剣客執事

鬢長ぷれこ

プロローグ

 朝の八時、千代田は通勤ラッシュのピークを迎える。その大半は江戸城に登城する者で、大手門には今日も今日とて人が列をなしていた。一定のペースで淡々と門の奥に消えていく様は、外の人間から「工場の労働者と相違ない」と揶揄される。

 これにはやっかみその他が含まれている。大手門の先には綺麗に作り込まれた庭園、そしてここ数十年で大改装を経て近代化した、巨大なビルが聳え立っていた。奥多摩から切り出した石灰岩で造られたそれは、アメリカはニューヨークの摩天楼を模した江戸城である。現時点で日本で最も高いビルであり、国民から取り立てた税で作り上げた最先端の城だ。勤める者達も家柄眩く、扶持も当然それだけ貰っている。

 すると中身は当然エンパイアステートビルのそれとは大きく異なる。城勤めをするのは髷も結わず、分厚いコートとスーツに身を固めてはいたが、どれも大小二本を佩刀した男達であった。つまりは武家の者達である。

 その魔城に向かう列の間を縫うように、一人の男が駆けていた。

「失礼! 急ぐので!」

 男は他の者と同じようにスーツを着て鞄を持ち、佩刀していた。時折こうして急ぎで城に向かう者がいるので、皆慣れた様子で道を作る。途中の番所でカードをかざし、何度も機械のゲートを抜けて、男はビルのエントランスに駆け込み、そのままエレベーターに乗り込んだ。10階で別のエレベーターに乗り、20階、30階と上がり、40階までたどり着いた。階の高さは身分の高さであり、ここまで辿り着けたことが男がどれだけの者かを示している。

 彼は44階で降り、とある部屋の前に立ち、少し乱暴に扉をノックした。

「田沼様――田沼様!」

 男は失礼を承知で声を荒げると、「入れ」という声が中からした。ドアノブを握り、男は言われたとおり部屋に入る。

「三谷か」

 名を呼ばれた男――三谷実徳さねのりは恭しく頭を下げた。すぐさま上げた顔には汗が張り付いている。

 そこは二十畳を超えるほどの広さの部屋であった。床には立体的な刺繍が施された、小豆色のカーペットが敷き詰められている。壁はほとんど本棚で埋められており、東京湾を見下ろす窓を背に、中年の男が部屋とは不釣り合いなほど質素なデスクの前に座っている。田沼と呼ばれた男――老中田沼意長おきながは今日日珍しく月代を剃り上げ、髷を結っていた。

「どうした。何があった」

 三谷は呼吸を整えると、険しい顔で、

斉光なりあき様、柳生矩貞のりさだ様、共に行方知れず! 仏国を最後に、消息不明にございます!」

 表情のなかった田沼の顔に朱が差し、目が徐々に釣り上がった。

「ば、」

 椅子を倒しながら田沼は立ち上がり、

「馬鹿者が!」

 分厚い窓ガラスを震わせかねない声音で、怒鳴り散らした。三谷は深く頭を下げたが、その顔は緊張に強張っていた。田沼の剣幕は苛烈であったが、その表情には深く恐怖が刻み込まれていた。三谷もそうである。

「第一消息不明とはどういうことだ」

「定時連絡途絶え、48時間が経過しました」

「最後に連絡があったのはいつだ」

「三日前、仏国のカレーというところです」

「……そうか」

 項垂れた田沼は痛恨と言わんばかりの苦い顔で、それでも指示を出さねばならんと考えを巡らせた。しばらくの間立ったままその場を行き来していたが、一旦椅子に腰を下ろし、机に伏せる様に頭を抱えたまま話し始めた。

「至急仏国に誰か送れ」

「は」

「誰か適任は――佐治はどうだ」

「そのように」

「秋津もだ。秋津は英国に送れ」

 頷いた三谷が、踵を取って返し、部屋を後にする。

 田沼は「まだどうにかなったわけではない」と誰もいない部屋で呟いたが、その顔は今にも泣き出しそうな様子であった。


















 英国の首都ロンドンから南西におよそ100キロ、ヘイスティングスは緩やかな丘と穏やかなドーバー海峡に挟まれた小さな町である。気候も風土も牧歌的で、いかにも英国の片田舎といった様な、良い意味での風情が残っていた。

 かように喧騒とは無縁の平和的な町であるから、その出来事が起きた時はちょっとした騒ぎとなった。

 冬の砂浜に、一人の青年が打ち上げられたのである。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 そのニュースが小さな町の隅々まで行き渡るのに時間はかからなかった。

