第17話 囚われのアリアドネ
クノッソスの酒場を出たところで、私は真っ暗な夜空を見上げてアリアを思った。
――あなたは今どうしているの?
――――アリアは宮殿の地下の一室にいた。
明かりは壁にあるランプ一つだけ。頼りない光が重苦しい室内をぼんやりと照らしている。
ゆらぐ明かりにアリアたちの影がゆらゆらと揺れる。子供たちが恐怖と戦いながらアリアにしがみつき、その子供たちを抱きかかえるようにアリアが両腕を広げている。
その姿は、まるで聖母子や聖家族のようだ。
アリアはランプのかそけき明かりを見ながら、アテナイからの航海を思い出していた。
突如としてアテナイ王宮の一室に閉じ込められた。テセウスに会うこともできないままに。生け贄としてクレタ島に行くことが宣告された。
同じ生け贄に選ばれた自分より幼い子供たち。奴隷の子が多いとはいえ、まだ10歳になったくらいの子供たち。
自分も絶望に心が砕け散りそうだったけれど、この子供たちを慰めることでどうにか自分を奮い立たせていた。
どれほどの日にちが経ったのかわからないけれど、とうとう出航する時となり、船に乗る時に見えたアテナイの景色。もう二度と見ることができない風景。私の暮らした街。
子供たちの先頭を歩きながら無意識のうちにテセウスや父親の姿を探したが、見つけることができたのは見送りに来たペイリトオスの冷たい笑い顔だけだった。
ふと心の隅でペイリトオスが何かをしたのかもしれないと疑惑がよぎったけれど。今さらもうどうにもならない。
船室で他の荷物と一緒に押し込められ、食事の時だけ外に出ることができた。
いつもは晴れ渡っている空もなぜか曇りがつづき、こよなく愛していた美しい海もアリアの心を慰めることはなかった。アリアの心は半ば現実から離れていた。
次第に無表情になるアリア。それでも子供たちを見る時だけは柔らかに微笑む時もあった。
しかし、港を出発して2日目の夜。限界が来た。
子供たちが寝静まっても、アリアは眠れずに鍵のかけられた船室の窓の下で膝を抱えて座っていた。
うつむくアリアに、頭上にある窓の隙間から月の光が優しく射し込んでいる。まるでアリアを見守るような光。
船の揺れる音と子供たちの寝息だけが聞こえる。
静けさがアリアの身に、心に、ゆっくりとしみこんでいく。
ぼんやりと暗い室内を眺めていると、不意にアリアの脳裏に父やテセウスと過ごした日々がよみがえってきた。
そして、あのナクソス島の入り江で過ごした2日間が。
美しい星空の下でハルカという異国の女性と一緒に入ったお風呂。対等に女子トークをしたのはあれが初めてだったのかもしれない。それなのに――。
ふと気がつくと自分の膝が濡れている。そっと目元に手をやって、初めて自分が泣いていたことに気がついた。涙がぽろぽろとこぼれていく。
泣いてはダメ。けれども、アリアがそう思っても止めることはできなかった。むしろ止めようと思うほどに、涙が次から次へとあふれ、視界がにじんでいく……。
顔を上げると、射し込む光の中を船室の埃がゆっくりと浮かんでいる。その向こうに、寄り添って眠る子供たちが見えた。
突如として、無性にアリアはテセウスに会いたくなった。たとえ、最後になってもいいから、ひと目だけでいいから。……会いたい。胸に切なさがこみ上げてくる。
窓の隙間から漏れる月の光に願う。願わくば――、
どうか。テセウスに。あの人に会わせて下さい。私の……、愛する婚約者を。どうか。どうか連れてきて下さい。お願いです……。
あふれる涙をぬぐうこともなく、ただただ祈り続けるアリア。
祈るアリアを乗せて、船はゆっくりと夜の海を進んでいった。
途中で海が激しく荒れたためにテラ島で嵐が過ぎるのを待つことになったが、アリアたちは島へと上陸することが許されなかった。
この嵐が止んだならクレタ島までの間に島はなく一直線だ。それはつまり、いよいよ逃れられない死が近づいてくるということ。
うねる波に上下に揺れ動く船。子供たちもみな、幼い頃から船に乗って海に繰り出しているとはいえ、これだけ荒れた海では気分も悪くなる。
できるのは、床に寝そべって嵐が過ぎるのを待つだけ。
一人の女の子が、
「嵐が止まったら……」
と言いかけて口ごもる。その先の言葉は言わなくてもわかっている。
一番幼い男の子がぽつりと、
「ねえ、死ぬって痛いのかな?」
とつぶやいた。けれども、誰もそれに答える子供はいない。
アリアは寝ていた姿勢からゆっくりと体を起こし、子供たちを見つめる。
「大丈夫よ。……それは一瞬は痛いかも知れないけど。私たちは神々への生け贄だから、冥界じゃなくて神さまのところに行くのよ。みんなはどこの神さまのところに行きたい?」
わざと明るい調子でそう言うと、次に大きな女の子が、
「私はアポロン神のところがいいな。……絶対にお嫁さんにしてもらうんだ」という。
その言葉を皮切りに、ある男の子は女神アルテミスのところへ行きたいといい、またある女の子はアテナの付き人になるという。
