第2話 僕が失ったものと真相

 僕は昔から臆病者だ。自分から話しかけて友達を作ったことが生涯一度もない。だから、中学校に入った頃は友達が一人もいなかった。周りがどんどんグループを確立していく中で、僕はどこかの輪に入ることもできず、一人になった。こうなってくると、こういう暗い奴なんだと周りに認識され、誰も話しかけようとはしてくれなくなった。休み時間はいつも机に突っ伏して眠っていたし、体育のキャッチボールは残りものになった。


 そんな僕とは比べ物にならないくらいだったのは同じクラスの富田だった。富田は明るくてクラスの人気者だった。スポーツ万能で、誰にでも偏見なく接してくれるとても心の広い奴だった。体育の時も僕とペアを組んでくれて、嫌な顔ひとつせずにキャッチボールをしてくれた。授業以外では話すことはなかったけれど、僕は彼に憧れていた。


 だが、一度だけ授業以外で話す機会があった。

 ある日の昼休み、僕は一人で弁当を食べようとしていた。弁当箱を開けると、カレーと白米が綺麗に半分に詰められていた。カレーの次の日に面倒くさがって、母さんがよくやる手だ。いつものようにちょうど半分の切れ目のところから食べようとすると、声が降ってきた。


「わっ!カレーだ!」


 見上げると、富田が僕の弁当箱を見て、目を輝かせていた。富田は机に前のめりに寄りかかり、「すげー!うまそー!」と言いながら、カレーを見つめていた。いかにも食べたそうだった。


「た、食べる?」


 僕は持っていたスプーンを差し出した。すると、富田はぱぁっと明るくなり、「サンキュー」と言って、スプーンを手に取った。富田は一口分のカレーを掬い上げ、スプーンにパクついた。


「ん~!めっちゃうまい!」


 富田はそのあと、2、3口食べてご機嫌にスプーンを返してきた。


「お前ん家のカレーうまいな! またカレーの時、食わしてよ」


 富田はニカッと笑って言うと、またグループの輪の中に戻っていった。僕はその時、自分で作ったわけでもないカレーを褒められただけなのに、なぜだか嬉しかった。




 中学二年になり、富田とはまた同じクラスだった。だが、彼はサッカー部のエースストライカーとして活躍するようになり、昼休みも練習に出ていたので教室で昼ご飯を食べることはなかった。

 その頃から僕はたちの悪い不良に目をつけられていた。相変わらず僕は一人だったので、標的にちょうど良かったのだろう。ほぼ毎日、誰も寄り付かないような林の中で殴られ、蹴られ、罵倒を浴びせられた。誰も助けてくれない。正直もう限界が来ていた。




 二年前の十二月二十日。空気が刺すように冷たい日だった。僕は強い力で押され、地面に顔面をぶつけた。唇が切れたのか痛みとともに口元に生温かさを感じる。背後から気味の悪い高笑いが聞こえてきた。


「ほら、立てよ」


 背後から強制的な命令が下った。逆らえばもっと酷い目に遭う。僕はありったけの力を振り絞って、身体を起き上がらせた。鼻から液体がポトリと地面に落ちた。それは赤かった。血、そう気づくと狂ってしまいそうなぐらいの恐怖が全身を満たした。ふいに頭が上へと引き上げられる。不良の一人が髪を鷲掴みにして、僕を無理やり立ち上がらせた。そして、頬を思い切りぶん殴られ、また地面に転がった。目の前に数本の髪の毛がゆっくりと落ちてきた。不良たちは僕を見下げて笑っている。地獄だ。追い打ちをかけるように四方から足が飛んでくる。腹や背中に鈍い痛みが広がっていく。顔面を汚い靴底が舐めるように這っていった。大量に血が地面に落ちた。鼻が焼けるように熱い。やばい、死んじゃう。恐怖から震えが止まらなくなった。それでも容赦なく襟首を掴まれ、立ち上がらせる。そして、腹をおもいきり殴られた。もう限界だった。地面に膝をつき、胸の奥から這いあがってくる吐き気に抗えず、嗚咽が漏れる。口の中からドロッとした茶色い固まりが溢れ出してきた。そういえば、今日の昼はカレーだった。


