第5話

「…成功、ですね。おめでとうございます」

 塔の側に誰もいなくなったことを確認し、博士に歩み寄った俺はささやかな祝福の言葉を贈る。

「ありがとう。君のおかげだ」

 振り向いた火狩博士は、青白い顔に珍しく興奮の色を浮かべていた。

「あとはケストナー、ホープ、リヒト、シエロ、クリューソス…ヤマトゾーン以外にある五基も、メインシステムであるヒビキの指示下で、順次稼働を見届けるだけです。…調子はどうだ、ヒビキ」

 俺の問い掛けに、ヒビキは耳を澄ますような仕草をする。

「ケストナーとシエロは既にカウントダウンに入りました。ホープ、リヒト、クリューソスもまもなく準備が終わります」

「そうか。引き続き頼む」

 親しげに言葉を交わす俺とヒビキを眺めていた火狩博士が、わずかに首を傾げて訊ねた。

「ところで…今さらなのだが私は、いつから君のような助手を雇っていたのだったかな」

 戸惑いを浮かべるその表情へと、俺は微笑を浮かべて見せる。

「…俺たちは、ずっと昔からの付き合いですよ」

 そう応じ、俺は彼方の記憶に思いをせた。



 計画が始まってから五年が過ぎた時、火狩博士が倒れた。

 経年蓄積された過労と診断されたものの、その際の精密検査で発見された、赤ん坊の小指の先ほどの小さな脳腫瘍。

 生じていた場所は皮肉なことに、末期癌の症状すら完治に持って行くことも不可能ではなくなったこの時代においても、手のつけられる場所ではなかった。


 心のすべてを解せる者がいないように、脳もまた同じだった。解読不能と思われていた理論や公式がひとつほどければまたひとつ、人の前に不可能は立ちふさがる。

 小さな腫瘍は少しずつ肥大し、そうして火狩博士の思考は徐々に侵されて行った。

 その成長は十余年のうちに加速度的に早くなり、今の火狩博士は己が時代に『火』を灯した者であったことさえ、忘れている時間が大半だ。


 だが、時折彼はかつての意識を取り戻すことがあった。

 それは彼自身の発明に触れた時でもなく、かつて手掛けたプログラムのことでもなく、決まってこの、ヒビキシステムについて話をした時のみ。そして試みに連れてきたこの塔の中で、彼は驚くほど火狩博士としての時間を思い出した。

 始めは、きっちり六十二分の間。

 忘れ得ぬ記憶を持つヒビキが言うのだから間違いない。

 博士らしくもない…と言うのも本来なら間違っているのだろうが、初めは中途半端な時間であることが不思議だった。

 だが、六十一、六十、五十九…塔の中での火狩博士の時は緩やかに減ってゆき、やがてとうに完了したはずの過去の研究を、現在の時間軸として語るのを耳にして気づいた。


 一体どんな奇跡が起きれば、人の心とはこれほどまで頑迷なる克明さを得られるものなのか。

 問われたところで俺にも答えられようのないものだが…現在歳の博士は、博士としての記憶を一分縮めるごとに一年の時を退行しているのだった。

 かつて彼の前を過ぎていった、戻らぬ日々へと。

 それも、ここ数カ月の間、日を追うごとに短くなっている。

 もしかすると、俺よりも先にその意味を解していたかもしれない。ヒビキが時間を口にすることはいつの間にかなくなった。

 俺もヒビキに問うことはない。

 けれど、聞かずともわかる。

 彼の中から娘の存在が消えている今、おそらく博士が四半世紀近く前の、思い出の中で生きていることを。

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