第13話 木漏れ日②

森に入ると気温が一、二度下がった気がする。

 それは頭上を覆う木の葉が日光を遮っているからとか、湿った地面からの気化熱だとかが原因なのだろうけど、どこか神聖な雰囲気をぼくらに与えてくるのも事実だ。

 ここと村は違う場所だ。そう認識させるほどの何かがここにはある。

 ただそれはぼくらを拒むようなものでは決してなく、どちらかというと優しく包んでくれるような雰囲気がある。

 底抜けの青い空は緑が濃くなり始めた若葉が覆い隠し、その姿を見ることは出来ない。けれど木の葉を通してみる光はいつもより柔らかく緑色の光がぼくらに降り注いでいる。

 近づきがたいほどの神々しさと母のような暖かさの両方をこの森は持っている。


 静かな森の中ではぼくらの足音がよく聞こえる。

 新たな命をはぐくむ元になる落ち葉がぼくらの足元でかさりとなる音がぼくの耳に届いてくる。

 風にそよぐ樹々の葉のこすれる音。透き通った鈴のような小鳥の鳴き声。足元を歩き回る小さな森の住人たちの息をする音さえ聞こえてきそうになる。

 そんな森の中でナオトの着た鎧が発する金属音はやけに不釣り合いだ。


 ぼくが森へ入りたいと述べると案の定ノルマンさんは渋い顔をした。

「理由は分かったが前にも言ったはずだ。今は森に入るなと。前、話していた魔獣が見つかっていないんだ。そいつがまだ森にいるかもしれない」

 重々しいその声はがらんどうの詰め所に響いた。

 ちょうど昼休憩が終わったところのようで詰め所には人がいなかった。外で衛士たちとなにやら警備のことについて話していたノルマンさんに話しかけると、雨が降っているからとここへ入れてくれたのだ。

 休み時間には衛士たちであふれているのであろうこの場所は宿屋の食堂よりずっと広い。長年使いこまれたのであろうと分かるほどに色の濃くなった木の椅子と机が雑然と置かれているだけのこの部屋のそこかしこからは汗の匂いが漂っている。

 それは目の前にいるノルマンさんからも漂ってくるものである。

 たしかに匂いはするが決して嫌なものではなかった。この汗の一つ一つがぼくらの平穏を作っているのだ。

 そうやって守ってきた平和を破ってわざわざ危険を冒そうとしているやつがいるのだ。それは止めずにはいられないだろう。


「どうして森に入りたいんだ」

 ノルマンさんは優しい。それでも理由を聞いてくれる。譲歩する姿勢を見せてくれる。


「新メニューに使う材料を取りに行きたくて。野イチゴなんですけどあそこ以外には自生していないんです」

 野イチゴをわざわざ栽培している人はいない。行商の人たちが運んできてくれるような代物でもないためいざ使おうとなると自分で必要な分を取りに行かなくてはいけないのだ。


「わざわざその野イチゴを使わなくてはいけないのか? 他のものでは代用できないのか?」

「あの酸味と甘さを両立できるものが他にはなくて。それほど奥には入らないのでお願いします」


 言っていて苦しいことは分かっている。野イチゴなど使わずに普通のイチゴを使えば完全にとは言えないが似たような味に仕上げることは出来る。

 それをしたくないのはぼくのわがままだ。ただあの人にこの村のものを食べさせてあげたいというぼくのエゴだ。

 ぼくが宿屋で料理を作り始めたという話をしたときに彼女は笑ってくれた。

 君の料理を食べてみたいと言ってくれた彼女に自信を持った逸品を出したいというただのちっぽけな見栄のために危険を冒そうとしているのだ。それもわざわざナオトに付き添いを頼んでまで。

 自分の言っていることが正しくないことは百も承知だ。けれどたぶんこの気持ちを抑えることはできないのだろう。

 ただ彼女の笑った顔を、とびきりの弾けるような笑顔を見たいと願ってしまうのはきっとやめられない。そのために他の人に迷惑をかけることになったとしても。

 我ながら馬鹿だなとは思うけれど、仕方がないじゃないか。

 だってそうだろ。そう思ってしまったものはなかったことにはできないのだから。


 おそらくノルマンさんは許可してくれないだろう。この村を、ぼくたちを最優先に考えてくれる彼だからこそ、そうするだろうと思う。

 それでも一縷の望みを願わずにはいられず、せめてもとお辞儀の角度を大きくする。

 はあ、というため息がぼくの頭の上から落ちてきた。


「トーリがそんな無茶を言うのは珍しいな。料理の味云々とはまた別の理由があるんだろうな」

 見透かされてる……。


「まあ、ああは言ったが森に危険な魔物はいないだろう。俺たちも森中をくまなく探したんだが結局見つからなかったからな。もうどこか他のところへ行ったのだろう」


 そこまで言うとノルマンさんはただし、と口調を強めた。

「ナオトはフル装備でついていけ。鎧と剣、あと回復薬をいくつか持って行っておけ。それにトーリもあまり奥深くまで行くなよ。いくら俺らが森中を見回ったと言えど、危険な魔物を見逃している可能性はゼロではないからな。なにかあったらすぐに村に戻ってこれるくらいまでしか行かないようにしておけ」


