第4話

「さて。魔法は大きく分けて、『論理魔法』と『神官魔法』があります。魔法とはそもそも神族の持つ技術で、それを人間が使えるように簡略・形式化したのが論理魔法です。開祖は魔王コスミックといわれています。もちろん私がここで教えているのも論理魔法ですよ。魔法の名を冠してはいますが、一種の技術とも言えますね」

 公開教室は、教会の一室を借りて行われている。しかしヘレネは授業そっちのけで、別の魔導書を一心不乱に読んでいた。

 先日見つけた『サルでもできる錬金術』というタイトルの、錬金術の本。これには万能薬エリクサーの作り方がしるされていた。

 エリクサーは、瀕死の重傷も不治の病すらも治す力を秘めているという。ヘレネの『変なヤツ引き寄せ体質』を治すための有力候補だ。

「これに対する神官魔法ですが……これはその名の通り、主に神官が使う魔法ですね。神族、特に五王神ごおうしんへの信仰を力の源とし、奇跡の現象を起こすわけです」

 静寂に包まれた教室で、初老の魔導師が授業をしている。かつかつと黒板に刻まれる説明を受講者達が黙々と書き写している。中には年配の人もいるが、生徒の大半はヘレネとあまり変わらない年頃の少年少女だ。

 しかしもちろんヘレネには、こういった場景は目に入ってないし聞こえていない。

 あまりにどんぴしゃりな魔導書だったので、フィルリアに頼み込んで貸してもらったのだ。ゆえにこうして公開教室の日も時間を惜しんで必死に読んでいるのだ。

 さて、要約すると、エリクサーの作り方は次の通りである。


1.粉末状にした賢者の石を、超聖水に入れる。

2.三万度に熱した竈に、1を入れる。

3.風神のふいごで魔力風を送り続け、二四時間ほどでできあがり。


「ちょっと待てい!」

 低い声だが、鋭くヘレネは突っ込んだ。

「このように、力の源はそれぞれ違いますが、論理魔法も神官魔法も、出来ることに大きな差はありません……と、ヘレネさん。何か質問ですか?」

 いくら集中していても、自分の名前くらいは聞こえるものである。いきなり呼ばれ、ヘレネはぎくりと身をすくめた。

 ぱたんと本を閉じるが、もう遅い。初老の教師──魔導師コネラートの教鞭が本をぺしぺしと叩いた。

「授業中に別の勉強とは感心しませんね。私の授業はつまらなかったですか?」

 そろそろ六十路の大台に乗ろうかというコネラート教師だが、髪の量はわりと多い。白髪しらがの方が多いかどうかといった色合いで、見ようによってはメッシュで格好良いと言えるかもしれない。小じわが多いが肌つやは良く、年齢のわりに女生徒からの人気が高かったりする。

「い、いえ、そういうわけじゃないんです。ちょっと急ぎで調べたいことがあったんで……」

「ほほほほほ。お金は無くとも時間はありあまっている一般人パンピーがなにをそんなに急いでいらっしゃるのかしら?」

 あまりにもなじみ深い笑い声に、ヘレネは聞こえないようにうめいた。

 今日はどういうわけか、レイコ・タカマガハラも一緒に受講していたりする。彼女は普段は家庭教師を招いて勉強しているはずだ。

「その庶民向けの公開教室に、なんで領主の娘なお嬢様がいらっしゃるんですか?」

 にっこりとこめかみを引きつらせ、ヘレネは応じた。無論、こんな器用な表情を見せたところで彼女には通用しないのだが。

「おーほほほ! 決まってるじゃありませんの。庶民がどんな勉学にいそしんでいるかを知っておくのも、貴族のつとめだからですわ」

 手の甲を口元に、レイコは高らかに笑う。他の生徒達の白眼が一斉放射されていてもお構いなしである。

「それに……ああ、レイン様……今日も素晴らしく格好良いですわ」

 唐突に頬を赤らめ、レイコは窓の外をうっとりと眺め出す。

 外では、剣士志望の若者達が組み討ちの練習をしている。かけ声と木刀のぶつかり合う音が、ここまで聞こえてくる。

 弟子達の中には、レインの姿も見える。少々背が低く華奢な体つきのレインだが、機敏な動きに鋭い踏み込みと、動きの良さでは明らかに群を抜いている。

「こうしてはいられませんわ。レイン様に冷たいお水とタオルを用意いたしませんと!」

 はたと立ち上がり、あわただしくレイコは去っていった。

「なにしに来たんだか……」

 ヘレネのつぶやきはぼそりとしたものだったが、教室中のみんなが大きくうなずき返していた。

 と、この間、コネラート教師はヘレネの魔導書に目を通しているようだった。

 ここまでのどたばたを意に介さずなあたり、ベテランぶりがうかがえる。

「なるほど、錬金術の本ですか。ヘレネさんは錬金術に興味がおありなんですね?」

「あ、はい。エリクサーを作りたいんですけど、なんかむちゃくちゃ書いてあったんで」

「あー、まあ、確かにこれはタイトルに偽りありですねえ」

 本のタイトルに目をやり、コネラートはあきれている様子だった。

「まず、1。賢者の石とか超聖水とかいったところですでに『サルでもできる』の範疇からはずれてますね。どちらも普通に入手できる品物ではありませんからね」

「はい先生。超聖水ってなんですか?」

 何となく話を聞いていた生徒の一人が手を挙げた。

「超聖水とは、名前通り特別な聖水です。どんな温度や圧力下でも液体を保つという『永久液体』で、他の物質との親和性がきわめて低いのが特徴です。この高度な安定性はきんに通じるものがあり、そのため錬金術の材料として近年、注目されるようになったのです」

