第2話 カレーと僕《過去編》
僕は昔から臆病者だった。自分から話しかけて友達を作ったことが生涯一度もないし、話しかけて失敗するくらいなら一人でいることを選ぶ。そんな内向的な性格だったから、中学校に入った頃は友達がいなかった。周りがどんどんグループを確立していく中で、僕はどこの輪に入ることもできず、当たり前のように一人になった。こうなってくると、暗い奴なんだと周りに認識され、誰も話しかけようとはしてくれなくなった。休み時間はいつも机に突っ伏して眠っていたし、体育のキャッチボールは残り者になった。
そんな僕とは比べ物にならないくらいだったのは同じクラスの
そんなある日の昼休み、僕が一人で弁当を食べようとしていたところに富田が声を掛けてくれたことがあった。いつものように自分の席に座って一人昼食を取ろうと弁当箱を開けると、その中にはカレーと白米がちょうど半分綺麗に詰められていた。前日の夕食がカレーの日に母さんがよくやる手だ。その思いきりの良さにある意味清々しさを感じながらも、僕はいつものようにちょうど半分の切れ目のところにスプーンを入れる。すると、ふいに頭上から声が降ってきた。
「わっ!カレーだ!」
見上げると、富田が僕の弁当箱を見て目を輝かせていた。彼は机に前のめりに寄りかかってきて、「すげー!うまそー!」と言いながら、弁当箱の中のカレーを見つめている。羨ましそうな目でカレーを食い入るように見つめる姿に居たたまれなくなって、スプーンを差し出しながら告げる。
「た、食べる?」
すると、富田の表情はぱぁっと明るくなり、「サンキュー」と軽く言って、スプーンを受け取る。彼はそのまま一口分のカレーを掬い上げ、スプーンにパクッと食いついた。
「ん~!めっちゃうまい!」
富田はそのあと2、3口頬張って、ご機嫌にスプーンを返してきた。
「お前ん家のカレーうまいな! またカレーの時、食わしてよ」
富田はニカッと笑って言うと、またグループの輪の中に戻っていった。唐突に現れて颯爽と去っていった彼の姿を呆然と見届ける。自分で作ったわけでもないカレーを褒められただけなのに、その時僕はなぜだか嬉しい気持ちでいっぱいになって、残ったカレーを夢中で頬張った。
中学二年になり、富田とはまた同じクラスになった。けれど、彼は二年になってサッカー部でレギュラー入りを決め、さらにエースストライカーとして部の中心を担うようになってからは昼休みも練習に出ていたので、教室で昼ご飯を食べることはほとんどなくなってしまった。
その頃から僕はたちの悪い不良に目をつけられていた。相変わらず僕は一人だったので、標的にちょうど良かったのだろう。ほぼ毎日、誰も寄り付かないような林の中で殴られ、蹴られ、罵倒を浴びせられる。誰も助けてくれない毎日に、正直もう限界が来ていた。
*
二年前の2月5日。その日の空気は刺すように冷たく、気温は5度を下回っていた。林の中は日が当たらず、さらに寒さが身に染みる。加えて不良たちに囲まれているという背筋の凍る状況じゃ震えが止まらなくなるのも当然だった。ふいに強い力で張り倒され、受け身も取れずに僕は地面に顔面をぶつけた。露に濡れた草の感触とは違い、口元に生温かさを感じて、血が滲んでいることに気付いた。背後から気味の悪い高笑いが聞こえてきて、余計に寒気がする。
「ほら、立てよ」
一段低くなった声が、強制的な命令だということを知らせる。逆らえばもっと酷い目に遭う。僕はありったけの力を振り絞って、身体を起き上がらせた。鼻から液体がポトリと地面に落ちた。それは鮮明なほどに、赤かった。血、そう気づくと狂ってしまいそうなぐらいの恐怖が全身を満たした。ふいに頭が上へと引き上げられる。不良の一人が髪を鷲掴みにして、僕を無理やり立ち上がらせた。そして、頬を思い切りぶん殴られ、また地面に転がる。目の前に数本の髪の毛がゆっくりと落ちてきた。不良たちは僕を見下げて笑っている。地獄だ。追い打ちをかけるように四方から足が飛んできて、腹や背中に鈍い痛みが広がっていく。顔面を汚い靴底が舐めるように這って、大量の血が地面に落ちた。気温の冷たさに際立って、鼻が焼けるように熱い。やばい、死んじゃう。恐怖から震えが止まらなくなっていた。それでも容赦なく襟首を掴まれ、立ち上がらせられせる。そして、腹をおもいきり殴られ、地面に膝をついた。胸の奥から這いあがってくる吐き気に抗えず、嗚咽が漏れる。口の中からドロッとした茶色い固まりが溢れ出してくる。そういえば、今日の昼はカレーだったっけ。
