第2話

 心って、どこにあるんだろうね。そう言って彼は静かに笑う。

 頭のなか、心臓の近く、お腹のずっと奥のほう。

 さあねと実咲子は答えながら、はたして心とはひとつなのかと考えていた。ひとつでなければならないのだろうか。それが正しいということなのだろうか。

 だとしたら。

 それなら自分は、わるい子かもしれない。




 桜前線は過ぎ去り、部室の窓から見えていたピンクはもうない。実咲子は大きなテーブルへ頬づえをついて、どこか浮かれた四月の構内を見つめていた。

「なあ相沢、いま何時?」

 テーブルの向かい側に座っていた男が、ノートから顔をあげずに問う。実咲子は腕時計に視線を落とした。

「もうすぐ三限おわりまーす」

「まじで。あかん、間に合わん」

 誰のものかわからないボールペンを投げて、男は横に置いてあった煙草に手を伸ばす。

「男は引き際が肝心やろ」

「なんの引き際ですか。五限の課題ですか、それとも卒業ですか」

「ふふ、刺さるわあ」

 煙草をうまそうに吸いながら、マテリアル元部長の関谷せきやは笑った。刺さると言いながら、優雅に眼鏡の曇りを拭いている。

「先輩、せめて私と一緒に卒業してくださいよ」

「まかしとき。相沢ひとりを荒れ狂う社会に放り出したりはせんよ……て、就職決まってない俺が言うことでもないかー」

 大学五年目を迎えた関谷は、日に日に自虐的な話題に磨きがかかっていた。本人はツッコミを待っているのだろうが、後輩の実咲子にとってはあまりにもハードルが高い。

 実咲子は関谷の期待をはぐらかすように、あははと乾いた笑みをこぼして席をたつ。景品で当てた小さな冷蔵庫をあけて、買っておいたシュークリームを取った。

 半分に割って、片方を関谷へ渡す。

「これで課題のためのエネルギー補充してください」

「相沢自分、神やな。いやどこから見てもアジア顔やから、ここは仏か」

「日本にも神さまはいるから、神でいいんじゃないですか」

「でもほら、神様っていったらギリシャ神話なんかは奔放で安心すんねんけど、仏陀とかまじで元人間か疑うくらいストイックっていうか、なんやろ、人間離れしてるやろ。まあ、そのへんが相沢っぽ――ク、クリーム!」

 手に溢れたクリームを慌てて舐めて、関谷は好々爺のような顔つきになる。実咲子はこらえきれずに吹きだした。

「なんかいま心の底から、来年もここに先輩がいればいいのにって思いました」

「それ、どういう意味かな……」

 関谷はほんの一瞬、笑顔をかなしみに歪ませたが、すぐに眩しげに目を細めた。

「優等生はええなあ。うらやましいわ」

「ですかねー。そう言われるのあんまり好きじゃないんですけど」

「ナチュラルな優等生こそ、みんなそう言うな。優等生としてしか見られへんようになるんが嫌なんか? 他にアイデンティティないみたいで」

 そのとおりで、実咲子には返す言葉がなかった。関谷は鼻の頭にクリームを乗せたまま、穏やかな声で続ける。

「いやでも、人から偉いなって思ってもらえることは、たぶん得なことやねんで。俺はそんなんなったことないから、ただ憧れてるだけかもしらんけど。でもデキるやつはみんな言葉がはっきりしとって、俺はええと思うねん」

「得、ですか」

「ああ。ほんまは仁徳さんの徳がええんやろけど、まあ、変換間違えたってことで、それでもええやん。なんもないより、なんかあるほうが、な」

 関谷はシュークリームをおいしそうに食べ終えると実咲子へ丁寧に礼を言い、ぶつぶつと文句を垂れ流しながら課題へ戻った。

 校舎から三限の終わりを告げるチャイムが聞こえてくる。だが四限開始のチャイムが鳴っても、誰も部室へは来なかった。廊下がわずかにざわついただけで、何事もなかったように時間だけが過ぎていく。

 時計の秒針と、ブラスバンドの新入生が鳴らす、音の出ていないトランペット、サークル棟のあちこちから響く笑い声、どこかの部屋から聞こえてくる古い洋楽、そしてときおり関谷のため息がもれ聞こえる。