 質問した生徒はうんうんうなずいていたが、ヘレネにはちょいと手に余る内容だった。それに気づいたか、コネラートは咳払いをひとつ。

「まあ超聖水は教会でも手に入りますが、問題は『賢者の石』『三万度の竈』『風神のふいご』ですね。竈に関しては、思い当たる節もありますが……」

「教えてください!」

 有無を言わさぬヘレネの要望に、コネラートは困った様子を見せた。

「うーん、彼はちょっと気まずい人なんですよねえ」

「……気まずい? 気むずかしいじゃなくて?」

「あ、いや。確かに気むずかしい人なんですがね、賢者クーマ氏は」

 その名前に、一瞬どよめきが上がった。ヘレネもその名は聞いたことがある。

 魔導師クーマ。アルマフレア四大英雄の一人だ。

「皆さん知っての通り、クーマ氏は七年前にアルマフレア王国を救った英雄の一人です。賢者の称号をもらい受け、その後、山奥に隠居しました。最近は錬金術の研究をしていると聞きましたが……ああ、やはりこの魔導書も彼の著書のようですね」

 奥付を確かめながら、コネラートは語る。

「あの、どういったご関係なんですか?」

 ヘレネの質問に、彼はますます困った様子を見せた。

「彼とは勉学や研究をともにした時期がありましてね。一種の同窓生のようなものでしょうか。彼が英雄ケインとともに王国を救ってくれたのは、私も鼻が高いですよ。……と、彼の施設を使いたいのなら、紹介状を書かなければなりませんね」

 自慢げな中にもやれやれといった雰囲気を覗かせ、コネラート教師は教壇へ戻っていった。

 りんごーん。と、そこで終業の鐘の音が鳴った。

「やあヘレネ。良かったら一緒に帰らないか?」

 帰り支度をしていると、レインがやってきた。訓練が終わったか、いつもの剣士風スタイルである。

「別に良いけど……レイコさんは?」

 レインはにこにこ顔のまま首をかしげた。

「見なかったけど?」


 教会の裏手には、一本大きな木の生えた小高い丘がある。日差しは熱いが、木陰にはそよ風も入ってきて居心地は実によい。

 その大樹の元にレイコは腰掛け、愛しのレインは膝枕をしてもらいながらうたた寝中。

 かすかに風が舞い、枝葉がこすれ合う。小鳥のさえずりに合わせ、陽光がが少し差し込んだ。

 んん、とレインがまぶしそうに薄目を開けた。

「あら、レイン様。もっとゆっくり眠ってらしていいんですのよ」にっこりと、レイコは微笑む。

 いや、とレインは上体を起こし、彼女をじっと見つめる。レイコは一瞬どきりとしたが、木に背中を預け、見つめ返す。

 レインのりりしい顔が近づいてくる。吐息が頬にかかるくらいまで近づき、その唇も……。

「ああん、そんな、わたくしたちにはまだ早いですわあっ!」

 いやんいやんと身もだえながら、レイコは我へ帰った。

 絶好の場所でレインを迎えるべく用意をしていたら、妄想モードに入ってしまったようだ。

「レイン様、待っていてくださいませね。レイコがお迎えに参上つかまつりますわああぁぁ!」

 どどどどど、とサカリのついた馬のように、レイコは丘を駆け下りていく。

 レインとヘレネが一緒に下校していった後だということには、もちろんこのときは気づいていなかった。


         *


 結構急な坂道を、ヘレネはひいこら言いながら登っている。いつもの魔法使いルックがベースだが、登山ということで、日除け用フードのついたやや厚手のマントと長めのブーツをはいている。

 すぐ脇を、いつもより装備を固めたレインがついてきている。ヘレネには結構きつい登山だが、彼はいつものように涼しい顔をしている。剣士志願だから当然かもしれないが、ヘレネとしては、彼には『苦労』という単語が存在していないように思える。

 それとあまり意識はしたくないのだが……。

「ああ、レイン様。わたくし、もうくたくたですわ」

「それじゃ、ちょっと休憩しようか」

 あんたが仕切るな。と突っ込みかけた台詞をヘレネは飲み込んだ。ヘレネもかなり疲れてきていたからだ。

 金魚のふんのように、今回もまたレイコがくっついてきている。なにか勘違いでもしているのか、ロッククライミングばりの重装備だ。自分の頭を越えるくらい大きなリュックを背負っていれば、疲れないわけがない。

 コネラート教師に紹介状を書いてもらったヘレネは早速、賢者クーマを訪ねに出発した。

 場所は、シュラインの町から北に二日。道はまあまあしっかりしているが、このあたりはちょっとした山になっている。

 この山奥で、クーマは錬金術の研究をしているという。そのために必要な設備も、そこにある。

 山腹に、煙の立ち上っているのが見える。火山なわけではもちろんなく、そこにクーマの屋敷と錬金術の設備(竈)があるということ。目指すはあの煙の元だ。

 町の外へ出るということでレインに同行してもらっているのだが、そのたんびにレイコがついてくるのはどうにかならないものだろうか。

 そんな思いもつゆ知らず、レイコはいつものようにヘレネに食ってかかる。

「今日は暴風雨あらしになると、知り合いの占い師が言ってましたのよ。そんな危ない日に、レイン様と山歩きなんて、なんて不届きな! 完全防備のこのわたくしが、万一の際にもレイン様をお守りいたしますわ。ヘレネさん、あなたは無駄無益無意味ゆえ、お帰りあそばせ」

