第6話 繁華街の甘い罠 (Luscious trap of the high street)
ライアンと別れたティムは、一人カルディーマの喧騒に包まれながら表通りを歩いていった。
グレンアイラ村からほとんど出たことがないせいもあるだろうが、やはりカルディーマは巨大に思えた。どれだけ歩いても町が終わらないような感覚に陥る。ライアンと別れた広場からもう随分歩いたのだが、ティムはこれまで歩いてきた道をすっかり覚えられていなかった。明日の帰り道が恨めしい。
人々の流れは縦横無尽にティムの周りを囲むと、それぞれ思い思いの方角へ過ぎて行く。これだけ多くの人間を見ることすらティムには初めての体験だった。エルゼリアにはこんなに人間がいたのかと、改めて気付かされた。
これだけの人間はどこから来るのだろう。きっとエルゼリア中から集まっているのだろうが、その中に自分以外のグレンアイラ村出身の人間はいるのだろうか。
その時、牛の鳴き声が聞こえたと思うと体に衝撃が走り、ティムは後ろに尻もちをついた。
「邪魔だぞ。どこ見て歩いてんだ」
牛に大量の果物を引かせている商人らしき男が、牛の上からティムに罵声を飛ばし去っていった。周囲の視線を浴び、ざわめきの中からせせり笑う声が聞こえてくる。
突然の出来事にティムは呆然としたが、すぐに起き上がって歩き出した。
本当に知らない人ばっかりの所に来てしまった。
こんなに人がいるのに、俺は誰も知らないし、誰も俺を知らないのか。
そんな思いにかられていたら、少し心細くなってきた。
グレンアイラ村を思い出す。みんないつもと変わらぬ平穏な生活を送っているのだろう。
みんなの期待を背負って守護神石を集める旅に出たのに、カルディーマに着いていきなり遊ぼうとする自分に多少の罪悪感を感じずには入られなかった。
だが同時にティムは、ここまで来る間に十分見直されるだけの働きをしてきたという自負があった。
初めてこんな都会に来たのだから、多少はめを外しても罰は当たるまい。
そんなことに思いを巡らせながら表通りを歩いていると、ティムは、何かに気を取られて、歩を止めた。
ティムの視線の先にあったものは、地下へと続く階段だった。その階段の周りには石で造られた塀があり、その塀には『カルディーマ・クラウン・カジノ』という文字が、華美な字体で彫られていた。
ティムが近くまで来ると、階段の下からは、微かにざわめきが聞こえてくる。この下で人々がギャンブルを楽しんでいるのだろうか。
ティムは高鳴る気持ちを胸に、暗い階段を下りていった。下に近づくたびに、人々の声は大きくなっていく。一番下まで来ると、突き当りのドアの隙間から光が漏れていた。
ティムが重そうな扉を押すと、扉は開いた。
途端に陽気で騒がしい音が、ティムを出迎える。
地下室らしい石で覆われている壁にたくさんのランプが灯っていて、赤い絨毯が床全体を覆い尽くしていた。部屋には横長のテーブルがいくつかあり、各テーブルを十人程度の客が囲んでいた。
テーブル付近まで行ってみると、そのテーブルは普通のテーブルではないことがすぐに分かった。
まず、そのテーブルの中心は円形に窪んでいた。そして、その円の弧は、全て均等に仕切られていて、一つ一つの仕切りには、数字が割り振られていた。色は、赤と黒の二種類に分かれている。また、円の左右には、数字を羅列した表が描かれており、人々はその上に丸いチップを、次々と置いていった。
やがて、テーブルの中心付近の小綺麗な身なりをした男が、テーブルの中心の窪みに手をかけ、勢いよく回した。窪んだ部分はルーレットになっているようだ。回転と同時に、男の手からは小さな玉がルーレットに投下され、共に回転を始めた。この男はディーラーなのだろう。
「ノーモアベット(チップ受付終了)」
ルーレットが回転を始めて数秒後、ディーラーは宣言した。すると、まだチップを置き続けていた一部の客も、手を止めて、テーブルの中心に目を向けた。