 なぜだか、あの時の富田の笑顔が浮かんだ。また話したかったな。こんなことなら勇気を出して声をかければよかった。


 目から熱いものが零れ落ちた。汚物に混ざって消えていく。ちっとも綺麗にはしてくれなかった。ただ嫌な臭いだけが自分を満たしていく。この苦しみから一生抜け出せないんだ。そう思った途端、体の力が抜けた。地面に投げ出され、静かに瞼が下りていく。闇の中に意識が吸い込まれそうになったその時だった。


「何やってんだ!」


 その声に意識が引き戻された。近づいてくる足音が聞こえる。また立ち上がらせるのか。もう抵抗する気力さえ残っていなかった。だが、その手は優しく僕を抱き寄せた。ゆっくりと目を開くと、そこには富田がいた。


「松井、大丈夫か? 返事しろ」


 声は聞こえていたが、何もかもいっぱいいっぱいで返事ができない。代わりに涙だけが零れる。


「富田、怪我したくなかったらさっさと失せろ」


 不良の一人が言うと、富田は僕の体を一層力強く引き寄せた。


「そんなことできるわけないだろ。俺は仲間を見捨てない」

「その綺麗事が前からムカついてたんだよ。いいや、お前も遊んでやる」


 不良たちは富田に襲い掛かった。富田は僕を地面に横たわらせて一人で不良たちに立ち向かって行った。ダメだ。行っちゃダメ。富田の背中が闇に消えていくのを見ながら僕は気を失った。




 目を覚ますと、僕は真っ暗な闇の中にいた。湿った葉っぱや木々の匂いの合間に血と腐ったようなカレーの匂いが充満する。暗さに目が慣れてきたのか、周りに生えている木々の輪郭が見えるようになってきた。首だけ動かし辺りを見ると、体中がズクッと痛みを発する。その瞬間、少し離れたところに誰かが寝ているのに気付いた。


 富田だった。


 反射的に起き上がると、再び痛みが全身を駆け巡った。脳が浮かび上がる感覚に襲われる。だが、目眩を振り払い、這うように富田の傍に寄った。


「富田」


 名前を呼び、体を揺する。だが、彼は反応しなかった。両手を投げ出して、ぐたりと横たわっていた。顔は腫れあがり、額や唇からは血が出ている。そこから流れ出た血がぽたりぽたりと地面に落ちていた。鼓動が跳ね上がって、震えが止まらない。どうしよう。彼を保健室まで運べる体力はもう残っていなかった。でも、助けなければ。一人で保健室まで行って助けを呼ぶしかない。たどり着ける自信はないが、行くしかない。


 身体を無理やり動かし、なんとか立ち上がった。だが、脳がうまく働かず、バランスを崩して近くの木の幹に縋りつく。手のひらに痛みが走ったが、そんなことは気にしていられない。再び手前にある木に縋りついて、前へ前へと進んだ。林を抜け、渡り廊下までの道を何度も転びながら歩く。視界が歪み、渡り廊下の輪郭が闇の中に消えては蘇るを繰り返していた。いつまで経っても闇から逃れられないようで足が震える。


 やっとのことで渡り廊下にたどり着いた。柱や柵を伝って、渡り廊下を抜け、校舎の中に入った。壁に縋りつき、ただ前を向いて歩いていた。廊下は真っ暗で、何も見えない。自分の息遣いと靴がこすれる音だけが静かに響いていた。辛い、誰か、誰か助けて……。その時だった。


「おい、誰だ」


 背後から声が聞こえた。振り向くと、光が目に飛び込んできた。途端、視界がぐらりと揺れた。同時に光の余韻が暗闇にゆるやかな川のように現れた。その瞬間、僕の意識は川に吸い込まれていった。


