気高き狼は人の仔を

櫻庭 春彦

 ひとり、男がいた。

 ある晩、あまりに月がきれいだったので、彼は酒を持ち出し

縁側で月と、少しのつまみを肴に飲んでいた。

「~~。」

不明瞭な声ともうめき声とも取れる音がした。

ふとそちらを見れば、狼のような耳の生えた人型の『それ』がいた。

『それ』は腕に血をつけそこにたたずんでいた。


ふっと目が合った。

男は1瞬止まってしまった。

『それ』はとても美しく、しかし隠せない禍々しさをはらんでいた。

すでにほろ酔い気味だった男は、『それ』の美しく暗い瞳にひきつけられるままだった。

興味のなるままに

「名前を...」

聞こうとしたが、疑問が首ををもたげ始めた。


――そもそも言葉は通じるのだろうか。


すると、

「おい、人の仔。」

低いしゃがれ声に1瞬体をこわばらせ、男はそちらへ向き直った。

それは男に向かってこう問うた。

「儂が怖くないのか。」

男は数秒考え、ふるふると首を横に振った。

”なあ。”

と呼びかけようとして寸でのところで止まる。

呼び名を、聞いていない。

「なあ。」

男は呼びかけた。

「名前、なんていうんだ?」

「儂には...儂には名などない。貴様がつけてくれぬか。」

名を持たぬ『それ』は目を細めて懐かしむかのように月を見ながら

そういった。

「そうだな...」

あいというのはどうだろうか。」

男は少し考えてから月明かりに光る草を見て、それに言った。

『それ』...藍は、とてもうれしそうに

「藍...藍」

と繰り返した。

男の頬も心なしか赤くなる。藍は、男の呼び名を聞いていない事を思い出した。

「おい、人の仔。貴様のことはなんと呼べばよい。」

男は酔い気味の声で言った。

「僕の事は結城ゆうきと呼んでくれればいいよ。」

それから、結城と藍は、夜更けまで飲み交わした。

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