 とは言え男爵であるリチャード・モーズリー(その土地はいかにも小さいものであったが)の耳に届くまでには、更に一日を費やした。

「なんとまあ」食堂で朝食を平らげた後、紅茶を啜りながらリチャードは言った。

「それで、その男は無事なのかね?」

「少なくとも命に別状はないそうです」リチャードの傍に控える老執事、ウィルフレド・ゴーヴが食器を下げながら言った。「今は町の病院にいるとのこと」

「ウィルフレド、今日の私の予定がなければ、彼を見舞いに行きたい」リチャードは口元をせわしなくナプキンで拭いた。「どうかね」

「それがよろしいかと。今日は特にご予定ございません。明日もございません」

「ウィルフレド。まるで私が暇みたいじゃないか」

「リチャード様は実際お暇でらっしゃいます」ウィルフレドはくすりとも笑わずに言った。「お勤めはもうお辞めになりましたから」

「そうだった。そうだったね」リチャードは笑った。「仕事がない、ということに中々慣れない自分がいる。今更ながら、貴族に向いていないのかもしれないな、私は」

「とんでもございません。リチャード様は私の知る限り最も立派な貴族です。領民のために常にお心を砕かれている」

「褒め言葉が過ぎて皮肉に聞こえる」

「滅相もない。本心でございます。ただリチャード様は英国人らしからぬところがあるかと」

「だろうね。いや、どちらかと言えば私は今風・・なのだ」彼は笑いながら言うと、「ともかく、では、この後病院に行こう」



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 ヘイスティングスの北、町外れの丘の麓に唯一の総合病院があった。ウィルフレド はリチャードの身支度を整えると、ベントレーの古いセダンに主人を乗せた。海沿いの屋敷から北上することおよそ十分。坂の上にあるそれは英国の中でも新しく設備の整った総合病院で、竣工の際は近隣住民から非常に喜ばれた。なんとなればこの病院の誘致に成功したのは、リチャード含めたサセックスの貴族の働きかけによるものである。

 彼らが駐車場に黒塗りのベントレーを停めると、病院からすぐさま人が飛んできた。病院の理事、リンチという名の男である。

「モーズリー様。本日はどの様な症状で?」

「私はすこぶる健康だ、ドクター・リンチ」リチャードは微笑んだ。「今日は見舞いだ」

「見舞い? どなたの?」

「ここに例の漂着した青年がいるのでしょう」ウィルフレドが穏やかに言った。「主は彼の健康を心配されている」

「それはそれは」リンチは顔をほころばせた。「どうぞこちらへ。案内致します」

 三人は病院の入り口に入り、奥のエレベーターで三階に上がると、渡り廊下を通って別の棟に向かい、ある部屋の前で立ち止まった。

「モーズリー様、今警官が来ておりますので少々お待ちを」

「私はかまわない。入らせてもらっても?」

 リンチ理事のごく小さい制止を無視してリチャードは病室に入った。

 そこには警官が二人、背が低い壮年の男と背の高い若い男がいた。面倒そうに振り返ったが、リチャードの姿を見るや揃って帽子を取った。

「モーズリー様」

「ご苦労。いや、この冷たい中ドーバー海峡横断泳を試みた男を労いたいと思ってな」

 言いながら、ベッドの上にいる当の男に目を向けると、彼は少し面食らった顔をした。

「東洋人か」

 二度目の千年紀を越えて久しいが、英国では黒人は珍しくなくとも未だアジア人は珍しい存在だった。眉の上で切り揃えられた髪型と当惑を秘めた瞳が幼さを感じさせた。

 ともかくリチャードは笑みを浮かべて彼に話しかけた。

「まずは無事で何より。痛いところはないかね?」

「はい」

「それは結構。しかしこの寒い中ドーバー海峡を横断とは大変だったろう」

「それですが、モーズリー様」警官の一人、背の低い方が口を開いた。「この者の言い分を信じれば、記憶がないそうです」

「記憶がない?」リチャードは繰り返した。「記憶がないのか、君。名前は? 出身は?」

「すみません、どれも曖昧なんです」ベッドの上の青年は、目を伏せながら言った。「名前は、恐らく、シンノスケ」

「シン……何?」

「シンノスケ、です。でもこれも、はっきりとはしません」

「ふむ」リチャードは眉を顰めた。「不思議だな」

「モーズリー様、そういうことですので、一度ご退室頂けますか」別の、背の高い警官は慇懃ながら拒否を許さぬ口調で言った。「しばらく彼に話を聞かなければなりません。どこから来たのか、それすら分からないのですから」

