農協おくりびと (65)もうひとりのちひろ

本葬が終った直後。もうひとりのちひろが、目の前にやって来た。

「ありがとうございました」司会を務めたちひろに、深々と頭をさげる。

あとをついてきた2人の中学生にも、同じように頭をさげさせる。

「お世話になりました」と、もう一度あたまをさげて、

もうひとりのちひろが帰っていく。


 振る舞いに、嫌味は一切感じられない。

近親者のひとりが、感謝の言葉を口にして立ち去って行った。

ただそれだけの出来事に過ぎない。

だが挨拶されたちひろの胸に、納得できない疑問が残る。


 同級生だったちひろのことを、もうひとりのちひろは忘れているのだろうか?。

そう考えれば自然の成り行きだ。だが忘れられていることに腹が立ってきた。

双子の父親のことも気にかかる。

もうひとりのちひろは、ただ普通に感謝の言葉を残し、静かにちひろの前から

立ち去って行った。


 もうひとりのちひろに、文句は言えない。

もうひとりのちひろは、ちひろのことを思い出していないからだ。

(勝負は互角ですね・・・双方、痛み分けというところかしら)

ちひろが苦笑いを浮かべて、仲よく立ち去っていく親子の背中を見送る。


 「最初から眼中になかったのかしら、わたしのことは。

 小学生の頃から、ずっと同じクラスだったのに・・・」


 もうひとりのちひろが転校していったのは、中学2年の夏のことだ。

父親が不祥事をおこしたため、勤めている会社で役職を解かれた。

どこかの地方都市に左遷されるという噂が立った。

どこへ移り住んだのか、誰も知らない。

ただ。成人式を前にした真夏の頃。

もうひとりのちひろが、双子を産んだという噂が流れてきた。


 噂の出所は、成人式の実行委員のひとりからだ。

隣りの県へ出張していた実行委員の1人が、街を歩いていたちひろを見つけた。

大き目のベビーカーに、可愛い双子が眠っていたという。

転校して5年後の事だが、美人のちひろの顏はすぐに分かった。


 「びっくりしたぜ。とつぜん、ちひろを見つけた時は。

 さすがに中学時代のお下げ髪じゃなかったが、すっぴんでもやっぱり美人だった。

 双子用の乳母車を押していたのに、たまげたぞ。

 いつのまにか出産して、男の子と女の子の双子を育てていた。

 おとなしかったちひろちゃんが、19歳で母親になっていたんだぜ。

 驚くだろう、普通は・・・」


 成人式はどうする?と聞くと、「この子たちが居るから、無理」と

やわらかく笑ったという。

10代で結婚した同級生は数人居る。

だが150人ほどいる同級生の中で、双子まで産んでいるケースは初めてだ。

実行委員たちのあいだを、衝撃が走り抜けていった。

さすがに10代で、出産するのは早すぎるだろうと、みんなの顔に書いてある。

実行委員をしていたちひろもその時は、そんな風に感じていた。


 「子供は早めに欲しいけど、経済的にねぇぇ・・・」と誰かがつぶやく。

そうなのだ。おおくの女性が10代での出産をためらう。

経済的な裏付けがないためだ。

女は16歳になれば、結婚することができる。

健康な身体であれば、やがて子を宿し、若い年齢でも出産することになる。

 

 だが多くの男女が10代で結婚しない。子供もつくろうとしない。

年齢的に若すぎるということも有るが、それ以上に、若年層の脆弱な経済力が、

家庭を持つことを許さないからだ。


 高卒や大卒の初任給程度では、家庭を維持することができない。

それが日本の現実だ。よほどの経済力がないと結婚することはできない。

それを打開してきたのが、共働きだ。

だが共働きは、子供をつくりずらい。

女性が妊娠すると、家庭の経済力が半減することになる。


 「それにしても、10代でよく産んだもんだ。

 相手の男が、子どもを産んでも困らないだけの経済力をもっていたんだろうな。

 そうでなきゃ産めないぜ、普通、怖すぎてさぁ・・・」


 誰かがポツリと、つぶやく。

「そうだよねぇ」と誰かが、共感の吐息をもらす。

そうなのだ。結婚したくても、それを許さない若い世代の現実が有る。

子供が欲しくても、扶養しきれない経済事情を抱えている。

20歳前後の多くの男女が、勢いだけでは結婚できない現実を、ずっしりと

抱え込みながら生きている。


 


 (66)へつづく

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