怪物少女は狩りをする
白銀悠一
第1話 ようこそPHCへ
世界とはいったいどこなのだろう。
恐らく、漠然となら誰でも答えられるはずだ。
世界とは、自分のいる場所だ、と。
なら自分とは何なのだろう。
多くの人はこう答えるだろうか。自分とはつまり私だ、と。
意地の悪い出題者はこう訊くかもしれない……では、私とは何だ、と。
大抵の回答者は、回答する気が失せるか、別の一人称を口に出すだろう。
もしくは、質問の意義を訊くかもしれない。この質問の意味は? 意図は?
すると、出題者は笑ったまま、新しい質問を投げかけるのだ。
――君は世界がどのような場所であり、自分が一体何者か、本当に理解しているのかい?
※※※
テレビから聞こえるニュースの読み上げ音声と共に、フライパンで何かを焼く音が聞こえる。
鼻歌混じりに料理する少女は、上手に焼けた目玉焼きに笑みを落とすと、皿へと移し盛りつけした。
階段を下る足音。少しの間の後現れる小さな男の子。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう。今用意するからね」
少女は弟と挨拶を交わし、テーブルの上に朝食を並べた。エプロンに隠れる制服姿が目に入る。少女は近所の高校に通う女子高生だった。
出来立ての朝食を、いただきますと勢いよく頬張る弟は小学生。しかし、両親の姿はない。
故人、というわけではなかった。母親は仕事に朝早くから向かってしまったし、父親は病気に罹って入院中だ。
だから、少女が母としての務めを果たしている。働く母親の代わりに。
「ほら、早くしないと遅刻しちゃうよ」
急かしながら、自分も席に着く。早く食べないと遅刻してしまうのは少女も同じだった。
目玉焼きを箸で切り分けて、ご飯を口の中へと放り込む。幾分ペースを上げながら朝食を摂っていると、テレビからニュースが聞こえてきた。
『――ということで、今回の隔離理由はビル崩壊の危険が高まったため、とされています。これで政府から発表された隔離地域は二百以上にも上り――』
「また隔離地域、増えたって」
箸を進めながら、弟に注意喚起する。弟はよくわからなそうな顔をして味噌汁を口に含む。
「かくりちいきって、入っちゃダメなとこでしょ」
「そう。間違っても遊びになんか入らないように。家の近くにもあるからね」
少女の小言を聞いて、弟は嫌そうな顔となる。入れないから怒るのではなく、少女が何度も口にした注意文句だったからだ。
他にも似たような隔離地域はたくさんある。ニュースで読み上げたように二百以上。理由は様々で、科学物質の拡散から地盤沈下、建物の崩落など数種類。どれもこれもここ数年の調査で発覚したものばかりらしい。多数の危険箇所の一斉摘発に政府は無能なのかなどという攻撃的な批判も相次いだ。
「わかってるよ、お姉ちゃん」
むすっとした顔で弟は頷く。もう聞き飽きた。表情は雄弁にそう語る。
わかればいいのよ、と年上ぶって、少女は朝食を食べ終えた。歯を磨き、鞄を取る。
弟と玄関に出て、家を出る。誰もいない部屋へと振り返り、姉弟は仲良く声を合わせた。
「いってきます」
後は登校し、勉学に励み、バイトをして、家に帰宅するだけ。
ただいまと言うだけだと、少女は思っていた。
その日は少女にとって、特別でも何でもない、普遍的な一日のはずだった。
貧乏な家庭を支えるためにバイトをし、いつも通り仕事をし、いつも通りに帰宅する。
家に帰ってからは働いている母の代わりに夕飯を作り、学校の宿題を済ませた後、明日の朝食の前準備をする。
ただそれだけ。少々困窮はしていたものの、少女は一切不満を抱くことなく毎日を過ごしていた。
なのに。
そんな何気ない日常は、突然の様に崩れ去る。
ぐちゃっぐちゃっ。
そんな感じの音が前から聞こえる。
