術師としての事情もある。

 愛梨を世間という汚泥から守るためにはなんでもすると月理は誓った。他ならぬ自分自身に。愛梨に哀しみ、不幸、犯罪そういったものを擦り付ける相手に月理は容赦してこなかった。そしてこれからも容赦してやる気は微塵もない。

 ライブを今から心待ちにしている愛梨に、月理は幸福感というものを確かに分けてもらっていた。



「よう、柏音。ようやく登校か」

 教室に入るなり、月理に一人の男子が声をかけてきた。月理は、厄介なのに捕まったとばかりに眉根を寄せる。

「うるさいよ、藤崎」

 藤崎 広大ふじさき こうだいは、月理の友人である。得意教科は、体育となぜか家庭科というミスコラボレーションな男である。頭の悪い発言をしては月理に殴られているが、不思議と一緒にいることが多い。愛梨曰く、顔の評価は高く、女子からは人気があったりなかったり。

 月理の席は廊下側。神の采配か隣りが愛梨の席だった。だが、鞄を机に置くと愛梨は窓際の友人のところに行き、そこら辺にたまっている級友たちと気さくに挨拶をしていた。すぐに、周りを女子に囲まれる。

「なあ、藤崎。アイリは可愛いよな」

「ああ、幸田こうだは可愛いな」

 さも当然のことだといわんばかりの返答だった。

「あたしは?」

「おまえ? なんだ愛の告白か?」

「ちげえ! 気持ち悪いこと言うな!」

 月理の右ストレートが藤崎の腹にめり込む。

「おまえは……」

「あたしは?」

「かっこいい、もしくは勇ましい?」

 藤崎を射殺さんとする鋭い視線で、月理は藤崎を射すくめる。

「おまえも、まあ、可愛いと思う。な、なあ、宇治原」

 藤崎は、その迫力に押されてか、話を戻した。少し照れた風に更なる友人に問いを振る。

「おっ、とうとうこの日が来たか。年貢の納め時だな。せめて幸せになれよ、藤崎」

 手を合わせながら、そうのたまったのは、宇治原和彦うじはら かずひこだった。運動馬鹿のように見える藤崎に対し、宇治原は割と知的に見えるタイプだった。単にメガネをかけているからというのもあるかもしれないが。だが、理数系の成績は月理に匹敵していて、さらに他教科もそつなくこなす秀才であることには間違いはない。こちらも顔の評価は芳しく、女子の口の端では藤崎とクラスのツートップを張っている。なにがいいのか藤崎とは特に仲がいい。

「ちげえよ、俺と柏音はおとこ同士の熱い友情で結ばれてんだ。そんな野暮なものと一緒にしないでくれ!」

 月理は、藤崎の暑苦しさに辟易したという顔する。

「なあ、藤崎。男同士って、あたしは女だが」

「馬鹿なことを言うな! 男ではない。漢だ。漢に性別は関係ない! それに、おまえは十分に男前だ!」

 藤崎は、どこがツボだったのか、拳を振り上げて熱弁をふるう。

「ああ、それはわかる気がする」

 宇治原はそれに同意した。

「こら、宇治原。よけいなところで同意するな。馬鹿が当為を得たとばかりに勢いずくだろう」

「おまえは可愛いんだが、なぜかその気風のよさというか、清々しさが男っぽい……んだよな」

 宇治原は、腕を組みながら適した言葉が見つからないと探しながらそう言った。

「おまえら、その何気ない言葉がどれだけあたしの中の乙女心を傷つけるのかわかってんのか?」

 少し怒りで、机の上に置かれた拳が震える。

「大丈夫だ、柏音! おまえにそんなものはない!」

「言い切るな! この阿呆!」

 月理のグーが、藤崎の右頬に突き刺さった。

「いいパンチだ。魂を感じる、ぜ」

 藤崎が崩れ落ちた。

「なんだよ、柏音。なんで、おまえが今更可愛いかなんて聞くんだよ?」

 宇治原も月理の質問の意図がうまく汲めないようだ。

「いや、アイリは可愛い。あたしも、おまえらには可愛いと思われてる。自分で言うと恥ずいな。なのに、なんで、みんなの視線が違うのか? あたしの周りはおまえらみたいのばっかりなのに、アイリの受けてる男子からの視線は憧れだろ? なんなんだろうな、この差は?」

