白い月と二個のボノボン

皇帝栄ちゃん

白い月と二個のボノボン

 夢水月香織は窮乏していた。なんといっても小遣いが足りないのだ。

 香織は十六歳の女子高生である。通称かおりん。身長百五十五センチ、黒髪おかっぱ、濃灰色のブレザーとプリーツスカート、紺色のソックス、黒のローファー。明朗快活でノリのいい、どこにでもいる普通の少女である。この普通というのが謙遜でも誇張でもなく、金太郎飴をいくら切っても同じ顔しか出てこない程度に、大衆庶民一般という名称の御大層な血統書をつけて、これでぐうの音も出まいと太鼓判を押しても、さて立派におつりがくる凡俗さなのだった。

 下校中の香織が憂鬱な面持ちをあげると、左下のほうがうっすら欠けた白い月が青空に溶けこんでいた。気づく人は気づくだろうぼんやり加減であった。彼女がそれをはじめて目にしたのは物心ついた時分だが、やがて小学校高学年になってはっきり意識したときには、異世界への門を発見したように思えて心沸き立った。月というのは、黄色く光る、夜中にだけ現れるものと認識していたのである。

 高校一年になった今もまだ、白い月には別世界との境界を感じてやまぬのだが、それも今日ばかりは哀愁の気鬱を感じずにはいられなかった。今日でなくとも、昨日だろうと一昨日だろうと同じことだった。残り小遣いが足りないのだ。先月ふと『B級グルメ探検発見ラーメン屋めぐり』を思い立ち、親友のライヒ・パステルツェを無理に誘って一週間強行した結果、舌と腹はずいぶん満足したものだが、その代償は深刻な窮乏であった。今月の小遣いまではもうしばらく日数を要する状況だった。前借りはできない家風だ。高校を卒業するまでアルバイトをする気はなく、友人面々にも金の無心はしない心構えでいるため、さすがにそんな自分の妙なプライドも自嘲めいて思われた。

 百円均一のコンビニで百円のお菓子を眺め、財布に残る金銭と相談し、ため息を吐いて立ち去った。スーパーの特売コーナーで六十九円のスナック菓子を眺め、鳶色の目をじっと細め、遠視まがいの凝視で眉根を寄せた挙句、ふいと駄菓子の棚に顔を向け、二十二円のボノボンを二つ取ってレジへ足を運んだ。ボノボンは値段のわりにボリュームのある丸型チョコレートで、まろやかなチョコクリームと、チョココーティングされたさくさくのウエハースを同時に味わえる、コストパフォーマンスの高さが魅力だった。

 スーパーを出たところで、香織はがっくりとうなだれた。「あたしはなんて不幸なんだろう」とつぶやいた。百円以下のお菓子を買うことすら躊躇してしまう憂いが、十六歳の少女の青春に陰鬱な翳を落としていた。平凡なふくらみ具合の胸の奥がにわかに熱を帯びてきて、きっと唇を結んで走り出した。商店街を駆け抜け、住宅街のアスファルトにうら若き足音を残し、夢水月家の門をくぐると一目散に二階の自室へ飛び込んだ。

 デフォルメされた大山椒魚のスリッパで六畳間をうろうろしながら、フローリングに敷かれた水玉模様のカーペットにひざをついた。文楽人形の検非違使さながらの顔つきで押入れをにらみつけた。

「お金がなければ、つくればいいじゃない!」

 マリー・アントワネットの「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」という有名な言葉が、香織の脳内で、ネット音声のゆっくりボイスで再生された。以前その言葉の意味を傲慢なものと捉えて、これだから世間知らずのお嬢様は、などとひとくさり愚痴ったところ、愚痴を聞かされたライヒの目が据わり、お菓子がブリオッシュという菓子パンであることを踏まえ、マリー・アントワネットのものとされるあの発言を傲慢とみなすのは短絡思考による誤解であると、その理由を耳が痛くなるほど説明されて逃げ出したくなった出来事を思い出した。ライヒは十歳の少女ながら頭脳明晰で、なによりオーストリアの名家の令嬢であるからには、なるほど不愉快になるのも無理はないと察せられるのだ。

「あのときはほんと、まいったね。ライヒちゃんの機嫌を損ねないよう気をつけなくちゃ」

 苦笑しつつ押入れを覗いた香織が、何か売るものはないかとダンボール箱を漁ったところ、数年前に買って一度聴いただけのCDを発見した。当時見ていたアニメのヒロイン声優の初アルバムだった。他に何かないかと目をやったが、普段は見向きもしないのに、いざ処分しようと思うと勿体ない気持ちがむくむく湧いてくるのが無性に悲しかった。夕飯の買出しに行くという母親に、近所にある専門店でCDを買い取ってもらってくれるよう頼んだ。母親は面倒くさそうな顔をしたが、一人娘のいかにものっぴきならない低頭ぶりがいっそ哀れで、ついでの用事と引き受けた。

 夕暮れ時に母親が帰ってきた。どうせ安いだろうと期待していなかったが、プレミアがついていたらしく、五千円と存外高く売れた。香織は小躍りして樋口一葉を拝んだ。鼻歌まじりで部屋に戻ると、机の上に放置していた二個のボノボンに気がついた。食べてみるといつも以上に美味しく感じて幸せだった。


 翌日の放課後、百円の回転寿司に足を運んで十皿食べた。帰りにまた白い月を見た。そこに哀愁など微塵も感じられず、夢幻のユートピアへの躍動にみちみちていた。香織は白い月へ右手を伸ばし、気分爽快の笑顔を浮かべた。

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