第6話
「ヘレネさん! ヘレネさんはいずこ!?」
「お兄様。そんなに急がなくても、ヘレネさんは逃げはしませんよ」
「いえ、姉様。ヘレネさんは追うと逃げるタイプだと思いますけど」
ジュランダ山の麓に広がる樹海の中、王家三兄妹、否、王子ティエンは草木を分けて薄暗い森の中を行進していた。
大学に通うときの服装とは違い、三者三様に戦向けのコスチュームに身を包んでいる。
三兄妹はそれぞれ剣士・魔導師・神官としての教育を受けていて、ティアラは堅そうな樫の木による大きな杖を手に、黒を基調にした全身を覆うコート。ただしフードは外して可愛い素顔をさらけ出している。
フィルリアは教会のときと同じ神官服。手にはティアラと同じく長い杖を握っているが、こちらは金属製の錫杖である。
そしてティエンは、金属製のブレストプレートに幅広の大剣。半端に伸ばした髪の暗めのハンサムにはまた似合わないコスチュームだ。
三兄妹に共通するのは、胸のあたりにアルマフレア王国の紋章が刻まれていること。王族であることを証明する印だ。
そして後ろに続く無数の兵士達。王子・王女の親衛隊が総勢約一〇〇〇名、足並みをそろえて随行している。
「ああ、気弱で内向的でネガティブで鈍行な僕にはヘレネさんの力が必要だというのに……」
木の幹に「の」の字を書きながら、ティエンがぶつぶつ何かをつぶやいている。
三日前、ティアラは親衛隊隊長のデュークから、レインがヘレネとともに魔王宮殿へ向かう旨を聞いた。そのとき居合わせたフィルリアも、ヘレネが聖水を欲したのはそのためかと気づいた。
そして、ボケの練習をしていて誰も突っ込んでくれないので部屋の隅でいじけていたティエンにもその会話が伝わり、急遽ヘレネの後を追うことになった。親衛隊が同行するにしてもティエンだけでは危なっかしくて仕方ないので、妹たちも同行した次第だ。
「お兄様、ご自分をそんなに卑下にするのは良くないと思います」
「魔王なんかにヘレネさんをむざむざと殺させるものか! 者ども、ゆくぞ!」
妹の気遣いを聞き流し、ティエンのテンションがいきなり変わった。腕を振り、兵士達の反応など待たずに颯爽と茂みの奥へ駆けだした。
がさがさがしゃああぁぁ!
「あ、その先は崖になってますが」
「姉様。そういうことは落ちる前に言わないと」
二人の妹は、崖の下へ転落していったティエンに、さしてあわてる風でもなくそう言った。聞こえてはいないだろうが。
兵士達はさすがにどよめき、連携を取って王子の救出に向かった。
「まったく、王子の躁鬱ぶりには毎度手を焼かされますな」
しばらくし、デュークが王子に肩を貸して、茂みの奥から戻ってきた。ほこりと擦り傷だらけのティエンはぐるぐる目を回していたが、突如真顔を取り戻す。
「とまあこのように、ヘレネさんの的確かつ鋭いツッコミがないと、僕はうかつにボケることもできないのだよ。ティアラのツッコミは遅いし、フィルリアは故意にツッコミ入れないし」
「あら、残念です。私では役不足ですか」
あまり残念そうになく、ティアラはおっとりと言う。その隣ではフィルリアがあさっての方を向いて舌を出していた。
*
ヘレネは少々混乱していた。
目の前にいるのは、カーナ。自前の治療院を持つ治療師で、週に一・二度通院していたから彼女をよく知っている。彼女もヘレネの難儀な体質をよく理解し、親身になって相談に乗ってくれた。
治療師になるには魔導師と治療師の二つの免許が必要だとか、そのために大学に通い、王族と顔見知りになるとも聞いた。
そのカーナが神族の衣装を身にまとい、これまでに出会ってきた女神達を後ろに従えている。
ヘレネは混乱した頭で必死にこれまでの経緯を思い返す。
難儀なこの体質を治すために冒険を重ね、秘薬エリクサーなら治せるかもしれないという結論に達した。エリクサーを手に入れるために、錬金術の研究をしているという賢者クーマ氏を訪ね、そこで風神ジーナに出会う。
ジーナは彼女に言った。我々は、あなたの力を必要としている。そのために魔王宮殿まで来てほしい。そこでエリクサーの材料である賢者の石が手に入る、と。
「なんでカーナさんがここにいるんですか? てゆーか神様? あたしになにをさせようって言うんですか? それと賢者の石はどこに?」
一気にまくし立てるヘレネに、カーナは少々鼻白んだ。
「まあ落ち着いて。順を追って説明してあげるから。まずは神話の時代までさかのぼらなくちゃいけないけど……」
神話の時代って、何千年何万年も昔じゃなかったっけ? そこから順を追ってって、いつまでかかる話だ?