 目を開けると、薄暗い明りの余韻が視界を満たしていた。その端からぬるっと人の顔らしきものが現れた。よく見ようと目を開こうとしたが、重くて開かなかった。


「松井、わかるか?」


 声からして担任の有坂先生だった。答えようとしたら、のどが乾ききっていて咳しか出なかった。すると、腹部が悲鳴を上げる。有坂先生は僕の肩をさすってくれた。その瞬間、先ほどまでの記憶が蘇った。勢いよく起き上がる。また体に激痛が走った。有坂先生は驚いた様子で痛みでよろけた僕の体を支えた。


「富、田……富田が……」


 やっと出た声は掠れて聞き取りにくくなっていた。だが、有坂先生には聞こえたらしく「富田がどうした?」と聞いてきた。話すより体が動いた。彼のもとへ。


 保健室を出て、廊下をぬけ、渡り廊下から林を目指した。まだ体力が回復していないのかふらふらして上手く歩けない。気持ちだけが先走り、足並みはついていくのでやっとだった。


 たどり着いた林の中で彼は僕が最後に見た格好のまま地面に横たわっていた。僕はよろけながらも彼の傍にたどり着いた。腫れあがった顔から出た血は、固まって赤黒い筋を引いていた。それとは対照的に唇や首筋は青白くなっている。先ほどとは違い、手は気を付けをしているようにピンとして固まっていた。


「富田」


 名前を呼び、手を握った。氷のように冷たかった。その手はピンと張ったまま動かない。


 ふいに肩をグイッと引かれ、後ろに転がった。富田の周りに先生たちが駆け寄る。彼の名前を皆が呼んでいた。でも、彼はビクともしなかった。僕はただ茫然と見ていることしかできなかった。




 その後、僕は親に迎えにきてもらって家に帰った。あれ以来自分がどうしていたのかまったくわからなかった。気が付くと、目の前には心配そうな両親の顔があった。家に着くと夕食が用意されていたが、喉を通るはずもなかった。自室に戻り、ベッドに横になった。だが、富田がどうなったのかが気になって仕方がなく、その日は一睡もできなかった。





 翌朝、休んだ方がいいと言う両親の助言も聞かず、僕は傷が疼く体で学校へ向かった。


 教室に入ると、皆が僕を見て驚きの表情を浮かべた。顔中絆創膏だらけだから無理もない。だが、心配して話しかけてくる人など誰もいなかった。皆、僕を見てひそひそと仲間内で話している。富田の姿はなかった。

 予鈴がなる前に有坂先生は教室に入ってきた。いつもの明るい挨拶はない。唸るように「全員席につけ」と言って、教卓の前に立った。一度、有坂先生と目が合った。だが、すぐに逸らされる。


「みんなに知らせなければいけないことがある。昨日……富田が亡くなった」


 死んだ? 頭の中が真っ白になった。教室中がざわついた。そして、何人かが驚愕した表情で「嘘だろ?」と呟く。有坂先生は静かに目を伏せた。教卓の上で拳をぎゅっと握りしめる。


