第一章12話『知らず生きて死ぬ』
無重力か降下しているか分かる術のない中、暗闇だけを視感できるその空間で確かに胸を騒がす恐怖。前提からと言えば降下しているのだろう。だが、不思議と空気が肌に襲い来ることはしていない。むしろ優しく抱かれている感覚。
近付いているのは確かだろう。だがそれに比例して恐怖とは別の感情が沸き増幅されていくようだった。
何かに誘われるように導かれるように暗闇はいつしかあの何もないこの世界に導かれた時に感じ居た空間に似た空間のように錯覚し始めた。
愛が呼んでいる。愛に呼ばれている。愛に会いに行きたい。愛に呼ばれるまま愛したくなる。何か分からない愛、何者か人か生き物か分からない愛を抱きしめたい。離れないように強く強く二度と離れないように抱きしめたい。
叶わぬその情を抱き近付く底から聞こえてくる轟音。大地を押し返そうと底から湧き出る轟音。その先、どこまで行けばいいか分からない。でもあるであろうその先の愛を求め導かれる。愛に、
『――愛しています』
その轟音の先から発せられたのか、胸に物理原理を無視して囁くのか分からない。その伝える術は分からない。言葉を返す方法も分からないでも、ツルギは誰もいない、何もない、暗闇のその空間で轟音の先に言い返す。その返答に返ってくる言葉はなく、ただの轟音だけがその暗闇を呑み込み吐き出そうとしている。
「――君は、誰なんだ……」
愛されるから愛したい。愛したいから知りたい。愛があるから知りたい。愛を叫ぶために知りたい。愛したいその声を理解したいから知りたい。愛したいから名を知りたい。
その情が喉から口を辿り声になることにはツルギは呑み込まれる。その轟音の元凶に、
そしてまた、近付けたはずの声からまた、遠く遠く遠ざかる。
ツルギの問いに対しての答えはなかった。だが、もう一度聞くことが出来るその愛を、
『――また、いっちゃうの……?』
† † † † † † † † † † † †
赤毛をはためかせて底井戸から家へ帰路を辿る足が背に置き去りにした存在が気に掛かるように土を蹴って砂煙を少し上げて進む。その普段通りでない足取りを察したのか精霊フンシーが彼女の傍らで浮遊しながら囁く。
「いいのかい? あの子は何も力がない。底へ落ちれば……」
「先に行ってていいって言ったじゃない。だからいいの」
「ほんとに? きっと死んじゃうよ?」
「……う」
「死ぬよりも恐ろしいことになったら――」
赤毛を翻して土を抉るように踵を返して井戸へ砂煙を上げることなく駆け出す。
その彼女の背をゆったりと浮遊して冷静に追う翠色の精霊。
「全く、素直なんだか素直じゃないんだか。どうせ始めから戻るつもりだったんだから意地張らなくてもいいのに」
少し駆けだせば時間も掛けずに井戸まで辿り着く。井戸の中を凝視するため身を乗り出して彼へ声をかける。
「ツルギー、落ちたら大変。助けに……え?」
身を乗り出して見れば彼の姿はそこになく視感できるのは暗い暗い暗闇。底がどこまで続いているのか分からない程の暗闇。フンシーが浮遊しながら完全に井戸へ身を出してアテラの眼前で浮かぶ。
「おっこったようだね。時は遅くあの子は死んだようだ」
「不吉なことは言わないの、いいから早くやって」
半眼に閉じたその双眸が粘りつくようにフンシーを射せば彼女の願いを精霊は一つの文句と一つの承認で叶える。
「全く君は精霊遣いが荒いなぁ。まあいいけどさ。大地に眠る水源よ。おいで……」
フンシーの翠色の体が透き通った海のように青く輝くとその導きに惹かれるように底井戸の深く深くに存在するであろう水源が轟音をがなり立てて近付く。今にも井戸を半壊させてもおかしくのない轟音の中に瞳を凝らせば見える少年。
「さあ、おいでなすったよ。アテラ、君は離れないと濡れちゃうよ」
アテラは一つ頷きその身を連絡塔入口まで逃がして待機する。
離れたことによって轟音が小さく聞こえたと思えば刹那にして爆音を弾かせて大量の水が井戸の天井へ激突する。
井戸から飛散する大量の水は本当に底井戸の深く底に存在していたのかと思うほど多く乾き切っていた更地を水浸しにして潤いで満たすのに数秒しか掛けなかった。
精霊フンシーはその吹き狂う水の中微動だにものとせずに浮遊しているように見える。
数十秒後フンシーの導いた水源は役目分の量か、井戸の底に眠っていた量なのか最後の一滴を大地に飛散させてその役目を果たして大地に吸われるように沁み込もうと徐々にしていく。
フンシーは井戸の底へ目と口を向けると目的を果たせなかった疑問を吐く。
「……あれ、あの子がいな――」
その言葉を切り、否、切られて「グホ」という異音と共に姿を天井から落ちた紺と白色の物体が押し潰して落下していったのだ。
「フンシー!」
空気の圧力をその球体の体を強引に避けていき翠色の球体は歪む。
自身から緑色の光を放ち眼をその球体に覆いかぶさるように伸し掛かるそれに向ける。
「――って、ツルギ!?」
ツルギが目を回して気絶状態になっていた。井戸の入り口から入り込む光が豆のように小さくなった時にようやく精霊フンシーは状況打破をする。
