『神様』(2007年01月19日)

矢口晃

第1話

 ある暖かな日曜の昼下がり、神様が一人で庭の草刈をしていると、そこへ丸々と太った若い牛が息も絶え絶えに走ってきました。神様は使っていた鎌を動かすのをやめると、慌てた様子の牛へにこにことした優しい笑顔を向けながら、こう尋ねました。

「そこに走ってくるのは牛さんではありませんか。どうしました、またそんなに急いで?」

 牛は神様の背中の方へ隠れるように回りこむと、ものにおびえたような眼を神様に向けながら、悲しそうにこう言いました。

「神様、神様、どうか助けてくださいまし」

「いったいどうしたと言うんです?」

 牛は大きな黒目にいっぱいの涙を浮かべながら、今にも泣き出しそうに神様に訴えました。

「私は今、危うく殺されかけそうになったのを、懸命に走ってここまで逃げてきたのです。どうか私を助けてくださいませ」

「殺されかけた? 一体誰に?」

「それが――」

 牛が何かを言いかけたところです。今しがた牛が走ってきた方角から、今度は一人の髪の茶色い中年の男が、猛然と駆けてくるのが見えました。手にはなにやら、長い棒のようなものを持っているようです。

 それを見ると牛は神様の陰に大きな体をできるだけ小さくしながら、

「あれです。あの男です」

 と震える声で言いました。

「わかりました。ともかくも、いったん家の中へ入りましょう」

 そう言うと、神様は恐がる牛を導きながら、家の中へ入って行きました。

 家に入ってドアの鍵を神様が閉めたのを確認すると、牛はようやくほっとしたように溜息をつきました。神様は部屋の真ん中にある椅子に腰を下すと、もっと詳しく牛の話を聞こうとしました。牛はようやく冷静さを取り戻しながら、少しずつ事の次第を神様に打ち明け始めました。

「今日の朝のことです。私がいつものように牧場の柵の中で干し藁を食べておりますと、突然正面から、さっきの男が近づいてくるのです。手には、自分の身長ほどの大きな鉈を持って。私はそれを見た瞬間、はっと思いました。今まで、あの斧を持った男に曳いて行かれて、二度と帰って来なかった友人や兄弟をたくさん知っていたからです。それはあの男が、一匹ずつ私たちを殺していたからに違いありません。あの大きな鉈は、私たちの首を打ち落とすためのものに決まっています。あの男と目の合った瞬間、私は自分が殺されると思いました。だから必死の思いで駆け出して、普段は恐くて近づけない木の柵も体当たりで突き破って、無二無三に神様の所まで走って逃げてきたのです。私はみすみすあんな男に殺されるのは嫌なのです。神様、どうかこの哀れなわたくしを救って下さいまし」

 牛がそこまで話し終わった頃、神様の家のドアを、ドンドンドンと外から激しく叩く音が聞えました。牛はその音を聞くと、

「あ、あの男がやって来たに違いありません」

 と言いながら、またおどおどと慌てだしてしまいました。神様はその牛へ、

「大丈夫だから、ここは私に任せて、奥の部屋へ隠れていなさい」

 と言って、牛を別の部屋へ連れて行きました。そしてそのドアをきっちりと閉めると、ドンドンと扉を叩く男のためにドアを開けてやりました。

 牛の言ったとおり、やはりドアを叩いていたのは、あの大きな鉈を持った、髪の茶色い中年の男に違いありませんでした。神様はにっこりと男に微笑むと、

「こんにちは。何か御用ですかな?」

 とやさしく問いかけました。

 男はぜえぜえと肩で息をしながら、神様にこう尋ねました。

「もし神様。今ここに、私の牛が来ませんでしたか?」

「ほう、あの牛はあなたの牛なのですか?」

「そうですとも。私の飼っていた牛です。聞いて下さい神様。あの牛と言ったら、今まで散々餌をやったり寝床の掃除をしてやったりした恩も忘れて、突然いなくなってしまうのですから。さあ神様、あの牛を出して下さい。ぜひとも連れて帰りたいのです」