 うららかな春の午後は、罪なほどに退屈で寂しかった。

「誰も来ないですね」

「うん? せやな。新入生もけえへんし」

「こういうの、平和っていうんですかねえ」

「どうなんやろなあ」

 テキストに頭を悩ませながらも、関谷はのんびりとした相槌をかえす。実咲子は彼のやさしい距離の取り方が好きだった。人に比べて要領が悪く、得をするタイプではないかもしれないが、徳の持ち主というのは関谷のような人をさすのだろう。実咲子は先ほどの関谷の話を思い返しながら、テーブルへ突っ伏した。首をかたむけて、目線と同じ高さでコーヒーカップを眺める。

「相沢は今日授業ないんか」

「はい。私もう、卒論ゼミと専門三つくらいと、あとは趣味でとった文学論だけですから」

「そっか」

 煙草をくわえて、関谷はライターを探した。積み重なった紙のあいだから青い百円ライターを見つけ出し、火をつけると適当なところへ投げてしまう。

「また見つからなくなりますよ」

「ええねん、俺のんちゃうから」

 使い古した木製のテーブルは、雑多なもので散らかっていた。辞書や使いさしのルーズリーフ、街頭でもらった英会話のティッシュやお菓子のおまけ、さらにワイヤーや謎の粘度細工まで置き去りになっていた。ライターやペンのたぐいは、その気になればティッシュの空箱がいっぱいになるほどある。

 普段なら暇つぶしに片付ける実咲子だったが、いまは体が重く、とてもそんな気分にはなれなかった。

 淡い春の真ん中で、心のありかを考えていた。この体のどこで感じとって、どこで考えて、どこで悲しんで、どこで愛しているのだろうか。そしてそのありかは、ひとつなのか。

 鞄の中で携帯電話が震えた。三コールで切れる。メールだ。実咲子はのそりと体を起こして鞄をひらいた。だが、携帯電話を取ろうとしていた手がとまる。

 ポーチの横には、持ち主に忘れられたセブンスターが息苦しそうに挟まっていた。

「どうして煙草吸う人って、そんなにいい加減なんですか」

「ひとくくりにするのも悪い気がするけど」

 そう前置きして、関谷は実咲子へかからないように煙を吹いた。

「妙にこだわると、逃げじゃなくなる気がするねんなあ」

「逃げ、ですか」

「体に悪いとか、人に迷惑かかるとかわかってるねんけど、どこかでそういうのを忘れたいときがあるんよ。人間やもん、逃げたいやん。やのに、その逃げの場所でこのライターじゃないとあかんとか、あの銘柄じゃないと吸う意味ないとか言い出したら、窮屈なんよな。あ、これはあくまでも俺の話やけどな。世の中には、逃げじゃなく煙草を嗜む紳士淑女もおるんやし」

「わからなくはないですけど……」

 逃げるほうはそれでいいかもしれない。だが逃げに付き合わされ振り回されたほうはどうなるのか。

 机に出しっ放しのスケッチブックを手に取る。ひらいてすぐに、怜平のものだとわかった。

 今日はまだ四月二十日で、淀川の見えるベランダから丸一日もたっていない。だが彼とのやりとりが不思議と数日前のことに思えた。

『だったら先輩がいてくれますか』

 無意識に、だが明らかに実咲子が言わせた言葉だった。

 絞りだすような怜平の声なら、はっきりと耳に残っている。それでも心の時間は春の海のように静かに冷たく過ぎ去っていた。

 怜平の絵は、どれもデッサンばかりのモノクロだった。眩しいくらい光の当たっている部分しか明るくない、そんな灰色と黒ばかりの絵だ。色がないからではなく、色を感じさせない、想像することさえ禁じるような視線があった。

 はじめて彼の絵を見たときに、息苦しい絵だと思った。しかし同時にひどく惹きつけられもした。敷き詰められた線の奥に何かがある。そうしてしばらく眺めていると、紙がぐにゃりと歪んだ気がした。

 ひらいたページには学内の坂道が描かれていた。図書館横の、桜がいちばん美しい場所だ。やわらかな鉛筆でつけられた陰影は、黒さのなかに光を感じさせた。その光が揺らめいて、風になる。石畳に足音が響く。

