第16話 遭遇②

どれほど走っただろうか。何度も足がもつれそうになる。酸素を求めて肺が悲鳴を上げる。けれど後ろを振り返ればすぐそこにあの巨体がいるのではないかと怖くなるから足を止めることは出来ない。

 時々地面が揺れる音がする。サイクロプスの叫び声も聞こえる。それがより一層恐怖を膨れ上がらせる。黒いそいつはぼくの中から一向に消えてくれやしない。

 ただあの音はナオトがまだ戦っているという証でもある。まだナオトは生きている。そう分かるだけで光はあると信じることが出来る。どんなに小さな光だったとしてもあるのとないのでは大違いだ。まだ生きているのならもう一度ナオトに会うことだってできる。

 そう思えるからこそ歩みを止めずにいられる。彼があそこでサイクロプスを引き留めておいてくれるからぼくらは振り向かずに村へひた走ることが出来る。

 頼む、生きていてくれ。

 願わずにはいられない。


「きゃ!」


 振り向くとミズノさんが木の根に足を取られ、倒れこんでいた。無理もない。男のぼくがこれだけ息が上がって、足にも疲労が溜まっているのだ。それが女性、しかもこんなにも細いミズノさんならぼくの何倍も苦しいはずだ。

 足が上がらなくなってきていたとしてもなんら不思議なことではない。

 座り込んだミズノさんの肩は大きく上下していて、ここまで走ってきた疲れを如実に物語っていた。彼女の靴はヒールこそついていないものの一見して走るのに向くものではないとわかる。

 それに着ている服もひらひらとしていて走りづらそうだ。枝になんどか引っ掛かったらしく、葉っぱや小枝がいくつか絡まっていた。


「大丈夫ですか」


 ミズノさんに近寄って、起き上がるために手を貸す。

 そっと重ねられた手はあまりにも頼りなく、ひどく冷たかった。その割に汗でしっとりと濡れていて、どれだけ無理をして走っていたかがわかる。

 ミズノさんは足を庇いながら立ち上がるも、顔をしかめてすぐにまた地面に座り込んでしまった。


「足を挫いてしまったみたいね」


 彼女は力なく笑った。汗で前髪が張り付いてしまっているその顔は痛みのせいか白く見えた。走ったせいで顔に血が上っているはずなのに、それよりも彼女のつらさの方が外へ出てきてしまったみたいだった。

 時折聞こえてくるナオトとサイクロプスの戦闘音以外は森はいつもと同じような静けさを保っているけど、それがむしろ焦りを搔き立てた。なにかが起こるという嫌な予感がしてならない。


「足を出してください。何かで固定します」


 ぼくの言葉を聞いて彼女は素直に靴を脱ぐ。その動作はこの状況に不釣り合いなほど美しく洗練されていた。たった一つの動作ですら彼女を隠しえない。

 ようやく見えた彼女の足首は青くなっていた。それは真っ暗な海のような濃い青ではなかったが彼女の真っ白な肌の中にあっては必要以上に強調され、怪我はとてもひどいものに見えた。


「失礼します」


 一言断ってから彼女の足に触れる。彼女のほっそりとした美しい足はガラス細工のように触れば壊れてしまいそうなほど脆いものに見えた。こんな足であれだけの速さで走るのはどれほどの苦痛だったであろうか。そしてぼくはそんな彼女を気遣うことすらせず、ただがむしゃらに走っていたのだ。

 自分の不甲斐なさを呪いそうになる。


 青くなっている箇所を触ると彼女はほんの少しだけうめき声を漏らした。この状況でもなおぼくに心配をかけまいとしているのか、必死に声を押し殺しているのがわかる。ぼくは彼女に心配をかけてばっかりだ。

 患部は他の場所の冷たさとは対照的に熱を持ち始めていた。風にあたり冷えた手にはそれがより熱いものに感じた。


 辺りを見回すとちょうどいい太さの木の枝が落ちていた。よし、これなら折れもしないし、大きすぎもしない。

 着ていた長袖を持っていたナイフで切り取る。びりびりという音がして袖口は裂けた。

 それから切り取った袖をナイフで長い一本の包帯にしていく。本当ならば氷を患部に当てたりしなくてはいけないのだろうがここにはそんなものなどない。とりあえずの固定が最優先だ。


