第7話 アテナイの街

 小高い丘を登ると、目の前にアテナイの街が広がっていた。


「うわあ。……さすがはアテナイね!」


 青い空の下に広がる石造りの家並み。

 街の中央には台地があり、あそこがアクロポリスなのだろう。その上の神殿は記憶の中よりも、こじんまりとした石灰岩の神殿だった。

 さらにその向こうには、多くの帆船がエーゲ海と港を行き来しているのが見える。


 足を止めた途端に汗がじわっと出てきたが、ちょうどよく心地よい風が吹き抜けていった。


 今、私と夏樹と一緒に鞄を背負って、徒歩でアテナイに向かっているところ。


 船は、ここから南の漁村に停めさせてもらった。

 なにしろ港に入る船の数が多すぎて、私たちの操船では危なかったのだ。

 幸いに、漁村で、アリアからもらったプレートを見せると、丁重に船を係留してくれた。

 なんでもアリアの家とこの村とでは商取引があるらしい。

 でも、よかった。さすがに船は人目に付くから、信頼できるところに預けなきゃいけなかったから。


 先を行く夏樹が歩みを止めて街を眺めている。

「どうしたの?」

「ああ。思ったよりも発展しているから驚いたよ」

 そういう夏樹は、腕を組んでしばし考え込んだ。その口から独り言が聞こえてくる。

「……ミュケナイ文明はまだ先。アカイア人の流入はあるだろうが……。ううむ」


 いつもの優しい表情とは違い、真剣なまなざしで街のあちこちを見ては何かを呟いている。

 きっとこれが仕事の顔なんだろう。

 その横顔を見ていると、まるで一目惚れしたかのように胸がキュンとする。……すごく格好いい。

 思わずその場でもだえそうになるけど、邪魔をするわけにはいかない。我慢、我慢。


 ふと我に返った夏樹が振り返って、

「すまんすまん。待たせちゃった?」

と言うので、

「ううん。……あなたの横顔に見とれてたから」

と正直に言うと、私の突然のデレ発言で少し照れたように笑っていた。


 私たちは再びアテナイの街に向かって歩き始めた。


――――。

 街の広場で、道行く人からアリアの屋敷の場所を聞き出した私たちは、早速、広場を奥の方へと進んでいく。


「あれ?」

 横から突然、若い女性に呼びかけられた。

 振り向くとそこには、

「アリア!」

 都合良く隣にテセウスもいて、その周りには護衛らしき男たちの姿もあった。

 きっと私たちの姿が見慣れなかったのだろう。私の声に、護衛の男たちがさっとガードしようとしたが、テセウスが手で押さえ「知り合いだよ」と言っている。


「お二人さんも相変わらずのようね」

と言うとすぐに、

「あなたたちに言われたくはないわね」

と返された。アリアと二人でふふふと苦笑い。


 夏樹がテセウスと握手をして、

「それで例の件はどうだ?」

と尋ねると、テセウスは苦笑いしながら首を横に振る。「いえ。ちょっと……」

 夏樹は「そうか」といいながら、テセウスの肩を叩き、

「ま、焦る必要もないさ」

と言う。

 ……う~ん。何のことかな?

 するとアリアがテセウスの方を向いて、

「何のこと?」

と尋ねる。


 テセウスは慌てて手を振って、

「い、いや何でもないです。ちょっとこっちのことで」

とあからさまに何かを隠しているような態度で誤魔化していた。

 アリアも聞きたそうにしたいるが、「まあ、いいわ」と言い、

「じゃあ、私の家に案内するわね」

と、くるりと振り向いて歩いて行く。


 アリアがずんずんと進んでいく先には、大きな邸宅があった。

 壁は石灰岩らしき白い石で、装飾彫刻はなくシンプルな建物だ。

 中に入り、アリアの後をついていくと、一つの部屋に通された。

「テセウスと一緒にそこのイスでも座ってて」

と言い捨てて、アリアは奥に入っていく。



 アリアの姿が見えなくなったところで、私は夏樹に、

「さっきテセウスに言ってたのは?」

ときいてみた。

 夏樹が「え、え~とな」と言いかけると、テセウスが気まずそうに、

「僕から言いますよ。……実は、アリアのことですよ」

「アリアのこと?」

「ええ。いつまでも弟みたいな扱いされるんで、どうしたらいいかと」

「……なるほど」


 でも、個人的にはそれほど心配はいらないと思うんだけど、男の子としてはやっぱり気になるのかな?