 無理に家の中に入ろうとする男を押しとどめながら、神様は語りかけるように男に言いました。

「しかしあの牛は大変に恐がっていますよ。あなたに殺されるのではないかって」

「殺される?」

 男は意外そうな表情を目のうちに浮かべながら、神様の顔をまじまじと見詰めました。

「殺すなんて、とんでもありませんよ。だいたい家族も同然の牛を、飼い主の手で殺せると思いますか?」

「しかし、その手に持っている長い鉈は何に使うのです? 牛はあなたがその鉈を持っているのを見ておびえたのですよ」

「ああ、これですか」

 男は視線を杖のようにもっている鉈に向けなおして、

「これは牛を攻撃するためのものではありません。家の近くに最近よく狼が現れましてね、方々の鳥や猫だのといったペットを襲うのです。だから私はその狼が家に来て牛が襲われれないように、いざとなったらこの鉈で追い返してやろうと思って持ち歩いていたのですよ。牛を攻撃するためのものではありません。むしろ牛を守るためのものです」

「わかりました」

 神様は男に一つ頷いて見せました。

「でしたらそのことを一つ、私から牛さんに話してみましょう。恐れ入りますが、このまま外で待っていてもらってもよろしいですか?」

 男は不承不承に神様の話を受け入れました。

 神様はいったん家のドアを閉めると、牛の隠れている部屋に入って、男の言い分を牛に話しました。しかし牛は全身をぶるぶると震わせながら、うったえるように神様にこう言うのです。

「そんな話、でたらめに決まっています。うまいことを言って私を連れ出し、家に引っ張って行って殺して売りに出そうとしているのに違いありません。なぜなら今日の朝見たあの男の目には、ありありと私に対する殺意がみなぎっていたのですから。神様、どうか私をこのままここに隠して置いて下さい」

 しまいには牛はおいおい泣き出してしまいました。神様は困ったなという表情を顔に浮かべながら、ともかくももういちどあの牛飼いの男と話をしてみることにしました。

「お待たせしました」

「おお神様。どうでしたか?」

 家の外で待ちくたびれていた男は、中から出てきた神様を見るといきなり近くににじり寄って尋ねました。神様は思わず一歩後ろへ下がりながら、男に牛の言い分を話して聞かせました。

「やはり牛さんは、あなたに対してだいぶおびえているようです。あなたのことをいくら分ってもらおうと思って話しても、体をこわばらせて首を横に振るばかりです。あなたは牛さんに何か恐がらせるようなことをしたことはありませんか?」

 男は激しく首を振ってこう言いました。

「とんでもありません。私は飼い主として、あの牛にできるだけのことをしてきました。神様も見たでしょう? 牛があんなに丸々と太っているのは、実際私の飼育の賜物なのですよ」

「しかし牛さんはあなたに殺意を感じたと言ってあなたに会うのを恐がっています。動物の直感は、人間の直感より優れていると聞きますから」

「とにかく、一度直接あの牛と話をさせて下さい」

「困りましたねえ」

 神様はまた一度男を外に残したまま、牛の部屋へ顔を出しました。牛は物陰に身を潜めながら、

「あの男は、帰りましたか?」

 と囁くように神様に尋ねました。神様は首を横に振りながら、

「いいえ。まだ外にいます」

「早く帰らせて下さい。お願いします」

 牛はまたしても泣き出しそうな顔をしながら神様に頼みました。

「あの男の人は、絶対にあなたを殺すつもりなんてないと言っています。一度あなたと直接話がして見たいそうですよ」

「いやです、いやです」

 牛は黒い大きな眼から涙をたくさん流し始めました。

「そう言って私をおびき出そうとしているのです。会ったら最後、私はあの鉈で頭を叩かれて脳震盪で死んでしまうのです。そして肉と骨とをばらばらにされて売りに出されてしまうのです。神様、私はそんな風にだけは死にたくないのです」