「そんな長話を聞いてる時間なんてありません。目的を教えてください」
彼女は少し考え込んだが、ヘレネの要求通り目的から答えた。
その表情は、いたって真摯なものだった。
「そうね、あなたにはこれからあたし達と戦ってほしいの。全力でね」
*
込み入った樹海を、開けた荒野のように軽快に行き進む老人がいる。小柄な身体と折れ曲がった腰とは対照的に、まっすぐ大きな樫の杖をしわだらけの手で力強く握りしめている。杖は歩行の補助のための物ではない。大股に歩くその速度は、普通の人よりもずっと速い。
ヘレネを追って樹海を突き進んでいた老人、賢者クーマは開けた景色に足を止めた。崖にも近い段差があったためだ。斜め下方、まだ距離はあるが、半壊した遺跡、魔王宮殿が視界に入るところまで来ていた。
並の冒険者なら別の道を探して下へ降りなければならないが、クーマは賢者の称号を持つほどの大魔導師である。飛翔の魔法などわけはない。
呪文を唱えようと杖を構えるが、人の気配がしたので詠唱を止めた。
「ふん。五神精は悪神ではないからワシらが動くこともない、とか言っておらなんだか?」
しわがれた声で忌々しく、クーマは振り向くことなく後ろの人物へ吐き捨てた。
見ずともわかる。彼の天敵、コネラートだ。
「ヘレネさんは、私の生徒ですからね。それよりもあなたまでがなぜ?」
メッシュの髪をなでながら、教師コネラートはきまりが悪そうにそう答えた。ふん、とクーマは顔をしかめた。
「それを言うなら、あの娘っこはワシの弟子じゃからの」
「そうそう。彼女は私の娘の友人でもあるしな」
「フィルリア様が気にかけられていましたし、直接の面識はありませんが私としても気になりますので」
コネラートに意識が集中していたせいで、クーマは続けざまの二つの声に意表をつかれた。いかめしい顔があっけに崩れた。
続いて現れた二人。シュラインの町の領主カールと、大神官ワイオニーだ。
ケインをのぞく、七年前の英雄達が勢揃いしてしまった。
「ヘレネさん! ヘレネさんはいずこ!?」
がさがさがしゃああぁぁ!
