短編革命
音海佐弥
短編魔法
『夜は知らない』
夜は知らない
物語がはじまる瞬間、というものをご存知だろうか。
パンをくわえながら曲がり角でぶつかった瞬間、図書館で同じ本を手にした瞬間、光る石を首に掛けながら夜空から落ちてきた、その身体を受け止めた瞬間……この世の中には、そんなたくさんの「物語がはじまる瞬間」がある。くわえられたパンの数だけ、図書館に並ぶ本の数だけ、そして夜空に輝く星の数だけ、世界には物語が溢れている。
僕にとっての「物語がはじまる瞬間」は「雪だるまが動いたのを見た瞬間」だった。
彼女には、雪だるまを動かす、という不思議なちからがあった。動かす、というのはものの喩えでもなんでもない、まさしく「命が吹き込まれたひとつの生命体にする」ということだ。彼女の手拍子に合わせ、国民的アイドルのダンスを踊る雪だるまを見て、僕は腰を抜かした。
「なんですか、これ!」
「ごめんなさい。私好きなんだ。あんたにアイドルなんて似合わない、って友だちからはよく言われるのだけれど」
「いや、そっちじゃなくて……え? ええ?」
彼女によって生み出された雪だるまは、手拍子に合わせてしばらく踊ると、いい汗かいたとでも言うように、満足そうに公園のベンチの上に腰を下ろした。心なしか頭の雪が少し融けはじめている。
「雪だるまが動いた……」
「でも、三分間しか動かないの」
「三分間?」まるでウルトラマンみたいだ。
「あ、いま『まるでカップラーメンみたいだ』って思ったでしょ。ぶっぶー、残念でした。最近のカップラーメンは五分も待たされることが多いのよ」
そんな図星でしょ、みたいにドヤ顔をされても困る。いやまあ、たしかに五分も待たされるのは最近多いけど。いやそうじゃなくて。
「なんかのマジックですか?」
「ひとにはひとつくらい、得意なことがあるものよ」
「どうやるんです? 教えてください」
「秘密です」
そう言って彼女は、人差し指を唇の先に当てた。さっきまで雪を丸めていたので、その指先には雪のひとひらが青白く光っている。
秘密。そのときの僕には、その言葉がどこか知らない世界の扉を開く、合言葉のように思えた。
「ひとは秘密に惹かれるの。ひとを衝き動かすのは、好奇心や冒険心、知りたいと思う本能的な欲求。秘密なんて、知ってしまえばただの事実になって、あとは慣れて、飽きていくだけ」
「はあ」
「なんでも知っていいのは夜だけよ」
「夜?」
「夜はなんでも知っているの。私たちが眠っているあいだに、この世界のすべての秘密を暴いてしまう。でも、それが私たちにわからないように、夜は夢を見せるのよ」
なんだかよくわからなかったが、考えてみれば不思議な話だ。僕は彼女の仕事も住んでいる街も、名前さえも知らないのだ。そんなひとに「雪だるまの動かし方」を教わろうとしている。もしかしたら僕は、彼女の秘密を秘密のままに、彼女に惹かれたままでいたかったのかもしれない。
彼女と逢ったときのことは、正直あまり憶えていない。雪の降るこの公園で逢ったのは確かだが、話しはじめるようになったきっかけは、僕のなかで定かではない。どちらからともなく話しかけて、なんとはなしに気が合って、なにごともなくいままで続いていただけだ。でも、僕は徐々に彼女に惹かれていった。僕よりもだいぶ年上なはずなのに、飾り気もなく等身大で接してくれる彼女に、僕はだんだん惹かれていった。
そして物語がはじまったのは、やっぱりあのとき、雪だるまが動いているのを見たときからだろう。
とある夜、彼女は「見せたいものがあるの」と言った。彼女に連れられて行った広場にあったのは、一面に降り積もった真っ白な雪と、その上に刻まれたたくさんの小さな足跡と、そしてその真ん中にぽつんと立っている、大きな雪だるま。
「なんですかこれ」
「雪だるまよ」
そりゃ見ればわかる。さすがに鏡餅と見間違えたりはしない。
「つくったんですか?」
「そう」
雪だるまのとなりに立ってみると、案外大きくて驚いた。僕の背丈以上ある。
「ひとりで?」
「もちろん。私がつくらないと、動かないもの」
「動かす気ですかっ?」
思わず大声をあげてしまった。彼女がなんのためにこんな大きな雪だるまをつくったのかわからないが、少なくともいつもとおなじように、命を吹き込んで動かすつもりらしい。
「まだまだ仕上げがあるの」
そう言って彼女は、地面を覆う雪を手のひらですくい取り、雪だるまの背中(だと思われるあたり)にくっつけはじめた。しばらく呆然と見ていると、彼女のくっつけた雪はふたつの盛り上がりとなり、それらがだんだん伸びていく。
「……羽根?」
彼女がくっつけた雪は、まるで雪だるまから生えた羽根のようだった。