嘔吐を繰り返しながら、なぜだかあの時の富田の笑顔が思い浮かんだ。
「カレーうまいな!」
そう明るく声を掛けてくれた彼に、僕は返事さえろくに返すことができなかった。こんなことなら、勇気を出して声をかければよかった。できることなら彼と、友達になりたかった。
目から熱いものが零れ落ちた。それは吐瀉物に混ざって消えてしまい、ちっとも綺麗にはしてくれない。ただ嫌な臭いだけが自分を満たしていく。少しの酸味はいつにも増して、強くなって喉を刺激する。口内に粘りついては離れない。もうこの苦しみから一生抜け出せないんだ。そう思った途端、力が抜けて身体が地面に投げ出される。静かに瞼が下りていく。闇の中に意識が吸い込まれそうになったその時だった。
「何やってんだ!」
その声に意識が急激に引き戻された。近づいてくる足音が聞こえ、不良たちが寄ってきたのだと思った。また立ち上がらせるのか。何もかも諦めた気持ちでいたその時、予想とは反対に、優しく腕に抱き寄せられた。ゆっくりと目を開くと、そこには心配そうにこちらを見つめる富田の顔があった。
「松井、大丈夫か? しっかりしろ」
声は聞こえているが、嬉しさと痛みと困惑とで感情がまとまらず、何もかもいっぱいいっぱいで返事ができなかった。代わりに涙だけが両目から溢れ出す。
「富田、怪我したくなかったらさっさと失せろ」
不良の一人がドスの利いた声で言うと、富田は僕の体を一層力強く引き寄せた。
「そんなことできるわけないだろ。俺は友達を見捨てない」
友達。その言葉にと胸を突かれたような想いだった。そうか、僕はもう君の友達だったんだ。感極まってしゃくり上げが止まらず、涙は次から次へと流れ出す。そんな僕の肩を「大丈夫だ」と彼は優しくさすってくれた。だが、そんな夢見心地な空気を不良の舌打ちが切り裂く。
「そういう綺麗事、前からムカついてたんだよ。いいや、お前も遊んでやるよ」
不良たちはおもむろに近づいてくると、富田を囲い込んだ。彼は僕を地面に横たわらせて、一人で不良たちに対峙する。ダメだ。まともにやり合ったら絶対に怪我をさせられる。行っちゃダメだ! そう思うのに身体は動かず、声さえも出てこない。富田の背中が闇に消えていくのを見ながら、僕は意識を失った。
目を覚ますと、真っ暗な闇の中にいた。湿った葉っぱや木々の匂いの合間に血と吐瀉物の匂いが充満する。暗さに目が慣れてきたのか、周りに生えている木々の輪郭が見えるようになってきた。首だけ動かし辺りを見ると、体中がズクッと痛みを発する。その瞬間、少し離れたところに誰かが横たわっているのに気付いた。目を閉じてじっとしているが、それは確かに、富田だった。反射的に起き上がると、再び痛みが全身を駆け巡る。脳が浮かび上がる感覚に襲われたが、目眩を振り払い、這うように富田の傍に寄った。
「富田」
名前を呼び、体を揺する。だが、彼の反応はない。両手を投げ出して、ぐたりと地面に横たわっていた。顔は腫れあがり、額や唇からは血が出ている。そこから流れ出た血がぽたりぽたりと地面に落ちていた。鼓動が跳ね上がって、震えが止まらない。どうしよう。彼を保健室まで運べる体力はもう残っていなかった。でも、助けなければ。一人で保健室まで行って助けを呼ぶしかない。たどり着ける自信はないけど、行くしかないんだ。
身体を無理やり動かし、なんとか立ち上がった。だが、脳がうまく働かず、バランスを崩して近くの木の幹に縋りつく。手のひらに痛みが走ったが、そんなことは気にしていられない。再び進行方向にある木に縋りついて、前へ前へと進んだ。林を抜け、渡り廊下までの道を何度も転びながら歩く。視界が歪み、渡り廊下の輪郭が闇の中に消えては蘇るを繰り返していた。いつまで経っても闇から逃れられないようで足が震える。