さらに聞こえてきた青年の声とどたばた劇に、クーマは苦笑いをせずにはいられなかった。
「四大英雄と王族と、一〇〇〇人規模の兵士達ときたか。これだけの人員を望まずしても動かすあの娘、本当に不思議なやつじゃ」
*
いくら真顔で言われようが、いきなり「戦ってくれ」ではこう答えるしかない。
「な、なんでそんなことをしなきゃいけないんですか。理由も聞かずにそんなことできません!」
「だからその理由を説明しようとしてたんじゃない。それをいきなり目的から言えっていうから」
カーナの声が半音下がったが、気の急いているヘレネはまるでひるまない。
「ええい、とにかく、要点をまとめて手短にわかりやすく話してください。余りよけいな時間は食いたくないんです!」
カーナはひたいに手を当てて
「ああ、もう、注文の多い子ねえ。……まあいいわ。そうね、五王神については知ってるわよね?」
ヘレネはひとつ深呼吸をした。公開教室で習ったことを思い出すために、気を落ち着かせることにしたのだ。ところどころ虫食い穴が開いたように忘れてしまっていて少し悲しくなったが、なんとか一文にまとめてみる。
「えーと、アルマフレア神話における最高神で、この世界の造物主……だったかな?」
「ヘレネさん、端折りすぎですことよ。頭を振ればカラコロ鳴りそうなほどに脳が小さいことですわね」
冷淡に、レイコがしゃしゃり出てきた。さながら講師のように、張りのある声で語り始めた。
「世界は最初、灼熱の炎に包まれていました。
この大地に最初に降り立ったのが、夫婦神、明王エルミタージュと冥王レニングラードです。
灼熱の世界、これを嘆いた夫婦神は、まずは界王シフォンを産み落としました。
界王は世界に大雨を降らせて炎を消し、海を作り上げました。
夫婦は続いて魔王コスミックと覇王カルミアを産みました。
大地をコスミックに、天空をカルミアに与え、シフォンは世界の統治者となりました」
「その後、五王神は
王家と遠縁にあるというタカマガハラ家のレイコはともかく、レインまでもが妙に神話に詳しかった。なんかヘレネはすごく悲しくなってしまった。
カーナが
「その通り。公開教室等では、確かにそう習うわね。
まあ実際のところ、五王神はこの惑星の生態系を調査しに来た異星出身の科学者なんだけどね。
知的生命がいないなどの、神族が移住するに適した環境であることを確認して、その功績から彼らは神としてまつられるようになったのよ」
さて、とカーナは一同を見渡し、教師のような顔を見せた。(ヘレネにとって)難しい話が、さらに難しくなりそうな予感がした。
「人間には神とあがめられている神族だけど、その五王神を含めて、生態的には人間とほとんど変わらないのよ。では、どこが違うかわかる?」
深く考えるほどのことでもない。ヘレネはすぐに答えた。
「寿命と、魔法などの特殊能力、かな」
「そう。けどね、あたしたち五神精はちょっと特殊でね。
彼女たちは、作られる際に五王神の属性を受けた。属性とは遺伝子のようなもので、それが五王神の娘たるゆえんだという。
「みんなも知っての通り、現在のアルマフレア世界に、神族はほとんどいないわ。
コスミックにより、世界を創造する技術が確立されたためよ。
無の海の中で明滅する極微の宇宙にインフレーションとビッグバンを発生させる理論。
神話にある通り、界王シフォンからアルマフレア一世に統治権をゆだねられ、神族は去っていったけど、一部の物好きはこの世界に残ったわ。
そして、あたしたちはこの世界を見守るよう、五王神から命を受けた……人間にゆだねたこの世界の行く末を見届けたかったんでしょうね」
彼女は自分の世界に入ってしまったのか、朗々と話をしている。話の大半は難しくて理解しがたい物だったが、ヘレネは黙って聞いていた。
不意に、何を思いだしたのか、カーナは綺麗な顔をわずかにゆがめた。
「人間の時代になり、二六〇〇年あまり。あたしたちは母さんたちと定期的に連絡を取り合ってきたわ。……その連絡が途絶えたのは、何百年前になるかしら」
ヘレネは視界が急に開けたような錯覚を覚えた。今までの話に何の意味があったろう。今のセリフにこそ、彼女の真意が込められていた。
カーナは、ヘレネを強く見つめた。敵対的ににらみつけるのとは違う、真摯な瞳。
「もうわかるわよね? あたしたちの目的、それは魔王をこの世界へ呼び戻すこと。そしてそのために、異界へ通じる扉を開くこと。
方法は、理屈としては単純よ。時空に穴が開くほどの高密度のエネルギーを発生させればいい。数値的には……そうね、時空ねじれの儀式の約四倍。
「あたしにそんな力はない!」
たまらず、ヘレネは叫んだ。時空ねじれの儀式の四倍? あれは、国のトップクラスの魔導師が何十人と集まってやる儀式ではないか!
