俺の肩には、女神が尻を乗せている

籐太

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ミーチャは、始終、反吐へどを吐いてるような男だった。

そして、戻って来るなり、また酒を飲むのである。


ミーチャというのは、無論ドミートリー・カラコーゾフのことだ。

正確には、ドミートリー・フョードロビチ・カラコーゾフだが、

フョードロビチとは父親のことで、

僕達の国ではこのように必ず父親の名前を名乗らされる。


それだけ、伝統的に父親の権利が強く認められている国と言いたいわけだが、

彼はどういった経緯からか、

なんとフョードルの眉間みけんに風穴を開け、思考も呼吸も、

もちろん仕事帰りに一杯引っかけるなんて真似が二度とできない状態にしてしまった。

きっとフョードルの方だって、もう必要ないと言うだろう。


だというのに、父親の名前をつけて呼ぶのは、

なんというか僕の方に抵抗があったのだ。

ミーチャがどう考えてるかは知らない。


おそらく、バーテンが次のグラスを運んでくるのに後何分かかるかほども、

気にしていないように思えた。


それに僕が彼以外のミーチャについて語るなど、未来永劫みらいえいごう有り得ないことだ。

だから、ミーチャはミーチャでいい。


もちろん僕がどう考えていようと、

父親殺しは重罪である。


そんなミーチャが今もバーで反吐へどを吐いていられるのは、

我が偉大なる祖国に死刑制度がなかったおかげだ。


もっとも、終身刑を言い渡されたのだから、

正妻であるアイリッシュウイスキーはもちろん、

ビールやポートワインといった彼の愛する娼婦しょうふ達とも、

永遠に縁を切らされるはずだった。


だが、彼はこのときすでに兵役へいえきを経験していた。

おまけにズバ抜けて優秀な成績を修めていたのである。


当時、偉大なる祖国はあちこちで少数民族や異教徒達と内戦をやっていたわけだが、

国民のほうはもう飽き飽きしていた。

つまり志願兵を集めるのに苦労していた。


反対に、監獄かんごくは連日の大繁盛で、犯罪者達の肥溜こえだめと化していた。

死刑制度がなくなっても、

陪審員ばいしんいんの胸糞を悪くするようなイカレ野郎はいなくならなかったのだ。


政府だって、内乱や弾圧に対する国際社会の批判をかわすため、

死刑を禁止してみせただけに過ぎない。


ミーチャの口を借りるなら、だ。

「どうやったって、人間はクソをしなくちゃ生きていけねえ、

 なあ? そうだろうが、ペルホーチン?