一番人気はゼウスじゃなくてアポロンのようで、次が女神アテナ。
「お姉ちゃんは?」
一人の女の子がアリアにたずねた。アリアは困ったように微笑みながら、
「私は……、ペルセポネーの侍女になりたいわね」
と言うと、何人かの女の子が驚いたように顔を上げて、
「え! だってそれじゃ冬の間は冥界に行くの?」
と言う。
大地の女神デメテルの娘ペルセポネー。彼女は冥界のハデスに連れさらわれたが、激怒したデメテルの訴えを聞き入れたゼウスの取り計らいで地上に戻されることになった。
しかし、その際に冥界のザクロを食べてしまったことで、一年の三分の一をハデスの妻として冥界で暮らし、残りをデメテルのもとへ戻ったという。
アリアは再び横になり天井を見ながら、
「うん。そしてね。ペルセポネーとともに地上に戻ってくるのよ」
とつぶやいた。
そして……。アリアは続きの言葉を飲み込んだ。テセウスのところに戻っていくの。
――ふと気がつくと、アリアは満月に照らされたどこかの宮殿にいた。
月の光が照らす宮殿の広場はまるで光と影の別世界のようで、この世界から人間がいなくなってしまったかのように静まりかえっていた。
暗闇の廃墟のような宮殿。月の光に照らされたアリアは輝いているように見える。
これは夢、ね。
きっと心理学者なら
このまま目が覚めるまで待とうか。それとも、回廊を通って宮殿の外に出ようか。
アリアは立ったままで頬杖をついて思案している。
ずりずり……。ずりずり……。
右手の回廊の奥から何かを引きずるような音が聞こえる。
アリアは警戒しながら、じいっと回廊を凝視した。
暗がりを抜けて巨体の人物。いや、牛頭人身のバケモノが巨大な両斧を引きずりながらその姿を現した。
「ヒッ……」
思わず息をのんだアリアはゆっくりと後ずさった。バケモノと目が合う。生き物とは思えないうつろで真っ赤な目。全身が金縛りになった。
ズサッ。ズサッ。
バケモノがゆっくりと真っ直ぐにアリアの方に向かって歩いてきた。
逃げなきゃ! お願い! 動いて!
心の中でそう叫び必死で手足を動かそうとするけれど、視線すらバケモノから反らすことができない。
とうとうバケモノがアリアの目の前に来て、じいっとアリアを見下ろしている。バケモノの息づかいを感じるとともに、その肉体に流れる鼓動までもが伝わってくる。
いやだ……。こんなの……。
バケモノが斧をゆっくりと持ち上げるのを見ながら、アリアは絶望と恐怖で体に力が入らない。
その時、不意にバケモノが何かに気がついたように空を見上げた。
同時に全身が動くようになった。アリアは腰が抜けて、その場にへたりこんだ。そのまま後ろに這いずりながら下がる。
がくがくと震え、カチカチと歯の根が音を立てた。恐怖のせいで涙が次から次へと流れ落ち、服を濡らしていく。それでもバケモノから目を離せなかった。
「ゴオアァ」
バケモノが空に吠えた。言葉にならない叫び。
つられてアリアが空を見上げた時、遠くの空から光る一羽の鳥が飛んでくるのが見えた。
あれは……、フクロウ? オリーブの枝をくわえている?
月の光のように輝くフクロウが一直線に飛んできて、アリアの目の前に降り立った。
そして、アリアの方にオリーブの枝を置くと、首を巡らしてじいっとバケモノを見上げている。
そのフクロウを見たバケモノが、ひどく恐れるように体を小さくさせながらゆっくりと下がっていった。
フクロウはただ、その大きな目でバケモノを見続ける。
やがてバケモノは出てきた回廊まで来ると、くるっと降り返って逃げるように暗がりに駆け込んでいった。
地響きにも似た足音が消えていったところで、ようやくアリアは安堵した。
「助かったの?」
震える声でそうつぶやくと、フクロウが今度はアリアを見た。
その瞬間、天空の月が、まるで太陽のように強く光り輝いた。
突然のまばゆい光に、アリアの視界が、体が、世界が、包まれていく。
アリアはその光の中で女神の声を聴いた。
「――聖女アリアドネ」
と呼ぶ声を。
目が覚めた時、いつの間にか船はテラ島を出航しているようで、海を進んでいるようだった。
そっと頬を触るとわずかに濡れている。
子供たちが心配そうにアリアを見ている。
「お姉ちゃん。ものすごくうなされていたよ」
一人の男の子がそう言った。
「心配かけてごめんなさいね」
そう言った時、部屋の外から、
「そろそろイラクレオンだ。降りる準備をしろ!」
と船員の声が聞こえてきた。
途端におびえ始める子供たち。アリアはため息をついた。とうとうクレタ島に着くのね。……テセウス。せめて最後に。あなたにもう一度だけ会いたかったわ。
そう思いながら立ち上がろうと手をつく。違和感を感じてその手元を見下ろすと、そこには一本のオリーブの枝が落ちていた。
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