しかし、カーナは冷淡に言い返した。
「いいえ、あるわ。あたしも最初は疑惑だったわ。けど、水神祭や大学での一件を見ていくうちに、それは確信に変わった。あなたには想像を絶する力があるの」
カーナは右手を前へ差し出した。その手のひらに光がともる。
緊迫が走る。ヘレネは後ずさり、ここまで黙って聞いていた男たちがヘレネを守るように身構えた。
しかし、彼女の手から現れたのは一冊の本。攻撃ではなかった。
華美に装飾された一冊の魔導書だった。
静かに、彼女は言った。
「アルマフレア三大禁呪がひとつ、
カーナはその魔導書をヘレネへ投げ渡した。後ろに控えていた妹神たちが一歩前へ出る。五神精は横一文字に並んだ。
「それじゃあ、始めましょう。魔王をこの世界へ呼び戻すために!」
「おお、カール様にワイオニー様、コネラート様にクーマ様も。このようなところで、奇遇です」
「目的地が同じなら、奇遇も何もないと思いますけど」
ティエンの少々場違いな挨拶は、フィルリアのぴしゃりとしたツッコミでさえぎられた。
王子ティエン率いる親衛隊と、かつての英雄たちが先ほど合流したところだ。
「あなた達がともにきてくだされば大変心強い。さあ行きましょう! 僕にはヘレネさんになんとしても伝えなければならないことがあるんです」
「まあお兄様、ヘレネさんについにプロポーズでも?」
口を丸くして問う妹に、ティエンはにやりとした笑みだけを返して見せた。
と、兵士たちが急にざわめき始めた。
「なんだ?」
「急に暗く……」
わずかな光源となっている木々の隙間からの木漏れ日が極端に少なくなってきている。元から暗い樹海が、ほとんど夜のようだ。
「おい、あれ!」
声を上げたのは兵士の誰だったか。見上げると、そこにあるべきはずの太陽に異変が起こっていた。
みるみる光が弱くなり、肉眼でも太陽が月のように細くなっていくのがわかる。そして一瞬光は全て消え、やがて鮮やかな青白い光の冠を携えた黒い太陽となった。
これは、皆既日食だ。
「クーマ様、これはいったい……?」
王子が不安げに賢者に聞いた。クーマはいかつい顔をさらにゆがめ、コロナを取り巻く太陽を見上げていた。
「ワシにもわからん。今日は確かに新月ではあるが……日食にはならないはずじゃ」
「クーマさん、感じませんか? 魔王宮殿からです」
「……!」
コネラートの指摘に、クーマは気づいた。
途方もない魔力が、魔王宮殿から流れてきている。
「月の軌道をずらすほどの魔力……いったいあそこで何が起こっているというのじゃ!?」
「どうしたのヘレネちゃん! 逃げ回ってないでその魔法を唱えなさい!」
五神精はそれぞれ軽快に動き、ヘレネたちを軽くこづき回っている。ヘレネは身構え、かがみ、そして走って逃げもするが、しょせんは魔法使い見習いの一般人。攻撃のことごとくをまともに受けている。
しかし、ダメージはほとんど無い。彼女たちの目的はヘレネに呪文を唱えさせることにある。倒すことではないからだ。
「ぅおのれ、乙女にひどい仕打ちを。このアスタリスクが成敗してくれる!」
正義のマントをはためかせ、アスタリスクがヘレネを守るように立ちはだかった。
腰を落とし、右手を前に、左手を右の二の腕に、左足を後ろへ滑らせながら、右手は弧を描く。
訳のわからないポーズを決めながら、今までにない気合いを入れていた。なんだか背中に炎を宿しているようだった。
「今こそ我が真の力を見せるとき! へん~~しん!」
「とおっ!」
どぎゃあんっ! アスタリスクの側頭部に、巨漢ハイフンの
「貴様、いきなりなにをするか!」