いや、正確には横だろうか。とにかく、不快な、肉を噛み千切るような音が永遠と続いている。
「あ……」
ただ茫然と、少女は声を漏らす。
すぐに、自分が声を漏らしたのかどうかさえ、あやふやになる。
それもこれも、目前で起きている現象が現実離れをしているからだ。
今目の前に起きている出来事が、現実だとは思えない。
たぶん、これは夢なのだろう。
誰しも経験があるはずだ。あまりにもリアルな夢。
映画のような奇妙さ。有り得ないほどの圧倒的没入感。
現実だと錯覚してしまうほどのリアリティを兼ね備えた、不可思議な夢。
それを自分は見ているのだろうと少女は納得して、ただじっと見つめ続けた。
犬のような姿の化け物が、自分の右腕を食いちぎっている様を。
「おいしそうに、食べるね」
淡々と感想を呟く。
その犬は、一心不乱に右腕へ食らいついていた。皮や筋肉、皮下脂肪などを食い吸って、骨をごりごりと犬用の骨を噛むかのように咀嚼している。
だらり、と血管が垂れ、ぷち、と噛み千切った。
「……ぁ」
どばどばと血液が流れ落ちる。
たっぷりの血が、アスファルトへと広がった。もしこれが現実だったなら、出血多量で私は死ぬんだろうな、と少女は他人事のように思う。
左眼だけで見ているので、どのくらいの量が零れているのかわからない。さっきから右眼は開いてるのだが、黒いだけで何も見えないのだ。
たぶん、もう見えないのだろうなぁ、と思う。
爪で引っ掻かれた時に、見えなくなってしまったのだろう。よく目を凝らせば転がった眼球が見つかるかもしれない。
いや、流石にそれはないか。少女はひとりで自己完結する。
「はやく……起きないとなぁ。弟にごはんつくってあげないと、ダメなのに」
一体どれくらい眠ってしまったのだろう。
いつから、どこで? 少女は頭を回転させようとするが、なかなか思い出せない。
たぶん、夢だからしょうがないのだ。だって、そうじゃないとおかしいから。
こんな大きな犬は見たことがない。人より全長が大きい犬は。
それだけじゃない。深紅の瞳と大きな牙を持った真っ黒な犬なんて、動物図鑑には載っていない。
「急がない、と。お父さんが病気なんだから、わたしががんばら、ない、と」
少女の片目から見える世界が、急速に灰色になっていく。
右前頭部から流れ落ちる赤い雫が、そこに加わった。
「成績をキープしないと、奨学金、もらえないし。勉強もやらなきゃ。大丈夫……努力すれば、なんとか、なるって、いうものね」
バキリという異音。
混濁する視界の中で、何とか少女が目を向けると、右腕が完全に千切れていた。
犬はばきりごくりと少女の右腕を飲み込むと、今度は少女の胴体を喰らおうと近づいてくる。
私は死ぬのかな。少女が呟いた。
「でも、私が死んだら、誰が、家族の……面倒を? お母さん? 毎日働いてるお母さん? 弟の、世話も、しなきゃダメ、だから、たいへ、んだ」
思い浮かぶ家族の姿。家族はみんな笑っていた。微笑んでいた。少女に向かって。
瞬間、死に微睡んでいた少女が現実に追い付いた。
「ッ!! いやっ!!」
ヒステリックに叫ぶ。少女は理解していた。これは夢ではなく現実だと。
この化け物は、猛獣のような巨大な犬は、自分の腕を本当に喰らっているのだと。
「こな、来ないで!!」
叫んで、逃げようとする。右腕から血をどばどばと流しながら。
何が起きているのかさっぱりわからない。少女の中を渦巻くのは疑問だけ。
突然、化け物に襲われた。バイト終わりに。何の前触れもなく、唐突に。
理由が思い当たらない。食われる理由が見当たらない。が――。
よく考えてみれば、わかる。
「いやっいや!! 死にたくない!」
人は……動物は、お腹が空いたらどうするか?
「やめて! 来るなぁ!!」
腹の音が鳴ったら? 空腹感に苛まれたら?