「本末転倒でしょうが!」

 遊びではなく、あたしの目的があっての登山なんだから、主役が消えてどうすんの。

 ヘレネの文句を、しかしレイコは見事に聞き流した。

「大自然の猛威の前に、人の力などはかない物。嵐の吹き荒れる中、わたくしたちは遭難してしまうのですわ。わたくしはかろうじてレイン様と合流し、雨風をしのぐために洞窟へ避難しますの。ヘレネさんの行方を気にする心お優しいレイン様をおなだめして、一晩をその洞窟で二人きりで過ごすのですわ。吹き荒れる嵐。ずぶ濡れになって震えるわたくしを、レイン様はそっと抱きしめ、『風邪を引くよ。濡れた服は脱いだほうがいい』『ああ、そんな、殿方の前でそんな恥ずかしい……』『ほら、凍えないようにもっと近くによって』『ああ、レイン様……』。揺らめくたき火が映し出す、レイン様のりりしいお顔。嵐の中でも鼓動が聞こえてくるほどに寄り添い合うレイン様とわたくし。破裂しそうなほどの鼓動を押さえて、わたくしたちは越えてはいけない一線を……ああっ、そんなわたくし耐えられませんわあああぁぁぁ!」

 延々と妄想を続けていたレイコは、勝手に身もだえながら、斜面をごろごろ転がり落ちていった。

「…………」

 レイコの一人芝居をひたすら呆然と眺めていた二人。

 その背後で木枯らしが一陣吹き抜けた。夏だけど。

 レイコとはもちろん友達ではないが、知り合いという枠からも外したくなってくる。

「ヘレネ。僕、君に聞きたいことがあるんだ」

「な、なによ」

 不意にまじめな表情を見せ、肩を叩いてくるレインに、ヘレネは少々とまどった。幼さの残る顔立ちだが、引き締めると割と格好良いのだ。

「僕も『変なヤツ引き寄せ体質』なのかな? ほら、レイコさんとかヘレネとか……」

「あたしまで含めないでちょうだい!」

 握ったこぶしをハンマーのように、レインをぶったたくヘレネであった。

 さすがに少々こたえたか、レインは頭を押さえながら、涙目になっていた。

「いやけど、ときどき妙に女の子が群がってくることがあるし」

 本気で不思議そうに言うあたり、やはりレインは天然なのだろうか?

 彼の言うとおり、実はレインは結構もてる。先日はレイコに遠慮し(というか恐れ)ていたようだが、普段は別の(多数の)女生徒がレインに差し入れしていたりする。

「ほほほほほ。そこいらのイモ娘どもと一緒にしないでいただきたいですわ。わたくしの方がよっぽど年季が入っていましてよ!」

 いつの間にか復帰したレイコが(どのあたりから会話に参加していたのかは不明だが)、握りこぶしで力説している。

「そう。わたくしは、ただ一途なだけですわ!」

「自分で言うところがやっぱりアレよね」

 ヘレネの半眼はまたもや見事に無視された。

 ……と、

「隠れて!」

 言うが早、ヘレネは物陰に隠れた。

「ヘレネちゃん好っきじゃあああぁぁぁ!」

 脇の山道さんどうを、ハイフンが走り抜けていった。地響きで葉が落ちてくる。

 ヘレネももてることはもてるのだが、この変人限定というのはなんとかならないのだろうか?

 嘆くように天を見上げると、雲の動きが速くなっていた。ごうごうと風の吹く音が、遙か上空から聞こえてくる。

「風が出てきたわね。急ぎましょ」

 この難儀な体質を返上するためにも、道を急がねばなるまい。ハイフンの気配が消えたことを確認してから、ヘレネは足を戻した。


         *


 大小様々な石や岩が無造作に並び、どこからか澄んだ水がわき上がり、細い川となって流れていく。

 見る者の目を奪うような美しい景観だが、ここへ足を踏み入れる者はほとんどいない。

 ヘレネたちのいる山腹からもう少し上のこの渓谷に、二人はいる。

 ターナは腕を組んで目をつむり、ヘレネたちの様子をうかがっていた。火神たる彼女にとって、その場にいながら別の場所を察知することなどは造作もない。

「ちっちゃいお姉様は、リベンジはしないの?」

 聞こえてきた黄色い声に、ターナは薄目をあけた。少々仏頂面だ。

 ニーナだったら怯えて隅っこへ逃げてしまうところだが、傍らにいるこの少女はゆったりとした微笑で受け流している。あるいはなにも感じていないのかもしれない。

「もう、あの小娘をどうこうする気はないよ」

 ふん、とおもしろくなさそうに、ターナは鼻を鳴らした。

「それは良かったの。おっきいお姉様も安心すると思うの」

 安心したというよりも愉快そうな調子で、風神ジーナはころころと笑った。それがまたターナにはおもしろくなく、肩のあたりまでしか背丈のない小柄な少女を見据える。

 着ている衣装は、ターナと同じ系統のデザインをしている。アルマフレアの民は、最近はもっぱら正式な場でしか着ない。純血の人間は黒髪だが、ジーナははきらめくような銀髪だ。年齢は、人間でいえば一四~五歳くらいに見えるだろうか。愛嬌よく、いつもにこにこしている。

