第28話 いざ、紫藤家へ

 ゴールデンウイーク後半の連休初日、我が家の玄関先に朝っぱらから黒塗りの高級外車が停車した。


 我が家は8年前に20棟ほどの分譲住宅が一斉に販売されて生まれた区画のど真ん中にあり、家々は南欧をイメージしたデザインで統一されている。

 青空が似合うアイボリーやレモンクリームの外壁と青緑色の屋根が明るい雰囲気を醸し出し、各家の庭先には花が植えられ、この時期はバラやツツジ、デイジーなんかが色とりどりに咲いている。

 つつましやかな幸せを具現化したようなこのエリアに侵入してきた黒光りの高級外車は、重厚で威圧的な異質感を強烈に放っていた。


 そんな異空間からの侵略者のような外車から降りてきたのは、鷹能先輩と武本さん。

 武本さんは先日会ったときと同様、ダークグレーのスーツをダンディに着こなしている。

 一方の鷹能先輩は…というと。


 先輩の私服、初めて見た。

 Vネックの黒いカットソーの上に濃いベージュの薄手のジャケットを羽織り、少し光沢のあるダークグレーの細身のパンツを履いている。


 今日はとても大切な日なので、私もがんばってお洒落した。

 紺地に白い花模様が上品にあしらわれたフレアスカートとレースが襟元に控えめについた白いブラウス、透かし編みの入ったアイボリーのカーディガンを着ている。

 精一杯お嬢様風を意識して選んだはずなのに、カジュアルめの鷹能先輩が醸し出すラグジュアリー感の前では自分が安っぽく見える。

 そして、まあそれも仕方ないなって諦めちゃえるほど、鷹能先輩の洗練された美しさは常軌を逸してると思う。


「知華さんを連休中お借りいたします」

 うちの両親に頭を下げる鷹能先輩の一歩後ろで、武本さんが控えめに一礼する。

「よ、よろしくお願いいたします…」

 うちの両親はいまだに狐につままれたような顔をしながら深々と頭を下げた。


 2日前、鷹能先輩が我が家のダイニングテーブルのお誕生席で先輩の事情をカミングアウトしたときから、両親はずっとこんな状態だ。


 無理もないよね。

 娘が連れてきた彼氏が紫藤一族の本家の長男である上に、来月には婚約したいなんて話は急展開過ぎるもの。

 それでも、先輩を以前紹介したときに先輩にすっかり魅了されていた我が家族は、先輩の話を受け入れて、私が婚約者になるための試練を受けることを了承してくれた。

 私は今日からの4日間、一つ目の試練を受けるために紫藤本家に泊まり込むのだ。


 うう、胃が痛い…。

 どんなシゴキが待ち受けているのやら。


 武本さんが後部座席のドアを開けてくれる。

「じゃ、いってきます」

 緊張のため震える声で家族にぺこりと頭を下げると、「おねーちゃんがんばっ!」と知景がガッツポーズで見送ってくれた。

「くれぐれも粗相のないようにね!」

 お母さんとお父さんはやっぱりかなり心配そうだ。


 武本さんが私の旅行用バッグをトランクにしまい、鷹能先輩が反対側のドアから私の隣に乗り込んだ。

 武本さんが運転席につくと、黒塗りの外車はゆっくりと走り出した。


 膝の上で握りしめた私の手を鷹能先輩が上からそっと握る。

「知華ならきっと大丈夫だ。心配することはない」

 先輩のいつもどおりのやわらかい微笑みで、私のぎゅうっと縮こまった心が少しずつほどけてくる。

 まだ少しこわばってはいただろうけれど、私は先輩に微笑み返してから窓の外を見た。


 見慣れた風景が流れていく中で、私はいろいろなことを思い浮かべた。


 まず頭に浮かんだのは、合宿での出来事。

 うっちーから告白されたのは驚きだった。

 返事をする前に鷹能先輩が実家から戻ってきて、結局返事のタイミングを逃してしまった。

 合宿の2日目も、朝のサッカーだのパート練習だのステージのダンス練習だの合奏練習だので忙しくって、全然うっちーと2人で話す機会がなかった。

 しかもお断りの返事をしなくちゃだからすごくタイミングが難しい。

 うっちーは合宿でも連休明けの教室でも何事もなかったかのように振る舞っていたけれど、今後はどうやって付き合っていけばいいんだろう?


 次に浮かんだのは志桜里さんのこと。

 鷹能先輩と婚約する前に、私はもう一度志桜里さんと話がしたいと思っている。

 鷹能先輩は私に任せるし協力もしてくれるって言ったけど、うまく話がまとまるだろうか。

 ちょっと不安。でも皆が前に進むためにやってみる価値はあると思う。


 それからどうしても気になるのが、これから伺う先輩の実家のこと。

 先輩にはお姉さんが二人いて、それぞれもう家を出ている(一人は結婚もされている)そうだから今回会う予定はないけれど。

 お父さんとお母さんはどんな人なんだろう?