やっとのことで渡り廊下にたどり着いた。柱や柵を伝って、渡り廊下を抜け、校舎の中に入った。壁に縋りつき、ただ前を向いて歩いていた。廊下は真っ暗で、何も見えない。自分の息遣いと靴がこすれる音だけが静かに響いていた。辛い、誰か、誰か助けて……。その時だった。
「おい、誰だ」
背後から声が聞こえて振り向くと、光が目に飛び込んでくる。途端、視界がぐらりと揺れた。同時に光の余韻が暗闇にゆるやかな川をつくる。その瞬間、僕の意識は川に吸い込まれて急激に遠退いていった。
目を開けると、薄暗い明りの余韻が視界を満たしていた。その端からぬるっと人の顔らしきものが現れ、僕を覗いているのがわかる。よく見ようと目を開こうとしたが、重くてこれ以上は開きそうになかった。
「松井、わかるか?」
声からして担任の
「富、田……富田が……」
やっと出た声は掠れてほとんど出ていなかったが、有坂先生には届いたらしく、「富田? がどうした?」と尋ねてきた。話すより体が動いて、彼のもとへ駆け出す。
保健室を出て、廊下を抜け、渡り廊下から林を目指した。まだ体力が回復していないのかふらふらして上手く歩けない。気持ちだけが先走り、足並みはついていくのでやっとだった。
たどり着いた林の中で、彼は僕が最後に見た格好のまま、地面に横たわっていた。僕はよろけながらも彼の傍に膝をつく。腫れあがった顔から出た血は、固まって赤黒い筋を引いていた。それとは対照的に唇や首筋は青白くなっている。先ほどとは違い、手は気を付けをしているようにピンとして固まっていた。
「富田」
名前を呼んで握った手は、氷のように冷たかった。震える僕の手とは対照的に、それはピンと張ったまま微動だにしない。
ふいにぐいっと肩を後ろに引かれ、尻餅をついた。富田の周りに、いつの間にか集まっていた先生たちが駆け寄る。彼の名前を皆が呼んでいた。けれども彼はビクともせず、先生たちの必死な声だけが林の中に木霊する。僕はただ、その様子を茫然と見ていることしかできなかった。
その後、親に迎えにきてもらい、僕は家に帰ってきた。あれ以来、自分がどうしていたのかまったく覚えていない。気が付くと目の前には心配そうな両親の顔があって、夕食も用意されていた。けれどそんなものが喉を通るはずもなかった。自室に戻り、ベッドに横になったが、傷の痛みと富田がどうなったのか気が気でなくて、その日は一睡もできなかった。
翌朝、休んだ方がいいと言う両親の助言も聞かず、僕は傷が疼く体で学校へ向かった。
教室に入ると、皆が僕を見て驚きの表情を浮かべた。顔中傷だらけなのだから無理もない。だが、心配して話しかけてくる人などただの一人もいなかった。皆、僕を見てひそひそと仲間内で話している。その中にはもちろん、富田の姿はなかった。
予鈴がなる前に有坂先生は教室に入ってきた。いつもの明るい挨拶はなく、唸るように「全員席につけ」と言って教卓の前に立った。異様な空気を察して皆が席に着く中、顔を上げた有坂先生と目が合う。だが、その視線はすぐに逸らされ、教室中を一周してから真剣な面持ちで話し始めた。
「みんなに知らせなければいけないことがある。昨日」
躊躇うような沈黙が、空気を張りつめさせる。そして続いた言葉は。
「富田が亡くなった」
なくなった? 言葉の意味がすぐには理解できず、何度も頭の中で反芻する。その間、昨日の富田の地面に横たわる姿が脳裏に過り、冷たくなった手の感触が手のひらに這う。ナクナッタ、なくなった……亡くなった? つまり、死んだってこと? 教室中がざわつき、何人かが驚愕した表情で「嘘だろ?」と口々につぶやく。有坂先生は静かに目を伏せ、教卓の上で拳を握り締めていた。
「何でだよ……何で死んだんだよ!」
男子生徒が一人、立ち上がって怒声をあげた。彼はサッカー部員で、確か富田と仲が良かったはずだ。
「……詳しいことはまだわからない。だがおそらく、事故だろうと思う」
有坂先生は何かを堪えるように長い間を置いてから振り絞るようにつぶやいた。事故? 違う。事故なんかじゃ、そう思いながらも僕は、声を出すこともできなかった。ただあの時の感触が残った手を膝にこすりつけて、責めるように早まる鼓動が鎮まるのを待っていた。
