第24話 黒い船
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クレタ島に来たときは黒い帆を掲げていた船も、今は白い帆を掲げている。
青い空に紺碧の海。風も適度に吹いていて帆を膨らませ、絶好の航海日より。
テセウスとアリアは、アテナイに帰国するために使節団とともに船に乗りこんだ。
見送りに来たカトレウス王らが、桟橋を渡ろうとするテセウスとアリアとハグをして、
「あの子供らのことは任せてくれ」
と告げた。
アリアがにっこりと微笑んでうれしそうにうなづく。
「ええ。……もうアテナイに戻っても居場所がないでしょうから。よろしくお願いします」
これは他の生け贄の子供たちのことだ。もう生け贄の必要は無いとはいえど、一度は捧げられた子供たち。アリアのように実力のある家の子というわけでもないからクレタで生きるしか道はない。
テセウスが、
「王のお陰でアリアを救うことができました。本当に感謝しています」
と言うと、
「いや。礼を言うのはこっちの方だ。君のお陰でミノス王も喜んでいることだろう」
と王が言う。「……結婚の祝いの品を贈らせていただくよ」
カトレウス王の言葉にアリアがテセウスに身を寄せて微笑む。テセウスは照れたように頭をかいた。
その二人の姿にカトレウス王は豪快に笑った。その明るい笑い声は人々に広がっていき初々しい二人を祝福する笑い声が港にあふれる。
二人を乗せた船は、多数の見送りを受けながらゆっくりと出航していった。
二日目の夜。船は翌日にはナクソス島のそばを通り過ぎるであろうところまで来ていた。
薄雲が広がっている真っ暗な夜。ランプの明かりが暗闇のエーゲ海を照らし出していた。
マスト上の見張りから船の明かりが見えると連絡があり、ホラ貝を吹いて船の存在を伝えると前方からも音が帰ってきた。
暗闇の中からぬうっと現れたのは真っ黒の帆を張ったアテナイの船だった。
にわかに賑やかになる甲板。テセウスとアリアの寝ている部屋にも船員が知らせに来た。
アテナイから来た正式な船ならば、テセウスは使者と会わねばならない。二人は身だしなみを整えて船室から甲板に出た。
アリアが相手の船を見て呆然とつぶやく。「黒い帆……、なぜ?」
異様な雰囲気を漂わせている船であったが、真横で上手く停泊してみると向こうにはペイリトオスが乗っていた。
テセウスが安心したように、
「なあんだ。ペイリトオスだよ。ってことは迎えの船だな」
と気楽に言って、アリアと一緒に船縁に近寄っていく。
心配そうなアリアに、テセウスは、
「大丈夫。何かあってもちゃんと守るから」
とささやくと、アリアはこくんとうなづいた。
向こうの船からペイリトオスが、
「兄さん! 迎えに来たよ! 今、小舟を出すからこっちへ来て!」
と大声を出した。テセウスが手を振りながら、
「わかった。ありがとう!」
と答えた。
そこへゲオルギウスさんも緊張した表情でやってきた。
小舟が近づいてくるのを見て、アリアに、
「お嬢。……いいですか。何があっても信じてください」
と小声で伝える。
アリアはいぶかしげな表情をしていたが、「ええ。もうテセウスのことを信じてるから大丈夫よ」と答える。
ゲオルギウスさんは何かを言いかけたが「来たぞ!」との船員の声に口をつぐんだ。
はしごを伝っていくテセウスとアリア、そして、ゲオルギウスさん。ゆっくりと小舟が迎えの船のところへ行き、三人ははしごで登っていく。
甲板でペイリトオスと対面した三人。テセウスがうれしそうに、
「ペイリトオス! 迎えに来てくれてありがとう!」
と言うと、ペイリトオスはにこやかに、
「いいや。兄さんこそ! 聞いたよ? ミノス王を倒してクレタと友好関係を築いたって。もうアテナイ中に知れ渡っているよ」
テセウスは恥ずかしそうに鼻の頭を掻きながら、
「あはは。そうか。照れるね。……あ、そうそう。アリアも無事だよ」
とアリアの腰に手を回して、ペイリトオスの前へと進み出た。
その時、ペイリトオスは冷たい笑顔を浮かべ、
「うんうん。信じてはいなかったけれど、やっぱり神託の力ってのはすごいね」
とつぶやいた。
テセウスが、「え?」と聞き返すと、ペイリトオスは両手を広げて、
「だって、あの神託のとおりになったじゃないか! もうクレタへ生け贄を送る必要もない。素晴らしいね!」
テセウスは、そのペイリトオスの様子に戸惑って、
「そ、それはそうだけど。まあ……」と口ごもった。
その背後をぐるっと兵士がふさいだ。
ペイリトオスは笑顔のままで、
「兄さん。実は、三日前なんだけれど、父さんが亡くなったんだ」
「は? 父さんが?」
驚くテセウスにペイリトオスはニヤリと笑いかけ、
「そうさ。……僕が殺した。これでね」
と懐から小さな瓶を取り出して振って見せた。
テセウスは呆然としたままペイリトオスを見ている。
アリアが、
「王位を簒奪したって訳ね。……他のアテナイの人々は? 父さんは無事なのかしら?」
と平静を装って尋ねた。
ペイリトオスは汚物を見るような目でアリアを見て、鼻を鳴らし、