 なのに、せっせと肛門ケツにだけ栓をして、縫い付けちまったようなもんさ。

 だったら、もう反吐へどを吐く以外にねえだろうが」


政府は、恩赦おんしゃをエサに犯罪者からも志願兵を募ったのだ。


志願ということになっているが、

実際には長々とした説明の後に、

同意します以外に丸を付ける場所がないような

紙切れを渡されたのだという。


ミーチャはその紙きれで尻を拭いた後、便所へ流した。


だが翌週、前線行きを志願したとして徴兵ちょうへいされてしまったのだという。


「きっと看守かんしゅの野郎が、俺のせいで詰まった便器から取り出した後、

 代わりに丸をつけてくれたんだろうぜ」


ミーチャは兵舎へいしゃ煙草たばこかしながら、そう教えてくれた。

この頃は、まだそれほど酒を飲んでいなかった。


彼が酔っていないのは、人を撃つときくらいなのだ。




僕がミーチャと出会ったのは入隊を迎えた、まさにその日だった。

初めはこの世にこんな恐ろしい顔をした男がいたのか、と驚かされた。


例えるなら、蛇である。


彼は一見、ひょろりと細長かった。

だが近くへ行くと、背が高いあまり、そう見えるだけだと気付かされる。

猫背気味なせいで、軍服を着ていても軍人らしく見えず、

それがどこか蛇が鎌首かまくびをもたげる姿に似ていたのだ。


そして、怖ろしく手が大きかった。

握手をするとき、明らかに人を殺すために鍛えられた身体だと圧倒された。


しかも、よりによって僕とミーチャは同室だった。


「これからよろしく頼むよ、えっと……ミーチャ?」


同じ隊の仲間が、彼をそう呼んでいるの聞いて真似てしまったのだ。

だが、ミーチャは爬虫類はちゅうるいじみた瞳でぎょろりとにらんできた。


「ドミートリーさんだ」

「え?」


「俺をミーチャと呼んでいいのは、友人だけだ。

 お前は、ドミートリーさんと呼べ」


思わぬ先制パンチを喰らわされた気分だった。


しかも僕が准尉じゅんい待遇たいぐうだったのに対し、

彼の階級はこのときまだ軍曹ぐんそうだったはずだ。

だが、僕の方が新参しんざんなのは間違いない。

ひとまずドミートリー軍曹と呼ぶことで、妥協だきょうしてもらうことになった。


もっとも、僕が配属はいぞくされた部隊はやけに個性的な隊員が多く、

会話が通じるだけ、ミーチャはまだ“まとも”だった。


ここが終身刑を喰らった犯罪者だけを集めた部隊だとは、

最初、知らされていなかったのだ。


意外なことにそんなイカレた連中から、

ミーチャはやけにしたわれてるようだった。




もちろん、僕は犯罪者というわけじゃなかった。


これでも大学では医学部を出たし、

田舎とはいえ自前の診療所しんりょうじょだって持っていた。


ただ、今もそうなのだろうか?

意外に思うかもしれないが、

当時、僕の村では医者の地位は低いものとして扱われていた。


みんな、医者は患者に奉仕するのが当たり前と信じていて感謝もされず、

呪術師じゅじゅつしか何かのように胡散臭うさんくさい存在として扱われた。


TVやラジオで報じられるような不正をしやしないか、

余分な薬を処方して金儲けをしようとしてるんじゃないか、

患者かんじゃを平等に扱っていないに違いない、と

常に監視の目を向けられているようなところがあったのだ。


だから、小さなミスでも、よく大勢からよってたかって責められたし、

もう手のほどこしようがない患者の面倒を見た後でも、ツバを吐きかけられた。


そんな村でなぜ懸命けんめいに勉強してまで医者になったのかと言えば、

僕の父親も、祖父も、そこで医者をやっていたからだ。


つまり大昔から伝統的にそういう村だったのである。

だから、僕でさえ慣れっこになっていた。


ミーチャや他の隊員達が、衛生兵えいせいへいとして従軍する僕を重宝ちょうほうがって感謝してくれるのを、

しばらく不思議に感じていたくらいである。


もっとも、村での生活も嫌なことばかりではなかった。

僕には、カテリーナがいた。


なんといっても、彼女は心の美しい人だった。


「私、この花が大好きなの!」


彼女は、少しも瞳を動かさずにそう言ってくれた。

診療所しんりょうじょの前に植えられたカサブランカは、僕が世話をしたものだった。


やがて、僕達はこっそり二人で会うようになった。


なにせ、狭い村だ。発覚すれば、すぐ噂になってしまう。

うら若いカテリーナにとって、

それが耐えがたいことだというのも理解できた。


なにより、二人だけの秘密というものが、

かえって僕を燃え上がらせていた。


とはいえ、彼女の父親は政府のお偉いさんとも繋がりを持つ、

地方の名士であった。


僕達の村はそのことで多くの恩恵おんけいを受けており、

しかもそれは、彼無しでは生活が成り立たないほど大きなものだったのだ。


つまり、小さな村においては、彼らこそ王侯貴族おうこうきぞくであり、

カテリーナはその三番目の娘だった。


僕は身の程知らずな野良犬と見なされても、

なんら不思議はなかったのだ。


二人の関係は、果たして認めてもらえるようなものなのか、

もう一方では不安を抱えていたのである。


そして、人生とは悪い方の予感ばかり、

的中するようにできてるらしい。


ある日を境に、突然、カテリーナが二人で会うことを

こばむようになったのだ。


理由を聞いても曖昧あいまいにごされてしまうだけだったし、

人目があるような場所では問いただすわけにもいかなかった。


だからといって、彼女の実家へ乗り込んだりすれば、

たちまち、なにもかもご破算になってしまうに違いない。


僕は、手紙を書くことにした。


自分の気持ちはまだ変わっていないこと、

君に会えずさみしい気持ちでいること、

せめて理由だけでも知りたいという想いをつづった。


深夜、他人ひとにみつからないよう細心の注意を払い、

そっと彼女の部屋の窓へ差し込んだのである。


けど、やはりどこかでミスをしていたらしい。

翌日、僕はあっさり彼女の父親から呼び出される羽目になった。


僕は単身、コヨーテの巣穴へ潜り込むような心境でオフィスを訪ねた。

けどそんな僕に、彼はまるで古い友人へ対するように親切だった。

おまけにこちらが恐縮きょうしゅくしてしまうほど、同情的でもあったのだ。


「実は、前々から君とは一度きちんと話したいと思っていたんだよ?