「今の見せ場はお前じゃない! ヘレネちゃん、俺の活躍を見ていてくれ!」
「脇役はすっこんでろ!」
アスタリスクとハイフンのとっくみあいの中、コロンは冷め切っていた。
「あたしはほとんど部外者だからねえ。見学させてもらうよ」
「姉ちゃん、それは違うぞ。悪として! 売られた喧嘩は買わねばならぬはず! そういうわけで俺も行くぞぉ!」
「そっちかい!?」
アスタリスク対ハイフンに割って入るチルダに、コロンが叫んだ。
「
「のひょおおぉぉ!?」
どっごぉん! カーナの撃った地を這う衝撃波が、アホどもをまとめて吹っ飛ばした。
カーナはいらいらしているようだった。目つき鋭くヘレネをにらみつけた。
「そろそろこのぐらいの本気を出すわよ。死にたくなかったら呪文を唱えなさい!」
「いやよ!」
負けじとヘレネは言い返した。
「あたしにはあなた達と戦う理由はないもの」
「理由? あるじゃない」
カーナは懐からひとつの石を取り出した。いや、石というよりは宝石だ。薄暗い、この魔王宮殿前の広場で、それは輝いているようにも見えた。
「万物の根元、アルカエスト。他の全ての物質は、アルカエストが『完全性』を落として変化したものとされる。
そのアルカエストを、錬金術師達はこう呼ぶ。すなわち『賢者の石』と」
教師のように、カーナは語る。宝石は不意にまばゆい光を放ち、小瓶に姿を変えた。小瓶の中には透明な液体が入っていた。
「そして、
これが成功報酬よ。ヘレネちゃん、あなたはこれをノドから手が出るほどに欲しがってたわよね?」
エリクサー。ヘレネのこの旅の最終目的である。正直、ヘレネは迷った。この手に握られた魔導書を唱えればいいだけだ。しかしそれは、魔王を復活させることに他ならない。
「でも、やっぱり魔王を復活させるなんて……」
「ヘレネちゃん」
カーナは言った。
「あなたならわかるでしょう? 親に会いたいという、あたし達の気持ちが!」
気持ちがぐらついていた。魔王といえども、彼女たちの母親だ。
両親を失ったヘレネには、彼女たちの気持ちは痛いほどよくわかる。
めまいを起こしそうなほどに悩んでいると、アスタリスクがぽんとヘレネの肩をたたいた。マスク越しで表情はわからないが、妙に悟ったふうであった。
「乙女よ、同じ正義の味方としてあなたの葛藤、よくわかりますぞ!」
「あたしは正義の味方じゃなぁい!」
「ようこそ悪の世界へ!」
「それも違う!」
両手を広げて歓迎する三悪人に、びしっとヘレネは突っ込んだ。
ヘレネはひとつ息を吐いた。まったくアホウな連中だが、血の上ったヘレネの頭を冷まさせる役には立った。
レインへ向き、ヘレネは聞いた。
「魔王は良い人なの?」
「悪い人なわけないじゃない!」
「あなた達はそう答えるに決まってるからレインに聞いてるのよ!」
ぴしゃりと言い伏せるヘレネに、五神精は押し黙ざるをえなかった。
レインは少し考えていたようだ。だが相変わらず落ち着いた調子で、ヘレネのように取り乱してはいない。
「うーん、神話では『良い人』を印象づけるような話はあまり無いかな。どちらかというと、魔王の力の強大さを強調した話が多いね。たとえば覇王カルミアとの戦争では、魔王の斬撃が大陸を裂き、アルマフレア列島を作ったとされてるし。魔王にたてつく竜族一〇万の軍勢を七時間で殲滅させたという、通称七時間戦争の逸話もあるね」
カーナの声は少しうわずっていた。
「そ、その伝説に嘘はないし、世界創造の実験の際にいくつかの世界を消滅させたこともあるけど、母さんはちゃんと良識のある人よ」
世界が消滅する?