「何でだよ…何で死んだんだよ!」


 男子が一人、声をあげた。彼はサッカー部だった。富田と仲が良かったはずだ。


「……事故だ」


 有坂先生は何かを堪えるように長い間を置いてから振り絞るように呟いた。違う。事故なんかじゃ、そう思いながらも声に出すことはできなかった。


「今日は休校になった。今日、午前10時から葬儀が行われる。うちのクラスは全員行くぞ。時間になるまで教室で待機するように」


 女子も男子もみんな泣いていた。こんなに愛されていた彼を、犠牲に僕は生き残ってしまった。僕のせいで、彼は死んでしまった。


 「松井」


 そう呼ばれて顔を上げると、有坂先生が目の前に立っていた。


「お前は来い」


 僕は一人、生徒指導室に有坂先生といた。僕は教室の奥に座り、先生は入口のドアを背にして座る。入って第一声は有坂先生だった。


「驚いたか?」


 さっきの事故発言のことだとすぐわかった。だが、僕は彼が死んでしまった事実に衝撃を受けて、思考がついていけなくなっていた。小さく「はい」と答える。


「あれはお前がやったことではないとわかってる。お前はそんなことができるような奴じゃない。だから、教えて欲しい」


 有村先生は間を置いた。


「富田を殺したのは、誰だ!」


 語尾にとてつもなく力が込められていた。有村先生の目には涙が浮かんでいた。先生はサッカー部の顧問だった。彼とは特別親しかったのだろう。だからこそその眼には悲しみよりも怒りの方が強く表れていた。殺してやる。そう言われているような気がした。恐怖が全身を埋め尽くした。恐怖に突き動かされるように僕は昨日起こったことを包み隠さず話した。だが、僕のせいだとはどうしても言えなかった。




 先生の言葉通りに彼の葬儀はクラス全員で行った。葬儀場に入ると、生徒は順番に棺と平行線上に並ぶ椅子に座らされた。色とりどりの花が並べられた祭壇の真ん中にニカッと笑った彼の遺影が飾られている。その前に木の棺が置かれていた。葬儀の前に生徒たちは皆、棺の中の彼の顔を覗き、両親に挨拶することになった。


 僕の番になり、棺桶の中を覗く。彼の顔は最期に見た時よりも少しだけ綺麗になっていた。血は拭き取られ、傷も化粧で隠されていた。彼の両親の前に促され、頭を下げた。二人とも憔悴した様子だった。


「ありがとうね」


 母親が僕に向かって言った。ありがとうなんて、僕には言われる資格がない。僕のせいで、僕が彼を殺したも同然なのに。


「僕のせいです。僕を助けたばっかりにあんなことに、あの時、ちゃんと伝えてれば彼は死ぬことなんてなかったのに……僕のせいなんです。ごめんなさい」


 床に頭をこすりつけて、謝った。「ごめんなさい」と何度も繰り返し謝った。


「あの子は正義感が強くて、おせっかいな子だったから……」


 母親は途中で口を押え、堪えきれずに父親の胸に縋りついた。絶望しかなかった。いっそ罵倒してくれればよかった。僕は心のどこかで言ってほしかったのかもしれない。君のせいではないと。けれども、返ってきたのは一番自分のせいだと重く感じる答えだった。






 その日から僕は自室にこもるようになった。眠れず、食事もとれず、ただただぼーっとしていることしかできなかった。


 その間、訪ねてきた有坂先生から僕をいじめていた人達は退学になり、傷害致死罪で警察に捕まったと聞いた。僕だけが罰を受けていない。僕のせいで富田は死んでしまったのに。


 僕のせいで彼は死んでしまった。その言葉を頭の中で反芻し、時々涙を零した。僕に泣く資格なんてないのに、自然と溢れ出してくる。涙とともに魂も抜け出してしまえばいいのに。そしたら、僕の体を彼に明け渡して、生きてもらうことができるのに。僕が死ねばよかった。


 彼が死んでから2週間が経った。未だに僕は自室に籠って、ぼーっとしていた。窓から空を見上げると、澄んだ青空が広がっていた。今の僕とは正反対だった。彼も僕とは正反対だった。僕より彼の方が皆に必要とされていて、もっと生きるべきだった。僕が死ねばよかった。静かに目を閉じた。涙が溢れた。このまま僕の命は抜け出てしまえばいい。身体もだるいし、重かった。もうすぐ楽になれる。ふいに香ばしい匂いが鼻を劈いた。カレーの匂いだった。ふいに彼と話した時の記憶が蘇ってきた。ニカッと笑って言った言葉。


