美術室にて
中野あお
二人
部屋には二人。
絵を眺めていた。
美術室に飾られた一枚の人物画を見ていた。何も語ることなく、見慣れた絵を再び見直していた。
特別教室棟の一階、図書室の斜向かい、そこが美術室。
利用客の少ない図書室よりも使う人の少ない放課後の美術室は静かで、外からの声だけが音として存在するような場所。
声の入ってくる方向に目を向けると、昼間にあれほど僕たちを苦しめていた太陽は陰り、窓から見えるサッカー部の練習を幾分か楽にしている。
それも長くは続かず、雲から抜け出した太陽が、黄色くなって窓から差し込んでくる。僕はそれに耐えきれずにカーテンを閉めに立ち上がる。
美術室や理科室に特有の椅子がカタッと音を立てる。
教室の中から生まれたその音をきっかけにして、隣に座っていた先輩も音を生む。
「この絵をどう思う。」
短く、しかし、重い音だった。
「綺麗だと思いますよ。特に書かれている少女がまるで生きているような、生々しさを感じさせるような美しさを放っているように思います。」
カーテンを閉める音に混ぜて率直な感想を伝える。
僕の答えを聞いた先輩は考えるような表情を見せて黙っている。時折、その眉が上下し、それに合わせて目の開き方も変わる。
軽減された夕陽の残りがその顔の左半分に当たり、物憂げな雰囲気が強まる。哀愁というほどの寂しさはないが、絵になる光景。
それを少しでも長く保つためにもう片方のカーテンは閉めずに元いた席に戻ろうとする。
僕のスリッパが音を鳴らすと、先輩はその音の方向に顔を向け、そのまま視線をあげ、僕と目が合う。
「こういう少女が好みなのか。」
少しだけ笑った口元で、笑っていない声でそう言った。
「確かに好みかもしれませんね。透明感があるのがいいですね。」
「それは絵の具の問題じゃないのか。」
言葉にも笑みが含まれた。
その表情を見た僕は満足して、もう一度カーテンの方に近づき、先ほどの残りを閉めた。
白のカーテンは光を通しベージュになり、美術室の一画がほんのりと橙に染まる。
外からの音も減り、たまに吹く風がカーテンを揺らす音が中心となる。
二人はまた絵を見る。
描かれているのは十六歳くらいの少女。背もたれのある木製の椅子に座り、退屈そうにも愁色を浮かべているようにも見える表情で、夕陽の差し込む窓の外を眺めている。
この絵が何の賞を取ったわけでもない。というよりは、賞の類に応募されてすらいないらしい。
それどころか、美術部の展示会でも見せることはなく、ただ、美術室に飾られているだけの絵。
題材、構図に関しては素晴らしいものだが、技術の面は高校生の描いた絵として上手い方ではあろうが、飛び抜けて上手と言うほどではない。
そんな絵ではあるが僕にとって、いや、僕たちにとってはとても大切な絵なのだ。
カーテンと風の鳴らす音だけが十分ほど鳴り続いたあと、ようやく先輩が立ち上がった。
その動作はゆっくりとしていて音を立てないようにしているのかと思うほどだ。
少しスリッパを擦りながら歩き出した先輩は僕の横を通り過ぎ、窓際まで移動する。そして、カーテンを左側だけ開けると窓際に置いてあった椅子に座る。
先輩は窓の外を眺めるふりをして、スッと一息吸ってから話し出す。
「この絵のモデルは実は私なの。」
告白をするかのような真剣な声色。
「知ってますよ。」
それに反して既知の事実が語られることを面白く思いながらも望まれた返しをする。
「私が一年生の時のことなんだけど。」
そこで言葉を少し止めて、一度ため息をつく先輩。
「あの日はね、部室に一番乗りだったんだけど、なぜか窓の外を眺めてたの。その時好きだったラグビー部の男の子を見てたんだったかな。まあ、とりあえず、絵を描く気が起きなくて惚けてたわけ。そしたら、
笹野さんの声真似は似ていなかったが、僕もその場のいたかのように雰囲気が感じられる。いかにもあの人の言いそうなことだ。
「最初は断ったんだけどさ、話してるうちに丸め込まれちゃってさ。あのふわっとした話し方に飲まれちゃうんだよね。それで先輩に言われるままにポーズ取り直してさ、それをスケッチされたわけ。それがこの絵の題材になったという話でした。おしまい。」
話し終えて満足したのか先ほどまでと異なり、憂いのとれた表情だった。
強い風が吹きカーテンがなびき、バサッという音がなる。先輩の座っていない方のカーテンが大きく揺れた音。
カーテンが当たるわけでもないのに先輩は手を顔の前に出して守るようなしぐさをとった。
「
その可愛らしい仕草に思わず普段通りの呼び方が出てしまう。
「今日は昔みたいに『先輩』って呼ぶって約束でしょ。少なくともこの場所で、この絵を見ている間はちゃんと思い出しながら呼んで。そうじゃないと何のためにここに来たかわからないじゃない。」
あの頃みたいな注意の仕方をされる。
僕は誤魔化すように絵の方に近づいていく。
