第3話

 音楽、パスタ、キスのタイミング。

 彼女が好きなものを好きになった。彼女の趣味に合わせて服を選んだ。油絵具が嫌いだと言ったから、怜平は彩色するのをやめた。時間の許す限り彼女のそばにいて、世界から彼女以外のすべてを排除した。

 自分の目も、耳も、言葉も、意思も、嗜好も、価値観もなげうって、彼女に染まった。自分などすべてバターのように溶けて、隙間なく彼女になればいいのにと願った。

 けれど彼女が去ると、怜平は怜平自身へ戻っていた。怜平はどこまでも怜平でしかなかった。

 なによりそれが、哀しかった。




 お初天神商店街の脇道に、客の姿はまだない。どの店にも準備中の札がかけられている。時刻は夕方の四時半を過ぎたところだった。空はまだ明るく淡い。透明感のある、青ともピンクとも黄ともつかない曖昧な色をしている。もし触れられたなら、指先から波紋が広がりそうな空だった。

 怜平は一軒のバーの前で立ちどまり、魚のうろこのように波打つガラス窓から中を覗いた。人の姿がないことを確認して、深い緑色の扉へ手を伸ばす。

「ちょっと松下、まだ準備中って」

 それまで黙ってついてきていた実咲子が、怜平の鞄を引っ張った。

「いいんですよ、ここは」

「でも」

「元職場ですから」

 振り返らずに告げると、実咲子はそれ以上何も言ってこなかった。

 店の中は薄暗く、カウンターの一角にだけ黄緑色のライトがついていた。椅子はほとんどなく、客の姿がないと閑散として見える。奥にはステージがあり、そのほとんどをグランドピアノが占めていた。

 床のワックスと壁に染みついた煙草のにおいで、怜平の記憶が重たげに身じろぎする。まばたきの瞬間、目の前に過去がよぎった。

「おう、誰や。店はまだやぞ」

 カウンターの向こう側から中年男のしわがれた声があがった。続いて、広い額の頭がのぞく。

「店長お久しぶりです」

「なんや怜平、生きとったんか」

「残念ながら」

「どないしてん、別嬪さん連れて」

「開店まで、奥の席使わせてもらえませんか」

 怜平が指差す先には、ソファのテーブル席がある。店長と呼ばれた男はしばらく考えこむ仕草を見せたあと、ぞんざいに手を振った。

「かまへん、使い。せやけどじきにバイトの子ら来るで」

「わかってます。ありがとうございます」

 店長へ向かって頭をさげ、怜平は実咲子を中へ通した。

 あざやかなオレンジ色のソファに鞄と上着を置いて、怜平はシャツの袖をまくる。

「先輩、なに飲みますか」

「あ、いいよ私は」

「じゃあ適当に作ります」

 実咲子の顔を見ずに、笑顔を浮かべてその場を離れる。カウンターへ行くと、安楽椅子に腰かけていた店長が口の端を歪めた。

「時間外や。作らへんで」

「自分でやりますよ」

「彼女か」

「だといいんですけどね」

「おまえ、老けたな」

「店長ほどじゃないです」

「かわいない、ほんまかわいないわ」

 店長は声をひそめて笑った。安楽椅子がぎっぎっと軋んで揺れる。怜平は静かに笑みを浮かべて、すみませんと呟いた。

 カウンターの内側はなにも変わっていなかった。二年のあいだ時が止まっていたように、すべてのものが怜平の記憶どおりにあった。

『怜平が作るジントニック、うち好きやわ』

 思い出から笑顔があふれだす。グラスへ伸ばした指先がためらう。怜平は短いため息をついて、隣にあるやや無骨なグラスを取った。

 目についたウォッカと冷蔵庫にあったオレンジで、スクリュードライバーを作ることにする。カクテルなど長らく作っていなかったが、この場所でシェイカーを持つと勝手に手が動いた。

 横から店長の視線を感じる。

「仕事のぉなったら、いつでも戻ってき。やとたる」

「俺いま学生なんで」

「おもんないな。年齢詐称してまでここで働いとったお前が、学生か」

「あのときはどうしても、ここがよかったんですよ」

「さよか。おまえのお目当てはもうおらんもんな。もう用もないか」

「それは……」

 言葉を詰まらせた怜平を見て、店長はにやりと笑ったようだった。それで満足したのか、読んでいた雑誌で肩を叩きながらバックヤードへ下がっていく。

 シェイカーを傾ける手が、こわばっていた。

 顔を上げて無人のステージを見やる。ピアノは冷たく沈黙し、そこには照明も歓声も拍手もない。だが怜平の目にははっきりと、踊るように弾き、笑うように歌う女の姿が映っていた。いまにも硬質なピアノが鳴り響き、彼女の歌声が聞こえてきそうだった。

