さくら、それは美しい。

白鴉 煙

どうしても

 仕事を終えて家路につく。玄関を開けても暗い部屋。そりゃだって一人暮らしだからしょうがない。とりあえず電気をつける。シャワーをあびる。さぁここからが面倒だ。溜まりに溜まった山積みの洗濯物。そんなものは後回し。とりあえず晩ご飯。何が食べたいかを考える。白ご飯は朝炊いたから大丈夫。ん?まてよ…もしかしてもしかすると…勢いよく冷蔵庫を開ける。そう、何もない。卵一個すらない。いつも忘れる。買い物。面倒だ、本当に面倒だ。早くいい嫁さんもらって何か作ってもらわないと。といっても、彼女すらいない。候補すらいない。もう二十代も中盤になるのに。周りは次々結婚してくのに。なんだこの悲しい人生。

 「もう自分はいい出会いもなく死ぬまでずっと一人なんじゃないか」そんな考えが頭をよぎり始めた頃だった。彼女と出会ったのは。

 

 車を走らせいつも行くスーパーに辿り着くと、買い物客で混みあっていた。今日は惣菜でも買って簡単に終わらすか。と考えていたが、そういえば最近は料理を面倒臭がって惣菜ばかりだったことに気付いた。このままではダメだ、とりあえず野菜だ。野菜スープでも作ってやろう。と意気込んで野菜売り場に向かった。まずはニンジンと…あとあれだ。長ネギ。あれ?長ネギがない?所狭しと並ぶ野菜たちの中から長ネギを探して数分。やっと見つけた。

 さぁレジに行こうか、と思ったときだった。すぐ後ろをスーパーの店員が通りかかった。顔は見えなかったが、その後ろ姿を見て、ある物に視線を奪われた。それは、彼女の長い黒髪とそれを束ねる青いシュシュ。黒髪の女性なんてどこにでもいるし、シュシュだって特別珍しいものでもない。ただ、おかしいことに周りの客や色とりどりの野菜がぼやけて、彼女の歩く後ろ姿だけしか視界に入ってこなかったのだ。自分でもよく理解できない、もちろん未だかつて経験したことのないことだった。

 部屋に帰っても彼女のことが忘れられずにいた。風呂上がりの冷たいビールを飲みながら、彼女のことを思い出していた。まぁしかし、ちょっと深く考えすぎなのかもしれない。偶然彼女しか目に入ってこなかっただけで自分が気にしすぎているだけだ、きっと。と、そう思うにとどまった。そのときは、そう思うしかなかったのだ。

 

 数日後、とある小説が欲しくて仕事帰りに本屋に立ち寄ったときのことだった。サラリーマンや学生が雑誌コーナーで立ち読みしているのを横目に、ズラッと並んだ小説の中から目当ての本を探しつつ、目についた本を手に取ってパラパラっとページをめくっていたときだった。次の本を取ろうとちょっと視線を横にずらすと、二つ隣の本棚の前で同じく立ち読みしている女性がいることに気付いた。彼女だった。見間違いかとは思った。青いシュシュをしている女性ならいくらでもいるだろうし、あのとき自分は彼女の顔を見ていなかった。しかし、数日前スーパーで感じた不思議な感覚がまた襲ってきたのだ。彼女しか見えない、というより周りがぼやけて彼女の姿だけがはっきり見えてしまった。もうこれは明らかに思い違いなんかではない、絶対何かある。そうとしか考えられなかった。別に神様がいてもいなくてもそんなことはどうでもよかったし、運命とかも信じる気は今までまったくなかった。けどそのときはそういう類のものを信じたくなった。これは、チャンスだ。特に特徴もない趣味もない、街コン行っても女性にまったく興味を持たれず電話番号の交換すらされない二十代中盤の恋愛ダメ男に神様が与えてくれたチャンスなのかもしれない、と思い込んだ。だとしたら、あとは自分の度胸しだいだった。

 本を置いて立ち去ろうとする彼女に勇気をだして話しかけた。

 「あの…間違いだったらすいません。もしかして、○×スーパーの店員のかたですか?」

急に話しかけられた彼女は、不思議そうな顔をして小さな声で答えた。

 「…そうだけど。」

 「あ、やっぱり。よかった、間違いじゃなくて。あの、小説、好きなんですか?ちょっとお話ししませんか?」

彼女は明らかに不審そうな目で自分を見ていた。そりゃそうだ、誰かもわからない男の人から急に、お話ししませんか?なんて。発言したあとに言葉を間違えたとものすごく後悔した。

 「…はい?いや、急に言われても…。あの…失礼ですが、どなたですか?」

 「すいません、そこ言ってなかったですね。自分はこの前初めてあなたをスーパーで見かけたんですが、それ以来なんか気になって。それでたまたますぐ隣にいたからちょっと話かけてみようかなぁって思ってですね…えーと…。」

母親や親戚ならまだしも、見知らぬ女の人と話すのは大の苦手だった。慣れているわけでもなかったし、緊張もあったから余計にだった。彼女はますます不審な顔になった。今すぐにでも自分の前から立ち去りたさそうだった。

 「はぁ…。けど私このあと用事があってすぐ帰らなきゃいけないんだけど…。」

 「そうですか…少し、ほんの五分だけでも時間もらえませんか?ほんとうに少しだけでいいんで。」

恥ずかしい話だが、女の人と話したいがためにこんなに頑張ったことは今まで皆無だった。特にイケメンでもないし、性格も内気だし。男となら普通に下ネタを言い合ったり馬鹿な話をしたりして笑い転げれるのだが、どうも女の人とはうまく会話ができなかった。こんな感じだから街コンになんか参加しても無駄な出費でしかなかった。けど、この人とはどうしても話してみたかった。この気持ちは、彼女と顔を合わせてから余計に強くなった。こう言うと失礼だが、彼女はちょっと変わった顔をしていた。頬がちょっとコケてて痩せ気味で、眉は非常に薄く、鼻はスッとして細い。そして、ちょっと出っ歯。パッと見た感じでは化粧をしているのかスッピンなのかもわからなかったし、お世辞にも美人とはいえなかった。しかし、自分はそんな彼女の目に惹かれた。瞼は非常に重たそうで細く鋭かったが、その細い瞼の奥の瞳は、とても透き通っていた。少し茶色で、見つめていると吸い込まれそうで。

 「じゃあ五分だけなら…。」

彼女は少しの間迷っていたが、渋々了承してくれた。心の中でだが、腕を突き上げてガッツポーズをした。頑張った。他人からみたら大したことないかもしれないが、ものすごく頑張ったのだ。いつも大したこともしてない自分を久々に褒めてあげたくなった。

 

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