美術室の入り口から一番遠い場所、部屋の隅に忘れられたように置いてあるが、埃はかぶっていない。誰かが今でも管理してくれているのだろう。もしかしたら、今の美術の先生が時々掃除してくれているのかもしれない。
近くで見ればその絵はとても細かいところまで気を遣って描かれているのがわかる。先輩の後ろ、窓の外で練習するサッカー部の様子までぼんやりと描かれている。
先ほどの話との食い違いはスケッチには描かなかった部分だからだろう。
質素な額縁に入れられた絵を下から抱えて持ち上げる。持ちづらくはあるがは重さは大したことはない。そして、そのまま、持ってきていた大きめの紙袋に入れる。
窓の外の夕陽も消え始め、高校生たちも片づけを始めているので、そろそろ用事を済ませにかかろうとと思ったからだ。
「笹野先輩が卒業する時にその絵を持って帰らないのか聞いたの。」
声が真後ろから聞こえて、少し振り返ると、いつの間にか先輩が後ろに立っていた。音を鳴らさないように歩いたのだろう。
目が合う。
そして、先輩は僕を見つめたまま続ける。
「そしたらさ、『持って帰っても飾るところないから、先生に頼んで置いておいてもらえるようになったんだ。年齢がもう一回りしたら取りに来ようかなとは思ってるよ。でも、私が取りに来るまでに、もし、欲しくなったらあげるよ。』なんて言われてさ。結局、次の年に私もそのまま置いて帰っちゃったんだけどね。」
言葉が止まり、目と目が離れる。
先輩の頭の重さが僕の体にかかる。
僕の肩に先輩が先輩の手がかけられ、服が濡れていくのを感じる。
見なくてもわかる。きっと泣いているんだ。
「卒業して十一年たってからようやく持って帰るなんて変だよね。違うか。…先輩が卒業してから十二年かな。結局、先輩は…取りに来れなかったけど。」
途切れ途切れになりながらも必死に言葉を絞り出している。いや、我慢していたものを吐き出しているだけかもしれない。どちらでもかまわない。
風も止み、外からの声も絶えた教室の中に、涙をこらえようとし、鼻をすする音だけが鳴る。
「先輩。ううん、智子。よくここまで我慢したね。疲れたでしょ。ここでなら泣いていいから。」
智子の頭に手を置く。撫でるわけではないけれども、触れるだけでしかいないけれど、安心を与えられるようにしっかりと、そして優しく添える。
それがきっかけになったのか、嗚咽だったものが慟哭へと変わる。
その音だけが僕たちを包み込む。
思い出と現実が混ざり、その間で僕たちは悲しみを感じ、片方は泣き、片方が支える。
『智子ちゃんへ、あの絵をまだ取に行ってないなら私の代わりに取りに行ってね。』
笹野さんが遺したメッセージの一つだ。
彼女の死因は知らされていないが、残り少なくなった時間の中で尊敬する先輩が自身宛てて書いたメッセージを、智子が無視できるはずはなかった。
だから、笹野さんの葬儀が終わったあと、その足で絵を受け取りに来たのだ。
僕たちのかつて所属した美術部は去年、部員不足で廃部となり、放課後に使用されることの少なくなった美術室。そこにまだ絵は置かれていると知った時の智子はとても喜んでいた。
その喜びだけで耐えられるだけの辛さであるはずはなく、通夜でも一切泣かず、ここまでくる間も悲しみを堪えていたが限界だったようだ。
美術室に入る前に、昔のように呼び合って話そうと提案してきたのも、きっと泣かずに先輩の絵を見るためだったのだろう。
ひとしきり泣いて落ち着いたのか智子は僕の肩から手を下し、顔を上げる。目の周りは少し赤くなって化粧も落ちていたが、先ほどまでの辛さを抱えた表情とは異なっていた。
そして、先ほどいた窓際の席に戻り、絵と同じようなポーズで座り、暗くなった窓の外を見て笑う。
「この絵、どこに飾るか決めないとね。」
描かれた頃の面影を残しつつも、美しく成長した先輩は立ち上がると僕の手をとり、優しく微笑んだ。
静かな美術室で僕たち二人だけが確かにいた。
その時間は惜しかったが、いつまでもこうしているわけにもいかない。
「帰ろうか。遅くなると学校の人にも迷惑だし。」
「そうだね。帰りに夕食の材料だけ買って帰らないと。私、今日は美味しいもの作れる気がするから。」
「期待しておくよ。」
先輩と後輩としてではなく、いつも通りの会話。
これが僕らにはちょうどいい。
「そういえば、直君へのメッセージはなんだったの。」
窓を閉め、椅子を整え終えた僕に、智子が思い出したかのように尋ねる。
「内緒。笹野さんと僕との秘密。」
言えるはずがない。
智子は少しふてくされたが、納得したのかすぐに元に戻った。
大丈夫ですよ。笹野さんに言われなくてもそうしますよ。だから、安心してください。
そう心の中で伝えながら美術室の扉を閉めた。
美術室には完全な無音が訪れた。
『
美術室にて 中野あお @aoinakayosa
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