 やっぱりすごく厳格なんだろうか?

 お母さんは将来の姑となる人だけど、仲良くやっていけるのかな?

 紫藤の本家の嫁になるためにって、どんなことを試されるんだろう…?


 私の目の前に次々とハードルを置かれた感じ。

 ゴールには紋付羽織袴の鷹能先輩がやわらかい笑顔で両手を広げて待っている。

 助走つけてどんどん飛び越えていかなくっちゃ!


 見慣れた藤華高校と藤華学園大学を通り過ぎ、しばらくすると私の側の車窓の景色が白い漆喰の壁で固定された。

 車が停まったわけじゃないけど、ずっと白い壁から景色が切り替わらない。

 この壁いつまで続くんだろう?

 窓の外を凝視している私に鷹能先輩が声をかけた。

「この壁の向こうが俺の実家だ。

 まもなく正門に到着する」


 ひえっ。

 この延々と続く壁の内側が全部敷地ってことですか!?

 敷地の中でオリエンテーリングができそうだ。


 先輩の言ったとおり、ほどなくして大きなお寺に建っているような立派な構えの門が見えた。

 武本さんはその門の前に車を一時停車すると、さっと降りて門の脇に付けられたボタンをポチポチと押す。

 すると、重厚な木造の門の中心が割れて、ゆっくりと弧を描いて開いた。

 武本さんが再び車に乗り込むと、新緑の木々がアーチを作る道を徐行して進む。


 しばらく進むと、木々の間から徐々に建物が見えてきた。

 前にテレビで観た超高級旅館みたいな純和風で威厳のある佇まい。

 古そうだけど手入れはしっかり行き届いていて、格式の高さがはっきりと表れている。


 車寄せに着くと、武本さんが再び降りて私の側の後部座席のドアを開けてくれた。

「ありがとうございます」と私が降りると、自分で車を降りた先輩が待っていて、私の手にいつものように長い指を絡ませた。


「行こう」

 先輩のやわらかい微笑みだけが唯一の心のよりどころだ。

「はいっ」

 緊張のあまり声が上ずる。

 手足が一緒に出そうになって、歩き方を忘れたような自分がちょっと情けなかった。


 大きな玄関を入ると、上がり框に一人の着物姿の女性が手をついて正座していた。

「鷹能坊ちゃま。おかえりなさいませ」

「ただいま。

 直子さん。こちらが知華だ。以後よろしく頼む」

 鷹能先輩がその女性に声をかけた後、私の方を向く。

「知華。こちらが武本の奥さん、直子さんだ」

「知華さま。以後よろしくお願いいたします。

 何かお困りのことがございましたらいつでもお声かけくださいませね?」

 品がありながらも穏やかな笑顔にほっとする。

「こっ、こちらこそよろしくお願いします!」


 旅館の女将のお出迎えかと錯覚したけれど、この方が武本夫人か。

 武本夫妻は二人揃って上品で紳士淑女って感じなのに、息子の海斗はなぜあんなにガラが悪いんだろうか?


「父上と母上は?」

「書斎でお待ちです」

「わかった」


 武本夫人がすっと立ち上がると、鷹能先輩の二歩前を歩き始める。

 その後ろを鷹能先輩が悠然と歩き、その後ろを先輩に手を引かれた私がちょこちょこと追いかける。

 長い廊下の両脇はずらーっと立派な襖が並んでいて、部屋の区切りがよくわからない。

 一般庶民の感覚で説明するならば、旅館の大広間が両脇にありそうな感じだ。


 廊下を右に曲がると渡り廊下へ出る扉があって、武本夫人が開けてくれた。

 私たちがそこをくぐると、夫人がまたすっと前へ出て案内してくれる。

 先輩の実家に来たというより、まるで高級旅館に泊まりに来たような気分だ。

 池のある日本庭園を眺めながら渡り廊下を歩くと、女将…じゃなかった、武本夫人が再びドアを開けてくれた。


 今度は一転して洋館のような雰囲気の建物に入る。

 赤い絨毯とシャンデリア。先ほどの純和風家屋よりは少し新しい感じがするけれど、それでも柱や階段の手すり、腰の高さの板壁の色はそれなりに長い年月を重ねたようで落ち着いた光沢を放っている。

「先ほどの母屋には客間や応接間などがあるが、両親や俺の居室はこちらの洋館にある」

 きょろきょろと物珍しそうに見まわす私に鷹能先輩が説明してくれた。


 二階に上がり、一番手前の部屋のドアを武本夫人がノックした。

「鷹能さま、知華さまがお見えになりました」


「どうぞー」

 とドアの奥から低い男性の声がする。


 緊張度MAX。

 この中に鷹能先輩のご両親がいるんだ。


 武本夫人がドアを開けてくれたので、鷹能先輩の後からガチガチに固まったまま書斎に入った。

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