「うらやましいのか?」

 宇治原が、冷やかすように言った。

「ああ、うらやましいね。特に、藤崎みたいのが気軽によってこない分はうらやましい」

「そうかぁ、俺は他の女子がおまえのこと羨んでるの知ってるぜ」

 復帰した藤崎が真面目な口調で言った。

「そうだよ、つぐりん。それは贅沢というものだよ」

 後ろから、急に愛梨に声をかけられ、月理は心臓が止まりそうになった。だが、声は平静に発せられる。

「なんでさ?」

「なんでって、藤崎君と宇治原君だよ? みんなが羨む好ポジションだよ」

「あたしは、まあ、楽しくないわけじゃないからいいけどさ。でも、女子に囲まれてるアイリに憧れないこともない」

「そういうところが、男っぽい」

 藤崎が言って、宇治原が無言で頷いている。

「いいよ、あたしの嫁はアイリって決まってるから」

「うん、私もつぐりんが一番かっこいいと思ってるよ」

 はしっと抱き合う二人。この組み合わせに、それぞれを羨ましがっている人たちがいることを、二人は事実ほど認識していなかった。

 

 

 一時間目。数学。担当教師の田中は、わなないていた。

 田中は、もう三十も半ばでそれなりに風格が出てきていた。目が悪く、直射日光に弱い目を守るため色付きのメガネをかけている。視力が悪いせいで目をいつも眇めているのと、短く清潔感に溢れた角刈りが皆に誤解を与えていた。田中は怒らせると怖いと。実際、怒ったら怖い。だが、それだけではない、心が凍える怖さ、有体に言ってしまうとやくざに睨まれる怖さがあると。

 そんな教師を前に月理は、盛大に寝ている。しかも、アメを銜えながら。

「つぐりん、つぐりん。起きないと、まずいよぉ。アメ銜えたまま寝るとよだれが……。ああ、もうすでに女子高生とは思えない寝顔に」

 隣の席で、愛梨が必死に起そうとするが、月理はびくともしない。

 田中が、今日もこめかみの血管がブチ切れそうになってヒクヒクしている。

「か・し・わ・ねぇー!」

「ああん? うっせーよ」

 名を呼ばれた月理は一瞬身を起すがそう教師に向かって吐き捨てると、また眠りに落ちていく。

「柏音。普段姿を見せないおまえが来たことは褒めよう。アメを銜えているのも心広く受け入れよう。だが! 授業を受けろ! そして、その上でテストで百点取ってくれ、頼む」

 月理は、数学の授業を聞かないうえにテストで満点を取るものだから、田中も強く出られない。

「ああ? 煩いと言っている」

 ぎろりと睨みつける。月理は、機嫌が悪くその悪いところを前面に出していた。この目つきの悪さは、女子高生のものとは思えない。周りは、恐怖でどん引きだった。この顔がなければ、月理の人気はそれなりなのだが。

「前に出て、この問題をやってみろ!」

 今日は、久方ぶりに授業に出てる月理に対して田中も諦めない。月理は、垂れてるよだれをじゅるっと吸い上げると、胡乱な目をしながらいかにもめんどくさそうに前に出て問題を見る。数秒も見ないうちに、かっかとチョークを走らせる。

 黒板には、簡潔に答えだけが書かれていた。

「柏音。途中経過も書け」

「数学教師なら、こんなん見たらわかるでしょ」

 どこまでも、反抗的な月理に怒りを抑えながら田中は静かに言葉を言い聞かせる。

「俺のためではなく、みんなのために書いてくれんか」

 教室にいる大半はこの答えがどのように求められたのかわかっていなかった。それを学びに来ているのだから当然といえば当然である。

 みんなのため、という言葉に反応したのか。一度席に戻った月理は、愛梨に目をやった。愛梨がわからないという風に苦笑しているのを見て、もう一度黒板の前に立つ。立って、見たこともない公式を使い、答えを導こうとする月理を田中が慌てて止める。