「あ、あっ……!」
答えは簡単。食事を摂る。
ごはんを食べるのだ。
「ひ……っ!」
少女は袋小路に追いつめられていた。
逃げ道はどこにもない。辺りにあるのはシャッターの閉じた商店だけ。
ここは隔離地域だ。逃げる最中に迷い込んでしまったらしい。
「だれか、誰か助けて!!」
助けを求めて、必死に叫ぶ。だが、聞こえるのは自分の叫び声と、前に立つ獣の唸り声だけ。
獣は、狗は、少女の息の根を止めるため、そして食欲を満たすため、少女へと近づいた。
後は喰うだけ喰らわれるだけ。少女が絶叫を上げたその時。
銃弾が、巨大な獣を撃ち抜いた。
「えっ? え……」
少女の前で斃れる獣。しばし経って、現れる人影。
少女は安堵してその人影に左手を伸ばし、その人物の顔を見る。
手が止まった。安堵した顔が怯えきったそれとなる。
「――カワイソウね、あなた」
現れた少女は言った。背中には狙撃銃を背負い、右手には拳銃が握られている。
助けに来たと思われた少女は、憔悴しきっている少女へと、
「きっと、生き地獄よ」
カチャリ、と拳銃を向ける。
「え? ウソ、ウソウソウソ!!」
生き残れた、と思った。
だけど、殺す相手が変わっただけだった。
赤いフードを被った少女は銃口を右手と右目を喪った少女に突きつける。
少女の表情は窺えない。目深なフードに阻まれて、少女が泣いてるのか怒っているのか、はたまた笑っているのかは謎のまま。
ただ銃口だけが、少女の真意を告げている。赤い死神は死にかけた少女を撃ち殺すつもりだ。
隻腕隻眼の少女に、もう逃げるだけの気力と体力は残されていない。ただ本能的に悲鳴を上げて、恐ろしさに涙を流すのみだ。
だが、死神は止まる素振りをみせずに、死の宣告をする。
「運がなかったのね。サヨナラ――」
轟く銃声。少女には理解が及ばない。
許容できる範疇を越えていた。パニックとなり、現実を現実と認識できないでいた。
だから、自分が生きていて、死神が銃を撃っていないという事実すら誤認していた。
「いやっヤダ、ヤダッ! 死にたくない!!」
死の恐怖に駆られ、逃避のために耳を塞ごうとする。が、片腕しかないため両耳を塞げない。
聞きたくない音が、声が、右耳から入って行く。聞こえるのは銃声と音声。
誰かと誰かの、会話声。
「……く、PHCの!」
「人は殺させません。あなたを殺すつもりもありません。抵抗を止めてください」
血を流す少女の前で繰り広げられる、銃弾を伴ったやり取り。拳銃を持つ赤い死神に対峙するのは、真っ白な少女。
コンパクトマシンガンを穿ち、死神を追いつめるその姿はまさに純白の天使のようであり――。
再び現状の奇異さに気付いた少女には、自分を救いに来た神の使いに見えた。
「て、天使……」
天使が死神を追い払っている。
赤色は撤退するしかなくなった。舌打ちしながら忌々しげに吐き捨てる。
「人形が……!」
死神は踵を返し、逃走していった。残された天使が、少女に手を差し伸べる。
極上の、幸福感に満ち溢れた笑顔だった。人を救ったという喜びを噛み締めているような。
「天使……様……」
そこで少女は気を失った。
※※※
父親が病気で入院してからというもの、家事は少女の役割となった。
母親は仕事で夜が遅い。毎日毎日、生活費と治療代を稼ぐため身を粉にして働いている。
さらに、少女の学費や小学生である弟の養育費も必要だ。少女には詳しい金銭事情はわからないが、家計が切迫している、ということだけはわかっていた。
だから、バイトを始めた。そうした方がいいと思ったから。
弟の世話も怠らなかった。愛しい家族である弟のため、オモチャやゲームを買ってあげたりした。
だけど、弟はあまりプレゼントを欲しがらなかったし、ねだらなかった。幼いながらに家庭の事情を察していたらしい。
だから、少女はバイトの数を増やした。少々意固地になってたのかもしれない。子どもは子どもらしく甘えなさいと。自分が子どもであることを棚に上げて、頑張っていた。
だが、少々頑張り過ぎたのかもしれない。もう少し時間に余裕を作っておけば、あそこでアレに出会うこともなかったはずなのだから。
「――ん」
少女は目を覚ました。微睡みから目が覚めた。
うっすらと左眼を開けて、天井を見る。一瞬、父親の見舞い途中に寝落ちしたのだと錯覚し、お父さん? と呼びかける。
返事はない。何か変だ。
違和感に気付き、そもそも何で自分は片目だけで天井を見上げているのかと疑問視する。
妙な感覚に囚われながらも右眼を開けて、
――
という意味不明なアナウンスに困惑する。
「え?