「お前ん家のカレーうまいな! またカレーの時、食わしてよ」


 その瞬間、背後のドアが開いた。視線は向けず、母親が部屋の中に入ってくる足跡だけを聞いていた。


「広、ご飯よ」


 僕は黙っていた。


「広」


 その声が意味もなく苛立ちを助長する。僕は吐き捨てるようにつぶやいた。


「もうほっといてよ。食べないから」

「何でよ? このまま食べなかったら死んじゃうわよ?」

「いいよ。僕には食べる資格がないから」


 母はしばらく何も言わなかった。だが、少しして言葉は繋がれる。


「……彼のことは、あんたのせいじゃないわよ」


 戸惑いと、同情を含んだようなやさしい響き。その言葉を訊いた瞬間、僕はもう限界だった。


「僕のせいなんだよ! もう死んじゃいたいよ……」


 枕に顔を埋めて、嗚咽が漏れないように喉に力を入れた。母は黙っている、と思った。


「ダメ! あんたは生きなきゃダメよ!」


 そういうと、母は無理矢理僕を引っ張って部屋から出した。少し廊下を歩いただけなのに息が乱れて足元がふらつく。母は僕を食卓に座らせると、目の前にカレーを置いた。


 カレー皿の中でサイコロ状に切られた肉がゴロゴロと存在感を露わにしている。カレースープは光沢を帯びて黄金色に輝いていた。


「食べなさい。生きるために、食べなさい」


 母はスプーンを無理やり持たせて、カレーを掬わせた。なぜだかお腹に違和感を覚えた。お腹に穴が開いたような感覚に囚われる。恐る恐る口に入れると、飲み込めた。あの日から食べようとすると体が受け付けず、吐いてしまっていたのだ。


 けれども、食べられた。生きろ。彼がそう言ってくれているのだ。


 スプーンにカレーを掬い、一口もう一口と食べることができた。僕はそのまま泣きながらカレーを食べ続けた。久しぶりに食べたカレーは少ししょっぱかった。





 それ以来、僕は少しずつちゃんとした生活が送れるようになった。母は、僕のために一週間続けてカレーメニューを作ってくれるようにもなってしまった。学校に通えるようになってもひとりぼっちだったけど、なんとか卒業することができた。僕は生まれ変わることができた。そう思っていた。


 だが、人はなかなか変わることなんてできなかった。高校に入っても、僕は自分から話しかける勇気が出せなかった。そんな時、竹本が僕に声をかけてくれて、その友達の梅沢も加わり、今では一人ぼっちではなくなった。僕は彼らに合わせるために表面上は俺と口にしているけれど、結局自分は何も変わっていない。





 そして、今日が来た。放課後、僕たちは教室の掃除当番だったので、教室の隅で談笑していた。


「バシュッ、バァン!って」


 梅沢が顔面にボールが当たった僕の真似をして笑う。一限目が終わってからずっとネタにされ、周りにも笑われるし、僕は恥ずかしくてたまらなかった。その真似がまたリアルで上手いから余計に腹が立つ。耐えかねて僕は梅沢を制止しつつ言う。


「もういいって!」

「だって面白いんだもん。試合出てないのに顔面って……」


 梅沢は吹き出してまた笑い転げた。竹本は無表情でその様子を見ているが、微かに口角がぴくぴくしているのがわかる。


「誰かゴミ捨て行ってきてー」


 クラスの女子が大声で言った。僕は「俺が行く」と言って、ゴミ袋を手に教室を出る。


「あ、広すねんなよ」


 梅沢が背後から言ってきたが、無視して廊下を大股で歩いた。


 二年生の校舎の廊下を抜けて、端にある階段を下りる。中学校の時もよく顔面にボールを当てられた。かなり前なはずなのに痛みに耐性がついてしまったのか、今日は一瞬しか痛くなかった。でもまた痛くなった気がする。


「広!」


 真ん中あたりまで下りたところで背後に声がした。梅沢だとわかって、不機嫌な顔で振り返る。だが、梅沢はスーパーマンみたいな恰好で宙を飛んでいた。そのまま前のめりに飛んでくる。僕の体は押し倒され、世界の景色がひっくり返った。