 夏樹が苦笑しながら、「まあ、俺はその気持ちがわかるからな」と髪をかき上げた。


 え? そう? むしろ小さい頃は、私の方が妹みたいに扱われていたような……。

 でもまあ、やっぱり男の子ってことね。


 顎に指を当てながら一人納得し、隣の夏樹に、

「で、どんなアドバイスしたの?」

ときくと、

「アリアが好きだって言って、抱きしめてやればいいと言ったんだよ」


「な、なるほど」

 それって、上手くいけばいいけど。あのアリアよね……。


 テセウスが視線を泳がせながら、

「実はですね。その」と言いよどむ。夏樹が、

「やってみたのか?」と尋ねるとうなづいた。


 急になさけない表情になり、

「「アリア。お前が」まで言ったところで、「何すんのよ!」と叩かれました」


 ぷっ。くくく。そ、そりゃそうよね。その光景を想像すると笑いがこぼれそうだ。


「お、おい。顔に出てるぞ」

と夏樹に言われたことが引き金となり、

「ぷ。ははははは」

と笑ってしまった。


「だめよ。そんなんじゃ。あの年頃の子は潔癖けっぺきなんだから! むしろいきなりムード出してギャップを感じさせた方がいいわよ」

と言うと、夏樹は心外そうな表情をして、

「そうか? でもさ。春香はそれで幸せそうな顔してただろ?」

 うっ。自分のことを引き合いに出されると……。


「それはあれよ、あれ。……私で、夏樹だからってことよ」

とあわてて誤魔化す。

 ……だってさ。私はその頃から夏樹のこと全部受け入れてたから。でもそんなこと言えないじゃん。

 そう思いながら正面で、砂糖を吐きそうな表情をしているテセウスを見た。


「お二人とも……。俺がいること忘れてるでしょ?」

 夏樹があわてて、「いやそうじゃないんだ」と言いつくろう。


 そこへタイミング良くアリアが戻ってきた。その後ろには壮年の男性の姿が見える。

「なんでテセウスがそんな顔してるの? ……こっちが私のお父さんよ」

 私と夏樹は立ち上がったが、私はそっと微笑むだけにする。

「私は夏樹。こちらは妻の春香です」

「ああ。フィリラウスだ。……先月は、うちの娘が強引にすまんね」

「いえいえ。私たちも楽しかったので」


 フィリラウスさんは、穏やかな目をした大柄な男性だが、その全身から覇気のようなエネルギッシュな力を感じる。どうやら相当なやり手みたい。


 そのフィリラウスさんは、私たちを眺めながら顎を撫で、

「ふむう。君たちは東方の風貌があるが、どのあたりの出身なんだい?」

と尋ねる。

 夏樹は正直に、

「日本と言います。ここから東方にかなり遠いところですよ」

「日本? ……いいや、聞いたことがないな。アリアからエラムより遠いとは聞いていたが……」


 考え込むフィリラウスさんに、

「商隊を派遣するのは無理ですよ? 遠すぎます。歩きだと……、少なくとも1年以上はかかりますね」

「ははは。考えを読まれたか。それだけ遠いと珍しい物もあるかと思ってね」

「商人ですから当然ですよ。珍しい物といっても野菜や海産物くらいでしょうが、距離がありすぎますね。いずれは通商路シルクロードができるでしょうが、まだ時期尚早だと思いますよ」

 フィリラウスさんは手をぱんっと叩いて、

「うむ。まだリスクが高すぎるか……。だが歓迎しよう。アリアの友人なんだろう?」

と言いながら、夏樹の肩をぽんぽん叩いた。

「はい。ありがとうございます」


 アリアの母親は残念ながら数年前に病で亡くなったそうだ。ただフィリラウスさんは他に妻を娶ることなく、独り者でいるらしい。

 アリアのことを考えてのことらしく、大人の女性の奴隷を多めに雇ってアリアのそばにつけているとか。


 夏樹に言わせると、この時代やフィリラウスさんの地位を考えると、妾もいない、再婚もしないというのは考えられないとのこと。うん。私もそう思う。

 そもそも異世界では一夫多妻の社会だったし、妾さんとかまで否定する気はない。……もちろん、夏樹以外はだよ。女神ワタシはそれなりに嫉妬深いのです。


 「は、春香? どうした? なんか背筋が寒いんだけど」

といきなり夏樹の怖がっている声に我に返る私。

 「ううん。何でもない」といいながら、夏樹の腕にしがみついて、顔を見上げてニッコリ笑う。「本当、何でもないのよ? ね?」

 「そうか。それならいいんだけど」


 そこへアリアがため息をついて、

「そろそろ、いいかしら? お昼の用意してあるから行くわよ」

と言う。

 その時ようやく、フィリラウスさんたちが私たちを注目していることに気がついた。

 「「あ」」と同時に言った後で、夏樹が照れて頭を掻きながら、

「いや、その……すみません」

 フィリラウスさんが笑いながら、

「はーははは。君ら夫婦は初々ういういしいな! なんだか昔を思い出すよ。私が妻と出会ったのは――」

と陽気に話しながら、奥の食堂まで私たちを案内してくれた。


 すごくいい人じゃない、この人。……なるほど。アリアはこういう人の娘なわけね。

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