第23話 漂着者

 それから一週間が経ったある朝。私は聞き慣れない女性の声に起こされた。


――起きなさい。

――若き神々よ。起きなさい。

――入り江をご覧なさい。

――入り江で待っています。


「う、ん。んん……」

 まぶたをゆっくり開けると、ちょうど夏樹も目を覚ましたところだった。


「今、声が聞こえなかった? 呼んでいるような声が」

と夏樹が真剣な表情で私にきいてくる。

「呼んでいる声……、うん。なんとなくそんな気がするわ」


 夏樹が起き上がってベッドから降りていく。

 う~。まだ眠いんだけど。

 私もしぶしぶ起き上がって窓のそばの夏樹のところへ行く。


 雨戸を開けると、外はまだ薄暗かった。

「まだ朝じゃないじゃん」とつぶやいた時、どこか遠くから何かの鳴き声が聞こえた。


 ――キュキュキュキュ。キュイキュイ!


 耳を澄ませて見ると、どうやら複数の何かがいるようだ。

 じっと目を閉じていた夏樹が静かに目を開く。

「イルカだ。……入り江にイルカが来ているみたいだね」


 私の目がシャキッと覚めた。「イルカ!」


 すぐに夏樹の腕を引っ張って、

「すぐに行こうよ! ほら!」

 イルカだよ! イルカ。本当に来てくれたんだよ!


 だけれど、夏樹は逆にぐっと私を捕まえて、

「落ち着いて。とりあえず、その……、せめて服を整えてからにして」


 え? 言われて自分を見下ろすと、左肩から服がずり落ちそうになっていてしかもキスマークが……。「あはは。そ、そうよね。夏樹印が丸見えだもんね」と笑うと、夏樹が照れくさそうに頭をかいて「あー、まあな」とつぶやいた。

 ふふふ。あなたの首の後ろにだって私の印ががっつりついているけどね。


 二人ともに服を着替え、私は髪の毛を無造作に一本に縛ってから家から出た。


 ちょうど日の出を迎えたときで太陽の光が横から私たちを照らす。強いエネルギーを感じる朝日に、体の奥から活力が沸いてくる。

 入り江を見おろすと、遠目にも沢山のイルカが飛び回っているのが見えた。


 夏樹が急に険しい表情になって、

「春香。急ぐぞ。何かおかしい」

と言い、少し小走りで小道を降りていった。「え?」


 あわてて夏樹を追いかけていく。急にどうしたのかしら? 何を感じたと――、うん?


 ここからでは低木の茂みでよく見えないが、砂浜に倒れている人の姿がちらりと見えた。

 夏樹の走るスピードが速くなる。「急げ!」「うん」


 小道から砂浜へ駆け出すと、見慣れた男女二人が倒れているのが目に入った。


「て、テセウスにアリア?」


 ぼう然とつぶやくと、夏樹がすぐに二人の所ヘ走って行く。しゃがみ込んで息を確認している夏樹が、安堵して振り向いた。「二人とも大丈夫だ」

 そう。よかった。……気を失っているだけなのね。


「ただ縛られた跡があるな」

 え? どういうこと?


 その時、入り江のイルカたちが一斉に話しかけてきた。


 キュキュキュキュ……。


 ごめんなさい。言葉がわからないんだけど……。


 そう思いながら海を見ると、イルカたちの中から一頭の白いイルカが姿を現した。

 そのイルカの背中にうっすらと一人の女神の姿が浮かび上がった。何か思念のようなものが流れ込んでくる。


 ――私はポセイドンの妻アンフィトリテ。海の女神ネーレーイスの一人です。

 ――お二人を無事にお連れしました。

 ――あとはお任せします。……ポセイドンの不始末をあなたたちに取っていただき、ありがとうございました。


「アンフォトリテさん?」と私がつぶやくも、どんどん女神の姿が薄くなっていく。


 ――イルカたちは、落ちついた頃に遊びに行かせますから。


 その言葉とともに完全に姿が消える女神。イルカたちもキュイ! と鳴くと、白い一頭を先頭に順番に入り江から外洋へと泳いでいった。


 ええっと。知らないうちにどんどん状況が動いているわね。


 困惑したままで夏樹を見ると、夏樹も戸惑っているみたいで、

「とりあえず二人を……、うちに運ぶか」

「それしか、ないわよねぇ」


 私たちは二人を客間に寝かせる。上からタオルケットを掛け、ベッド脇のテーブルに水を入れた取っ手付きの水差しオイコノエとコップを置いておく。

 二人とも呼吸は安定しているけれど、背負っている時も寝かせた時も少しうめいていた。


 一体何があったのか。他の人は? クレタ島で何かあったのだろうか?


