第8話 うんりょーで朝ごはん
翌朝、私は早起きをした。
母がタイマーでセットしてくれていた炊飯器の蓋を開ける。
もあもあと白い湯気が立ち込める釜から、ラップにつやつやのご飯を移した。
冷蔵庫に何か具になるものあったかな…。
お弁当用の鮭フレークと梅干。これでいっか。
おにぎりを握り、身支度をすませるといつもより1時間早く家を出た。
電車を降り、学校へ向かう。
この時間の通学路は朝練をやる運動部の人たちがちらほらと歩いている。
校門をくぐると、私は校舎とは正反対の方へ向かって歩き出した。
野球部やサッカー部が練習をしているグラウンドの端を通り抜け、プールの裏手に回る。
木漏れ日のゆらめく光をまとった青雲寮は、古めかしい中で意外なほどの爽やかな雰囲気を醸し出している。
百年くらい昔にタイムスリップしたような気分。
重い木の扉を手前に引っ張ってみると、鍵はかかっていなかった。
ギイイと音を立てて開き、中へ入ってみる。
下駄箱には先輩の靴が1足だけ置いてある。
「おはようございまーす…」
おそるおそる声をかけてみたけれど、返事はない。
まだ寝てるのかな?
ギシギシと音をたてる古い階段を上ってみる。
誰もいない、ガランとした二階。
…と思ったら、脱皮後のさなぎのような寝袋を発見した。
これで鷹能先輩は寝ているのかな?
でも、脱皮した本人の姿はここにはない。
ボーン部屋(調理室)で朝ごはん食べてたりして。
階段を下りることにした。
いつも沢山の楽器の音で満たされている青雲寮しか知らなかったけれど、
レトロな木枠の窓から穏やかな光が入り込む青雲寮には静かな朝がすごく似合う。
鷹能先輩はいつもこんな朝を一人で迎えているんだろうか。
階段を下りてボーン部屋に向かうとき、後ろでギイイと扉の開く音がした。
驚いて振り向くと、朝日を浴びて立つ高くて均整のとれたシルエットが見えた。
「知華じゃないか。
どうした、こんなに朝早くに」
青雲寮の室内は暗く、背後から朝日が差し込んでくるせいで先輩の顔は見えない。
でも、その低い声には驚きと温かさの両方がこもっていた。
「おはようございます!
あの…。お、おにぎり握ってきたんです!
よかったら一緒に朝ごはん食べませんか…?」
一人で食べる朝ごはんは寂しいだろうと思って勢いで作ってきたけれど、
誘う段階になって胸がドキドキして緊張してしまった。
先輩は驚いたようで、少しの沈黙の後「ありがとう」と言った。
ドアを閉めて、サンダルを脱いで下駄箱の一番下にしまう。
再び薄暗くなった室内で、ようやく先輩の顔が見えてきた。
パジャマがわりなのかな?
薄いグレーのスウェットを着ている。
スウェット上下のギリシャ彫刻、似合わなさすぎ!
ミスマッチで思わず吹き出しそうになった。
「外で洗濯物を干していたのだ」
にやけ顔の私を見て、照れくさそうに先輩が言った。
「洗濯もしてるんですか?」
「当たり前だろう。誰もやってはくれないからな」
「洗濯機とか、干す場所とかあるんですか?」
「洗濯機はパーカス部屋の外に置いてある。
パーカス部屋は元は手洗い・足洗い場だったから、水道がひかれているのだ。
洗濯機の横に洗濯物を干すロープをかけてある」
昨日自分がいたパーカス部屋の外がそんなランドリースペースになってたなんて。
「これからちょうど昨日の鶏鍋の残りで雑炊を作ろうと思っていたところだった」
「あっ、じゃあ、おにぎりいらなかったですかね…」
「知華がわざわざ作ってきてくれたのだろう?