 描かれた景色が重たげに動きだす。

 そこには、桜が咲いていた。

「なあ、相沢」

 突然呼びかけられ、実咲子はあわてて顔をあげた。瞼の裏には、まだ花吹雪が舞っている。

「えっと時間ですか。五限ならまだ――」

「自分結局どうするん」

 眼鏡を外して、関谷は大きく伸びをした。実咲子は話がわからずに首をかしげる。

「どう、って」

「俺は結構、自分らのこと応援してるんやけど」

 関谷は困ったように微笑み、顎でスケッチブックをさした。

 昨夜の「履修登録が無事に済んで良かったねというのは表向きで松下ハッピーバースデー」飲み会は、元は関谷の発案だった。松下の予定を聞き出し、手品を教えてくれたのも彼だ。

 関谷は何も言わなかった。サプライズをやろうと言い出したときも、実咲子に手品を教えるときも、飲み会が始まってからも、あのあと実咲子が帰ったときにも、ただにこにこと笑っていた。そもそも実咲子の事情を訊くこともしなかった。

 なぜ、怜平に応えないのかと。

「それは……」

 実咲子はまともに関谷の顔を見られなかった。たとえすべてが彼のお節介だとしても、実咲子から後ろ暗さは消えない。

 ずいぶん前に飲み干した缶コーヒーを名残惜しそうに振って、関谷は実咲子から視線をそらす。

「相沢が帰ってから、松下が妙に落ち着いてたっていうか、まるで飲み屋の店員みたいでな。あいつのこと励まそうとしたんやけど、まったく出番なしやったわ」

 それが何より寂しかったと、関谷は無言のまま言い添える。何事もなかったように振る舞う怜平が容易に想像できて、実咲子には黙っているしかできない。

 関谷は空き缶をゴミ箱へ投げ入れて、苦笑した。

「俺にはなんで帰ったんなんて訊かれへんけど、でもあいつはそれを知る権利あるんちゃうん。たとえ松下が自分に訊かへんかってもな」

「すみません……」

「別に。謝れとは言うてへん。松下のことになると、相沢は相沢らしないっていうか、まあだからこそ、自分らは一緒におらなあかんのちゃうかって思う。もちろん、こんなん外野の人間のぼやきやから、相沢が聞く必要はないねんけどな」

 空になった煙草の箱をひねりつぶし、関谷は口を歪めた。

「でもこうやって言葉にしてしまったら、自分気ぃ使うわな。ごめんごめん。あかんなあ、最近めっきりおっさんになって。ついつい一言多なってしまう」

「そんなことないです、先輩は私がここへ来たときから基本的に同じです」

「え、俺成長してない?」

「そうじゃなくて」

「だとしたら、前からおっさんてことか」

「それも違います!」

 実咲子はすぐに否定したが、あながち違っていない気もした。関谷は出会ったころから妙に老成していて、安心感がある。

 どこか、「彼」と似ている。

(こんなに優しくはないけど)

 携帯電話をひらくと、メールが一通届いていた。振り分けられたフォルダを見て、ボタンを押す指がとまる。どうしたん、と関谷が声をかける。実咲子は何でもないですと笑った。思い切ってメールをひらくと、「今朝はごめんね」とだけ書かれていた。

 心のありかはわからないが、胸の真ん中がひどく軋んだ。

 メールの文字は変わらないのに、彼から届くメールだけは違って見える。ごめんねという四文字から、彼の声が聞こえる。ずるい。実咲子は胸のうちで何度もそうなじった。

 どうして自分ばかりがこんな想いをしなければならないのだろう。錆びついた心が動こうとして、しかし動きだせずに悲鳴をあげる。終わらせたいと願いながら、終わらせようとしないのはいつだって自分だ。「彼」はただ、笑っているばかりだ。

 ふと、テーブルに広げたままのスケッチブックが目に映る。

『正直えぐいですよ、先輩』

 ストラップを受けとった怜平は、そう言って歪んだ笑みを浮かべていた。

 怜平から見れば、実咲子もずるい。それでも実咲子のためなら何だってすると、右腕だって切り落としてみせると言った。

 実咲子にはわからなかった。怜平がなぜそこまで実咲子を慕うのか、理解できなかった。怜平なら、実咲子よりずっと美人でスタイルもいい、モデルのような女と付き合うことだってできるだろう。女癖は悪いが、悪い男でないことは知っている。ならば実咲子のように口の悪くない、女の子らしい彼女と過ごすことだってできるはずだ。