ルーレットの回転が遅まるに連れて、玉の動きも遅くなる。そして玉は、最終的に十九の窪みに入り、動きを止めた。
途端に歓声と溜息が同時に響き渡る。ディーラーはテーブルに置かれたチップを全て回収した後、一部の客にチップを配分し直した。
「おい、お前。こんな所で何してんだ」
突然呼ばれて振り返ると、そこには髭まみれの見知らぬ変なおじさんがいた。
「ここは子どもの来る所じゃねえぞ。さっさと帰んな」
しゃがれた声でそう言うと、変なおじさんはビールをぐびりと飲んだ。
自分はもう十八歳であり、けして子供ではないはずだ、とティムは思った。しかし、確かに自分は童顔だったので、そう思われても仕方はない。
しかし、事実は事実である。
「俺、もう十八歳だよ。子どもじゃない」
変なおじさんは口の中のビールをぐびりと飲み干すと、ティムの顔をじっと睨んだ。本当の年齢はいくつなのかと見定めているように見えた。
やがて、変なおじさんは再びジョッキを口に運び、独り言のように呟いた。
「まあ、いいや」
結局いいのかよ、とティムは思ったが、口にはしなかった。
「カジノは初めてかい」
変なおじさんがげっぷ交じりに問いかけてくる。酒臭い息が顔にかかった。
「うん。これはどういうゲームなの? どうやって遊ぶの?」
「ふっふっふ」
変なおじさんが片手を口に当てて笑う。
ふっふっふ、じゃねえよ、とティムは思ったが、今度も口にはしなかった。
「おじさんが教えてやってもいいぞ」
「え、本当に?」
「ああ、ええぞ。わしはおじさんはおじさんでも親切なおじさんだからね」
そう言って、変なおじさんはティムに向かってウインクした。ライアンもウインクはよくするが、このおじさんのウインクはかなり不気味である。
「ありがとう。田舎の村から出てきて、右も左も分からなくて困っていたところなんだよ」
「いやいや、おじさんもそうだろうと思ったんだよね」
その割には最初、無情にも僕を追い出そうとしましたよね?と口から出かけたが、このおじさんの機嫌を損ねてゲームの遊び方を知るチャンスを無碍にすることになりかねないので、押しとどめた。
「それで、どういうルールなの?」
変なおじさんは残りのビールの量が少ないことを確認すると、一気に飲み干してジョッキを置いた。
「いいか。このゲームはな、そこにあるルーレットを回して、出た数によって勝敗が決まるゲームだ。どの数が出るのかを、俺たちが予測するんだ。テーブルに描いてある数字の表はその為にあるんだよ。数字の上に持っているチップを置いて、賭け額を表明するんだ。チップは、あそこのカウンターで現金と交換できるぞ。で、もし自分が賭けた数字が出れば、自分の勝ちになる。その数字が出る確率が低ければ低いほど、獲得できるおはじきも増えるっていう寸法だ」
「ははあ」
ティムは、右手で顎を摩りながら、テーブルの上を眺めた。人々が競い合うようにおはじきを賭け、そのたびにディーラーが発表して、テーブルは活気に満ちていた。
おじさんは空瓶を片手でつかみ、自分の肩をぽんぽんと叩きながら、ほろ酔いのせいかどもりながら話を続ける。
「後な、表を見れば分かる通り、賭けられる場所は数字だけじゃないぞ。赤と黒で賭けたり、奇数と偶数でかけたりと、色々な賭け方があるぜ」
話しながらおじさんは手元にあったチップを四つ取ると、その内二つを三と六の間に置き、もう二つを十七と二十の間に置いた。
「例えば、こんな感じだ」
「へえ。数字単体だけじゃなく、隣り合わせの数字と数字の間にも賭けれるんだね」
「そうだ。こうすれば、数字一つに賭けるのと比べて、当たる確率が倍になるからな。その分、配当は半分になるんだけどね。まあ、百聞は一見にしかず。どうだ、一回・・・」
そこまで言っておじさんが顔を上げた時、既にティムはそこにいなかった。
ライアンがその酒場に入ると、古い木の湿った匂いと酒の匂いが同時に鼻孔を刺激した。
店内は薄暗く、少しの松明が温かな明かりを漂わせていた。まだ外は暗くなり始めたばかりだが、ここだけは一日中夜であるかのような印象を受けた。