「じゃあジーナ……風神あんたはどうするつもりなんだい? 雷神ヴィーナ水神ニーナみたいに、べたべたなつくつもりかい?」

「わたしは……今はまだわからないの。でも、すごく興味はあるの」

 やや舌っ足らずな調子で、ジーナは言う。

「ちっちゃいお姉様はどうなの? 嫌いなのをやめたなら、もうどうでもいいと思うの」

 少女の指摘に、ターナはうなった。

 確かに、ただの人間だったら歯牙にもかけないところだ。

 召喚に失敗したという出だしを除けば、ヘレネへ持つ感情はジーナと同じだ。

「何者なんだい、あの娘は?」

 自然と、ターナはそうつぶやいていた。

 なにしろ普通の魔法はからきし使えない。

 そうかと思えば、禁呪を一発で発動させる。

 魔法使いとしては、まるででたらめな娘だ。

「なにより、五神精あたいたちを強制召喚させる、あの正体不明の力だ」

 独り言のようなターナのつぶやきに、ジーナは人差し指をあごに当て、しばし。

「おっきいお姉様は、召喚師かもしれない、と言ってたの」

「召喚師、か……」

 腕を組んで、ターナは考え込む。

 召喚魔法は、神官魔法とは少々毛色が異なる。

 神官の唱える呪文は『祈り』で構成されている。言ってみれば、神様へ『お願い』しているわけだ。

 召喚魔法は、時空を操ることにより、対象となる物(者)を強制的に呼び出す。人間の魔導師が呼び出せるのは物品や下等生物、せいぜい同格の人間までだ。神族を、それも五神精を強制召喚するだけの力を、はたして人間が持ち得るのだろうか?

「もうひとつ、おっきいお姉様が言ってたことがあるの」

「なんだい?」

「ヘレネちゃんは、わたしたちの目的をかなえてくれるかもしれない、って言ってたの」

「……あの娘が、あたいたちの目的を?」

 こくりと、ジーナはうなずいた。

 五神精には共通の目的がある。長く長く夢見てきたひとつの目標。

 神族である自分たちにもできないことを、あの小娘が……?

「ねえジーナ」

 至極まじめ顔で、ターナは聞いた。

「あたいたちの目的って、なんだったっけ?」


         *


「……で、ここはどこなんですの?」

「山よ」

 一言ですますヘレネに、レイコはかみついてきた。

「そんなことはわかってますわ! クーマ様のお屋敷にはいつになったら着きますの!」

「そんなこと、あたしが知りたいわよ!」

 やけになって、ヘレネも怒鳴り返す。

 ヘレネたちは、道に迷っていた。森が深くなってきていて薄暗く、道しるべとなる竈からの煙がほとんど見えない。一時間ほど堂々巡りになっている。

「あーもう、時間がないってのに」

 ただでさえ、二日かかる行程なのだ。これ以上時間を浪費すれば、体質による発作が起こりかねない。

 と、

「……何か聞こえませんこと?」

 耳を澄ますと、何かのうめき声のような音が聞こえてくる。茂みのかなり先、猛獣のうなり声にも聞こえる。

「ああ、レイン様。わたくし、怖いですわぁ!」

 怖いと言うわりには猫なで声で、レイコがレインに抱きついた。

 二人を強引に引きはがし、つっけんどんにヘレネは言う。

「とりあえず! レイン、様子を見てきてちょうだい。男でしょ?」

「別にいいけど」

 特に臆する様子もなく、レインは茂みの中へゆき進んでいった。

「ああ、なんて勇気があるんでしょう」

「単に神経が麻痺してるのよ、あいつは」

「んまあ、なんという言いぐさ! わたくし、いつか言わなくてはと思っていたんですけれど、レイン様に対して厚かましすぎるんじゃありませんこと?」

「だったらなによ!」

 レイコは大仰に肩をすくめて見せた。

「ふう、こんな粗忽で野蛮で無知で下劣な女とレイン様が同じ幼少時代を過ごしたなんて、なんてなんて不幸なことなんでしょう。これ以上レイン様を舌先三寸でたぶらかそうなんて、純真で品行方正で雅やかなわたくしには耐えられませんわ」

 そういうわけで、アルツ!」

 さんざん言いたい放題言ったあげく、腕を振り上げ、レイコは部下の忍者アルツの名を呼んだ。

「ちょっと、今度は何をするつもり?」

「ふっ、知れたこと! あなたをここにふんじばって、わたくしがレイン様とラブラブ! あなたさえ処分すれば、恋路を邪魔する者はいなくなりますのよ!」

「恋路だかなんだか知らないけど、あたしとレインはただのおさなな……!」

「ヘレネ! レイコさん! 大変だ、すぐ来てくれ!」

 切迫したレインの声に、ヘレネの言葉は中断された。

「レイン様すぐ行きますわあああぁぁぁ!」

 声をドップラー効果させながら、瞬時にレイコが消え去った。

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

 一瞬呆然としてしまったが、慌ててヘレネも駆ける。

 少し走ると、すぐに視界が開けた。

 丸太小屋の脇に、レンガ造りの大きな建物。天へ向かって煙突が突き伸び、熱気がここまで伝わってくる。どうやらここがクーマ氏の研究施設らしい。

 そういえばレインは? と見回してみると、

「おおおうっ! 美しき乙女よ、こんなところで逢うとは天の導きかっ!」

 すてーんっ! 脈絡もなく現れたアスタリスクに、ヘレネは豪快にすっころんだ。

「な、なんでこんなところにアスタリスクさんが!?」

「うむ! よくぞ聞いてくれた。実は……」

「ヘレネちゃん好っきじゃあああぁぁぁ!」

「ちぇすとぉーーーっ!」

 どばきいっ! ハイフンが現れたと同時に、アスタリスクの跳び蹴りが炸裂!