「柏音。それは、高校では習わない範囲だ。普通に解いてくれ」

「でも、この公式使えるようになれば、もっと難しいことも学べるし、間違いや嘘は書いてない。それに……」

「それに?」

「この方法以外がいまいち思いつかない」

「わかった。先生の負けだ。もう席に戻っていいぞ」

 田中は、とうとう折れた。そして、今目の前にいる生徒達が持っている知識で解ける方法を黒板に示した。

 そのまま五十分という時間が過ぎ去っていった。

 藤崎と宇治原が席に寄ってきて、月理を褒め称える。皆は怖くて、田中にあのような態度には出られない。それを、皆は褒めるのだ。

 月理にしてみれば、普段から相手にしている連中の無軌道、無秩序、無制限な生き方の方がよっぽど怖い。それに、月理は暴力を振るわれて怖じるタイプではなかった。

 皆は褒めるが、賛否は両論であり、もちろん気に食わない連中もいるわけで。

「柏音さん。ちゃんと先生の授業を受けなさい!」

 そう言って噛み付いてきたのは、このクラス総合二位、理数系三位の日々野ひびのだった。きついメガネがトレードマークの委員長気質の女子である。

「ん? なんだ、日々野さん。そういうことは、数学であたしに勝ってから言ってもらえるかな?」

 意地の悪そうな顔で、意地の悪そうな声を出しつつ、意地の悪いことを言った。

「理数系馬鹿のあなたに言われたくないわ。たまたま自分ができるからって調子に乗りすぎじゃない? そんな子供じみた自己主張は見ていてとても気分が悪いわ」

 一瞬険悪な雰囲気が横たわる。席に座ったままの月理は隻眼で睨み上げる。立っている日々野は上から睨み下ろしている。緊張がお互いの間を走るが、月理がいきなり破顔して、その空気がおかしくなる。

「わかったよ、日々野さん。もう少し気をつけてみる」

「わかればいいのよ」

 ふん、と鼻を鳴らし日々野は自分の席へと戻っていく。

「おい、なんでそんなにいつも素直に引くんだよ」

 もう通例になっているやり取りに、藤崎が小声で聞いてくる。

「だって、あたし、日々野さん好きだから」

 ――ぐっちゃぐちゃにしたい程。結局、子供っぽい自己主張しているのは日々野も同じで。そんな、欺瞞が月理は大好きだった。罪は憎めども、人のそういう在り方は好きなのだ。結局のところ、月理も歪なのである。

 藤崎も、クールな宇治原もその回答に肩を竦めた。



 今日も間借りしている部屋の一部屋に籠もっている。例の薬の完成を目指しているのだ。

『今日も今日とて、精が出るな。ミシェル』

 ミシェルとは、タランダと月理の秘密の名前で、悪魔と契約するための真名の役目を果たしている。

「急がなくっちゃ。この市場に出回ってるやつを駆逐しなくちゃいけない」

 まだ、完成に至っていないため、「至宝薬」の名前は二つ名に過ぎない。むしろ、「愚か者の薬」という名前の方が的を射ているかも知れない。

 この世には、「賢者の石」は存在していない。精々、「愚者の知恵フーリッシュウィットネス」という、まがい物がある程度だ。だが、このまがい物も奇跡――発達した科学は魔法と同じ――を体現することができる。

 「至宝薬」が、「賢者の石」から生成されるように、そのまがい物から生成される薬の一つに「愚か者の薬」が存在した。

『なにをそんな義務感に駆られているのか? 理解に苦しむ。快楽に溺れる他人など放って置けば良かろうに』

「あたしはね、アンディ。薬にはまる理由が本人の意思ばかりじゃないことを知っている。そんな数少ないかも知れない人を助けたいと思う」

『知っている、ね』

「んだよ? 引っかかるな」

『いや。そなたらしくていいと思うぞ。それに、俺はそなたみたいに足掻く人間の尽力、徒労が好きでな。最高に心躍る』

「悪趣味な奴め」

『俺を悪趣味というのか。それは自身を一度も省みたことがないという意味でいいのか?』

「そうだよ、あたしは人間の良いところ、悪いところ、清濁合わせて好き。ぐっちゃぐっちゃにしてやりたいぐらいに好き」

『なるほど。そなたの方が余程、〔趣味がいいな〕』

「あったり前じゃん」

 夜も九時を回ると、その出来損ないの薬の売人を成敗しに出かける。売人の摘発など、ほとんど効果がないとわかっていながらも、夜な夜な調査し、刈り取っていく。

 真に大事なのは、大本を潰すこと。でも、それは相手が大きすぎて月理一人では追い切れるかどうかわからない。だが、諦める気も毛頭ない。タランダの残した日記の末文、『大きな悪に対抗できるのは大きな悪だけ』というのに傾倒もしているせいもあった。