ボーイの案内で、ライアンは丸いテーブルの席に通され、ジョッキのビールを注文した。
ライアンは一人胸を躍らせていた。ライアンの故郷であるカザーフ村でライアンが認める可愛い女の子というと、二人しかいない。しかし、片方は七つ上の従兄と結婚しており、その人自身もライアンの五つ上と、とてもライアンが夢中になれる相手ではなかった。そしてもう片方は年齢も同じくらいで独身なのだが、同性愛者であった。
そんなライアンに、ようやく至福の時が訪れようとしているのだ。
いやあ、人間生きてればこうしていいことも起こるもんなんだなあ。
これだけ大きな街だ。きっとカザーフ村の女とは比べ物にならない上玉が無数に揃っているに違いない。
そうライアンがほくそ笑んでいた、その時。
「こんばんはあ!」
品の無い声が聞こえてきた方向を見て、ライアンは絶句した。衝撃の余り目と口を開きすぎて、もう少しで目玉がはみ出て顎が外れるところだった。
ライアンの目の前に現れたのは、厚化粧の凄まじいデブ女と、チンピラのように短く刈り込んだ髪型で、しかも左腕に醜悪なドラゴンの刺青の入った女。そして、最後の一人に関しては、どこからどう見ても青髭の濃いオッサン、つまりオカマである。
「今日は来てくれてありがとお」
まずデブ女が颯爽とライアンの隣に座ろうとしてくる。
ライアンの日ごろの防衛本能はこんな場所でも正確にはたらき、思わず手が腰の剣に行ったが、間一髪でこれはモンスターではないという正常な(?)認識ができたので、剣を抜くまでには至らずに済んだ。
そんなライアンの心境を露とも知らない女たちとオカマは、ぞくぞくとライアンを囲むようにして座っていく。
「私、ボニーよ。よろしくね」
デブがとびっきりの笑顔で言う。脂肪で潰れていて、目が消えていた。
「私、ブランカよ。忘れられない夜にしましょうね」
オカマが耳元で湿った声で低く囁く。
恐る恐る横目で顔を伺うと、見ているだけでも体がちくちくしてくるような青髭がびっしりと生えていた。違う意味で忘れられない夜になりそうで、冷たい汗が背中を流れるのをライアンは感じた。
「そして、アタイがジードさ。今日はよろしく」
煙草に火を点けると、刺青女は表情をぐにっと歪ませた。本人としては、恐らく笑顔を作っているのだろうと、ライアンは推測する。
奥から頼んでいたビールが来ると、女たちはそれを順番に回してライアンの前まで届けた。
「さあさあ、お兄さん、どうぞどうぞ」
女たちの手拍子と掛声に合わせ、ライアンはビールを一気に飲み干した。
女たちから歓声が上がる。
「わあ、いい飲みっぷりですわ」
「まあ、まだこんなもんじゃ酔わないね」
ライアンは空になったジョッキを置くと、袖で口を拭った。
「まだお若いのにそれだけ飲めるなんて素敵だわ。ブランカ、あなたに惚れちゃうかも!」
ブランカが両手を握って顎に付け、うるんだ瞳でライアンを見つめた。強烈にグロテスクなワンシーンである。
見計らったかのように、ボニーが言う。
「おかわりはいかがなさいますか?」
ライアンとしてはもうすぐにでもその場から走り去りたい気分だったが、まだ来てほんの数分しか経っていないので立ち去り辛かった。だからライアンは、後一杯だけ飲んで、適当な理由をつけて帰ろうと決めた。
「じゃ、じゃあ、もう一杯だけ・・・」
すぐさま女たちはボーイを呼びつけ、ビールを一杯頼んだ後、ジードが目をぎらつかせてライアンに尋ねた。
「あたしたちもご一緒してもよろしいかしら?」
「は?」
「ほら、一人で飲むのも寂しいでしょう。私たち、付き合うわよ」
ボニーがライアンにウインクする。
もっとも両目とも肉に埋もれているので、片方の瞼の脂肪が少し動いただけにしか見えないのだが。
「じゃあ、私たちには葡萄酒を頂戴」
ライアンの返答を待たずにジードが注文する。
さすがにそれは癇に障ったので罵声の一つでも浴びせてやろうかと思ったが、酒の一杯くらいでがたがた言うのもみっともないとも思い、何とか怒りを抑えた。