「いって……」


 気が付くと、僕たちは踊り場で二段重ねに倒れていた。梅沢はすぐさま起き上がり、僕の肩を掴んで「広、怪我ない?」と呼び掛けてくれた。梅沢にもこんな男らしい面があるのかと少し驚いた。だが、さっきの姿を思い出してまた腹が立ってきた。


「大丈夫。ゴミ出し行かなきゃいけないから」


 僕は素っ気なく言って、手を振り払った。立ち上がって、急いで階段を下りていく。渡り廊下を抜けようとした時、騒がしい声に届いた。体育倉庫の裏から聞こえるらしい。近寄って様子を窺ってみると、一人の男子生徒を囲んで大きなガラの悪い三人が立っていた。会話はよく聞こえないが、これはまずいパターンな気がする。過去の記憶が頭を過ぎり、数秒思考が停止する。動悸がひどくなってきて危険を感じ、その場を離れようとしたその時だった。不良の怒声がひとつ、耳に飛び込んでくる。


「―と、三田ぁ!!」


 


 その瞬間、あの日の光景が蘇ってきた。


 富田が、死んでしまう。


 自然と体が彼らの方に動いていた。


 助けなきゃ、助けなきゃ。


 無我夢中で不良を彼の周りから振り払った。すると、不良たちは僕を睨んで言った。


「誰だお前? 怪我したくなかったらさっさと失せろ」


 あの日の光景とリンクする。恐怖が体を蝕んでいった。足がすくむ。だが、負けてはいけない。グッと拳を握りしめ、全身に力を入れた。


「わかったよ。お前から始末してやるよ」


 そう言った次の瞬間、重い拳が頬を直撃する。勢いで吹っ飛ばされ、地面に倒れた。視界がテレビのノイズのようになり、不良の後ろが夜の闇に変わった。


「ほら、立てよ」


 不良の一人が髪を鷲掴みにして、僕を無理やり立ち上がらせた。そして、頬を思い切りぶん殴られ、また地面に転がった。目の前に数本の髪の毛がゆっくりと落ちてくる。地面に真っ赤な液体が零れる。追い打ちをかけるように四方から足が飛んできた。腹や背中に鈍い痛みが広がっていく。地獄の時間が長く続く。顔面を汚い靴底が舐めるように這っていった。大量に血が地面に落ちた。鼻が焼けるように熱い。恐怖に身が固くなる。それでも容赦なく襟首を掴まれ、立ち上がらせる。そして、腹をおもいきり殴られた。地面に膝をつき、胸の奥から吐き気が這いあがってくる。


 嫌だ。


 口の中からドロッとした茶色い固まりが溢れ出してきた。カレーだった。


 嫌だ、嫌だ。


 気持ちとは反対に溢れ出してくる。無力だった感覚が蘇ってくる。


 僕は何もできない。彼を救えない。


 涙が一粒、汚物の上に落ちた。その一滴は茶色い海を一瞬だけ黄金色に変えた。


 富田、助けなきゃ。


 無理やり体を立ち上がらせ、倉庫の壁に縋りついた。またノイズが入る。景色は暗闇と夕暮れのオレンジを交互に見せる。いつの間にかかなりの時間が経ってしまっていた。急がないと。逸る気持ちに足がついていかず、何度も転んだ。そのたびにノイズは強くなり、過去の恐怖が余計に力を入らなくさせた。


 やっとのことで渡り廊下にたどり着くと、柱や柵を伝って、校舎の中に入った。もうすぐだ。安心したからか目眩がひどくなる。廊下の壁に縋りつき、なんとか自分を保った。途端、景色がぐるぐると回りだし、黒とオレンジのマーブルを作り出した。


 ダメだ。富田を助けないと。保健室にたどり着かないと。


 そう思った瞬間、回る視界の中に保健室の文字が見えた。


 あった。


 衝動的に体が動き、流動する視界ともとに体が崩れた。だが、視界の端で保健室という文字が動きながら存在を露わにしていた。

 そして、ゴッと鈍い音とともに意識が消失した。

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