 氷のなかへ閉じこめたはずの恋が溶けだして、濡れた表面に光が反射する。眩しさに目を細めると、過去は万華鏡のようにきらめいた。そのような美しいものではなかったはずが、時間が経つほどに事実は曖昧になっていく。

 実咲子の前へグラスを置いて、怜平はローテーブルを挟んだ向かい側に腰をおろした。

「どうぞ」

「まだ明るいうちからお酒?」

「俺のはただのウーロン茶ですよ。一応バイクなんで」

「私も同じでよかったのに」

「ほんとにそうですか」

 怜平の問いを、実咲子は聞き流す。彼女は怜平の意図をわかっているのだ。黙り込んだまま、じっとオレンジ色のグラスを見つめている。その眼差しが追い詰められた子羊のようで、怜平はあえて無神経に微笑んだ。

「先輩だって、飲んだほうが話しやすいんじゃないですか」

「でも……」

 これから話すことを、酒の勢いで打ち明けたとは思われたくないのだろう。実咲子の性格を考えれば、すぐにわかる。だからこそ怜平は彼女に飲ませたかった。

 子どもじみた腹いせにすぎないと、怜平自身もわかっている。だがそうでもしなければ、彼女の前に座っていることも苦しかった。

 実咲子からの電話に気づいたのは偶然だった。普段なら仕事中、携帯電話は鞄に入れてバックヤードへ置いている。だが今日は、社員のメールアドレス変更を登録して、そのままポケットへ突っ込んでしまっていた。また電話がかかってきたとき、在庫のチェックでひとり離れていたことも幸いした。

 これがいわゆる運命かと思った。

 すぐにでも駆けつけたい気持ちをこらえて仕事を片付け、先輩バイトの誘いを断り、待ち合わせ場所に実咲子の姿を見つけたときには喜びのあまり息がとまりそうだった。夢じゃないかと何度も疑った。もし夢ならば、いまここで息がとまればいいとも思った。ほんの十メートルの距離さえもどかしかった。

 春を孕んだ排気ガスに、目がくらんだ。すぐ隣を歩いて、手の甲が触れた。だがその手が繋がれることはなかった。

『私ね、付き合ってる人がいる』

 思考や感情と呼ばれるものが一瞬で凍りついた。

『まじですか』

 彼女が嘘をつく必要などないとわかっていても、思わず口をついた言葉だった。いまにも泣きだしそうな実咲子の顔が脳裏から離れない。そのあとは、とりあえず落ち着いて話そうと言うので精一杯だった。

 ふたりきりで話ができるところなら、どこでもよかった。ただ、カラオケに行かなかったのは怜平の理性だ。本当にふたりきりになってしまって、はたして自分が冷静でいられるかわからなかった。そのとき脳裏に緑色の扉が思い浮かんだ。

 恋の亡霊が住むこの場所なら、感情と衝動の境界を越えずにすむ。そう思って、逃げるようにここへ来た。はたしてその判断が正しかったのか、いまの怜平にはもうわからなくなってしまった。

 スカートの上で組んだ両手の爪が、白くなっている。きれいな膝に見とれながら、怜平は苦笑した。

「先輩、緊張してる?」

「あのね、松下。私――」

「まず乾杯しましょうよ」

「乾杯って、何に」

「俺まだ誕生日なんです」

 怜平の提案に、実咲子は渋々グラスを持ち上げる。

「言った気もするけど」

「そうでしたか?」

「まあいいわ。おめでとう」

「ありがとうございます」

 グラスを寄せて鳴らすと、実咲子は諦めた様子で一口飲んだ。

「あ、おいしい」

「よかった。いつでも作ってあげますよ」

「またそういうこと言う」

「本心なんで言わせてください」

「だいたい、いつもが軽いから……。ごめん、今のなし」

 実咲子は膝の上に突っ伏して、肩で大きく息をついた。小さな声で、もうやだと聞こえてくる。それは彼女自身への苛立ちだった。

 怜平はウーロン茶を一気に飲み干した。ひどく喉が渇いていた。本当に緊張しているのは自分の方かもしれない。

 ほとんど溶けていない四角い氷が、グラスの中でだるま落としのブロックのように積み重なっていた。グラスをローテーブルへ戻しても氷は崩れず、溶けるときの涼やかな悲鳴も聞こえない。

