第5話 エーゲ海世界の情勢
ざざー。……ざざー。
穏やかな波の音と、ときおり吹き抜ける風。
入り江のビーチに設置したイスに座り、そっとテーブル上のコップに手を伸ばした。
魔法で冷やしたハチミツレモン水の甘みがお腹に染み渡る。
見上げると、今日の空はあいにくの曇り空だけど雨は降らなさそう。
入り江の湾の中央では、テセウスとアリアが釣り用の小舟に乗っている。
そばの海面には夏樹が頭を出している。手にしたモリの先に魚の姿が見えるから、素潜り漁をしているのだろう。
私の方はバーベキュー用のかまどの準備もできたし、飲み物もOK。
あとはみんなが戻ってくるのを待つばかりってところ。
私も海に入りたいけれど、水着などないこの時代。もっと時代が下がってローマぐらいになると、女性もビキニ姿の下着で海水浴やスポーツを楽しんだりしていたらしい。
いちおうホルターネックタイプのものは作ってあるけど、夏樹以外の人に必要以上に肌を見せるつもりはない。
小舟に向かって手を振ると、アリアがうれしそうに手を振り返した。
あの二人はもう2時間くらい、ああやって小舟に浮かんで、夏樹が獲物を捕まえるのを見学している。
でもそれが楽しいみたいで、夏樹が浮上する度に騒いでいる。ああいう所は年相応の男の子と女の子だと思う。
おや? そろそろ漁も終わりかな?
再び水中に潜った夏樹が、小舟を固定していた重しを持って浮上してきた。
夏樹が重しをテセウスに渡し、小舟の向こう側に回っていく。テセウスはオールを取りだして小舟をこぎ、夏樹はバタ足で小舟を押して桟橋に向かっていった。
私はバスケットから大きめのタオルを取り出すと、急いで桟橋に迎えに行く。
――――。
海から上がって砂浜のイスに座った夏樹に、ハチミツレモン水の入ったコップを手渡す。
肩にタオルをかけている夏樹は、にっこり笑って「さんきゅ」と言って一息に飲み干した。
その向こうで調理テーブルの上に並んだ魚や貝を見て、テセウスが、
「いやあ。かなり獲れましたね」
としみじみと言っている。
アリアはその隣で恐る恐る
「ひゃ、まだ動いてるよ」
私はその様子を見て微笑みながら、
「じゃあ、早速だけど準備するね」
と言って、かまどに火を入れて、朝のうちに準備しておいた山羊肉や豚肉の
スブラキを焼くのは夏樹にお任せして、私は
大きめの包丁を取りだして、伊勢エビは豪快に殻ごと縦に切り、すぐに火番の夏樹に渡す。
ヒラメは水をかけながらぬめりを取り、良く切れる柳刃で胸びれと背びれなどを切り取って、すき引きで表面をそぎ落とすように鱗を取る。
活きがいいのでまだピクピクと動いているけれど、エラとはらわたを取り、身に少し切れ目を入れて、ハーブのパウダーと塩をすり込んでおく。
かまどの方では、夏樹が網を敷いて、早速、スブラキと伊勢エビを載せたところだった。
パチパチと薪の燃える音がして、やがてエビの殻が焼ける芳ばしい匂いが漂ってきた。
「うわぁ。なんだか美味しそう」とアリアがうっとりと見ている。
テセウスもつばを飲み込んで、焼き色の付いていく肉串を見ていた。
ぐうぅぅうと二人のお腹が同時に鳴り、お互いに恥ずかしそうに顔を見合わせた。
私は微笑みながら、
「もう少しだから待ってね」
といいつつ、エビの半身の上に調合したハーブの粉末を散らし、蒸し焼きにするための丸いお椀のような蓋をかぶせた。
ときおり下に落ちる油がジュウと音を立てる。
だんだん我慢できなくなってきた二人がかまどに近づいて来た。
夏樹はそれを見て笑いをこらえながらも、
「うん。スブラキはもういいよ。……熱いから気をつけて」
と言って、一本ずつ火から取り上げて、テセウスとアリアに手渡した。
「さ、召し上がれ」と夏樹が言うと、二人がパクッと先端のお肉に食らいつく。
「ん~。ん~」とアリアが顔をほこらばせているが、残念ながら何を言っているのかよくわからない。
隣のテセウスはよほどお腹が空いていたのか、次々に串のお肉や野菜を食べている。
「ほい」と夏樹が私にも一本差し出したので、「ん」といいながらそのまま先端のお肉にパクついた。
表面はかりっとしているが、かみしめる度に肉汁が染み出してくる。塩しか振ってはいないけれど、それで充分おいしい。
夏樹も私の食べさしのスブラキを、そのままくわえてお肉を
私はうなづきながら、次のスブラキを網に載せ、空いたスペースに処理をしたヒラメを載せた。
いつの間にか空の雲も晴れてきて、強い日差しが差し込んでくる。
「ここに来て、本当に良かったわ!」
とアリアが食べ終わった串を手に笑った。
その輝くような笑顔に、私もなんだかうれしくなってきた。
――――。
「あれ? 誰か来たみた……。ゲオルギウス?」
アリアの声に小道を見上げると、確かにゲオルギウスさんが下りてくるところだった。一日早いけど迎えに来たのかな?