ダメ、と言いかけて、ふと何気なく右腕に目を落とし、
「へ?」
と間の抜けた声を上げた。
おかしかった。夢だと思った。
だけど、それは現実だった。逃れようのない真実だった。
「な、何? 私の腕……え?」
困惑し瞠目する。自らの腕……に取り付けられた銀色の義手らしきものを目視して。
「なに? え? どうなってるの? へ?」
義手は元々自分の一部だったように正確に動いた。右手で握ろうとすれば義手が握る。開こうとすれば開く。人差し指を立てたりすることもできる。
そこで少女はようやく理解する。自分の右腕が義手になっているということを。
「あ、ぁ……」
あまりの恐怖の前に少女は悲鳴すら上げられなかった。
そして、びくりと小さく跳ねる。頭の中に直接声が響いた。
――心理的異常を検知。
「わ、私の名前、が」
少女改め朱里は反射的に頭を押さえる。言葉の意味もわからなければ、この状況も理解できない。
わからない。わからないけど。
何をするべきかは、わかる。
「帰る……夕食、の準備」
気が狂いそうになりながらも、自分のしなければならない義務のため、朱里はベッドから降りた。
ふらり、ふらりとよろめきながら扉へと向かう。身体のバランスに違和感。右腕が重くて傾いている。
――非推奨行動中。休息は
「私はハンターなんかじゃ、ない!」
声に応えるようにして叫ぶ。恐ろしい。とても怖かった。
頭に聞こえる声が耳障りだからではない。驚くほど耳心地が良かった。
頭が、自分の脳が、この声を受け入れている。右腕だってそうだ。バランスも徐々にだが取れてきている。
非現実に、身体が順応し始めている。
「家に帰る、帰るの」
弱弱しく呟いて、引き戸に手を掛ける。
だが、引く前に扉は開いた。自動ではない。手動で。
「おや、もう目を覚ましたのか。流石、あの状況でショック死しなかっただけはあるね」
スーツ姿の男が病室に入ってきた。西洋人で黒髪のその男は、困惑する患者服姿の朱里にまぁ落ち着いて、と優しく微笑んだ。
でも、と反論する。男は困ったような笑みを浮かべて、
「まぁ、座りなさい。その恰好で帰るわけにもいかないだろう?」
「あ、う」
「大丈夫。こちらで服は用意するから。それに、まだ体調は万全ではないだろう? 弟君も弱った君の姿を見たくないと思うよ」
「な、なんで弟のことを」
「それも含めて、話そう。あぁ、お腹は空いたかな?」
男は気さくに訊いてくる。
腹は空いていた。点滴を打たれ栄養は摂取していたようだが、空腹感は否めない。
朱里は悩んだあげく、こくんと頷いた。何かを食べれば冷静に状況を見極められるかもしれないという想いからだ。
「じゃ、こっちに来るんだ。リハビリがてら美味しい食事をごちそうしよう」
男は笑顔で、朱里を連れ立った。
病院かと思っていた場所は、全く違う施設だったようだ。物々しい表情の男たちが興味なさげな視線を朱里に向ける。
ああ、気にしないで。男はにこにこ笑っていたが、土台無理な相談だ。朱里は奇妙な服……軍服とはまた違う格好の男たちを怪訝に思いながら進んだ。
「さぁ入ってくれ」
「う、わ」
息を呑んだのは感嘆に暮れたからではない。
通された部屋はお世辞にも良い趣味だとはいえなかった。金。金で彩られた部屋だった。
シャンデリアの灯りが壁や椅子、テーブルなどの金素材を反射して、朱里は目を細めた。
右眼が反応し、声を吐く。――光度調整を開始します――。
左眼よりも早く右眼が順応した。
「趣味は合わなかったみたいだね。まぁ、こればかりはしょうがない。人と趣味が合わないことは重々承知しているよ」
「い、いえ……すみません」
見抜かれていたので、誤魔化さずに謝罪する。
男は構わないよ、と気にした様子もなく朱里に着席を促した。
席に着き、男もまた対面に座る。異常なほど煌びやかな部屋を見回し、朱里は別世界にでも入り込んだような気分に囚われた。
どれもこれも、非現実的だ。実は夢を見ているのではないか――。そう思って左腕を抓る。痛かった。