 ところで、コニャックはどうかな?

 村の者が飲む、アルコールばかり濃い安酒とは違う。


 なに、遠慮えんりょはいらない。

 いい酒というのは、酒に弱い者でもロックでぐいっといけるものさ

 ……どうだい?


 そうか、口に合うようでよかった。

 どうせ酔うなら、いい酒で酔うべきだ。

 安い酒は、人間も安っぽくするものさ。


 まったく、村の連中と来たら、その代表だね。

 田舎者ばかりで困るよ、そうだろう?


 町では、医者は尊敬される職業だ。

 知らないわけじゃないだろう?

 本当はそれが当たり前のことなんだよ。


 だが最初にこの村へ来た医者がいけなかった。

 100年も前の話だよ? 余所者よそもので、おまけに村にも馴染なじもうとしなかった。


 どこからともなく不正をやってるという噂が流れて、

 真偽しんぎはわからなかったが、その男はさっさとしっぽを巻いてしまった。

 そのせいで、真実ということになってしまったんだな。


 だけど、いつまでも昔を引きってちゃいけない。

 君は若いし、誠実せいじつだ。

 だけど、一度、狭い村の中で常識になってしまった習慣を変えるのは難しい。


 おっと、もう一杯どうだい? ……そうこなくてはね。


 そこで提案というか、君にはあらためて尊敬される地位に立ってもらいたい。

 そう、お国のために戦った英雄というやつだ。


 ああ、そうか君の耳にも入っていたんだね?

 我々の村からも、志願兵を出すよう政府から指導があってね。


 まったくそれのどこが志願だと言いたくなるが、

 私の立場もわかってもらえるね?


 やはり君はかしこい! 一を聞いて十を知るとは、まさにこのことだな。

 そんな君がカーチャを想ってくれているのは、素直に嬉しいことだよ。


 まあ、そう慌てずとも、後で会わせよう。

 それよりも、まずは男同士の話をしようじゃないか?


 今のままでは、結婚に障害が大きいことは君もわかっているんだろう?

 私も娘の将来を案じる一人の父親に過ぎないんだよ。


 危険があることもわかっている。

 だが君には医者の資格があるじゃないか?


 戦場にもルールがあってね、

 衛生兵を狙ってはいけないことになっている。


 ああ、ああ、もちろん、もちろんだとも。

 私にとっても、苦しい選択だよ?


 君の身の安全を完全に保証してあげられるわけじゃないからね。

 けど、だからこそ意味があるんじゃないのかな?


 少なくとも、他の者が行くよりは生きて帰れる可能性も高いわけだし、

 君が命をけてくれた以上、誰にも文句は言わせないさ。


 村のために命懸いのちがけの仕事を果たし、

 私の身内となってくれれば、

 医者という仕事は、町と同じく、尊い地位に就けるはずだ。


 本当は、それが正しいはずだろう?

 こんな田舎の村だからって、いつまでも古いままじゃいけない。

 間違いは正していかなくては。


 もちろん、私も約束は守るつもりだ。

 娘が、そう望む限りはね?」


いつの間にか、ドアのところにカテリーナが立っていた。


僕はようやく会えたという思いと共に、彼女の手を握っていた。

彼女もまた涙を浮かべたまま、まっすぐ僕を見ていた。


「お父様はずるいわ。貴方の苦しい立場を利用している」

「そんなこと言うものじゃないよ」


「本当は、私だって貴方を行かせたくない……

 けど、それでも貴方は行くと言ってしまうんでしょうね?」


「ああ、愛しているよ、カーチャ」

「私も愛しているわ」


カーチャ――カテリーナは、少しも瞳を動かさずに言った。


少しも瞳を動かさない。

僕は彼女の真摯しんしさこそ、もっとも愛していた。


だが、まさか最前線の、

それも犯罪者部隊のメディックを任されることになるとは、

とんだ運命の悪戯いたずらだったろう。


しかも、それはただ単に最前線へ立たされることだけを意味しなかった。

戦場の汚れ仕事を一手に押しつけられる便利屋としても扱われたのだ。

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