「その関係で今日は休校になった。午前10時から葬儀が行われる。時間になったら移動するから指示あるまで教室で待機しているように」
有坂先生が出ていった後も、教室中が重い空気に包まれていた。皆いちように黙り込み、時折すすり泣く声が聞こえる。女子も男子も、みんな泣いていた。こんなに愛されていた彼を犠牲に、僕は生き残ってしまった。僕のせいで、彼は死んでしまったのだ。
あの後有坂先生に呼び出されて、僕は生徒指導室にいた。机を隔てて僕は奥の席に座り、先生は入口のドアを背にして座る。昨日は放心状態でろくに話もできなかったから、事情を訊きたいのだろう。けれども、先程告げられた富田の死の事実に衝撃を受けて、それどころではなかった。入って第一声は、有坂先生だった。
「松井」
有坂先生の呼び掛ける声にはっと我に返る。その声はやけに低く、平坦で静かな響きを湛えていた。努めて声を抑えているような雰囲気が、無表情なその顔からも窺える。
「あれはお前がやったことではないとわかってる。お前はそんなことができるような奴じゃない。だから、教えて欲しい」
有村先生は黙って僕を見つめる。一瞬、その瞳が光を失って、底知れない闇に包まれた。そして、睨むように鋭い眼光に貫かれる。
「富田を殺したのは誰だ!」
爆発した怒りをぶつけるように、語尾にとてつもなく力を込めて先生は叫んでいた。その眼には涙が浮かび、流れるすんでで眼球に張り付いている。先生はサッカー部の顧問だ。富田とは特別親しかったのだろう。だからこそ、その眼には悲しみよりも怒りの方が色濃く表れていた。殺してやる。そう言っているような眼差しだった。恐怖が全身を埋め尽くし、心臓が縮み上がる。恐怖に突き動かされるように、僕は昨日起こったことを包み隠さず話した。だが自分のせいだとは、どうしても言うことができなかった。
富田の葬儀は先生に引率され、クラス全員で参列した。葬儀場に入ると、生徒は順番に棺と平行線上に設置された椅子の後方の列に座らされた。色とりどりの花が並べられた祭壇の真ん中にニカッと笑った彼の遺影が飾られていて、その前には木の棺が置かれている。葬儀の前に生徒たちは皆、棺の中の彼の顔を覗き、両親に挨拶することになった。
僕の番になり、顔を見る小窓が開かれた棺桶の中を覗く。彼の顔は最期に見た時よりも少しだけ綺麗になっていた。血は拭き取られ、傷も化粧で隠されている。彼の両親の前に促され、僕は頭を下げた。二人とも憔悴した様子で丁寧にお辞儀を返してくれる。
「ありがとうね」
母親が僕に向かって言った。瞬間、罪悪感に胸が締め付けられる。ありがとうなんて、僕には言われる資格がない。僕のせいでー僕が彼を殺したも同然なのに。苦しさに居たたまれなくなって僕は俯いたまま、ぽつぽつとつぶやいた。
「僕のせいです。僕を助けたばっかりにあんなことに、あの時、ちゃんと伝えてれば彼は死ぬことなんてなかったのに……僕のせいなんです。ごめんなさい」
床に額をこすりつけて「ごめんなさい」と何度も何度も繰り返し頭を下げる。すると、母親は言ったのだ。
「あの子は正義感が強くて、おせっかいな子だったから……」
そして途中で口元を押え、堪えきれずに父親の胸に縋りついた。絶望しかなかった。いっそ罵倒してくれたらどんなによかったか。僕は心のどこかで言ってほしかったのかもしれない。君のせいではないと。けれども返ってきたのは、一番自分のせいだと重く感じる答えだった。
*
その日から僕は引き籠るようになった。何もやる気が起きず、ベッドに横たわってただ天井を眺めるだけの日々が続いた。そうしていると同じことばかり考えるようになって、思考は堂々巡りの海に沈んでいく。
僕のせいで彼は死んでしまった。その言葉を頭の中で反芻し、決まって最後には涙を零した。僕に泣く資格なんてないのに、自然と溢れ出してくる。涙とともに魂も抜け出してしまえばいいのに。そしたら、僕の体を彼に明け渡して、生きてもらうことができるのに。僕が死ねばよかった。繰り返し繰り返し、そう思いながら気分はどんどんと鬱々としてきて、眠ることもままならなかった。