 だが怜平は、実咲子に執着していた。

 どんな女にふられても一切未練を見せないと噂の怜平が、実咲子には食い下がったのだ。

 スケッチブックに描かれた桜は、思い出したように風に揺れている。ベランダで感じた、まだ少し冷たい風が頬を撫でていくようだった。

 できるなら、この絵のなかに住めたらいい。そうすれば、同じときのなかで永遠に桜を見あげていられる。それ以外、何もいらないと言える。進むことも戻ることもない場所で、ずっと……。

 実咲子は両手をぐっと握りしめた。それだけでは足りず、勢いに任せて机に叩きつける。

「あーっ、もう! なんなの、これ!」

 遠慮なく声を張り上げてから、関谷がいたことを思い出す。正面には眼鏡のずれた男がすっかり怯えて震えていた。

「相沢、さん……?」

「ご、ごめんなさい! 先輩がそこにいること忘れてました!」

 関谷へ向かって深々と頭をさげて、実咲子は携帯電話や筆箱を急いで鞄へ詰めた。

「先輩。私、悩むの苦手かもしれません」

「そんな気はした。たったいま」

「松下に全部ぶちまけてきます。それで結論が出るかどうかはわかんないですけど」

「せやな。今のままいるよりは、ずっとええわ。自分も松下もこの机も、さらにはこのサークルの存続も……」

「大丈夫です、私がいます」

「うん、だから心配やねんけどな」

「何か言いましたか?」

「いや、なんでもない。頼もしいな、相沢!」

「はい!」

 ジャケットをはおって部室を出ようとした実咲子だったが、ふと立ちどまり鞄の中からセブンスターを取りだした。

「あげます」

「いいん? てか、なんでこんなん持ってるん」

「知り合いの忘れ物なんです。私、吸わないですし」

「返してあげたほうがええんちゃうん」

「どうせしばらく会えないし、煙草って香り飛んじゃうんですよね」

「はぁまあ、そこまで言うならありがたくもらうわ。ありがとう」

「五限、出てくださいね。おつかれさまでした」

 部室を飛び出し、コンクリートの剥げた廊下を走ってサークル棟をあとにする。怜平の時間割など知らないが、文学部の校舎へ足を向けた。学科は違うが同じ文学部の二人だった。教室の見当をつけるのは、難しいことではない。

 携帯電話を取りだすと、つい癖でリダイヤルの画面をひらいてしまう。そこに怜平の名前はない。実家やバイト先の電話番号に挟まれて、指で覚えた番号が佇んでいた。無機質な数字の並びを見るだけで、喉が絞られるように切なくなる。

「ばか」

 アドレス帳から怜平の番号を呼び出して、電話をかける。だが十コールを過ぎても怜平が出る様子はなかった。授業中なのかもしれない。学部の事務室へ行けば教室の割り振りがわかる。実咲子はかるく駆け足になって、そちらへ向かった。そのあいだも、もう一度だけ電話をかけてみる。すると今度は六回目でコールが切れて、返事があった。

「もしもし……、松下?」

「はい」

 はじめて聞く電話越しの声は、普段よりも掠れていた。まるで別人のようで、実咲子は一瞬言葉につまる。

「ミサコ先輩、ですよね?」

「あ、うん。ごめん、いま大丈夫かな」

 電話の向こうからは雑然と人の気配が感じられた。かすかに音楽も聞こえてくる。あきらかに授業中ではない。

「バイト先なんですよ」

「え、仕事中?」

「もうすぐ終わります」

「ってことは仕事中じゃない。わかった、メールするから切るよ」

「なんで。切らないでくださいよ。せっかく先輩が電話くれたのに」

「あのねえ松下、あんた――」

「まさか今日、先輩の声が聞けるなんて思ってませんでした」

 感情を抑え込みながら、それでも明るい声で怜平は告げた。

 なぜ実咲子なのか、その答えはまだわからない。だが怜平の気持ちが嘘やからかいでないことはたしかだった。

「バイト終わってから、会える?」

「当然です」

「彼女と約束とかない?」

「いま俺、彼女いませんよ」

「わかった。じゃあ、バイト先の近くまで行くから。どこに行けばいい」

「先輩いま大学ですね。だったら梅田のビッグマン前でどうですか」

「ビッグマンって、どっちだっけ」

「茶屋町側です」

 ざわついた気配の向こうから、怜平を呼ぶ男の声がした。

「すいません、少し待ってもらうかもです」

「いいよ。あとでね」

 そう言って電話を切ってから、怜平の声が掠れて聞こえていたのは小声で話していたからだと気づく。仕事中なら取らなくていいのにと思いつつ、たしかな喜びが胸にあった。

 駅へ向かう足取りはやがてはやくなり、いつしか軽い駆け足になっていた。実咲子はジャケットを手に持って、電車へ飛び乗る。何度も携帯電話をひらいては、代わり映えしない待ち受け画面にため息をもらした。

