温かい
桜前線とともに移動する二人旅は何事もなく順調、のはずだった。あの日がやってくるまでは。
約二か月滞在した土地を出て、次の目的地に到着して間もなくだった。彼女が急に体調を崩した。最初はただの風邪だ、と二人とも考えていて、特に病院に行くわけでもなく「咲空愛は桜の季節に風邪ひくようになってんだよ、今回は移さないでね」なんて冗談を言いあっていた。が、彼女の咳は何日経っても止まることがなかった。しかし病院があまり好きではないという彼女は行こうとはせず、市販薬を飲んで回復を待った。その間にも彼女の希望でその土地の桜の名所や街中の市民の憩いの場になっている公園などにでかけ、ひたすら絵を描き続けた。そして、その日がやってきた。
その日は、滞在する街の中心部からずっと遠く離れたとある村にある「田園の中に佇む大きな一本桜」を見に行く予定をしていた。
「咳が止まらないなら少しは寝てたらいいのに。」
という自分の言うことは聞くはずもなく、彼女は、
「だって予報では明日から雨なんだよ。今日見なきゃ散ってしまうじゃん!今見なくて、いつ見るの?」
「…もしかして、その続き言ってほしいの?今でしょ…。」
とか言いあいながら、朝早くからせかせかと準備に取り掛かっていた。咳は相変わらず止まらなかったが、それ以外は特に悪い所もなさそうだったし、何よりいつも以上に張り切っている彼女の姿を見ると、自分には無理には止められなかった。
レンタカーを借りて、約一時間ぐらい走らせたところだったろうか、ホテルを出る前からずっと元気だった彼女の口数がだんだんと減っていき、ついには自分の問いに頷くだけになった。どうも様子がおかしいと彼女の顔を覗き込むと、暖房が効きすぎているわけでもないのに物凄い量の汗をかいていた。慌てて道の脇に車を停車させた。
「どうしたの!?」
という自分の問いに何も答えず、しばらくたってから彼女は呟いた。
「…胸が…痛い。」
嫌な予感がした。これはただの風邪なんかではないと、そのときはじめてわかった。すぐに来た道を引き返し、街の大きい病院まで車を猛スピードで走らせた。
受付を済ませ診察室の外で待っている間、普段は自ら話しかけてくることの少ない彼女がいろんなことを話しかけてきた。もしかしたら、もうすでに彼女はその時点でただの風邪ではないということに気付いていたのかもしれない。自分に心配させまいと無理やり作り出しているであろうその笑顔を見ると、なんともいえない気持ちになった。結局その日は簡単な診察と胸部のレントゲンを何枚かとっただけで病院をあとにした。
帰りの車中、予報外れの雨が降り出してきた窓の外を見ながら彼女がふと呟いた。
「…なんか、ごめんね。」
こんなとき彼氏の自分が冗談でも言って笑わせてあげれたらいいのに。何も言い返せず、黙って車を走らせることしかできなかった。彼女もそれ以上何も言わなかった。徐々に強まってきた雨が車に当たる音と、ゴムが傷んだワイパーのこすれる音だけが車内に虚しく響いていた。
それからというもの、彼女はたびたび微熱に襲われ、もう桜を見に出掛けるどころではなかった。三日に一回ぐらいのペースで病院に通い、最初は気休め程度の風邪薬を処方されたが、しだいに本格的な検査に移行していった。病院に通いはじめて二週間ぐらい経過した頃だった、待合室で雑誌なんかを読みながらいつものように彼女が出てくるのを待っていると、診察室から担当医が出てきて自分に中に入るよう促した。中に入ると、彼女の姿はなかった。医者のそのなんとも言えない何かを言いにくそうな顔を見ると、心が重たくなった。
「彼女の病気のことについてなのですが…。」
「どうなんですか?すぐに回復しそうなんですか?」
椅子から身体を少し前のめりにして聞くと、医者は一回俯いてから顔を上げて言った。
「…率直に、簡潔に申し上げますと、彼女は肺がんです。」