しかし、とんだ店に来てしまったと、ライアンは後悔せずにはいられなかった。
ディーラーが数字をアナウンスすると同時に、カジノ内は歓声と罵声で大きくどよめいた。勝った分のチップが、ディーラーにより勝者に配られる。その間にティムは今出た十二を紙にメモする。
かれこれティムは休憩を挟んで半日以上ルーレットを続けていた。
ルーレットをやり始めた時、ティムはチップを一枚だけ無難な所にかけ、小さな勝利と小さな敗北を繰り返していたが、慣れてきたところで少し冒険して賭けてみたところ、見事に当たり、大勝利を納めた。しかしそれ以降一向に勝ちがこず、カウンターで現金とおはじきの交換を繰り返していた。
だが、そんなティムに好機が訪れた。ここ数回の出た数が、ティムの狙っていた流れになってきたのである。ティムはここぞとばかりに全てのチップを賭けて、勝負に出た。
「お前、ここにいたのか」
振り向くと、そこにはあの変なおじさんがいた。口には葉巻を咥えている。
「ああ、おじさん。ここしばらくずっと、偶数、奇数の順番で来てるんだ。だから、次は偶数が来るはずだよ」
おじさんはティムからメモを受け取ると、吟味するように視線をメモの上に走らせた。
「まあ、確かに偶数になりそうな感じに見えるが」
「そうでしょ。ここは、がっつり賭けるよ。もうさっきからずっと外れてて、一発逆転しないとまずいんだ」
そうこう話している内にルーレットが回される。
ティムは、ありったけのチップを偶数の上に置くと、両手を重ね合わせて祈った。だが、玉はルーレット盤の中で孤を描きながら、無情にも三の仕切りに納まった。
「げっ」
「三が出ました!」
ディーラーの明朗な声が空しく響き渡り、周囲がざわめく。
ほとんど一文無し状態に陥ってしまったティムは、がっくりとその場に崩れ落ちた。
「偶数が出るはずなのに、何で・・・」
「ルーレットの考えを読むことなんてできねえよ。こいつの仕事は裏切ることだ。それがギャンブルの怖いところなんだよ」
そう言うと、おじさんはもくもくと口から煙を吐き出した。
その時、おじさんの目に眩しく輝く何かが見えた。それはうなだれるティムのベルトにかかっている袋の中から見えていた。
おじさんは生唾を飲み込むと、そっと袋に近づき、中を覗き込んだ。
それは青く輝く美しい宝石だった。
おじさんは思わず武者震いを起こして、その宝石に見入った。そして、ティムを一瞥すると、宝石をすっと引き抜き、その場から一目散に離れていった。
いよいよライアンが二杯目のビールを飲み干すというところで、おもむろにボニーとジードが立ち上がった。
「ごめんなさい。私たちもうお仕事終わりの時間なの。今日はありがとう。また遊びに来てね」
もう二度と来るか、とライアンは心で吐き捨てた。
しかし、何はともこれは良い展開である。ライアンにとって店を出やすい状況が転がり込んできた。
「そうか、じゃあ俺もそろそろ…」
「あら、もう行っちゃうの。ブランカ、寂しい」
すかさず残ったオカマがライアンの腕に抱きつく。同時に強烈な加齢臭がライアンの鼻孔を突き上げる。
「ちょっと! 俺これから用事があるんだって!」
「そんな用事と私どっちが大切なわけえ?」
俺にとってお前の存在ほど価値の無いものは無いんだよ、とライアンは教えてあげるべきか真剣に悩んだ。
「ちなみに、私は今日は朝までコースよ!」
そう言ってブランカは上目づかいでライアンを見つめる。いい加減吐き気だけではなく、怒りまで込み上げてきた。
「黙ってたらいい気になりやがって、いい加減にしろよ! もう俺は行くからな!」
「こんばんは」
近くから女の声が聞こえた。
振り向くと、そこにはデブと刺青の代わりにやって来たと思われる女がいた。しかし、前の二人とは比べることすらおこがましい美少女だった。
ライアンは呆気にとられ、目を点にしてその女の顔を見つめる。
そんなライアンの様子に、女は不思議そうに首を傾げた。