「困りましたねえ」

 神様はまたそう独り言をつぶやきました。

 牛と牛飼いの問答は、このままいくら続けても決着がつきそうにありません。神様は仕方なく、牛飼いの男に一つの提案を持ちかけてみることにしました。

「もし」

「神様、牛はまだ出てきませんか?」

「ええ。まだ部屋の中で震えながら泣いていますよ」

「困ったなあ、どうしてもあの牛がいなくては困るのだが」

 男は悔しそうにちぇっと舌打ちしました。神様はその男に、今思いついた提案をしてみることにしました。

「あの、牛飼いさん。このままいくらあなたがたがお話合いになっても、決着がつきそうにありません。そこで一つ私から提案があるのですが」

「ほう。提案とは、どんなことですか?」

 提案、という神様の言葉に、男は興味ありげな目で神様を見やりました。

「どうです、ひとつあの牛を、この私に譲って頂けませんか?」

「え? 神様にあの牛を?」

 神様は微笑を顔に湛えたまま、こっくりと頷いて見せました。男は慌てたように大きな声で、

「だめだだめだ。いくら神様だって、せっかく私が育ててきた牛を上げてしまう訳には行きません」

「ええそれは重々承知の上で、でもこの問題を円満に解決するために失礼を覚悟で話しているのです。もちろん、ただ貰いたいと言うのではありません。あの牛を、あなたから買い取りたいのです」

「何? 神様があの牛を買うというのですか?」

「はいそうです。どちらにせよ、あなたが牛飼いである以上、殺す殺さないに関わらずいずれあの牛は売りに出さなくてはいけないのでしょう? ですからその牛を、今私がここで買い取りましょうと言うのです」

 買い取るという言葉を聞いて、男の口元に思わず笑みがこぼれました。

「買い取るって、いったいいくらで買ってくれるんです?」

「あなたがここに書いた額で買い取りましょう」

 神様はそう言いながら、懐の中から真っ白な紙と黒いペンを出して男に渡しました。男は紙とペンを受け取ると、じろじろと神様の顔色を窺うように見やりながら、その紙にいくつかの数字を書きました。神様は男に渡された紙を見ると、

「わかりました」

 とひとこと言い残し、いったん家の中に姿を消しました。そして一分くらいたってから、手に大きな袋を提げて、再び男の前に姿を現しました。

「この袋の中にお金が入っています」

 男は神様の手から袋を奪うようにして取ると、袋の口を開けて中を覗き込みました。すると、さっきまでかりかり怒っていた男の顔が、みるみる内に満面の笑みに変わって行きました。

「さあ。それを持って、早くお帰りなさい」

「いや、どうもいろいろありがとうございます。あの牛をどうぞよろしく」

「はい分かりました。どうぞお気をつけて」

 男はお金の入った袋を大事そうに抱えながら、そそくさと神様の家から去って行きました。

「あの男の人は、もういなくなりましたよ」

「本当ですか?」

 それを聞くと牛は嬉しそうに立ち上がると、神様の足に自分の頭をこすりつけながら感謝しました。

「神様、本当にありがとうございました」

「いいえ。いいのですよこれくらい。さああなたもしばらく休んだら、自分の好きなところへ行きなさい」

「えっ?」

 牛は急に心細そうな表情になって神様の顔を見上げました。

「この家においてくれるのではないのですか?」

 神様は慌てて首を横に振りながら、

「いえいえ。残念ですが、この家であなたと生活することはできません。第一、あなたの食べ物や寝床もありませんし」

「お願いです神様。どうか私を追い出したりしないで下さい。私がひとりで道を歩いていたら、それこそいつ狼に襲われるか分かりません。お願いです神様。ご迷惑はおかけしません。できることはなんでもします。ですからこの家にいさせて下さい」