 それをアンドロマリウスは、面白半分で見ている節がある。

『自ら悪を名乗る。実に滑稽だな』

「なんだ、いまさら。それに、あたしのやってることは、あたしの都合であたしの気にくわない連中を処罰して歩いているんだ、正義とは呼べないだろう?」

『確かに、正義の味方を名乗る連中はいけ好かない。結局は、物事の争いの本質は、本人同士の都合の競合。それを自覚しているだけマシか。くくく』

「……おまえの、忍び笑いには悪意が滲むな」

『伝わっているなら幸い。俺は、おまえのしていることが正義ではないとは思っていない。あえて言おう。正義の味方になれ、ミシェル。己の独断と偏見ではなく、決まった法則に則り、悪を正せ』

「あたしは、あたしの都合でやっている。そんなの無理だよ」

『ふん、心の中ではなりたいと思っているのだろう?』

 隠しても無駄か。

「そうだよ、あたしは正義の味方になりたい。でも、客観的に見たらそうは見えないだろう?」

『そんなことはない。現代の価値観に従って、悪を裁いて歩く。規模は小さいかも知れないが、正義の味方と名乗るのは僭称ではないと思うぞ』

「考えておく」

『色の良い答えを期待する』



 翌朝。月理は、家の鍵を開け、中に入る。薄く安っぽいスチール製のドアが閉まる音を聞いた。まるで、恐怖に彩られた断末魔のように不快な音がする。

 靴を脱ぎすて寝室へと向かった。月理は一人暮らしだが、寝室と居間は別である。

 アームウォーマーと、長いワンピースのようになった袖なしのパーカーを脱ぎながら寝室へと入った。タンクトップにショートパンツという格好でベッドに身を放る。横になりながら器用にニーソックスを脱いだ。

「毎日毎日、胸糞悪いね」

 ベッドと机だけが置かれた、簡素な部屋でベッドに体を預けながら、月理は嘯いた。机の上には多くの洋書が置かれている。それらは、英語ではない。

 閑静な土地に立つこのマンションは、安っぽい作りの割りに静かだった。さらに、今は昼間。普通の人たちはみな留守にしている時間帯だ。それが、まるで、死の中にいるような静けさをもたらしていた。

『それが、そなたの選んだ正義の形だっただろう?』

 頭の中に、アンドロマリウスの落ち着いた紳士を思わせる上品な声が響く。

 ごろんと上を向いて、右手をかざす。そして、そこに嵌められている蛇が己の尻尾を飲み込んでいる形の指輪を見つめる。

「あたしの選んだ正義の形、ね。もうそう言うことになってるのか?」

 その右手で、ボーイッシュに短く整えられた黒髪をかき上げる。昨日の話か。「正義」を行おうとしているが、それも人から見れば「悪」に見えるかもしれない。そういうふうな見え方をしても良いと選んだのは確かに月理自身だ。