「あら、どうかされましたか?」
「え、いや・・・」とライアンが言うが早いか、ブランカが口を開く。
「わざわざ来てくれたのにごめんなさいね。この方これから用事があって、もう帰らないといけないらしいわ。だから、出口までご案内してあげて」
たちまちライアンの顔色が変わる。
「いや、でも待てよ。その用事は今日じゃなくて明日だったような気が。いや、そうだ。確かに明日だった」
「まあ、ほんとに? だったら、まだ一緒にいれるのね。うれしい!」
抱きつき、頬にキスしようと迫ってくるブランカを、ライアンは死に物狂いで押し返す。
「あたし、ケイティーです。よろしくお願いします」
「あ、どうも。ライアンです。よろしくお願いしまあす」
ブランカを押し返しながらも、ライアンはケイティーにでれでれと笑って応じた。
ケイティーがライアンの右隣に座る。
美少女の登場に、ライアンの下がりきっていたテンションは急上昇を始めた。
近くにいた店員を高々に呼ぶ。
「マスター、ビール追加!」
ライアンが注文をし終えると、ケイティーが口を開いた。
「ライアンさんは、その身なりからすると旅のお方なの?」
「まあ、とりあえずはそんな所だな。でも、ただの旅人ってわけじゃない。俺には明確な目標があるからな」
ライアンは呟くように言うと、もっともらしく宙を見つめる。
「へえ。どんな目標なの?」
「ヘーゼルガルド王国の兵士となり、エルゼリアにはこびる魔族を殲滅し、エルゼリアの民に平穏と安泰をもたらすことさ。親父がヘーゼルガルド軍の兵士長を務めているおかげで、俺も物心ついた時から兵士になるのに憧れててね」
話している途中でビールが来た。ライアンはそれをがぶがぶと喉に流し込む。
「正義感が強いのね。立派だわ」
逆方向から、生暖かいブランカの声が聞こえてくる。こいつ、まだいたのか。
ライアンは聞こえないふりをする。これ以上こいつの相手をするわけにはいかない。
こいつは放っといて、ケイティーと話していかないと、せっかくのカルディーマの夜が台無しになってしまう。
「へえ。今十八歳なんだ」
ケイティーは、無邪気な笑みをたたえながらライアンの顔を見つめた。
「ああ。ケイティーはいくつ?」
「十七」
「いいねいいね。やっぱ若い娘じゃないとね、オッサンじゃなくて」
ライアンが豪快に笑うと、ケイティーも笑った。横目でブランカを見たところから、ブランカのことを意味していることは伝わっているようだ。
「当たり前じゃなあい。オッサンとあたしたちじゃ比べ物になんないわ」
ブランカはいかにも呆れたという感じでげらげら笑った。
どうやら、自分のことだということに全く気付いていないようだ。
ケイティーが思い出したように言う。
「そういえば、さっき魔族を倒すって言ってたけど、魔族に恨みでもあるの?」
「いや、個人的な恨みは無い。しいていうなら奴らが存在している事実により俺が不愉快な気分になることだね。エルゼリアに奴等が存在しているというだけで虫酢が走るぜ。昔から曲ったことが大嫌いでね。悪と名のつくものは心底憎んでいるのさ。魔族なんてもう問題外だぜ。エルゼリアの民の為にも、魔族は俺がこの手で絶対に叩きのめす」
一気にビールを飲み干す。酔いが回ってきたせいだろうか、普段よりも饒舌になる。ビールがなくなると、すかさずブランカがビールを新しく注文した。
ケイティーは大きく魅力的な目でライアンをしっかりと見据えながら、ライアンの熱弁にうんうんと頷きながら聞き入っていた。
「そうなんだ。あなた、すごいな。すごく偉いと思う。魔族なんてろくなもんじゃないもの」
言ったケイティーの瞳に僅かに陰りが見えた。
ライアンはジョッキを口に運ぶ。
「君は、魔族に恨みでもあるのかい?」
ケイティ―は少し黙った後、言った。
「あたしね、昔、両親を魔族に殺されたの」
ライアンは思わずケイティーの顔を見ると、口に溜まったビールをごくりと飲み干した。