そちらをいただくことにする。
雑炊は昼飯にでもするとしよう」
「お昼もここで食べているんですか?」
「まあな。俺が教室にいると、クラスの皆が腫れ物に触るように気を遣う。
ここで食べている方が気が楽だ」
ボーン部屋に入り、真ん中の大きな調理台にパイプ椅子を二つ近づけながら先輩が淡々と言う。
”ヤバい人”だと思われている先輩はクラスに居場所がないんだ。
先輩の居場所は
そう聞こえて、とても切なく思った。
私はバッグから巾着袋を取り出し、中から水玉模様のカラーホイルに包んだおにぎりを4つ出した。
大き目に握ったおにぎり2つを先輩に差し出す。
「上手に握れているか自信ないですけど」
「ありがとう」
先輩はやわらかい笑顔で受け取ってくれた。
「うん。美味い」
「あ、お茶も持ってきましたよ」
「気が利くな。ありがとう」
静かな青雲寮で鷹能先輩と二人で食べる朝ごはん。
すごくドキドキして緊張してるけど、穏やかな時間の流れを感じる。
「ここで暮らしてるって…不便じゃないですか?いろいろ」
いくらかつての合宿所でも、老朽化しているし普通の家ほど設備が整っているわけじゃない。
それに高校生が身寄りもなく一人で暮らしてるのって、やっぱり寂しいんじゃないのかな。
「不便か?それはまったく感じていないが。
中学のときは橋の下の河川敷に小屋を建てて暮らしていたから、それに比べればずいぶん便利だぞ」
と快活に笑う鷹能先輩。
…衝撃発言です。それ。
「中学のときはもっとひどい生活をしていたんですか?」
「言っておくがひどくはないぞ?
ホームレスの方々と仲良くなったからな。
生活に必要な知恵はいろいろ教えてくれたし、助け合ったりもしてなかなか楽しかった」
このギリシャ彫刻がホームレス生活ですか。
どれだけすさまじい半生を送っているんだろうか。この人。
ここでふと疑念がわきあがった。
「あの、咲綾先輩は鷹能先輩の従姉妹なんですよね?
咲綾先輩のお家に頼ったりはしないんですか?」
咲綾先輩も、こんな境遇の従兄弟がいるのに手を差し伸べないわけないんじゃないかと思うけれど。
しかも、地位も名声もお金もある紫藤一族なんじゃないの?
「まあ、咲綾は俺の事情をよくわかっているからな」
鷹能先輩はそれだけぽつりと言うと、おにぎりをまた口にもっていった。
咲綾先輩は鷹能先輩の事情を知った上で手を貸さない。
部長で面倒見がいい咲綾先輩が冷たい人だとは思えない。
何かよっぽどの理由があるんじゃないかって思えた。
「それはそうと、知華は剣道はもうやらないのか?」
鷹能先輩の唐突な質問に、おにぎりが喉につまりそうになって咳き込んだ。
「う…はい…。もういいかなって思って」
「なぜだ?かなり強かったのだろう?
俺が強引にこの部に誘ったから入り損ねたのか?」
「いえ。違います。もともと高校ではやらないつもりでした」
先輩は見ただろうか。あのときの私を――
「先輩が私を見かけたのって、去年の夏の地区大会ですか?」
「ああ、そうだったな」
「準決勝、見てました?」
「見ていた。垂れのネームで君の名前はわかっていたし、準決勝まで勝ち進んでいたのはわかっていたからな」
「じゃあ、見てましたよね。
…私が、竹刀を落としたところ」
「ああ。それで面を取られたのだったな」
「はい。動揺してしまいました。初めてのことだったので。
その後も引きずってしまって結局2本取られて負けました」
「……」
何も言わないのは先輩が最後まで見て知っているからなのだろう。
「一応ベスト4に残ったので、その後県大会にも出場しました。
でも、駄目ですね。竹刀を落としちゃいけないって、変に手に力が入っちゃって。
思うように戦えなくて、初戦敗退しました。
それで、剣道はもういいかなって思って」
「本当に、そのままでよいのか?」
鷹能先輩が私に向かってまっすぐ瞳を向けた。
「自分でも、逃げてるだけだって思ってました。…昨日までは」
私は先輩を見つめ返した。
「でも昨日、吹奏楽って楽しそうだなって思えました。
自分も演奏してみたいって思いました。
だから今は挑戦してみたいんです。新しく打ち込めるものに」
鷹能先輩がふわりと微笑んだ。
お茶の入ったマグカップをコトリと置いて、私の方に手をのばすと、ハーフアップにした私の頭の上にぽんと手をのせた。
「そういうことなら頑張ってみればいい。
吹奏楽もなかなか楽しいぞ」
「ごちそうさま。美味かった。
寝袋片づけて着替えてくる」
先輩はそう言うと立ち上がってボーン部屋を出ていった。
先輩への決意表明で、私の心にずっとひっかかっていたものがすうっと軽くなった気がした。
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