「ふんっ。まあいい。答えてやろう」
と吐き捨てるように言い、突然、心底楽しそうな笑顔になった。
「フィリラウスはね。……ふふふ。死んだよ。僕が父を殺した夜に、なんと自分で家に火を放ってね。黒く焼け焦げた
アリアが蒼白になり、
「え? 火を放った? ……まさかあんたが」
と言いかけた途端に、ペイリトオスが激高した。
「貴様にあんた呼ばわりされる筋合いはない! だいたいお前らは王の前にいるんだぞ! ひざまずけ!」
複数の兵士がテセウスとアリアのもとへ駆け寄り、その肩をつかんで無理矢理押さえつけた。ペイリトオスが二人を痛快だという表情で見下ろしている。
もがきながらもテセウスは、
「それでこれからどうするつもりだ?」
と叫ぶように問いかける。
ペイリトオスは二人の目の前にイスを用意させて座り、
「どうするもなにも。これから僕がアテナイを支配する。ただそれだけだよ」と無邪気に微笑み、器用に頬杖をついた姿勢で、
「ああ、安心してくれていいよ。兄さんたちはミノタウロスを倒した英雄なんだから。その名誉は兄さんたちのものだ。……ただね」と続けた。
もがいていたテセウスとアリアがおとなしくなってペイリトオスを見上げる。
ペイリトオスがニヤリと笑った。
「二人は帰路に海賊に襲われ、助けに来た僕の目の前で船ごと海に沈んだ。……僕にアテナイを任せてね。そして、父さんはそれを嘆いて海に投身自殺ってわけさ。ははははは」
笑い続けるペイリトオス。
突然、ここまで二人を乗せてきた船が燃え上がる。背後から炎のごおぉという音に二人は驚き振り返ろうとして兵士に頭を押さえつけられる。
その二人の目の前を一人の男が悠々と歩いて横切り、ペイリトオスの目の前でひざまずいた。
その姿を見てアリアが怒りに震えながら叫んだ。
「ゲオルギウス! あんた一体どういうつもり!」
しかし、ゲオルギウスはフッと鼻で笑い、アリアを見た。ペイリトオスが立ち上がってゲオルギウスの肩をポンと叩き、アリアの目の前でしゃがむ。
「彼は昔から僕の部下だよ。……君の所の商会を探るために送り込んでいたのさ」
アリアが驚がくして、きっとゲオルギウスを睨む。
「ゲオルギウス! あんた!」
しかし次の瞬間、ペイリトオスがアリアを殴った。「うるさい!」
テセウスが「お前ぇぇ!」と怒りながら立ち上がりかけるが、さらに多くの兵士が駆け寄って押さえつけっている。
ペイリトオスがこめかみに青筋を浮かべながら、殴った手をひらひらさせた。涙目のアリアにつばを吐きかけ、
「ああ、思わず殴っちゃった。僕は冷静で通っているのに。まったく……、この女はいつもいつも」
と言いながら立ち上がった。「おい。二人の手を縛れ」
手を縛られた二人は武器を突きつけられながら船縁に追い込まれていく。
「名残惜しいけど、そろそろお別れの時間だ。……安心していいよ。ここはね。サメの海だから寂しくはないさ」
と言いながら、自らの剣をゲオルギウスに手渡した。
「さ、ゲオルギウス。二人を海へ落とせ」
ゲオルギウスは恭く剣を抜きはなつ。船が燃える明かりに照らされ刃がぬらぬらと光っている。
二人に剣を突きつけたゲオルギウスは、
「テセウス殿。お嬢。お聞きになったとおりです。自ら海に落ちるか、バラバラになって落ちるか選ばせてあげましょう」
しばしの沈黙。アリアがきっと睨み続けているが、そこへテセウスが縛られた腕を上げてアリアを頭からスポッと抱きしめた。
はっとしてテセウスを見上げるアリア。そのアリアにテセウスは微笑み。小さく「二人一緒ならどこだっていいさ」とささやいた。
アリアは目尻に涙を浮かべ、悔しげな表情を浮かべながらもテセウスの胸に顔をすりつけた。
テセウスが振り返り、ペイリトオスに、
「弟よ。さらばだ。お前は俺より賢いからな。アテナイのことは頼んだぞ」
と別れを告げ、ゲオルギウスを哀しそうに見つめる。
「ゲオルギウス。……世話になった。元気でやれよ」
無言のままのゲオルギウス。テセウスはアリアを抱き上げながら船縁の上に立ち、兵士たちを見渡した。
「アテナイの兵士たちよ! さらばだ!」
そう告げるとくるっと振り返り、アリアとともに船から飛び降りた。
巨大な松明に照らされた黒い海面に二人が頭を出す。船上からペイリトオスが二人を見下ろし、
「じゃ、さようなら。アリアさんと仲良くね。……あ、そうそう。冥界で父さんにもよろしく言っといて」
と楽しそうに言い、船を進ませた。
黒い帆を張った船が行ってしまった後、二人はキスをして、燃えさかる船の方へ近づいていく。何かつかんで浮かべるものがないか探すためだ。
しかしその途中で、突然海がうねりはじめた。波が二人の周りをぐるぐる回り、足下から何かが二人に近づいていく。
チャポンっ。
小さな水音がして、あっという間に二人が海に引きずり込まれた。
――後にはパチパチと燃え続ける船の残骸がゆっくりと波に揺られていた。
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