「……できた」
そうつぶやいた彼女は、目を閉じて雪だるまの頭に触れる。数秒の沈黙ののち、雪だるまがぼんやりと鈍い光を放ちはじめた。すると、先ほどくっつけた羽根が徐々に動きはじめ、まるで鳥のように大きく羽ばたいたかと思うと、雪だるまは僕らの目の前で宙に浮いた。
「……」
僕は絶句した。何度もなんども目をこすったが、目の前の夢のような光景が醒めることはなかった。
「はやく、乗って」
「え」
「はやく!」
僕は言われるがままに雪だるまにしがみついた。それを見届けた彼女もおなじようにしがみつく。こんな光景、どこかで見たなあ……そうだ、金曜ロードショーで観た『となりのトトロ』だ。
ろくに働かなくなった頭で見当外れなことを考えているうちに、雪だるまはみるみるうちに空へ飛び出していった。眼下には街の灯りが米粒みたいに小さく見える。高速道路や電車の線路が光の筋となり、街の隅から隅まで張り巡らされているのがわかる。そのあいだに揺らめいているのが、人々が暮らす家々の灯り。街灯りを華やかに染める色とりどりの光は、街に飾られたイルミネーションの光だろう。
「見て」
眼下の景色に言葉を失っている僕に、彼女は頭上を見るように促した。彼女が指差し見上げる先に目を向けると、そこにはさらに言葉を失う光景が広がっていた。
星。
星々。
夜空を埋め尽くす満天の星。
「……きれい」
彼女がつぶやく。
「人間はどうして、自分たちの街を、自分たちのまわりばかりを、あんなに飾り立てて綺麗に見せようとするのかしら。街灯りなんて消してしまえば、こんなに綺麗な星空があるのに」
彼女の声は、冷たい冬の空気にじんわりと染み渡っていく。
「飛べないからですよ」
「飛べないから?」
「そうです。人間は飛びたくても空を飛べない。星空に近づきたくても、街から眺めるしかないんです」
彼女はじっと僕の目を見つめた。月明かりを映した彼女の瞳は、冬の空みたいに透きとおっている。
「だから星空の代わりに街を飾る。夜のあいだ、街は夢を見ているんです。星空を飛ぶ夢を」
「なるほど」
「そのうちに、夜は僕たちの秘密を暴く」
「上出来ね」彼女はふわりと微笑んだ。「でも、今日のことは誰にも教えちゃだめよ」
「誰にも、ですか」
「誰にも、ね」
「夜にもですか?」
「このことはふたりだけの秘密。夜にも知られちゃだめ」
彼女はいたずらっぽく笑う。夜はきっと、街に夢を見せるのに精いっぱいだろう。僕たちは街灯りの届かない、星空のやさしい闇のなかで、ふたりきりで飛んでいる。彼女のその笑顔も、僕たちだけの秘密も、きっと夜は知らない。
「……そういえば、三分間でしたよね」
「ん?」
「雪だるまが動ける時間」
彼女の表情が固まったのがわかった。同時に、いままで思い切りよく羽ばたいていた雪だるまの羽根が、まるで燃料切れを起こしたみたいに、みるみるうちに動かなくなっていった。
「たいへんっ!」
雪だるまは急降下をはじめた。天と地が逆さまになった。ほんとうに街灯りが星空になったみたいだ。真っ白な地面が目前にまで迫ってくる。
「ぎょええええ」
「きゃああああ」
僕たちは雪につっこんだ。直前で彼女の制御が効いたのか、衝撃は思っていたよりも軽いものだったのが、せめてもの救いだ。
「ぐえ」
僕は雪につっこんだ頭を引き抜いた。見ると、おしりから墜ちたらしい彼女が、「いてて……」とおしりをさすっていた。
鼻の頭についた雪を払っていると、彼女が僕を見つめて言った。
「……ひどい顔よ」
「……顔は生まれつきです」
僕たちは笑い合った。お互いなんだかおかしくて、いつまでもいつまでも笑い合っていた。
雪が融けて春が来た。
冬のあいだの出来事はすべて夢だったとでも言うように、雪は跡形もなく消え去っている。
ほんとうに夢だったのかもしれない、と僕は思った。すべては夜が僕に見せた、儚い夢。
雪がぜんぶ融けてから、彼女は公園に来なくなった。僕は足繁く公園に赴いたが、彼女の姿を見ることは叶わなかった。もう雪だるまが空を飛ぶところを見ることはできない。それに一緒にしがみついて、星空を眺めることもできない。
まあ、雪はもう降らないから、どっちにしろ無理なんだけど……僕はそう独り言を言って空を見上げた。
すべての出来事が、たとえ夜が僕に見せた夢であっても、僕たちには秘密がある。
――ひとは秘密に惹かれるの。
僕たちふたりだけの秘密、それを夜は知らない。
こんどの冬に、また逢えるかな。
晴れ渡った春の空に、僕は桜の花びらが舞うのを見た。
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