 目が覚めたときのために、私はスープ多めのリゾットを作ることにした。夏樹は畜舎の方へ行くそうだ。

「あ、山羊のミルクお願い」と瓶を渡すと、「了解。……何かあったらすぐに呼んで」と言いながら裏口から外に出ていった。


 鍋に水を張り、魚と野菜を投入し旨みを抽出。そこへハーブを加えて洋風のおだしを作る。

 気もそぞろのままに料理をするけれど、あとは二人が目を覚ましてからの方がいいだろう。


 お鍋に蓋をしてから、水瓶アンフォラで作っている水出しハーブティーを持って、ダイニングへ向かった。

 そのままイスに座ってテーブルに肘をつき、組んだ手の上にあごを乗せる。

 何気なく中庭をボンヤリと眺めた。


 一体なにがあったのだろうか? 手を縛られてなんて普通じゃない。


 射し込む朝日が我が家の庭にも新しい一日の訪れを告げている。庭の木々に外から2匹の鳥がやってきて、下生えのオレンジ色の花にはチョウチョがやってきている。


 裏口の扉が開いて閉まる音がして、夏樹が私の隣に座った。

 じいっと私を見ている視線を感じて向き直ると、夏樹が心配そうに私を見つめていた。

「何が起きてるのかしらね……」とつぶやくが、夏樹は黙ってかぶりを振る。「さてな……」

 再びぼうっと中庭を見つめ、物思いに耽った。


 突然、夏樹が私の腰に両手を添えてぐいっと引っ張った。

「きゃっ」と言いながら、気がつくと私は夏樹の膝の上で横抱きにされていた。

 目の前で夏樹がそっと微笑んでいる。


「春香。テセウスたちが目覚めた時、俺たちは明るく向かえてやろう」

「……うん」

「何があったかわからないけど、アンフォトリテさんが連れてきたんだ。きっと二人にとって、ここに来るのが一番良かったんだろうさ」

「……うん」

「だから、そんな顔しないでさ。いつもみたいにテセウスたちに俺たちの仲を見せつけるくらいで丁度いい」

「……うん」


 ずるいよね。この体勢で言われたら……、甘えたくなっちゃうよ。


 こてっと頭を夏樹の胸に預けてそっと目を閉じる。額にちゅっとキスされる感覚。……ああ、心が穏やかになっていく。


 その時、客室から空気を切り裂くような叫び声があがった。

「いやあぁぁぁぁぁぁ!」


 アリアだ! 慌てて私と夏樹は立ち上がって客室に向かう。焦るテセウスの声、激しい物音が聞こえてくる。

 客室のドアをドンと開け、

「どうしたの!」

と飛び込んだ。


 目の中に飛び込んできたのはベッドの上で錯乱して暴れているアリアと、その両肘を押さえつけて落ち着かせようとしているテセウスの姿だった。

「夏樹!」

「わかってる」

 夏樹がテセウスに声をかけながら、暴れるアリアの足を押さえる。


 私は、嫌がるように頭を振り続けて叫んでいるアリアのそばに行き、そっと声に神力を載せて、アリアに語りかけた。

「落ち着きなさい。……ゆっくりともう少し眠りなさい」

 バタバタさせているアリアの額に手を載せると、急に糸が切れたようにパタンと眠りに落ちていった。


 テセウスが息を荒げながら私を見る。私は微笑んで、

「あなたは大丈夫? テセウス」

と言うが、テセウスはそれには返事をせずにじっと私と夏樹を交互に見た。


 そばにやってきた夏樹もテセウスの様子に、

「どうした? テセウス。……ここがどこかわかるか?」

と話しかけると、テセウスはうつむいて、

「夏樹さんと春香さんのあの入り江の家でしょう。……僕たちはまたお二人に助けられたんですね」

とつぶやいた。


 ううん。いいのよと声をかけようとすると、テセウスはがばっと顔を上げて、

「こんなことをきいていいのかわかりませんが。……お二人の正体はなんですか?」


 その質問に、思わずビクッとして顔をこわばらせてしまった。慌てて「ちょっとなに言ってるのよ」と言うが、テセウスは首を横に振った。


「今のアリアに語りかけた声。不思議な力が込められていました。……まるであの戦いの夜に私に授けられた奇跡のように」


 言葉をなくしていると、夏樹が大きく息を吐いて、

「俺たちは異国から来た。……それだけさ」

 しかしテセウスも引き下がらない。

「いいえ! もしやあなたたちは……」


 再び口を開こうとした夏樹の手を引っ張る。振り向いた夏樹に私は小さく首を横に振った。

 そしてテセウスに、

「仮にあなたの思う通りだったらどうするの? それにあれから何があったの?」

と答えた。


 テセウスはじいっと私を見て、静かに床に膝を突こうとした。慌てて止めさせて、アリアのベッドの端に腰掛けるように薦める。

 テセウスの両の拳がぎゅっと握りしめられて震えている。

「……まずは感謝を。きっと私にミノス王を倒す力をお貸しくださったのもお二人なのでしょう」

 夏樹がちらっと私を見るので小さくうなづき返す。うん。それは私がやったこと。


「あの後のことです。クレタ島の各地の王へ使いを出し、落ち着いた頃に――」


 それからのテセウスの話に、私は驚きを隠せなかった。

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