「だけど、クソ野郎どもはなんで一向に減る気配がないんだろう」

『簡単なこと。人間が生きてるからだ。人間は二人いれば、すぐに優劣を決めたがる。効率的に相手を上回りたいなら、汚い手が早くて楽だ。怠惰と強欲は大罪のうちの二つだ』

「知ってるよ。怠惰、強欲、嫉妬、傲慢、暴食、憤怒、色欲の七つだろ」

『勉強しているな。良いことだ。それらが雄弁に語っておろう』

「まったくうまく言ったもんだ。そして、あの古典ができた二千年以上前から人間たちは変わっていないということだな。全く救い難い」

『ふふふ、いかにもそなたらしい。そう言いながら、人間が好きでたまらないのだろう?』

 月理は、詰まらなさそうに顔をしかめる。

「ふん、それを言うならおまえの方がそういう風に見える」

『ダメな子ほどかわいいではないか。それに、俺はそなたみたいに足掻く人間の尽力、徒労が好きでな。最高に心躍る』

「昨日も聞いたよ」

『では、もう一度言おう。そなたの趣味は確かに良い』

 アンドロマリウスは、くくっと忍び笑いを同時に漏らしながら、しかし心底感心した口調だった。

「当然……あふ」

 月理は大きくあくびを一つした。夕べは男を追い回して一睡もしていない。いくら若く、体力に自信があるといっても限界だった。それに、薬の副作用もある。体が軋んでいる。

『もう寝ろ。また後で会おう』

「学校、どうしようか」

『今日は、あの娘が迎えに来ないのだろう? ならば体の調子を一番に考えろ』

「おいおい、『正義の伯爵』様がサボりを勧めていいのかよ?」

『確かに、行った方がいいと思うが、おまえが無理をするようでは困るからな』

「あたしの体に寄生してるからやっぱりそこら辺は必要悪?」

『違う。世の中正しいことだけで構成されてなどいない。ならば、我々は相手にする悪を選ばなくてはならない。そのための閾値に達していない問題というだけだ』

「けっ、やっぱり悪魔だな。〔正義を選ぶ〕なんてさ」

『当然だろう? 正義は究極の強欲。俺もさもありなん』

 そうか、それで正義の味方を勧めてきたのか。月理は、返事もせずに眠りに落ちていった。

 

 

 その日の夕刻。月理は、玄関で鳴らされるチャイムの音で、再び世界と繋がった。ぱちりと目を開けると、寝起きとは思えない機敏さで、ドアへと向かう。ドアスコープを覗くと、そこには見慣れた少女が立っていた。愛梨だ。

 月理はその姿を見て、すぐさまドアを開けた。学校帰りの途中で寄ったのだろう、制服姿だ。

「どうした、アイリ?」

 玄関から、短い廊下を通る間に何度目になるかわからない問いを質した。

「どうしたじゃないよ、つぐりん。また今日も学校に来なかったでしょ」

 見た目が、かわいらしい愛梨は、怒り方もまたかわいかった。頬を膨らませて、ぷりぷりと怒る。

「なあ、アイリ。つぐりんはやめないか?」

 これもまた繰り返された会話だった。愛梨は、月理をつぐりんと呼ぶ。自分には少々可愛すぎるあだ名のような気がして照れくさい。

「今は、そういう話をしてません」

 小柄な月理に対して、平均身長の愛梨は胸を張ってそう言った。時々、月理はその身長差以上にある胸の差に羨望を持つことがあった。それを、冗談のネタにすることもしばしばである。

「いやあ、アイリほど成長してなくて、体力が小学生程度しないから休憩が必要なんだ。身長とか、胸とか」

 わざとらしく胸を触って落胆をしてみせる。

「も、もうだまされないもん。それが、冗談なのはわかってるんだから」

 そう言った愛梨は騙されていたときがあったのだ。生まれつき左目が見えない月理は、それをコンプレックスに感じていたときがあり、その苦悩を知っている愛梨はこの手の冗談に弱かった。だが、騙す方も、愛梨が本当に騙されていると知ると、バツが悪くなっていつも自分から謝ってしまう。月理にとって愛梨とはそういう存在だった。

「ちぇー」

 月理は、口を尖らせた。

 愛梨は、居間に当たる部分に無造作に置かれたテーブルの椅子を引き、なれた動作でそれに腰掛ける。

 月理は、電気ポッドからお湯を注ぎ、コーヒーを二つ持って席についた。

「ありがと」

 それを笑顔で受け取る愛梨。幸せそうに愛梨はコーヒーを啜った。

「で。なんかやばいことでもあったの?」

 半ば突っ込みのような心境で、月理は幸せそうな愛梨に聞いた。

「そうなの、つぐりん。マジでやばいよ。担任の佐伯先生が出席日数を数え始めてたんだから」

「あー、大丈夫だろ。まだ余裕はある……ハズ」

 ぼりぼりと頭をかきながらそんなことを言った。

「それと! せっかく一緒のクラスになったのに、学校来ないから私が寂しい」

 少し涙目になる愛梨。それはいつものことのようで、常に月理を慌てさせる。性格上、愛梨は狙ってやっているわけではない。今回も、本当に寂しいのだろう。

「わ、わかった。わかったから、泣かんでくれ、アイリ。明日は学校に行くから、な?」

「本当? 約束だよ? 明日は迎えに来るからね」

 愛梨の表情が一気に明るさを取り戻す。

「あんまり早くはカンベンな」

「うん。わかってる。いっぱい寝てていいよ。大きくなーれ大きくなーれ」

 愛梨はまるで魔法使いのように、手をかざし呪文を唱える。

「怒るぞ、それ」

「えー、ふざけてないよ」

 愛梨の目はどこまでも真剣な色を湛えていた。月理は、大きなため息をついた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る