この一文は声に出ていたのだろうか。焦ってカーナが手を横に振った。
「違う! 母さんには確かにそれだけの力がある。けど、理由もなくそんなことはしない!」
ある意味カーナは正直者だ。だがその台詞が、彼女の目的には逆効果だった。ヘレネは頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「やっぱりだめ! あたしはあなた達と戦わないし戦えないし戦いたくない!」
魔王復活の手助けなんかできない。がんとして、ヘレネは受け付けなかった。
カーナは悲しそうだった。涙を流してさえいた。だが、その声はひどく冷徹なものになっていった。
「仕方ないわね。これだけはしたくなかったけど……。ヘレネちゃん」
呼ばれ、ヘレネは顔を上げた。カーナはヘレネを指さしていた。
「あなたを追い込む」
その指先に光がともる。戦慄がヘレネの背中を泡立てた。
地神カーナから放たれた一条の光線は、しかしヘレネの脇をかすめただけだった。
……どうっ。
鈍い音。振り返ったヘレネの思考が止まる。
「レイン様! いやぁぁ!」
レイコの叫び声は、ヘレネの耳には届かなかった。
レインが倒れていた。
自分だけ世界から切り離されたような気分だった。演劇でも見ているようだ。頭がぐらぐらして、考えがまとまらない。
レインが殺されたという目の前の事実だけが、ヘレネを浸食していった。
「何考えてるんだ!」
火神ターナが姉神にかみついた。
「母さんがいつも言ってたろ。どんな目的だろうと、人を殺めていい道理なんてないって! そりゃあ母さんは言ってることとやってることにしょっちゅう矛盾があるけど、この言葉に嘘偽りは……」
ヘレネを凝視したままのカーナに、ターナは台詞を最後まで続けられなかった。
カーナの額には汗がにじんでいる。
彼女も、必死なのだ。
混乱しているのか、ヘレネは青い顔のままほうけてしまっている。感情を抑えた声で、カーナは彼女へ言った。
「ヘレネちゃん、聞こえる? 彼はまだ死んではいないわよ。けどかなり危険な状態なのも確かね。彼を助けたければ、エリクサーを飲ませるしかない」
ヘレネはカーナに飛びついた。しかしカーナは軽くかわす。手のひらにあったエリクサーは、手を握ると手品のように消えてしまった。
「これでエリクサーは、あたし達を倒して手に入れるしかない。
さあ、どうするのヘレネちゃん! 世界のために仲間を見捨てるのがあなたの正義?」
ヘレネの心は、この魔王宮殿にはなかった。ヘレネは、幼き日の自分を思い返していた。
七年前の戦争、幼き頃の自分。
町の外はろくに整備されてないし、夜には魔物も出るという。ヘレネは幼い足を必死に動かし、アルマフレア城を目指して歩いていた。
戦争が始まった? お父さんお母さんが仕事で行ったお城が襲撃された?
お父さんお母さんが死んだなんて嘘だ。この目で確かめない限り、絶対にそんなの信じない!
荒れた道に転がる石につまずき、転んだ。ひとしきり泣くが、涙と鼻水を振り払ってヘレネは立ち上がった。
「もう帰ろうよ」
男の子の声がした。だがヘレネはその声の方へは向かなかった。
「あんたはもう帰りなさいよ」
おどおどしていた男の子。ヘレネの幼なじみ、レインだ。
レインは不安そうだが、はっきりと言った。
「ヘレネをおいてそんなことできないよ! だって僕は……」
ぼやけていた視界が急に開けた。病み上がりの朝のように、ヘレネの頭はすっきりと晴れ上がっていた。
そうか、あたしは……。
ヘレネは気づいた。レインへの気持ちに。
レインは倒れたまま動かない。レイコが泣きわめいて助け起こそうとするが、下手に動かしては危ないとアルツに羽交い締めにされている。
他の者たちは、どうしたらいいのかわからずにあたふたしているだけだった。
レインはいつもヘレネのそばにいた。
七年前の時だって、今回だって、当たり前のようについてきた。
そのレインが死ぬ? いなくなる? あたしのこの傍らから、消え去る?
冗談じゃない!
