百万ドルと羅針盤

マサキチ

第1話

 火狩ひがり博士はかつて、百万ドルの微笑と称されていた。

 それも十数年ほど前までのことだが、話を振れば、今でも「ああ」と頷く者は少なくないだろう。

 もっとも、ドルとかいう通貨が浸透していたのは四~五百年は昔の話で、現在は世界の共通通貨である『バール』が人類の間を行き来する金の単位ではあったけれど。


 火狩博士は、ほとんど笑うことがなかった。

 顔面の神経が麻痺しているのではないかと、何も知らぬ者が見たら勘違いするほどに彼の表情は変わらない。

 厳格な、ともむっつりとも違う、しかつめらしいという表現がこれほどまで似合う人間に、会ったことがある者はどれほどいるだろう。

 縦のものは縦、横のものは横。

 四角四面かつ崇高なるその性格は、研究に当たっての記録を取るタイミングさえ、秒単位のズレに苛立ちを感じるほどの謹厳きんげんさを自身に求めた。外に求めないのはまだマシなのだろうが、つまりは面倒臭い男だった。

 彼に関する噂には、研究の傍らサンドイッチを食べ終えるタイミングが、三十秒遅れたと漏らしたなどという、人格を総括した秀逸としか呼べぬものさえある。

 もっとも、聞いている側にとっては単なる笑い草でも、本人は至って真面目なのだが。


 そんな火狩博士は、機械工学において天才と言われた科学者だった。

 姓に含まれる火をもじり、かつての北欧神話にあった誰も手を出せぬという炎の剣、レイヴァティンを冠した、炎をも操る者『レイヴァーテナー』という言葉を、世界が彼のために用意したくらいである。

 彼の発明は飛躍的に世界を発展させた。

 家電から始まり、生産機器、医療機関も含め、企業はこぞって採用に名乗りを上げた。


 だが、火狩博士は金や利権にはとことん無頓着だった。

 天文学的な収入管理は専任のエージェントに丸投げし、年度の変わり目に渡された書類へと、おざなりに目を通すだけ。たとえゼロがひとつなくなっていたところで、気にも留めなかっただろう。

 ただ彼は己の思いが向くままに研究を極めていられさえすれば、それで良かった。

 研究にのみ没入する、純真無垢な魂。

 火狩博士に妻子はあったが、すべて彼を敬愛し自由であることを望む妻に任せ、ラボに一週間こもっていても平気の平左。

 ストイックかと思えばなんとも奔放な人であったが、発明理論の構築と裏打ちされた成果を上げられた時だけ、彼は知らず微笑んだ。

 火狩博士が微笑んだものは必ず、どれほど実現不可能だと世間から叩かれたものであっても、百万どころか天井知らずの財を生み出した。

 幻の笑みが、奇跡と呼ぶべく成功を収める。

 火狩博士はある意味、決して他人には真似のできぬ呆れと称賛を込め、百万ドルという称号を冠されていたのだった。

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