 本当にノルマンさんは優しい。いろんなことを見透かしたうえでぼくの気持ちを尊重してくれる。

 この人がこの村に来てくれて本当によかったなと思う。


「はい」

 ぼくは感謝の気持ちを込めて歯切れよく返事をした。


「この森に来たの初めてだけどなんか違う感じがするな。俺の故郷の森よりなんかこう、生命力にあふれてる気がする」


 前を歩くナオトが声をかけてきた。

 鎧を着ているというのにナオトの足取りは軽やかだ。普段からノルマンさんにしごかれている成果なのだろう。重心の移動にぶれがない。

 ナオトの着る鎧は基本は鎖帷子で構成され要所要所に板金が施されている。街道に立つ衛士たちも普段来ているものだ。

 関節部は鎖帷子で出来ているので見た目以上に動きやすいらしい。けれどやはり重いのは重いらしい。衛士たちは宿屋の食堂で、一日の仕事を終えて鎧を外すと身体が軽くなると言っていた。それと同時に肩が凝るとも言っていた。

 ナオトの着る鎧は貸し出されているものらしく、いくつもの細かい傷が見て取れた。まだまだ青年から抜け切れていない、ともすれば少年十代半ばにも間違えられてしまいそうな顔立ちのナオトが着るとやや違和感がある。


「そんなにこの森は変わってる?」

「変わってるというか違うって感じ? うちんとこの森よりなんか生命力にあふれてる気がする」


 さっきからナオトはずっときょろきょろと物珍しそうに森を見ている。ぼくからすれば別段いつもと変わったところはないように思う。

 茶色いふかふかとした地面に赤い木の実が落ちているのも、空を見たいと願って背を伸ばす大きなクヌギやミズナラの足元で名もなき小さな花が健気に咲いているのもぼくからすればいつものことだと思う。

 息を吸うたびにひんやりとした澄み切った森の空気が身体の中に入ってくる。いつもと変わらない美しい景色だ。


「俺の故郷はさ、もっと北の方にあるから森もくすんだ色なんだ。夏でもこんなに弾けてない気がする。それにあんな魔物もいないしな」


 ナオトが笑いながら指をさしたのは伸びる枝が他の樹に当たり少し動きずらそうにしている樹人トレントだった。自分も樹なのに周りの樹を鬱陶しそうに見ている彼の動きはなんだか笑いを誘った。


「大人しいよな。うちの森にいる魔物ってたいてい熊とか猪とか凶暴なやつばっかなんだよ。だから森には絶対入るなって言われてる。ここと違って一般人が入るなんてことはまずできないんだ」

「そうなんだ」


 もったいないなと思う。確かにぼくらも危険だから森には入るなと幼いころから言われてきた。けれど大人の目を盗んでこの森に入った回数は両手ではきかないだろう。

 そしてそのたびトレントが帰りを諭してくれたり、ドライアドが遊んでくれたりした。そのたびにこの村が好きになっていった。

 村の祭りで担がれる神輿もこの森にそびえたっていた樹齢数百年の大木からできているらしい。この森は村にとってなくてはならないものだ。

 畏怖の対象であり、信仰の対象にもなっている。みんな知っている。この森が村に寄り添っていてくれることを。

 そういう心を預けられるようなものをナオトはしらないのだろう。

 そんなことを思いながらトレントを横目に見ながら通り過ぎ、野イチゴ探しを続ける。


 がさり。

 ぼくたちの右の方から音がした。途端、ナオトに警戒の色が走る。

「トーリ、下がっておけ」

 押し殺したナオトの声にぼくは素直に従う。

 何かがこちらへ近づいてくる足音が聞こえる。

 その音は決して大きいものではなかったが息を押し殺したぼくたちの耳にはよく届いた。

 ナオトが剣を構える。息をのむ音が聞こえる。ナオトの後ろに立つぼくにまで緊張が伝わってくるようだ。

 深い茂みが揺れてそれは姿を現した。


「あら、トーリじゃない。どうしたの、こんなところで」


 服に草が絡まったまま現れたミズノさんの声はこの状況に恐ろしく不似合いで、春の午後のように能天気だった。

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