ヘレネは立ち上がった。
「やる気になった?」
少々わざとらしく、カーナは不敵に言った。しかしその顔に驚きの色が混じる。
雰囲気が変わった。ヘレネに迷いはない。瞳に宿るは決意の光。
静かに、ヘレネは言った。
「あたし、レインが好きよ」
あたりが静まりかえった。ヘレネは魔導書を両手で持ち、前へ構える。
「だから、レインの命……あなた達なんかに奪わせない!」
魔導書が輝きだした。ヘレネは勢いよくその魔導書を開く!
そして、世界が消えた。
一瞬だれもがそう思った。
何も見えない。何も聞こえない。いきなり音が無くなれば耳鳴りのひとつもしそうなものだが、それすらも感じない。
ヘレネは魔法に失敗した。誰もがそう思った。彼女は誰よりも魔法を失敗する魔法使いじゃないか!
パニックを起こしたのかそれとも全てをあきらめたのか。そんな中、この無の世界にわずかな変化があることに気づいた。
完全な闇ではない。完全な無ではない。ほんの少しだが、闇は揺らいでいた。
鼓動のような、ゆりかごのような落ち着いた揺らぎ。
恐怖の中の安堵。不安の中の安らぎ。暗闇の中の光明。絶望の中の希望。
いや、もっと根本的な何かがすべてを包括しているような感じ。
「これは、始まりの混沌?」
最初に声を上げたのはカーナだろう。声につられるように、闇の中に五人の女性、五神精が姿を取り戻した。
「始まりの混沌ってなになの?」
風神ジーナの問いに、カーナは答えた。
「神族にとっても神話となるべき時代の話よ。
世界ははじめ、混沌に包まれていた。
その混沌を晴れ上がらせたのが、
ターナはいらだっているようだった。
「だからなんでそんなものが、ここに再現されるわけ?」
「落ち着いて。これは一種の幻影よ」
「落ち着いていられるかい! 幻影だとしても、あたいたちにそんな物を見せるなんて、いやそれ以前になんであの小娘にあたいたちも知らない時代を見せることが……!」
叫ぶ途中でターナは気づいた。
「まさか、あの小娘……」
ヘレネもまた、姿を取り戻していた。いや、最初から消えてなどいなかった。今もなお、朗々と魔導書を読み続けていた。
「ヘレネちゃんが『始まりの混沌』を知っているとは思えないけど……」
その時代を知っている者とのつながりがあるという可能性。そしてその『つながり』が覚醒しつつあるという可能性。
すべては可能性でしかない。だが──
カーナは嬉しそうに声を荒らげた。
「まったくあなたって子は、あたしの想像のことごとく先を行ってくれるわね!」
カーナはヘレネを誤診した。
最初は、ヘレネの体質は魔法の失敗によるホルモン異常だと診察した。だが、仮にも神族である自分が彼女の体質に引っかかるはずなどないではないか。
それで、次は召喚士であるという仮説だ。しかしこれも違うようだった。人間としては、魔力が桁外れすぎた。
カーナは、ヘレネは神族であると考えた。だがその説も完全ではなかった。彼女はもっと奥深く、彼女はもっと根源に関わるというのか!
「けど、ヘレネちゃん。あなたが何者であろうとも、その魔法は簡単には発動できないわよ。あなたに、仲間を統率できるだけの
挑戦的に、カーナは言う。その声はヘレネにも聞こえていた。
魔導書を読み進めるうち、その全貌がわかってきた。この魔法はヘレネ個人の力だけでは完成しない。
仲間四人の心を一致させて初めて発動するのだ。
ヘレネはそのための方法を思いついていたが、なかなか踏ん切りがつかなかった。その間にも呪文は唱え続けている。迷っている時間はない。
男たちは、ようやく我を取り戻したところだった。闇の中に浮かび上がったヘレネの姿は、世界の終わりに現れた女神然としていた。
「う、美しい……」
「お持ち帰りしたい……」
「貴様あぁー! 美しき乙女に対して、なんたる不埒な考えを!」
「なにおう! 美女を独り占めしたいというのは男してまっとうな欲望ではないか!」
「彼女を愚弄する者はこのアスタリスクが許さん!」
「悪として参加するぞ!」
「お嬢様お許しください! あるじに仕える身でありながらこのアルツ、ヘレネ殿に恋をしてしまいました!」
アスタリスク・ハイフン・チルダ・アルツと、おのおの自分勝手なことを言いまくり、勝手し放題である。
そんな野郎どもへ、ヘレネは大きな声をかけた。
「みんな、こっちを見て!」
今度は時間が止まった。
振り向いた男どもの視界に入ったヘレネの姿。
上着を脱ぎ捨て、下着姿だった。白いブラとパンツが目にまぶしい。
あ、ちなみにカメラアングルは後ろからなので念のため。
四人の野郎どもが硬直して、しばし。
どぉんっ!