 リチャードは笑顔で頷くと、ウィルフレドが病室のドアを開けた。二人はそこから出て行くと、警官たちは顔を見合わせ、ついでシンノスケの方に目を向けた。

「ああそうだ」突然ドアの向こうからリチャードの声がかけられ、室内の全員がそちらを向いた。「手荒な真似は控えてくれ。いいね?」

「はい」

「それと、終わったらウィルフレドに連絡を」途端に扉が少し開いて、執事の腕がにゅうと伸ばされてきた。白い手袋で覆われた指には紙が挟まれている。警官の一人が恐る恐るそれを取ると、腕はするりと向こうに消えていき、今度こそ扉が閉まった。彼らの気配がなくなったのを感じ、警官二人は溜息をついた。

「そりゃ何だ」

「電話番号、ですね」

 若い警官の答えに、「ああ、そう」壮年の警官は面倒そうに言った。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 しばらく町のレストランで時間を潰した後、ウィルフレドは警官から連絡を受け、二人は再度病院に戻った。入り口では警官二人とリンチが律儀に出迎えている。ベントレーを降りたリチャードは笑顔で二人を労った。

「ご苦労。終わったかね?」

「ええ。これから内務省に連絡して、身柄を引き渡します」

「なに?」リチャードの顔が曇った。「手荒な真似は控えろと」

「ええ、何もしていません。ただ国籍不明はまずいでしょう」

 リチャードは思案げに顎を撫でると、

「それはちょっと待ってはくれまいか」

「何ですって?」その場のリチャード以外全員が動揺した。

「入国管理局には私から連絡しよう」リチャードは笑顔で、警官二人をそれぞれ見た。

「折角の客人だ、少し話をしたい。だから管理局には私から伝える」

 警官達は顔を見合わせ、リンチ理事はリチャードの横顔を見、ウィルフレドはあからさまに眉を顰めてリチャードの後頭部を睨みつけていた。四者四様であったが、誰しもが困惑した表情を浮かべていた。

「なに、悪いようにはしないさ。では後は任せてくれ」

 リチャードは警官達の肩を叩くと、そのまま病院の中に入って行った。ウィルフレドはしばらくその場で苦い顔をしていたが、リチャードがロビー奥の四叉路で迷っているのを見ると、

「では失礼」とだけ言い残し、主人を追っていった。



   ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 ウィルフレドに先導される形でリチャードは病室に入っていった。

 ベッドの上には、物憂げな表情を浮かべた東洋人の青年が一人。相変わらず、自身の状況が受け入れられていない様子だった。

「やあ」リチャードは笑顔で片手を挙げた。「元気かね」

「ええ」青年の返事にはしばらく間があった。

「しかし何も憶えていないのかね、本当に?」

「そうです。シンノスケという名前も、本当に覚えていたわけじゃないんです。自分の持ち物を色々見せられて、そこのタグにあったから、それを見て思い出したくらいで」

「ふむ」

「警官の人が言うには、私の着ていた服は英国のブランドだったそうです。そこに、」

 部屋の壁にかけられた上下の服に目をやる。

「例によって、私は覚えていませんが」

「――見ても?」

 シンノスケが頷くと、ウィルフレドが服のかかったハンガーを壁から外す。途端、抜けきらない潮の香りが漂った。

 しばらく検分した後、ウィルフレドはリチャードに耳打ちした。

「どれも中々に値が張りましょう」

 リチャードは頷いた。「そうだろうな」

 ウィルフレドはリチャードの目を見た。「どうされるおつもりですか。不法入国者ではないとは思いますが」

 リチャードは人懐っこい笑顔を浮かべた。

「考えがある。驚かないでくれ――さて」シンノスケに向き直ると、

「どうかね、シンノスケ君。これから行くあてはあるかね」

「いえ、全く。検討もつきません」

「ならばどうだ、一度うちに来てみないか」

「うち?」聞き返すシンノスケ。ウィルフレドは二人に背を向けると、参ったと言わんばかりに目を閉じている。

「ちょうど今、うちは使用人を探している。ゆくゆく執事にならんとする者であればなお結構」

 聞いたウィルフレドは、目を見開いて振り返った。

「まさか、リチャード様。この者をステラ様の執事にされるおつもりでは」

「どうかね、シンノスケ君。労働を課すことになるが、服も食事も提供しよう。無論住処も――屋敷の住み込みだが」

 シンノスケは戸惑いの表情を浮かべていた。

「ありがたいのですが、何故そこまでしてくれるのです?」

「困っている者に手を差し伸べるのは、我々の貴族の義務だよ」

 シンノスケは答えを返さなかったが、困惑の中にも僅かに笑みを浮かべていた。

「決まりだ」リチャードの宣言に、ウィルフレドは天を仰いだ。



 幾つもの幸運が重なった出来事だった。

 シンノスケが死なずに海岸へ打ち上げられたこと。

 警官が入国管理局に連絡しなかったこと。

 シンノスケに興味を持ったのがリチャードだったこと。

 それは記憶をなくすという不運を打ち消しうるものであったが、同時に更なる災厄を引き込みうるものでもあった。

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