その間、訪ねてきた有坂先生から僕をいじめていた不良達は退学になり、傷害致死罪で少年院に送られたと知らされた。その事実は心を軽くするどころか、さらに僕の思考を澱ませた。僕だけが、罰を受けていない。僕のせいで彼は死んでしまったのに。
富田の死から2週間が経った。未だに僕は自室に籠って、無気力な日々を過ごしていた。ベッドに横たわった状態のまま窓から外を見上げていると、澄んだ青空が遥か遠くまで広がっていた。まるで今の僕とは正反対だった。彼も僕とは正反対だった。僕より彼の方が皆に必要とされていて、もっと生きるべきだった。僕が死ねばよかった。静かに目を閉じると、涙が溢れて止まらない。このまま僕の魂は抜け出てしまえばいい。頭も身体もだるいし、重かった。もうすぐ楽になれる。そう思った時、ふいに香ばしい匂いが鼻を劈いた。スパイス臭の中にかすかに感じる酸味の利いたトマトの香り。それは我が家のカレーの匂いだった。ふいに彼と話した時の記憶が蘇り、ニカッと笑って言った言葉が耳の奥に再生される。
「お前ん家のカレーうまいな! またカレーの時、食わしてよ」
もう叶わないのだ、一生。彼に我が家のカレーを味わってもらうことも。笑顔で声を掛けてもらうことも。
寝返りを打って横向けになり、身体を丸める。その瞬間、様子を窺うようにひっそりと、背後のドアが開いた。視線は向けず、部屋の中に入ってくる足跡だけを無言で聞いていた。
「広、ご飯よ」
いつもの遠慮気味な母の声が聞こえる。僕は黙っていた。あの日からろくに食事なんてしていない。食べないって、わかってるくせに。
「広」
縋るようなその声が、やけに苛立ちを助長させる。僕は吐き捨てるようにつぶやいた。
「もうほっといてよ。食べないから」
「何でよ? このまま食べなかったら死んじゃうわよ?」
「いいよ。僕には食べる資格がないから」
母はしばらく何も言わなかった。だが、少しして言葉は繋がれる。
「……彼のことは、あんたのせいじゃないわよ」
戸惑いと、同情を含んだようなやさしい響き。その声を訊いた瞬間、僕はもう限界だった。
「僕のせいなんだよ! もう死んじゃいたいよ……」
枕に顔を埋めて、嗚咽が漏れないように喉に力を入れる。母は黙っている、と思った。
「ダメ! あんたは生きなきゃダメよ!」
そう怒鳴ると、母は無理矢理僕を引っ張って部屋から出した。階段を降り、廊下を抜け、リビングに連れ出される。少し歩いただけなのに、息が乱れて足元がふらつく。くらくらと目眩がして、へたり込むように食卓の椅子に座った。僕を席に座らせた母はキッチンに引っ込んで行って、すぐに戻ってきた。そして、僕の目の前にカレーがよそわれた皿を置いた。
カレー皿の中でじゃかいも、にんじん、たまねぎ、サイコロ状に切られた肉が少し型崩れした姿で茶色いスープから顔を出している。カレースープは光沢を帯びて、時折黄金色に輝いては食欲をそそる香りを漂わせていた。スパイスの中に隠れるようにほんの少しだけ覗くトマトの匂い。富田のことを思い出して、思わず顔を背ける。だが、母はスプーンを無理やり持たせて、カレーを掬わせた。
「食べなさい。生きるために、食べなさい」
その瞬間、なぜだかお腹に急激な違和感を覚えた。空腹が刺激されて、お腹がぐるぐると音をたてる。カレーの匂いに身体が反応しているのだ。けれど、僕はーー。耐えるようにぐっと目を瞑って、空腹を意識から押しやろうとしたその時、肩に温かいぬくもりが触れた。
「大丈夫だ」
快活で、でも優しさが滲み出たその声はーー。はっとして、すぐさま振り向く。そこにあったのは、在りし日の面影を映した富田の姿だった。スプーンごと僕の手を握りしめる母の隣にニカッと笑って彼は立っていた。目が合うと、「大丈夫だ」とまた力強くつぶやいて頷く。祈るような母の表情と、彼の頼もしい微笑みが、同じタイミングで頷く。
「大丈夫だ」
もう一度、彼が言う。その声に後押しされて、僕はスプーンを口に含んだ。口の中で辛味とあたたかさが広がって、鼻孔をスパイスの香りが貫く。煮込みすぎた具材たちが一噛みすると、すぐにほろほろとほどける。スープに絡まった白米がするりと喉を通り抜ける。