「アルツ! 呼んだらすぐに現れなさい。おかげで余計な労力を費やしてしまいましたわ」

「これは失礼しましたお嬢様! 懐かしき旧友に出会い、任務が遅れてしまいました!」

 周囲の木々が震えるほどの爆声は、レイコのお抱え忍者、アルツに違いない。

 次々と現れる変態どもに、ヘレネは自分の運命を悲観せずにはいられなかった。体質というより、これはもはや呪いではないだろうか?

「どうも、あのうめき声はアスタリスクさんのものだったようだね」

 頭を抱えてしゃがみ込んでいると、レインがやってきた。てんやわんやの背後は極力無視。

「で、何を大声出して慌ててたのよ?」

「やあ、こんなところで会うなんて奇遇だなと」

「あほかーい!」

 もはや疲労困憊のヘレネであった。

「いや、それだけじゃなくて。ここがクーマ氏の館じゃないのかな?」

「そうみたいね……」

「騒がしい! いったい何事じゃ!」

 しわがれた、それでいて迫力のある声が響いた。

 丸太小屋の木の階段から、老人が降りてくる。樫の杖を握り、やや折れ曲がった腰をさっ引いても小柄な背丈。いかめしい顔つきと白いあごひげは、いかにも気むずかしい魔導師といった風貌だ。

「クーマ殿!」

 アスタリスクに呼ばれ、老人はそのいかめしい顔を少しやわらげた。

「なんじゃい、ヌシらじゃったか。来たならさっさと声をかければ良かろうに」

「すまなんだ、クーマ殿。特訓によさげなところゆえ、獣たちと戯れていたのだ」

「俺は、この前の礼を言いに来たんだ。けど、コロンの姉御とチルダの兄貴も釈放して欲しかったんだな」

「ワシはあの二人とは面識がないのでのう。役所に言い含めるのはちょいと無理があるわい。と……おお、アルツもおったか。元気にしとったか?」

「恐縮ですクーマ様! ご老人のおかげで拙者、風邪ひとつひかなくなりました!」

「ふぁっふぁっふぁ! 元気な声じゃ、よきかなよきかな!」

 旧来からの友人のように、クーマは三人の変態と親しげに話している。この瞬間、ヘレネの頭の中では素早い計算が行われていた。当然といえば当然の答えが導き出される。すなわち、