 電車の揺れが大きくなり、浮き上がったような振動が伝わる。顔をあげると、春の日差しに白く輝く淀川が広がっていた。海へ向かって伸びる河は、大きく蛇行して空へ吸い込まれる。息をひそめて獲物を待っていた、黒く重い河と同じには見えなかった。

 改札を出て階段をおりると、四時を過ぎたところだった。待ち合わせ場所を見渡すが、怜平の姿はない。すぐそばにある本屋の邪魔にならないよう、すこし離れた場所の柱で待つことにした。

 壁にかけられた大きな画面を見上げると、封切り前の映画の予告や、邦楽ポップスのランキングが紹介されていた。そのなかの一曲は、怜平との電話でも聞こえていた。

 街は人で溢れていた。階段をのぼっていく人、おりてくる人、本屋へ入っていく人、出てくる人、ただ街なかをぶらついている人、さまざまな人の流れがあった。だが実咲子の視線は自然と、自分と同じように人を待つ人へ吸い寄せられた。ひとり減っては、またひとり大きな画面の下へ寄ってくる。時間を気にしながら、来てくれる人を思いながら待っている。誰もみな、優しい目をしていた。

 排気ガス混じりの風が、スカートの膝を抜けていく。不意に逃げ出したい気持ちになって、水の中にいるように息苦しくなった。実咲子は持っていた鞄の持ち手を強く握りしめた。それでも緊張がほぐれることはなかった。

 客待ちのタクシーが鳴らしたクラクションで、顔をあげる。時計を見るが、まだ五分も経っていなかった。もう一時間以上、ここでこうしているように錯覚する。

 じっとしていられずあちこち見やっていると、人波の向こうに怜平らしき姿があった。エスカレーターの下で軽く会釈をして、誰かを見送っているようだった。だが相手の姿は実咲子の場所からは見えない。緊張は次第に不安を帯び始める。

 人ごみのなかにいる怜平は、部室で見るよりさらに大人びていた。ラフな格好をしているが、大学生には見えない。喧騒に飲まれることなく馴染み、きちんと自分の足で立っている、そんな自信が感じられた。

 怜平は人の邪魔にならないよう少しずつエスカレーターから遠ざかると、急にこちらを振り向いた。その笑顔が子供のように無邪気で、実咲子は思わず息をとめる。

「待たせてすいませんでした」

「急にごめん。大丈夫だった?」

「同じ時間にバイトあがった先輩がいて」

 朗らかに微笑み、怜平は階段の上を指す。

「だいぶ拉致られそうになりましたけど、丁重に断ってきました。ああ、ちなみにその先輩は男ですよ」

「あ、そ」

 安心している自分に気づき、実咲子はこぼしかけた笑みを飲みこむ。怜平はシャツの襟をさわりながら、ビッグマンの画面を見上げた。

「どうします。とりあえずどこか落ち着きましょうか」

「え、あ……」

「先輩は紅茶派でしたよね。だったらハービスにありましたね」

「あのさ、松下」

「でもここからだと少し歩くか。もしよかったら、知ってる店がすぐそこにあるんでどうですか。紅茶の種類は少ないんですけど、タルトが結構うまいんです。先輩気に入ると思いますよ」

 怜平は実咲子の背中をかるく押して、隣を歩き始めた。

「ちょ、ちょっと待って」

「やっぱり紅茶ですか?」

「そうじゃなくて。私、言わなきゃならないことがある」

 実咲子は立ちどまり、先へ行ってしまおうとする怜平の袖を掴んだ。彼の上着のポケットからはみ出たビーズのストラップが、実咲子の手の甲に当たる。

 喉がからからに渇いていた。うまく声になるか不安になる。だが伝えると決めた。その決断を裏切りたくはなかった。実咲子は大きく息を吸った。

「私ね、付き合ってる人がいる」

 肩越しに実咲子を振り返っていた怜平は、そのまましばらく返事もないまま瞬きを続けた。

 そして、飾りけのない低い声で呟いた。

「まじですか」

 ビーズのストラップと、あけたばかりのセブンスター。

 実咲子にはどちらも本当の心だった。

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