そしてライアンが何か言う前に、ケイティーは低く、しかしはっきりとした声で話し始めた。
「あれは、あたしが十歳のころだったわ。あたしとパパとママは、隣町まで馬車で買い物に行ったの。隣町にはよく遊びにいくから慣れてるし、あたしたちは何の心配をしてなかったわ。でもその日は、いつもと様子が違ったの」
ケイティーは眉根を寄せ、きゅっと唇を噛んだ。
「帰り道だったわ。急に天候が崩れたかと思ったら、辺りがどんどん暗くなっていって。気が付いた時には、どこを進んでいるのかも分からなくなってた。その時、突然馬が高く嘶いて止まって、そのまま地面に崩れ落ちたの。その瞬間に前の方からゴブリンの群れが襲ってきて」
ライアンはちっと舌打ちをし、歯を食いしばった。
「パパとママは護身用のナイフでゴブリンたちと対峙しながら、あたしに早く遠くへ逃げろって言ったわ。でも二人を置いて逃げるなんて、あたしにはできなかった。かといって戦うことなんてできないから、ただ泣き喚いてたわ。そうしている間に、ママはあたしの目の前でゴブリンにかじられて、力尽きて倒れたの。それをゴブリンの群れが囲んで」
そこでケイティーは声を詰まらせて、床を睨みつけた。
ライアンの体は怒りで震えていた。
腐れ外道が。こんな可愛い子ちゃんをそんな酷い目に合わせやがって。
ケイティーは淡々と続けた。
「すぐにパパも力つきて倒れちゃったわ。全身血塗れになって倒れていたパパが、逃げろって、すごい剣幕で怒鳴ったの。あたしはもう言うことに従うことしかできなくて・・・。どれくらい歩き続けたかな。あたしは偶然通りすがった旅人に救出されて、近くにあった村で育てられたの」
話し終えたケイティーは、おもむろに葡萄酒の入ったグラスを手に取り、一口飲んだ。
「すまん。嫌なことを思い出させちゃったな」
「ううん、そんな。あたしの方こそごめん。こんな辛気臭い話しちゃって」
ケイティーは両手で口を抑えて、本当に申し訳なさそうな表情をする。まだあどけなさの抜けきらない彼女のその仕草は、とても愛らしかった。
「まあまあ。野暮な話はその辺にしといて、お酒飲みましょうよ、お・さ・け」
横からブランカが口を挟んできた。手にはビールのピッチャーが握られている。
ライアンがすかさず鬼の形相で睨みつけた。
「てめえ!可愛い子猫ちゃんが悲しみに耽っている時に誰が呑気に酒なんか…」
「いいよ、私のことは気にしないで! 楽しく飲みましょう」
「そ、そうかい」
そう言うと、ライアンは悪びれながらジョッキを持った。
「ケイティーがそう言うなら、じゃあ・・・」
待ってましたとばかりにブランカがライアンのジョッキにビールを注ぐ。
「まあ、安心してくれよ。君の無念は俺がこの剣でいつかしっかりと晴らしてみせるぜ」
「ほんと。あたし、信じてるからね」
ケイティーは嬉しそうに無邪気な笑みを見せた。
「はあい、じゃあお兄さん、どんどん飲んでね!」
ブランカは手拍子を叩き始めた。
目の前にはたっぷりに注がれたビール。
ライアンはそれを乱暴に掴み、一気に飲み干した。
ケイティーがわあっと感嘆の声を上げる。
その声を聞きながら、ライアンの胸の鼓動は急激に速まっていく。
しかし同時に、強い眩暈を覚えて、ライアンはぎゅっと目を瞑った。
「はあ、やっぱギャンブルなんてするもんじゃないや。おじさんは勝てたの?」
起き上がりざまにティムは背後にいたおじさんの方へ向き直った。
しかし、そこにはおじさんはいなく、遠くに大慌てで逃げていくおじさんの背中があった。同時に、ベルトにかけていた袋からサファイアが消えていることに気づく。背筋が一気に凍りついた。
「ちょっとすみません! すみませんッ!」
人を押しのけ押しのけ、ティムはおじさんを追いかけた。気づくのが遅かったのでかなり距離が離れてしまい、危うく見失いそうだった。
出口へ向かっていくところを確認したティムは、部屋から出て来る時に下りた階段を駆け上る。
外に出て、ティムが素早く左右を確認すると、左の通りに必死になって逃げているおじさんの姿が見えた。