「困りましたねえ」

 神様は指で頭をぽりぽりと掻きながらまたそうつぶやきました。

 するとその時です。

「ドンドンドン」

 また誰かが、けたたましく神様の家のドアを叩くではありませんか。あまりの勢いでドアが壊されそうなので、神様は急いで外に出ました。

「はい。どちらさまで?」

 外に立っていたのは、一人の中年の女です。女は怒ったように口をへの字に曲げながら、家の中から出てきた神様をきっと睨み付けていました。

「どちらさまでしょう?」

 神様がもう一度そう聞くと、女は

「さっきの牛飼いの妻です」

 と怒鳴るような口調で答えました。

「さっき内の主人がここに来たと思いますが」

「牛飼いさんなら、確かに来ましたが。何か?」

「『何か?』じゃありません!」

 女は声を張り上げて神様に詰め寄ります。

「神様、家の主人にお金を渡しませんでしたか」

「はい。確かにお渡ししましたよ」

 神様が正直にそう答えると、女は顔を真っ青にして、神様の顔に唾の飛ぶのも構わずに怒号しました。

「そのお金で主人が浮気をしているのですよ! そうと知っていながら、神様は主人にお金など渡したのでしょう」

 これを聞いて面食らったのは神様です。

「いいえ。とんでもありません。あのお金は私が牛さんを助けようと思って、窮余のあまり渡したお金です。決してご主人の浮気のために渡したのではありません」

 しかしすっかり頭に血の上った女を冷静にさせることは、いくら神様と言えども簡単にはできません。女はこめかみに青筋を立てながら、

「畜生! ろくでなし! 神様なんて、もう二度と信じない!」

 そう神様に食ってかかるのです。神様ももう呆れ顔でてこずっていました。

 するとそこへ

「郵便です」

 と言いながら、神様に葉書の束を忙しそうに手渡して行ったのは、いつもの若い郵便配達員です。

「いつもご苦労様」

 神様がそう言って労う内には、その若い郵便配達員は次の配達先へ向かって自転車を漕ぎ始めていました。

 神様は受け取った葉書の束をまじまじと見ていました。神様の家には、毎日五十通を越える葉書や手紙が休みなく届けられます。そしてそれらは一枚もまがうことなく、全てが神様に対する恨みつらみを訴えるためのものなのです。

 神様は

「今日も来たか」

 とでも言いたそうな憂鬱そうな目をしながらその葉書の束から一番上のものを取り上げて、文面を見てみました。

「神様、私はとうとう昨日で四十歳の誕生日を迎えてしまいました。四十までには結婚したかったから、三十歳の誕生日から十年間、毎日毎晩あなたへのお祈りは欠かしませんでした。にも関わらずあなたは私に結婚のチャンスどころか出会いさえ与えては下さりませんでした。もう金輪際神様を信じるのはやめにします。さようなら」

 神様は読み終わると「ふう」とため息をついて、二枚目の葉書を取り上げました。文面は一通目とそれほど変わりません。

「神様へ。私は今年受験した大学にことごとく落第しました。神様にあれほど熱心にお願いしたのはいったい何だったのでしょう。神様は、本当に神様なのですか? 人の願いも聞いてくれない神様なら、いないほうがよっぽどましです」

 毎日こんな葉書が五十通も届くのです。神様の家の中は、今では不平を述べる内容の葉書で埋もれてしまいそうです。

 するとさっきの牛飼いの妻が思い出したようにまた文句を並べ始めました。

「神様、人の話を聞いているんですか? 葉書なんぞ読んだ振りしてごまかそうったって無駄ですよ。あなたは人の夫の浮気を手伝ったのですよ。さあ、どうやって責任とって下さるのですか?」

「責任とおっしゃっても......」

 神様が言葉を返す元気もなく言いよどんでいると、奥の部屋からのしのし出てきた牛が、消沈した神様の前へ長い首をぬうっと伸ばしてきました。

「あのう、神様。どうかお願いですから、私をこの家に置いて頂けませんか?」

「さあ神様、答えてよ」

「あのう神様、どうかお願いします」

 手の中の葉書と牛飼いの妻と牛と。

 神様は自分が神様に生まれてきたことを後悔しました。

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『神様』(2007年01月19日) 矢口晃 @yaguti

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