私の予想は当たり、どうやら出発が早まったから戻ってくるようにとのことらしい。
ごねるかなと思ったアリアも素直にうなづいて、ゲオルギウスさんもほっとした様子で、私たちにお礼を言っていた。
「どうやら随分と楽しかったみたいだ。お嬢が素直になってる」
と言われたときには苦笑するしかない。
ちょうどお昼ご飯が終わったところだから、私たちもナクソス港まで見送りに行くことにした。
かまどの火を砂で消して、あまった食材をお皿ごと布で包んでみんなで分担して家に運ぶ。
テセウスとアリアが客室で出発の準備をしている間に、ダイニングで珍しそうに室内を見ているゲオルギウスさんにハーブティーを出してから、私は家の窓を閉めてまわった。
準備ができたところで、テセウスとアリアはゲオルギウスさんの乗ってきた馬車に乗り込む。
私と夏樹はそれぞれ騾馬に乗り、馬車の隣を進んだ。
遠くの空では雲の切れ間から太陽の光が海に差し込んでいる。
エーゲ海の一部が、スポットライトを浴びたようにキラキラと輝いていて幻想的だ。
「美しい海ね」
思わずそうつぶやくと、馭者台のゲオルギウスさんが、
「本当にな。……だけど、物騒な時代が来るかもしれないから用心しておいた方がいい」
と教えてくれた。
夏樹が「それってどういう意味?」と尋ねると、
「今、エーゲ海はクレタ王が支配している。アテナイも1年前に戦争で負けたんだ。……今回の俺たちの航海も、アテナイ王からの貢ぎ物を届けに行くのが目的で、交易はそのついでだな」
それを聞いてびっくりした。アテナイの方が大都市で戦争でも強いのかなって思っていたから。
隣の夏樹は知っていたようにゲオルギウスさんの話にうなづいている。
ゲオルギウスさんは話を続ける。
「外国から来たお前さんたちは知らないだろう。今のクレタの王はミノス王というんだが、ものすごく強い王様でな。率いる軍隊もかなり鍛えられている」
夏樹の眉間にしわが寄る。確かにそういう暴君なら、いつ戦乱が起きてもおかしくはない。
でも力による支配は古代なら当たり前だと思うし、支配下でも地理的に離れたこの島なら、そんな王様に私たちが関わることもないと思うけど、どうかな?
「2年前にミノス王の息子アンドロゲオスが殺されてから、クレタとアテナイと戦争になり、遂にアテナイは降伏した。それから祭礼の供物にという名目で、毎年7人ずつ幼い子供をミノス王に献上させられているんだ」
ああ。子供が殺されたのか……。その怒りは凄まじいものがあったのだろう。
でも幼い子供を奴隷にでもするならわかるけど、供物ってまさか生け贄じゃないわよね……。
見ると荷台のテセウスもアリアも物憂げな表情をしている。
テセウスが、
「子供たちは一人残らず王の前で残酷に殺されているらしい」
その一言に、私の心に衝撃が走った。
夏樹が手を伸ばして私の左手を握り、「大丈夫か?」と心配そうな目で私を見ている。
ゲオルギウスさんが忌々しげに、
「復讐だよ。息子のな」
と吐き捨てた。
しばし私たちの間を沈黙が流れる。
やがて、ゲオルギウスさんが、
「アンドロゲオスが殺される前はまだ普通の政治をしていたんだ。ただ、殺されてからは恐怖政治を敷いている。それはクレタ島でも、アテナイでもな。……どうも水面下で何やら動きがあるみたいでな」
と言った。
隣の夏樹が小さな声で補足してくれる。
「もともとここは他国の船を襲ったりと、力での支配が讃えられる風潮があるんだ。だから、叛乱が起きる可能性は高いだろうね。……たしかにおじさんが言うように、成功するにしろ、失敗するにしろ、時代は荒れそうだ」
そっか。でもこれも私たちが見届けるべきことなのよね。
ようやく天帝釈様がこの時代のこの島に私たちを送り込んだ意味がわかったような気がした。
光り輝く海を見ながらも、これから嵐が近づいてくるような、そんな予感がした。
※【作者から】現在、迷走中ですので、次の投稿は間隔が開きます。
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