「さっそく食事にしよう。君に打ってつけの素材が入ったんだ」
男が指を鳴らすと、給仕係が食事を運んできた。朱里の前に食事が置かれる。ステーキのようだった。
弟に食べさせてあげたいという想いが巡る。ふと、家族は大丈夫だろうかという不安が頭をもたげる。
「もっと着飾った食事でもいいんだが、今の君は空腹感を満たす方が先決だろう?」
「……いただきます」
とにかくお腹が空いていた朱里は、ナイフとフォークを上手に使いステーキを切り分ける。
まず、一口。咀嚼しながらも訝しむ。初めて食べた味だ。
「さて、説明を始めようか。まず、世界の在り方についてだけど」
「せ、世界ですか?」
男から語られる突拍子のない解説。てっきり自分の状況を説明してくれるとばかり思っていた朱里は、戸惑いながらも男を見つめた。
ああ、傾けるのは耳だけでいい。食事に勤しみたまえ。男は笑いながら言う。
「世界、世界だよ。社会だとも言っていい。まず、政府は君たちに嘘を吐いてるんだ。大きな嘘をね」
「うそ、ですか……」
朱里はステーキを切りながら訊く。
「その通り。嘘だよ。君は自分を襲った
「はい……」
「酷いもんだ。ああ、とてもひどい。世界中にアレが跋扈しているのに、日本政府は……国際連合はひた隠しにしている。彼ら曰く、ばれたら混乱は避けられないそうだよ」
朱里はステーキを食べ進めながらも、話半分に男の説明を訊いていた。自分はもしや、詐欺か何かに巻き込まれてるのではないかという懸念が募る。
しかし、ナイフを握る右手は義手で、ステーキを見つめる右眼は義眼だ。荒唐無稽な話でも、とにかく聞いてみるしかなかった。
「まぁ、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。彼らはビーストに対応できないのだから。ビーストを狩れるのは僕たち……PHCだけなんだ。PMC、知ってる? あれのハンター版みたいに思ってくれればいい。ああ、ハンターがわからない? 狩人……猟師って言えば通じるかな」
男は饒舌に訳のわからない話を続けていく。朱里は頭が混乱してきた。反論すらできず、理解すらおぼつかず、ただ男の話を聞き受けていく。
「ビーストハンター、なんて言えば、日本製のゲームを思い出すかい? 似たような名前のゲームがあったよね。今は認識なんてそんなものでいい。君はこれから学んでいくんだからね」
「え? 今、なんて……」
男の言葉にぎょっとした朱里は慌てて訊き返した。ん? と男は微笑しながら首を傾げる。
「君はこれから我が社の契約社員となるんだよ。PHC……雇われのハンターとしてね。あ、でも安心してくれ。安定しているからね。世界は我が社に依存している状態だ。……狩場として隔離地域を無理やり増やし、情報操作に勤しんでいる各国が僕たちの顧客だよ。実質、専属契約だ。仕事にあぶれることはないから安心していい」
「そんなことはどうでもいいです!」
ガシャン、と物音を立てて、朱里は立ち上がった。
とにかく知りたいのは、家に帰れるかどうかということだ。弟は幼いし、母親は働き尽くめ。父親は病気で、朱里がいなければ生活が破綻してしまう。早急に帰宅し、家事や学業、バイトなどやるべきことが山積みなのだ。
ご馳走になりながらとやかく言うことでもないだろうが、朱里は何よりも早く家に帰りたかった。
だが、朱里に睨まれても男は動じない。むしろ面白そうに笑いながら、一枚の紙を取り出した。
縦長の薄い紙、レシートだ。スーパーあたりで使われていそうなソレを、男はにやにやしながら提示する。
「帰りたいなら、まずはお代を払わないと」
「……食事代、ですか?」
ご馳走すると言ったのは、嘘だったのか――。朱里はレシートを受けとり、
「え」
と呆けたように漏らして、絶句した。
まるで小学生が創ったような簡易な代物だ。そして、領収書に記されている額も、小学生が書いたような値段だった。
五億円。宝くじの一等あたりが、だいたいそれくらいの金額だったかもしれない。