 無音の店内に、外を走る原付バイクのエンジンが響く。

 実咲子はグラスのふちに飾られていたオレンジをつまんで、ため息をつくように口をひらいた。

「ねえ松下、どうして私だったの」

 うつろな瞳でオレンジを見つめて実咲子はこぼす。責める声音ではないが、ただ純粋な興味とも聞こえない。

 怜平は眉を寄せたまま息を吐く。

「先輩、あの日泣いてましたよね」

「あの日って」

「俺がはじめて部室へ行ったときです」

「それ、いつごろだった?」

 首をかしげながら実咲子が顔を上げたので、怜平は思い出す振りをして視線をそらす。先にはグランドピアノの細い脚が見える。それもまた見ていられずに目を閉じると、瞼の裏にはあの日の実咲子が思い出された。

 明るすぎない茶色の髪が鎖骨で揺れる。細い手首には凝った作りのブレスレットと腕時計が光っていた。髪を耳へかけながら怜平を椅子へすすめて、実咲子はティーポットを手にした。

『紅茶でいいですか?』

 翳りを押し殺した笑みに、怜平は見えない涙を見たのだった。

「後期がはじまって、すぐくらいだったと思います。覚えてませんか」

「うーん」

「俺の誕生日は覚えてたのに?」

「いま思い返してる」

 細い指を顎へあて、実咲子は首をひねる。たとえ難しい顔をしていても、怜平の目にはいとしさばかりが募った。彼女の好きなものが知りたいと思う。彼女が欲するものを捧げたいと願う。彼女とおなじ世界に立てればと願う。だが思いが膨らむほどに、心は同じだけ踏みとどまろうとする。

 これ以上は、また傷つくだけだと。

「それって……」

 わずかに目をひらいて実咲子は続けた。

「台風で二日間休講になった次の日?」

「ああ、たしかそのころだと思います。覚えてましたか」

「うん……その日は、忘れない」

 先ほどよりずっと透明感をともなって、実咲子は泣くように笑った。あの日の彼女を思わせる美しさだった。それだけで怜平には事態がのみこめてしまう。これは彼女の恋のまなざしなのだ。

「私、泣いてたかな。誰が来るかわかんないし、我慢してたと思うけど」

「俺には泣いてるように見えました」

「そっか」

 苦笑いを浮かべた実咲子は、つまんでいたオレンジを灰皿へ置き、カクテルをぐっと飲んだ。

 空調の音が虫の羽音のように低く響く。

「その日はね、彼からメールがあって……奥さんが妊娠したって」

「奥、さん」

 怜平のグラスで、氷が啼いた。実咲子は苦笑して髪を揺らす。

「付きあいはじめたときは、いなかったんだけどね」

「どういうことですか」

「彼の家が京都のお寺で、結婚相手はお父さんが決めてて……。彼自身は長男でも跡継ぎでもないんだけど、従うしかなかったって」

「先輩と付き合ってたのに?」

 問いに実咲子は小さくうなずく。

「私も詳しいことは聞けてないんだけど、亭主関白でお父さんの言葉は絶対みたい」

「ミサコ先輩のこと、向こうは知ってるんですか」

「向こうって、奥さん?」

「だけじゃなく、父親も」

「まさか。知らないと思う。知られてたら、たぶん……いままで続いてない」

「つまり結婚のときに抵抗しなかったんですね、その彼は」

 実咲子は沈黙してグラスをあけた。オレンジ色のしずくがついた氷は角が取れて、すっかり丸みを帯びていた。

「先輩はどうして別れなかったんです」

 訊いておきながら、怜平はその愚鈍さにみずからあきれていた。別れなかった理由など、実咲子が男のことを好きだから、そのほかにない。

 怜平は片手でひたいを押さえ、声を絞りだした。

「なんで、なんでですか……」

「付き合いはじめたころは私もまだ十代で、ほかに男の人を知らなかったし、彼と別れることなんて考えられなかった。結婚っていう言葉もどこか遠い世界の話だったし、先生だって最後には私を選んでくれるって心のどこかで思ってた。だから――」