おいしい。素直にそう思えたことに、嬉しさが込み上げる。一口、二口、続けてスプーンを運んで、口の中をカレーでいっぱいにする。ごくんと飲み込んで、また掬い上げる。
ずっと怖かった。彼の人生には僕よりももっともっと輝かしい未来が待っていた。きっと誰よりも生きるべきだった。なのに、誰からも必要とされていない僕が生きている。罪悪感に打ちのめされて、ついには身体が食べ物を受け付けなくなった。今度こそ自分は本当にいらない人間になってしまったんじゃないかと、次に何か食べてまた吐いてしまったらと思うと怖くて、とうとう何も口にすることができなくなった。
けれど、富田が大丈夫だと言ってくれた。背中を押してくれた。カレーがおいしいと思えた時。「生きろ」彼がそう言ってくれたような気がしたのだ。
僕にできることは、悲しみに暮れて鬱々と過ごすことでも、身体を明け渡すことでもない。彼の生きられなかった分も、強く生きることだ。彼の代わりにはなれるはずもないけれど、それでも生きて、生き抜いて、そうすればきっと、それが彼のためになるはずだ。彼のように、誰かを助けられる人になれるはずだ。
一口、もう一口と食べるごとに、嬉しさ、悲しさ、後悔、希望、いろんな感情が混ざり合って胸の中でごちゃまぜになって、涙が溢れる。ぼとり、ぼとりと落ちる雫がトマトの酸味を助長する。大粒の涙を流しながら、僕は無心でカレーを頬張った。辛くて、あたたかくて、ちょっぴり酸っぱい。この味を一生忘れないでおこうと心に誓いながら、僕はひたすらカレーを食べ続けた。
一皿分のカレーを食べ終えた後は、さすがに何日も食べていない状態だったからか、丸一日吐き気に襲われた。けれど、ここでまた吐いてしまったら辛い日々に逆戻りしてしまうと思い、死んでも吐くもんかとベッドの上で口を押さえてじっと耐えていた。すると、いつの間にか眠ってしまったらしく、次に目を覚ました時には心なしか身体が軽くなっているように感じた。
*
それ以来、元の生活を送れるようになった、なんてうまいことにはならなくて、食事は取れるようになったけれど、学校に行こうとすればあの日のことを思い出して震えが止まらなくなったり、気持ちが沈んでしまったりしてなかなか思うようにいかない日々が続いた。けれど、母に連れられて有坂先生に薦められた精神科の病院に行き、カウンセリングや対症療法を受けるうちに少しずつ調子を取り戻していった。ようやく回復した頃にはすでに三年生の春を迎えていた。
学校に復帰してからもやっぱり順風満帆とはいかなくて、林や渡り廊下を目の当たりにしたり、暴力的な場面に出くわしたりするとフラッシュバックが起きて体調を崩すことも多くなった。けれど、有坂先生は何かあると献身的にサポートしてくれたし、周りにも理解を促してくれたらしく、他のクラスメートも辛い時には手を貸してくれた。特に親しい友達はいなかったけれど、僕は一人ではない。いろんな人に支えられて今、生きていられるのだと強く実感した。
その中でも一番支えになってくれたのはやっぱり家族だった。父は僕がどんなに躓いても決して批難したりせず、黙って見守って肩を貸してくれたし、母は僕が落ち込んでいる時は決まって、カレーを作ってくれた。
実は食べられるようになったあの日から数日は、僕はカレーしか口にすることができなかった。そのせいで食卓にカレーが並ぶ日が一週間も続いて、それでも嫌な顔一つせず、二人とも付き合ってくれていたのを覚えている。そのことで未だに母は僕に何か異変があると、カレーを一週間も続けて作ってくれる。今ではカレーメニューを作らせたら右に出る主婦はいないんじゃないかと言うほど母のカレー料理のレパートリーは豊富になっていた。
カレーを食べればあの時の決意を思い出して、強く生きなければと勇気をもらえる。あの辛さが、あたたかさが僕に力を与えてくれて、あの少しの酸味が僕を奮起させてくれる。一口、一口を大切に味わいながら、僕は日々カレーを食べ続けていた。
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