激しい地鳴り。音が戻り闇が消え、世界が完全に姿を取り戻した。
ヘレネは見事、仲間の心を一致させた。いや、変態どものスケベ心をがっちり掌握したと言うべきか。
ヘレネを中心、四人を各頂点として斜め倒しの光の立方体が発生する。
「ヘレネちゃん好っきじゃあああぁぁぁ!」
各頂点から、四人が一斉にヘレネに飛びかかった。
うぉあぁ!
光が急激にふくれあがる。変態どもはその光圧で空高く吹き飛ばされた。
「やっぱりこうなるのねえええぇぇぇ!」
カーナは額に手を当てて、哄笑をあげていた。
「見事よ、ヘレネちゃん! まったく、あなたらしいやり方だわ。こうまで見事に仲間の心を一致させるなんてね!」
腹を抱えんがばかりに笑っていたカーナが、ふと真顔を取り戻した。妹神たちも表情を引き締める。
光が収まると、変貌を遂げたヘレネがいた。
下着というよりは、白い水着姿。
少し背が伸びただろうか? 一四歳のあどけなさはなかった。大人びたりりしい顔立ち。
一番の変化は、背に生えた大きく真っ白な翼。
その、まさに天使のような姿は、この場にいた全ての者を陶酔させた。
ヘレネは構えをとった。途端にカーナが我を取り戻す。
「みんな、おなかに力を込めていくわよ。ちょっとでも気を抜いたら、こっちが消し飛ぶわよ!」
「わかってるよ! あたいだって母さんに会わずに死にたかないからね!」
だがそれは違った。エネルギー密度では
るおおおぉぉぉ!
低い咆哮から甲高い咆哮まで、五神精の雄叫びが重なった。
彼女たちの肢体が輝き、獣形態に姿が変わる。
そして、
獣と化しても、彼女たちの雄叫びはなお続く。その身体が再び輝き出す。
それぞれ、青・銀・金・赤・黒の光の玉となる。
ヘレネは落ち着いていた。いや、すでに人としての意識はないのか。静かに彼女たちの変貌を見つめている。
五つの光がヘレネを取り囲む。
ヘレネは翼をひとつはためかせ、黒い光──カーナへ向かって駈けだした。
その姿は、さながら飛び立つために水面を駆ける白鳥のようだ。
カーナは正面から立ち向かい、ほかの四人はヘレネを取り囲むように襲いかかった。
*
ティエンたち一行は、魔王宮殿を見下ろせる崖の上まできていた。この絶壁を降りれば、ようやくヘレネに合流できる。
魔王宮殿から巨大な光の柱が天へ向かって走っていったのはちょうどそのときのことだ。
「おお……」
兵士たちがざわめく。
雲を突き抜け、光の柱は太陽に向かって昇っていくようにも見えた。
その皆既日食中の太陽がゆがむ。そこに何かとてつもなく恐ろしい物でもあるかのように、太陽が二つに裂けた。
まさに、筆舌に絶するすさまじい光景だった。
「なんということじゃ……」
クーマにはこの現象の意味がわかっていた。
天空のあの場所には巨大な重力源があるのだ。その重力レンズの効果で、ゆがんだ二重の黒太陽と化したのだ。
空間に穴を開けるほどの巨大な重力。
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