 クーマ=変人


「それじゃ、あたしはこれで」

「まあまあ、すぐ帰るのも何だし」

 そそくさときびすを返すヘレネの首根っこをレインに捕まれた。

「あんた、この状況わかって言ってるの?」ひそひそ声で詰め寄る。

「けど、クーマ様じゃないと駄目なんだろう?」

「このワシに何か用か?」

 厳かに、クーマが聞く。やむを得ず、ヘレネはコネラート教師からもらった紹介状を手渡した。

「ほほぉ……コネラートめの生徒か」憎しみにすら似た表情でヘレネをにらむ。

 もともといかめしい顔つきなだけに、ヘレネは一歩後ずさる。しかし彼のしかめっ面は、ヘレネにではなくコネラートに向けられているようだ。

 そういえばコネラート教師もクーマを苦手としているようなきらいがあった。

 聞いてみたい気もするが、聞けるような雰囲気ではない。

「して、このワシに何を望む?」

 紹介状に一通り目を通すと、クーマが聞いた。

「はい。ヘレネの体臭を治してやってほ……」

「体臭ゆうな!」

 ごげしっ、とレインを殴り、慌ててヘレネは訂正する。

「エリクサーを作りたいんです。そのためにはここの施設を借りないと駄目だって、コネラート先生に聞いたので……」

「ふむ」

 クーマは難しい顔で腕を組みながら、しばし。

「ま、ええじゃろう」

「ほ、ホントですか?」

「ただし、条件がある」

 歓喜のヘレネを、いかめしい顔が遮った。

「この施設は最近ちょっともてあまし気味での。お主には助手を務めてもらいたい」

「助手……つまり弟子入りですか?」

 うむ、とクーマはうなずいた。

 意外に悪くない条件である。魔導師クーマといえばアルマフレア四大英雄の一人で、王国からは賢者の称号をもらうほどの実力者である。

「クーマ様! その際には是非、タカマガハラ家指定のこのメイド服を!」

「うむ。名案じゃの」

 ななな!? とヘレネが叫ぶよりも早く、クーマが鷹揚にうなずいた。

「ぐぬう。ならば私も弟子入りせねば!」

「あ、あなた、そんな趣味が?」

 こぶしを握って語るアスタリスクに、思わずヘレネは後ずさる。

「ちゃうわいっ! 私がメイド服を着てどーする! クーマ殿に弟子入りし、乙女とは兄妹弟子に! うおお、これこそ男の夢!」

「俺も弟子入りするぞ!」とハイフンが続く。

くゎっ! 男の弟子などいらんわ!」

 こ、この人、やっぱり変人なのでは? ヘレネはいつでも逃げ出せる態勢を整えることにした。

「それともうひとつ。コネラートの公開教室は今後一切受講しないこと。良いな?」

「それは素敵なご提案ですわ!」

 弟子入りの話が出たときには嫌な顔をしていたレイコが突如と瞳を輝かせた。

「さすればヘレネさんはこの山奥へ隔離! 公開教室には邪魔者がいなくなってレイン様とらぶらぶ!」

「あんたはだまらっしゃい!」

 クーマ顔負けの一喝をし、ヘレネは老魔導師に聞いた。

「コネラート先生とはいったいどんな関係なんですか?」

「あやつはな、ワシの敵じゃ!」

 杖ごと腕を振り、クーマは即答した。

「やれやれ。いまだにそんなことを言っているんですか」

 そして、前触れ無く空気が揺れた。

 風ではなく、大きな太鼓を鳴らしたときのような大気の振動。ただし、音はしなかった。聞こえたのは、覚えのある澄んだ声。

「来おったな。裏切り者めが」

 獲物に飛びかかる寸前の恐ろしい形相で、クーマがうめいた。

 振り返ると、コネラート教師がいた。一同、驚きで声もなく彼を見つめている。その驚きと疑問に答えるべく、クーマが口を開いた。

「魔導師、いや召喚師コネラート。王国では唯一、世界でも五人といない召喚師のうちの一人じゃ。七年前の戦争では、ワイバーンやサラマンダーの大量召喚で大きな戦果を上げておる」

「オヅマ親衛十傑を相手取ったあなたには遠く及びませんよ」

「ふん。ワシはカールやワイオニーの援護をしたにすぎんわい。ワシよりヌシの方が、第四の英雄にふさわしかったろうに」

 なんだかとんでもない話を、さらりと二人は交わしている。四大英雄には含まれていないが、コネラートもかなりとんでもない人物のようだ。

 お互いに褒めあう二人だが、コネラートは探るような、クーマは相変わらず憎々しげな顔色で、それがヘレネには不気味だった。

「それで、自身召喚まで使いおって、ワシに何の用じゃ?」

 苦い顔でクーマが聞くと、コネラートは小さく肩をすくめた。

「ヘレネさんの依頼に、むちゃくちゃな条件を出すのを止めに来たんですよ」

 出すかもしれないと言わずにきっぱり確信断定して来るというのが、あの二人のつきあいの長さとクーマの変人さを物語っていた。先日、クーマ氏を紹介するのをためらっていたのもこれで納得した。

「ええい、黙れ黙れ! この裏切り者めが!」

「またそれを言う……」

 ヤケと化したクーマに、コネラートは頭痛がするかのようにひたいを押さえる。

「あのう、お二人にはいったい何が……?」

 何となく疎外感を感じたヘレネは、小声で疑問を口にした。とたん、クーマが堰を切ったように大声を上げた。

「こやつはな、ワシを三回も裏切ったのじゃ!」

 そして裏切り者を力一杯指さし叫ぶ。

「自身召喚を使えば女子更衣室に忍び込み放題!というワシの申し出を断り!」

「当たり前じゃないですか」

「若い娘にさわり放題という教師職に就き!」

「それには巨大な誤解が」

「あまつさえ、その生徒の中から特に可愛い娘御を嫁さんにもらってしまう始末!」

「もはや単なるひがみね」

 ヘレネの突っ込みに、クーマはぜいぜいと息を荒らげるだけになってしまった。コネラートも疲れたようにため息を吐いている。

「それに在学中はプラトニックを守ってましたし」

 コネラートの一言に、クーマの怒りが再噴火した。

「なにい!? ならば今はプラトニックではないと!?」

「あ、いや、その」

「生涯独身貴族を誓い合ったあの友情はどこへ行った!」

「友情って言うのかなあ、それ」

 ヘレネの突っ込みは、今度は無視された。

「結婚したって、良いことばかりじゃないですよ」

 妙に実感のこもったセリフだったが、

「ふっ! 未婚のワシにはわからんわい! とにかくそういうわけで貴様はワシの敵! 敵は粉砕するのみ! ゆくぞ!」

「仕方ありませんね」

「だああ、ちょっと待てい!」

 待ってくれなかった。

 クーマが杖を振りかざし、コネラートは両手を大きく広げ、呪文詠唱を始めていた。

「クーマ氏を止めに来たんじゃないんですか?」

「だから止めますよ。力ずくで」

 説得もしないでいきなり戦闘というのは、もしかしたらコネラートも普通の人ではないのかもしれない。

火蜥蜴召来サラマンド・サモン!」

 大気が震えた。コネラートの突き出した手の先の空間がゆがみ、真っ赤な爬虫類が現れた。ヒトに匹敵する大きさのトカゲが空中に出現し、重力に従って着地する。

「こざかしいわ! 魔龍焔噴嵐バーニング・ストーム!」

 ごばあっ! サラマンダーが火を吐くのと同時にクーマの火炎魔法が炸裂した!