文面には、義手……HS-27の請求額三億円と、義眼であるタクティカルアイの額二億円が記載されていた。
いたずらかと思い、ふざけないでください、と朱里は言い返す。ひどいなぁ、と男は苦笑しながら、
「商品の値段っていったい誰が決めると思う?」
「……売り手、ですか?」
訝りながらも答える。正直、朱里はあまり商業分野には詳しくない。だが、需要と供給、売り手と買い手、市場など、様々な要因で物の値段が決まることぐらいは知っていた。
売り手が値段を決められるとはいえ、法外な値段では誰も買わない。商売は売り手側の一方通行ではないのだ。そもそも、朱里は義眼も義手も望んでいない。勝手に装着されて値段を請求されるのは、常識的に考えてもおかしいはずだ。
そのことを指摘しても、男は笑みを貼りつかせたままだった。
「酷いな。君もひどい人間だ。僕は善意で君を救い、保護し、治療までしてあげた。なのに糾弾されるとは。それともあれかい? 君はキレる若者って奴なのかい?」
「バカにしてるんですか」
いよいよ朱里も我慢ならなくなった。ただでさえ意味不明なこの状況に、変なことを上乗せされては堪らない。
帰りますよ? と席から離れる。だが、ドアは引いても押しても開かない。何か機械的処置で閉じ込められたようだった。
ゾクリ、と寒気が朱里を襲う。もしや自分は、とんでもないことに巻き込まれてはいないか。
「な、何が? お家……お家に帰して!」
朱里がテーブルに向き直り、男へ訴える。だが、笑みを浮かべて一蹴した。
「だったら、お金を払ってくれないと。……君の母国である日本だって、国民から搾取した税金で僕たちにお金を払ってるんだ。言っておくけど、お金に関して僕は本気だよ。この世はお金が全てだからね」
「は、払えるわけないでしょう! 五億だなんて!」
「でも、そうしないと君は帰れない。やっと状況を理解してきたかな? 君は僕に借金をしてる。だから、僕の会社で働くんだ。借金を返済するためにね。……あぁ、弁護士だとか警察だとか、無駄な足掻きはよしてくれよ? 日本は……いや、世界は僕の傀儡だからね」
男は席を立ち、朱里へと近づいてきた。少し変な親切な人。それが、男に対する朱里の最初の印象だった。
だが、今や違う。正反対だ。朱里を閉じ込め、金銭を請求する悪い人である。怖い人間でもあった。
朱里は咄嗟に携帯を探すが、ない。近づいてくる男が怖くて、家族に会えないと思うと恐ろしくて、後ずさる。
「ひ、おかしい、こんなのおかしい……!」
「おかしいのは日本政府だよ。さっさと公表すればいいと言っているのに、意地でも自分で対処できるようになるまで情報を隠匿し続けるらしい。僕たちとは技術レベルが天と地ほどの差があるのに。世界の主である僕をないがしろにしているんだ。これは、とてもひどい、理不尽なことだと思わないかい?」
「止めて! 近づかないで! 帰して……帰してよ……」
嗚咽しながら、頼み込む。吐き気が込み上げてきて、朱里は口元を押さえた。右眼は語る。――心理的異常を検知、メンタルケアを推奨――。もう何が何だかわからない。
男は床に座り込んだ朱里には触れず、言葉を投げかける、心底愉しそうに笑いながら。
「そういや君、中国あたりだったかな。迷信、知ってる? 悪い部分や病気になった部位がある時、同じ部分の食材を食べるってやつ。医学的根拠はないらしいけど、今の君なら
「何が、何で……」
「せっかく、自分の右腕を喰らったビーストを食べたんだ。少しくらいは効果を期待したいじゃないか」
瞬間、朱里は耐え切れなくなって嘔吐した。吐瀉物が金の床を汚す。精神的負荷によって、朱里は床に倒れ伏した。
ああ、掃除が大変だ。男は愉快に呟いて、
「――人は誰しも怪物を飼っている。君の怪物、君の価値が、僕の想像以上であることを祈るよ」
その言葉を最後に、朱里は意識を失った。
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