「駄目だね。私」


 ぽつりと音が降ってきた。それは五月の小雨のようだった。


「私ね、昔から何やっても上手くいかないの。今だって本当は一刻も早く村まで行かないといけないのにこんなところで引き留めてしまってる」


 突然降りだしたその言葉は青色だった。怪我で弱っているせいか悲しい色だった。

 包帯を一巻き足に巻き付ける。直接木が肌に当たらないようにする。


「どうしてだろうね。こんな遠いところまで来たのになにも変わらないの」


 かける言葉が見つからなくて。ミズノさんが何に悩んで、なぜ悲しそうにしているかぼくは知らない。

 ただ黙って彼女の手当てをするしかぼくにできることはない。

 ここでそんなことないと言って励ますことが出来たのなら何かが変わったのだろうか。その悲しくて分厚い雲に覆われた顔を晴らすことができるのだろうか。

 いやきっと出来ないのだろうと思う。

 たぶんぼくがどんな言葉をかけたとしてもそれは中身のないただの外側を取り繕っただけの言葉でしかないのだろうから。

 綺麗な外側に見合うだけの中身をぼくは詰め込めない。

 張りぼてのお城を現実にする方法をぼくは知らない。

 だからぼくは黙って包帯を巻くことしかできなかった。彼女の繊細な足に添え木をそっと当て、その上からもう一回包帯を巻いていく。

 言葉はかけられないからせめて彼女が一人で歩く手助けをしたかった。

 雨は降りやまない。


「とりあえず応急処置はしました。本当は氷で冷やしたりしなくてはいけないんですけど、今はそんなものはないので添え木だけしてあります。これで少しは楽になると思います」


 もう一度彼女が立とうと腰を上げる。けれどやはりそれさえもしんどそうだ。捻挫した部分は手当をしている間にもどんどん熱くなっていた。

 ぼくはしゃがんで背中を差し出す。嫌がられないだろうか。いや、そんなことを気にしている場合ではないな。


「乗ってください。背負います」

「けどそんなことしたらあなたの方がしんどいでしょう」

「ここから村までそう距離もありませんし大丈夫です」


 迷っている彼女の背を押すようにぼくは笑顔を作る。


「乗ってください。これでもぼくだって男です」


 彼女は申し訳なさそうにぼくの背中に捕まった。

 背中に乗った彼女は想像していたよりずっと軽く、いつもこれで地面に立っていられるのが不思議だった。こんなに軽い背中で必死に立っているんだなと思った。

 歩くたびに背中の彼女も揺れる。肩越しに聞く彼女の吐息はくすぐったくて、この状況を忘れそうになった。けれど下を見ると包帯が巻かれた彼女の足がいつでも見える。

 早く彼女に本格的な治療を受けさせてあげないといけない。それに何よりナオトだって助けなくてはいけない。踏み出す足を早める。


「手当、慣れてるのね」


 彼女の声がすぐ後ろから聞こえてくるのがなんだか不思議だ。

 昔からやってましたから。

 そう答えようとしてその言葉に宿る違和感に気づく。

 そういえばそうだ。なんでぼくはこんなに手慣れているのだろう。

 ぼくは生まれてこの方誰かの手当など一度もしたことがない。包帯を巻いてもらったことは何度かあるものの自分で巻いたことはないはずなのにどうしてこんなにすんなりとできたのだろうか。

 また分からないことが増える。

 知らないことばかりが降り積もっていく。

 いつかぼくは自分の知らない自分に埋もれてしまいそうだ。


「どうしたの?」


 そんなぼくに気づいてかミズノさんがそんな言葉をかけてくれる。

 森の中だというのに時季外れの藤の花がやけに強く香っている。この森に藤なんて生えていないはずなのに。


「大丈夫です」


 そう答えた声がやけにすんなり響いたことに気付く。

 音が、止んでいる。


「ミズノさん、ずっとしていた大きな音止んでません?」

「え」


 辺りはまたいつものような静寂が満ちている。何もない穏やかな昼下がりのような顔をしている。

 さっきまで聞こえていたのはナオトとサイクロプスが戦っていた音だったはずだ。それが今は全くしない。

 それはつまり戦闘が終わったことを表しているのだろう。ナオトが勝ったか、あるいは……。

 最悪な予想が浮かびそうになって、思わず頭を振る。

 そんなことあるはずない。きっと大丈夫だ。

 何度も言い聞かせる。

 それでも背中から流れ落ちる汗は止まらず、なにか昏いものが忍び寄ってくるようだった。


「急ぎます」


 ミズノさんがこくんと頷くのを確認するより前に進むのを早める。

 早く村へ行かなければ。その言葉だけを頭の中で反響させる。

 なのに。


 目の前に大きな足が伸びてきた。

 つい先ほどみたその色を誰が忘れるだろうか。

 くすんだ緑色も、その獣臭さも。忘れることなんてできやしない。


 先ほどよりも大きなサイクロプスがぼくたちの前に立ちはだかった。

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