球体に一瞬だけ空気を取り込み元の大きさから一回り膨らんだ。そして取り込んだ空気と自身の自力も含めて一気に可愛らしい声と共に吐き出す。
「ふぅぅー!」
重力に呼ばれていた彼らは重力に反すと同時に精霊に覆いかぶさったツルギの腹部へ柔らかな球体が鉄球の如く食い込んでいく。その衝撃でツルギは正気を戻した。
「ぬあっ!」
ツルギは半眼の双眸で状況を把握するため瞳を左右上下と動かせばその視界に入るのは、筒状の空間を自身が後方へ急激に加速している状況と腹部に未だ食らいつく翠色の球体。
「なにほど!?」
身に覚えのある翠色の球。そして先刻の状況下から推測するのは容易だった。筒状の空間は井戸その中で後方へ加速しているのは地上へ上昇している。
「なんか変な玉かと思ったらフンシーか」
徐々に加速が増していくツルギとフンシー。ツルギが顔を傾け片目を井戸の入り口へ視線を送れば外からの光が近付いている。
「おい、フンシー。そろそろ失速してもいいんじゃないか?」
その一声に加速していた速度は増々加速していった。外から入り込む光がツルギの背に当たる頃。
「おいおいおい、マジでやばいって!」
精霊フンシーはない鼻を鳴らして冷たく冷酷に憤怒しているご様子。
「君は本当に……」
「おいおいおいおい! やばっ――」
井戸の入り口に差し掛かったその刹那、フンシーは加速し続けていた速度をゼロにして急停止に成功した。だが腹部に食らいつかれていただけの彼は失速を忘れ一人井戸の天井へ激突を果たしたのだ。
その急激な衝撃は全身、脊髄を食らい同時に声にならない声を肺にたまった空気と口を潤わせていた唾液と共に吐き出し、瞼を大きく広げ角膜が完全に上眼瞼に隠れ、一言でいえば白目を剥いた。
徐々に舞い降りる視界を捉えるためにある角膜がその先に視線を送る。ゆったりとスローペースで井戸から少し離れる美少女を捉える。
――はぁ、やっぱ可愛いよな。死ぬ間際に見る走馬灯的なアレかな。
半無重力状態で袴の重みすら感じないその状況の前に現れた女神。
をそのだらしのない半眼の双眸が把握した次の瞬間、呆れ声と全身に直撃を当てられたような衝撃が襲う。
「――死にたいらしいね」
その進行方向は女神と称したアテラ。土が濡れた頬や服に纏わり付き汚れながら彼女の足元へ誘われた。
その微かに薄れる瞳の先、確かに見れる走馬灯。その桃源郷を目の当たりにしてツルギは無意識に思ったことを口から溢す。
「……あぁ、実にいい景色だ」
ぱっと可憐な長い赤毛を翻しふわりと舞う白のローブとその下に装ったひらひら。震える瞼がそれを焼き付けようと必死に意識を途切れさせまいと抵抗する。
「なに言ってるの、大丈夫?」
「あぁ、大丈夫。それよりありがとう」
「な、なにが?」
「純白の走馬灯、これが桃源郷という天国なのか、きれいだ……」
疑問符を浮かばせて眉を中央に寄せてしばらく思考を働かせていれば理解した。そのツルギの発言を、
アテラは俊敏に背筋を伸ばして両手でスカートの裾を押える。その白地から伸びる白い細い脚もご褒美以上の何物でもないとばかりに薄れる瞳に焼き付け次の瞬間意識が切れる。
鈍い音と同時に襲った暗闇。そう、彼女に足蹴りされ朦朧としていた意識は完全に途切れてしまった。
ツルギの意識が亡くなった後、顔全体を髪の色と同色に紅潮させたアテラが恐る恐る足を離してしゃがみ込んではツルギの頬を白い華奢な指先が優しく二度触れる。反応は無く小さく不規則な息遣いを確認出来た。
その生存に安堵して胸を撫で下ろす仕草をするアテラの元へ呑気気ままに浮遊しながら近寄る精霊。
「生きては、いるみたいだね」
「……よかった。全く全くフンシー、加減しなさい!」
「アテラ、それをボクに言うのはお門違いじゃないかい?」
「うぐぐ、分かりました分かりました。ごめんねツルギ、でもツルギも悪いんだから」
諦めることに抵抗して半眼にして眉を何度か寄せていたが、自身の罪に負け抵抗を止めて再びツルギに視線を送って頬に優しく手を添えた。
「さあ、帰るよアテラ」
「うん。あ、ツルギのことよろしくね」
「気は乗らないけどボクも多少なりとも関与しているからね。仕方ない、よいしょっと」
するりとその球体を滑らせてツルギの後ろ首に入り込み軽々と自身を浮遊させて先導して帰路を辿る。
その光景を呆然と眺めてしまうアテラを誰が否定出来ようか。
要するにアテラから見た光景にフンシーはいなくツルギが異様な体勢で踵を引き摺って首に力を入れることもせずにだらけながら後進しているのだ。
「絶対あの体勢あとで痛そう、ごめんねツルギ」
まだ昇り切っていない太陽が朝陽の優しさから昼間の暑さに変わろうとしている最中、アリスメル村に異質な体勢をする異世界人、ツルギが周囲の視線をものともせずに後進し続けたと噂の事実が流れ、彼の前では禁句の話題となったのは日柳剣は知らず生きて死ぬこととなる。
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