「きゃあきゃあきゃあ!」

 たちまち火の海となる山の中を、ヘレネはあたふたと逃げまどう。

 二人とも世界屈指の魔導師だけあって、すさまじい戦いである。このままではこの辺り一帯、はげ山と化してしまう。

「どうしようどうしよう、レイン!」

「いや、あの二人を止めるのは、さすがに僕も」

 ぱたぱたと手を振るレインは相変わらず落ち着いていた。

 慌てることしかできないヘレネの後方で、三人の男が相談しあっていた。

「なあ。こういうとき、俺たちはどうすればいいんだ?」

「決まっておろう。男として許すまじ者と対峙する!」

「あいわかった! ならば戦う相手は一人!」

 なんか一致団結し、ハイフン・アスタリスク・アルツが戦線に躍り出た。

「そういうわけで協力しますぞクーマ殿!」

「うむ、ありがたい! 今日こそ決着をつけてやるぞこの果報者めが!」

 ヘレネは背を向けて頭を抱えてしゃがみ込んで明日の御飯は何にしようと逃避行する思考を強引に軌道修正して必死に考えた。こういうとき自分には何ができる?何をすれば良い?何をするべきだ?そうだ止めなきゃ!って止められないから悩んでるんじゃないの!って一人突っ込みやってる場合じゃなくて!元凶!そう、元凶を断てば良い!

 ヘレネは魔導書を持って立ち上がった。いきなり立ち上がったからめまいを覚えた。くらんだ視界の先では、相変わらずどかばきどかばきと人外魔境な戦いが繰り広げられている。