ある程度、覚悟はできていた。はずだった。今の時代、インターネットなんかで調べたら大体のことはわかってしまう。もちろん、彼女の症状なんかも。けど、絶対に違うって思っていた。ありえない。もうずっと前に煙草だってやめたはずだったし、彼女にかぎってそんなことはありえない、って願っていた。咳がとまらなくなっても、医者の簡単な診察がしだいによくわからない医療機器に移行しても、ただ風邪をこじらせただけだって、そのうちまた元気な彼女の姿が見られるって、ずっとずっと願っていた。だけど、その願いはいとも簡単に打ち砕かれた。
「本当に申し上げにくいのですが…長くてあと半年かと思われます。」
聞きたくなかった、余命宣告。あと、半年。担当医からはまだ本人には伝えていないと言われた。
「除去手術をすれば助かる可能性はあります。しかし、ほかの臓器に転移している可能性もなくはないですね。本人が望むのであれば除去手術をしたほうがよいかと。」
「…そうします。本人に確認してみます。」
担当医と話を終え、待合室でしばらく待っていると彼女が出てきた。咳と怠さと吐き気でとても辛そうだったが、彼女は自分の姿を見つけると笑顔でゆっくりと歩いてきた。何事もなかったかのようにいつものように自然に振る舞った。が、ホテルの部屋に着いてから彼女に問いだたされた。
「…ねぇ。何話してたの?医者と。」
急に聞かれたものだから、焦って注いでいたお酒を床にこぼしてしまった。
「い、いや。特に。あれだよ、あのー…咲空愛があとどれくらいでよくなるかって…。」
「ずっと前、私に言ったことあるよね。嘘が下手だね、って。今、その言葉そのまま返すよ。太一、案外嘘が下手だね。」
そう言って彼女は微笑んだ。言えなかった。やっと綺麗になってきて、やっと親友もできて、やっと夢を実現している途中で、やっと、やっと二人の愛も深まってきたところなのに。こんな彼女が、まだ二十六歳の彼女が肺がんだなんて。余命半年だなんて、自分の口からはとてもじゃないが言えることではなかった。
「嘘じゃないよ。嘘じゃな…」
「隠さなくていいよ。もう、なんかわかってる。言われなくても、自分でわかってるよ。太一は優しすぎるから言えないんでしょ?言うの辛いんでしょ?無理に言わなくていいよ。」
「わかってるって…医者から聞いてないんだよね?病気のこと。」
彼女は小さく頷いた。
「うん。聞いてない。けど、もう…長くない気しかしないんだ。覚悟はできてるよ。けどね…。」
さっきまでの笑顔が消え、彼女は突然泣き出した。
「けどね…なんでだろうね。自分が長く生きられないって理解しはじめてからね、夜中に目が覚めて、ずっと涙が止まらないんだ。一人なら、こんなに泣かないよ。けど今は一人じゃないじゃん。」
彼女の涙を見て、自分もいつのまにか泣いていた。そして無意識に彼女を抱きしめていた。
「私がいなくなったらさ、太一どうするんだろって、考えちゃうんだよ。もうやだよ。離れたくないんだよ。どうしたらいいのかわかんないよ。」
「…いなくなるなんて、言わないでよ。まださ、わからないじゃん。奇跡ってあるんだよ。まだ何も確定してない。だから、二人で頑張ろうよ。」
その夜は、ずっと身体を寄せ合っていた。何か特別な行為をしたいわけでもなく、彼女も同じ気持ちだった。ただ、身体を寄せ合っていたかった。窓の外の澄んだ冬空を二人で見ながら。いつかはこの温かい身体も冷たくなって、この夜空に輝く星のひとつになるのに。それがあと六十年後なのか、半年後なのか。いつまで彼女の身体を抱きしめていられるのだろうか。そんなことを考えながら彼女のほうを見ると、自分の腕の中ですでに眠っていた。泣き腫らした目も、半開きの口も、小さないびきも、すべてが愛おしかった。
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