今思えば、随分長いこと地下のカジノにいたものだった。まだ辺りは暗いものの、空は少しずつ明るみを増してきている。この時間帯は、通りも空いていて、見失うことはないだろう。
「おいッ! それを返せ!」
追いかけながら、ティムは大声で怒鳴った。
「そう言われて返すんだったら、最初からこんなに逃げやしねえよ!」
おじさんは、もう汗ぐっしょりだ。
「でも、これでもう逃がさないぞ」
すぐ後ろまで追いついたティムは高く跳び上がり、腰の剣を、鞘のついたままおじさんの頭に打ちつけた。
「うりゃ!」
「ごふっ!」
鈍い音と共に、おじさんはその場に倒れた。
ティムはふうと一息吐くと、おじさんの手からサファイアをもぎ取り、袋にしまった。
危なかった。ただでさえ今一文無しだというのに、サファイアまでなくなってしまったら、洒落にならない。いや、もはや既に洒落にならない状況である。まだ旅も始まったばかりだというのに、俺は一体何をしているんだ。
ティムは完全に伸びきったおじさんの横に沈むように座り込んだ。空を仰ぐと、きれいな紫色だった。街の夜が明けようとしている。でも今日から一文無しだということを考えると、ティムはとてもやりきれない気持ちになった。
真白な日差しが部屋中の小窓から差し込んでいた。小鳥の鳴き声が耳に心地良い。
もう店内には自分を除いて誰もいない。夜が明けると、店の中はまるで違う場所のように映った。つい数時間前までここで自分が働いていたなんて嘘のように、店内は空虚だった。
ケイティーは、今朝の施錠の当番だ。しかし、彼女にとってそれはどうでもいいことであった。ただ店内に誰もいない状況がようやく訪れたことこそ、彼女にとって意味があった。
ケイティーはゆっくりとした足取りで店の受付へ向かった。そして、受付のカウンターの下にあった鉄の箱を持ち上げる。彼女はその箱を開けようと試みたが、厳重に施錠されていて、開かなかった。
しかし、彼女は何一つ表情を変えない。次に彼女は、右手の人差し指を鍵穴の前に突き出した。少しだけ目を細める彼女。
すると、一瞬指の先から火花が飛び散った後、電流が放出された。電流はまっすぐに鍵穴の中に入っていき、ばちばちと弾けるような音をたてた。
彼女は電流を止めた。鍵穴からは白く細い煙が漏れていた。そして彼女がもう一度箱を開けようとすると今回は簡単に開き、昨日の売上金がそっくり姿を現した。予想以上の大金だった。
従業員をこき使ってあれだけしか報酬くれないのに、お店はこんなに儲けてるんだね。ほんと有り得ない。ひどい、ひどい。
というわけで、このお金はあたしが頂いちゃっておきましょう。
箱の中のお金をごっそり袋の中に入れると、ケイティーは表出入り口に向かい外に出た。外では眩しい朝の光の中で、長い金髪の男が壁に寄りかかって眠っていた。
あ、この人、昨日次から次へとお酒飲みまくって、べろんべろんに酔い潰れちゃった人だ。ライアンっていったっけ。まだこんな所にいたんだ。
ケイティーはしゃがみこんで、ライアンの顔を覗き込んだ。随分気持ち良さそうに、よだれを垂らして眠っている。その微笑ましい姿に、ケイティーは思わず笑ってしまった。
そういえば、魔族を殲滅するとか言ってかなり意気込んでたな。あなたにはあたしの本当の名前教えておきたかったかも。
・・・あたしも負けてられないな。
ケイティーはおもむろに立ち上がり、その場から去ろうと歩き出す。が、すぐ何か思い出したように立ち止まった。
そうだ。この人、調子に乗って女の子みんなに奢りまくったから、今一文無しなんだった。今日の稼ぎに彼もかなり投資してくれたわけだし、少しだけ置いていってあげようかな。
ケイティーは袋の中に手を突っ込み、貨幣を適当に数枚取った。それをライアンの懐に入れると、彼女は軽い足取りで街の外へと消えていった。
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