 元凶を断つにはどうすれば良い? ……風! 風の魔法で吹き飛ばす! ヘレネは呪文を唱え始めた。

収束烈風弾ウインド・プレッシャー!」

 ハンドステッキをつきだし、魔法名を叫ぶ。

 …………。

 どかばきどかばきという、こぶしとこぶし・魔法と魔法のぶつかり合う音。ぱちぱちと火のはぜる音。ひゅううう、という空っ風の音がそれに混じった。

 風の音、だけ? ヘレネは途方に暮れるしかなかった。

「さささ、レイン様。わたくしたちは仲良く帰ることといたしましょう」

「帰るなあああぁぁぁ!」

 どおんっ! ヘレネの突っ込みが合図になったわけではないはずだが、その叫びと一緒に爆音が響いた。

「なんじゃ?」

 クーマが目をむく。森林が割れたのだ。天空から舞い降りてきたそれ[#「それ」に傍点]を避けるように、炎と一緒に。

「ペ、天翔馬ペガサス……?」

 翼の生えた、純白の馬。そのいななきは、二人の老魔導師、三人の男、レイコやレインを驚きに黙らせた。燃えさかる炎ですら凍り付いてしまったように見えた。

 ヘレネも、あまりにも予期せぬ事態に硬直していた。

 天翔馬は地面へ降り立ち、ヘレネをじっと見つめた。白銀色しろがねいろの、優しそうな瞳。これと似た目を、前にも見たことがあるような気がする。

「彼……いや彼女はまさか、風神ジーナ……?」

 コネラートのつぶやきに、天翔馬はぶるる、と目を細めた。

「ヘレネちゃんに呼ばれて来たの」

「しゃべった!」

「獣形態でもしゃべれるのは、風神わたしだけなの。これってすごいと思うの」

 自慢げに風神ジーナは言う。

 馬の姿に似合うか似合わないかはわからないが、とても可愛らしい声だった。

「風神を召喚……? ヘレネさん、これはいったい?」

「あ、あの、わたしにもよく……」

「風神といえば神族ですよ! 人間に召喚できる代物じゃありません! 竜族はもちろん、最低でも同じ神族でないと。いやそれ以前に召喚師はこの数十年確認されていない!」

 一気にまくし立てるコネラートに、ヘレネは後ずさる。視線をそらして気がついた。

 ヘレネの視線にあわせ、一同は風神の背に女性が一人乗っていることに気づいた。

「アリシア!」

 コネラートに呼ばれ、彼女はうなだれた上体を持ち上げた。意識を失っていたか、もしくは眠っていたらしい。

 どうやらこの女性が彼の言っていたお嫁さんらしい。二〇歳前後で、長い黒髪の美しい女性だ。足首近くまで覆う青いワンピースが、清楚感を漂わせている。

 アリシアと呼ばれた女性は、あたりを見渡してしばし。

「あなた!」

 落雷まさかの轟音が響き渡った。

「いったい何をしたんですか! あたり一帯火の海じゃないの!」

「すみませんごめんなさいこれには訳があるんです」

「訳もへったくれもありません! 元に戻しなさい、今すぐに!」

「いやその、燃えてしまった物を戻すのはさすがに」

「ならとりあえず火を消す!」

「はいーーっ!」

 しどろもどろに呪文を唱え、コネラートは消火の魔法を周囲にまき散らす。白い粉のような物が降り注ぎ、みるみる炎が中和されていく。

「まったくあなたって人は、何かというとすぐ攻撃魔法に走るケンカっ早さは何とかならないのかしら?」

「ううう、悪いのは私だけではないのに」

「お黙りなさい!」

 普段は清楚可憐な女性なのだろうが、三白眼で亭主に小言を言う様は、まさに鬼嫁という単語がふさわしい。完全に尻に敷かれているようだ。

「人は見かけによらないって言うけど、こうやって私が見張ってないと危なっかしくてしょうがない」

 奥さんの方も見かけによらないと思うんですけど。ヘレネは頭の中で突っ込んだ。

 ここまで、全員が唖然としてことの成り行きを見守っていた。いや、ジーナとレインはにこにことしているようだったが。まあこれは地だろうし。

 しばらくして、ようやく消火活動が終わったか、コネラートが深い深いため息をついた。

「ほら、みんなに謝る!」

「ううう、すみませんごめんなさいもうしません」

 旦那の頭をつかんで下げさせるアリシアに、コネラートは情けないくらいに平謝りに徹した。

「あ、いや、ワシも大人げなかった」

 気圧され、クーマも素直に頭を下げた。とたん、アリシアはにっこりとした笑みを浮かべた。

「まあ良かった」

 先ほどまでの表情とは一八〇度変わって、見かけ通りの清純そうな微笑だった。

「皆様、主人がご迷惑をおかけしました。ご挨拶は改めてさせていただきますので、このたびはこれで失礼いたします。ほらあなた、帰りますよ」

「あー、はいはい」

「返事はひとつ!」

「はいーっ!」

 自らを空間跳躍させる自身召喚を唱え、コネラートとアリシアはゆがんだ空間に入る。最後にコネラートが振り返って言った。

「クーマさん、くれぐれも私の生徒に妙なまねはしないでくださいよ? でないと……」

「あなた!」

「はいーっ!」

 竜巻のように、夫婦は去っていった。実際、あたり一帯竜巻が通り過ぎたような情景だったし。


         *


「めでたしめでたしなの」

 いつの間にかヘレネのそばにいた少女が、微笑みながらそう言った。いきなり見覚えのない人物が現れたので、思わず飛び退いた。

 いや、声は聞き覚えがあった。先ほどの天翔馬の声だ。

 きらめくような銀髪で、背丈はヘレネよりもやや低め。年齢はあまり変わらないようだが、口調が少し幼い。アルマフレアの民族衣装を着ていた。

「ねえ、あなた、本当に風神……」

「ん、ちょっと待って。……えーと、なにかやり忘れてるようなの……」

 ひたいに指を当てて考え込んでいた少女、ジーナはぽんと手を打った。にっこりとあたりを見渡し、

「飛んでくのーっ!」

「なんでじゃあああぁぁぁ!」

「なんでわたくしまでえええぇぇぇ!」

 風神ジーナの巻き起こした突風は、三馬鹿+レイコを瞬時に空の彼方へ吹き飛ばした。

「これでヘレネちゃんの望みは叶えたの」

「あたしの?」

「ヘレネちゃんは、あの二人を吹き飛ばしたがってたの」

「べ、別の人が吹き飛んだんですけど?」

 おどおどと聞くヘレネにジーナは指を立て、満面の笑みで答えた。

「ヘレネちゃんの魔法が暴走するのは、大自然の法則なの」

「そうだったんかいっ!?」

 ってゆうか、今のはどう見ても故意でしょうが。ヘレネはその突っ込みを飲み込んだ。

 しかし、呪文も唱えずにいきなり爆風を巻き起こすあたり、彼女は本当に風神ジーナのようだ。

 クーマはコネラートが去っていったあたりを感慨深げに見つめていた。

 コネラートを哀れんでいるのだろうか。いや、そんなはずはない。なぜなら彼が次に言った言葉はこうだったからだ。

「ヘレネさんや。ワシを尻に敷いてくれんかの?」

「イヤです」

 きっぱりはっきりにっこりと、笑顔で断言するヘレネであった。

「ヘレネちゃんは面白い子なの。おっきいお姉様の言っていたとおりなの」

 ジーナの言葉に、ヘレネは思い出した。彼女が風神なら、なぜヘレネの唱えた呪文で現れたのだ? 自分にそんな力が本当にあるのだろうか?

「私はそろそろ帰るの。けどその前に、おっきいお姉様から伝言があるの」

 聞こうと思ったが、ジーナの舌っ足らずな言葉がそれを遮った。

「伝言?」

「私たち五神精は、あなたの力を必要としている。そのために、魔王宮殿まで来て欲しい。って言ってたの」

「魔王宮殿?」

 聞いたことのある名前だった。レインがそれを補足する。

「西の遺跡。あそこの正式名称だよ、確か」

 ヘレネも思い出した。あそこにはエリクサーがあるという噂で、以前に一度目指したことがある。

 目指したことがあるが、たどり着く前に体質による発作で帰還を余儀なくされた。

「行きたいけど、無理よ。エリクサーはここで作れるから、無理に行く必要もないし。それにあたし、あなたたちの役に立てるような力なんて持ってない」

 ジーナは目を伏せた。少し考え込むような仕草だ。しかし顔を上げると、彼女はきっぱりと言った。

「どのみちあなたは来なければならないの。賢者の石は、魔王宮殿にしかないからなの」

「賢者の石?」

 この疑問には、魔導師クーマが答えた。

「エリクサーの制作に必要な材料のひとつじゃ。言っておくが、ワシは施設を貸すと言っただけで、賢者の石は持っておらんぞ」

 ヘレネのほおが引きつる。施設を借りることばかりで、材料をそろえることを失念していた。

「じゃ、確かに伝えたの」

 ふわりと浮き上がるジーナに、焦ってヘレネは声をかけた。

「ちょ、ちょっと待って! あなた達の目的は何なの? あたしに何をさせようっての?」

 意味深げな笑みを浮かべるだけで、彼女は答えなかった。

 風神の去っていった後に残されたのは、ヘレネ・レイン・クーマの三人。なんとなく、沈黙があたりを覆う。

「で、行くのかい?」

「……行くしかないでしょ」

 レインの質問に答えるヘレネは、うめき声に近かった。

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