「そのことじゃありません」

「え」

 心底意外そうな実咲子の声に、怜平は彼女を睨みつけた。

「なんで俺を野放しにしたんですか」

「あ……」

「ここはうぬぼれるところなんですか、それともキレていいところなんですか」

「松下は!」

 なかば叫ぶように実咲子が言ったとき、店の扉がひらいた。そこにはトレーナーのフードをかぶった細身の男が、ヘッドフォンを片手に立っていた。

「あれ。俺の時計おかしい? ちゃうよな、おうてるよな」

 男は携帯電話で時間を確かめ、怜平へ向きなおる。

「いま、五時過ぎであってるやんね」

「あってます」

「それならよかった。で、自分らは?」

「えっと、それは」

「おい、内川!」

 バックヤードから店長の声が飛んできた。内川と呼ばれた細身の男は、フードを取り払って首を伸ばした。

「店長おはようございますー。ていうか、こん人ら何なんすか」

「ええから、はよこっち来い。お前はあほか、野暮か」

「だから何なんすか。意味わからんし」

 内川は怜平と実咲子を無遠慮に眺めつつ、大きな輪のピアスを撫でて扉の向こうへ消えていった。

 店内にはふたたび静寂が戻ったが、だからといって話の続きができる様子でもない。怜平は実咲子へ手を差し出した。

「おかわり、いりますか」

「あ、ううん。あんまり飲むと、帰ったとき親がうるさいし」

「そうですか」

 立ち上がりかけていた腰をおろして、怜平はあからさまに息をついた。

「で。俺が何なんです」

「松下は……松下なら、助け出してくれる気がした」

「先輩を? その泥沼から?」

「そう」

 消え入りそうな声で実咲子は答えた。怜平は乾いた笑いをもらして、ソファへもたれかかる。

「勝手な話だなあ。先輩、どんだけ自己中なんですか」

「だけど松下あんた、いつも色んな女の子と一緒にいて、ふらふらしてて、部員増やしてはことごとく減らして、どこをどう見てもだらしないから、だから、多少私がうろついたって平気かと思って」

 いまにも溢れそうなごめんの一言を飲みこんで、実咲子は両手で顔を覆う。怜平はグラスを引き寄せて、氷をひとつ噛み砕いた。はじめは舌を裂きそうなほど尖った断面も、すぐに削れて丸くなっていく。砕かれても砕かれても、棘はそう長くは残れない。怜平の心もまた、次第に棘は溶かされていった。

 視界の隅に、上着からはみでたストラップがあった。少ない光を吸いこんで、ありったけ輝いている。鮮烈で健気なきらめきだった。それが怜平の恋の色だ。

「つまり俺はうぬぼれていいんですね」

 その言葉に実咲子が顔をあげた。まばたきを繰り返し、懸命に怜平を理解しようとしている。

「どういうこと」

「できれば先輩とはちゃんと付き合いたかったけど、いいです」

 細かくなった氷がすっかり溶けるのを待って、怜平は顔を歪めて笑った。

「つらいときは俺を呼んでください」

 ソファからおりて床に膝をつき、ローテーブルへ身を乗り出した。今日会ってからずっと見ることができなかった実咲子の瞳を、真正面からまっすぐ見つめる。

「松下……」

「先輩のためじゃありません。俺がそうしたいからするんです」

 うっかりすると引きつりそうになる頬を、笑顔へと差し向ける。実咲子は困り果てたように眉を寄せていたが、やがて根負けしたように息をもらした。

「お人よしって言われるでしょ」

「よく言われます。もっとクールな人かと思ったって、よく振られます」

「優しすぎるって」

「はじめは優しい人が好きって言うくせに」

「あと重いって」

「ですね」

「私たち、もしかして似てるのかな」

「さあ。でもそれは追及しないほうがいいと思います」

 街灯が店へ染み入ってはじめて、日が暮れていたことに気づく。怜平の気づきを悟ったように、店内にも灯りがともる。音楽が流れて、開店準備がはじまった。

 バックヤードからあくびまじりに店長が出てくる。制服に着替えた内川は、怜平と実咲子を気にしながらテーブルを拭きはじめた。

 怜平は立ち上がり、グラスを持ってカウンターへ向かう。だが数歩進んだところで、あ……とこぼして立ち止まった。

「先輩、ひとつ言えることがあります」

「なに?」

「俺たちはどっちも身勝手です」

「ああ……うん、身勝手。そうだね」

 淡いライトを受けた実咲子の微笑みは、どこか力ない。だが怜平は不思議と不幸せではなかった。

 彼女のかなしみの世界に、怜平はたしかに立っていたからだ。

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