とりかへばや物語

水谷 悠歩

第一章

 いつの頃であったか、権大納言ごんだいなごん大将だいしょうを兼任している人がいた。容貌や学識、心構えをはじめとして、人柄や世間の評判も非常に優れていたので、他人から見れば何一つ不満がない身の上のはずだったが、その心中は人知れぬ悩みで尽きることがなかった。

 北の方は二人いた。一人は源宰相げんさいしょうの娘で、あまり深い愛情を抱いてはいなかったが、最初の妻だったのでおろそかにしていなかったところ、やがて世にまたとない玉のような男子おのこが授かったため、ますます離れ難い伴侶となった。もう一人は藤中納言とうちゅうなごんの娘で、この人にもとても麗しい女子おんなごが生まれた。権大納言は二人の子どもたちを大変かわいがり、大切に育てた。

 権大納言は北の方たちの器量がそれほど優れていないことを不本意で残念に思っていたが、子どもたちが愛らしく育っていくにつれて離れられなくなり、すっかり腰を落ち着けた。

 子どもたちの容貌はどちらも優れ、また取り間違えてしまうくらいにそっくりだった。同じ場所にいたら不都合もあっただろうが、それぞれ別の屋敷で育てられたので支障はなかった。二人は似ているといっても違いがあり、若君は上品で匂うように気高く、優美さも感じられたが、一方の姫君は華やかで元気に満ちあふれ、こぼれるばかりの愛嬌あいきょうはいくら見ても見飽きることがなく、他に類がないほどだった。


 若君は成長するにつれて、あきれるほど人見知りするようになった。あまり見慣れない女房に顔を見せないばかりか、父の権大納言に対してさえもよそよそしく恥ずかしがる有様ありさまだった。権大納言は若君に漢籍かんせきなどの教養を教えようとしたが、本人は学ぶ気がまったくなく、しかも人に会うのをひどく嫌がり、帳台ちょうだいの内にもって絵描きやひな遊び、貝覆かいおおいばかりしていた。権大納言は何度も若君を叱ったが、その度に若君は「情けなくきまりが悪い」と涙を零した。普段はもっぱら母親や乳母めのと、ごく幼い女童めのわらわにしか顔を見せようとせず、それ以外の女房などが来ると恥ずかしさのあまり几帳きちょうの裏に姿を隠すので、権大納言は困ったことだと嘆いていた。

 一方の姫君はとてもいたずら好きで、ほとんど家の中におらず、いつも外で若い男やわらわと一緒にまり小弓こゆみなどで遊んでいた。客間に人が来て笛を吹いたり漢詩を作ったり和歌を詠んだりしていると、その場に走り出て来て、誰が教えたわけでもないのにことや笛を巧みに演奏し、漢詩をぎんじ、歌を詠んだ。感心した客人の殿上人てんじょうびと上達部かんだちめたちは姫君を褒め、教えながら、「こちらの北の方の子どもは姫君と聞いていたが、若君の間違いであったか」と互いにうなずき合った。権大納言がいるときは取り押さえてでも隠すのだが、来客の際、身支度を調えている間にさっと走り出て、人見知りもせずに遊ぶので止めることもできない。そのため、人々はすっかり若君だと思い込み、面白がってかわいがったことから、やがて権大納言は諦めて訂正もせずに放置したが、心中はただ情けなく、ひたすら「とりかへばや(若君と姫君を取り換えたい)」と悩んでいた。


 二人の子どもたちが幼いうちは、権大納言も「いずれ自然に直るだろう」と自分に言い聞かせていたが、十歳を過ぎても変わらず、どうしたものかと嘆くより他になかった。

「そうはいっても年月が過ぎれば、きっと思い知るに違いない」

 辛抱強く待ったが少しも直りそうにないため、これは世に例のないことだと絶望感を抱くようになった。

 気軽に外歩きもできない立派な身分となった権大納言は広大な屋敷を造り、東西の対屋たいのやに二人の北の方を住まわせ、自身は玉台ぎょくだいのように美しく磨き立てた中央の寝殿しんでんで生活した。

 自分と一緒に並んで、心ゆくまで満足できる北の方がいないのは残念だったが、北の方たちがうらやみ合うことがないよう、十五日ずつそれぞれの屋敷に通った。また、二人の子どもたちは人々が呼ぶままに若君を「姫君」、姫君を「若君」と呼ぶようになった。


 あるのどやかな春の日、物忌ものいみで手持ち無沙汰な権大納言は姫君(兄)の住まう東の対屋たいのやに足を運ぶと、例によって姫君は帳台ちょうだいの内でひっそりと手遊てすさびにそうを弾き、女房たちはここかしこに集まって双六すごろくなどをのんびりと打っていた。

 権大納言は几帳きちょうを押しやって中に入ると床に腰を下ろした。

「どうしてお前はこのように閉じもってばかりいるのだ。今は盛りの桜の美しさをでたらどうだ。女房たちも気がふさぎ、つまらなく思っているのではないか」

 姫君の髪は身の丈より七、八寸ほど長く、花薄はなすすきが穂を出した秋の風情のようであり、すその方が柔らかになびく様は、物語で「扇を広げたようだ」と大げさに書いてあるほどではなく、慕わし深い麗しさにあふれている。いにしえのかぐや姫もこれほど親しみ深く華麗ではなかったであろうと、じっと見ているうちに権大納言の目は涙で曇った。

 権大納言は近寄ると、目に大粒の涙を浮かべながら姫君の髪をかき上げた。

「何故にこのように美しくなってしまったのだ」

 姫君はとても恥ずかしげに、思い詰めた様子で汗を浮かべた。上気した顔は咲き出した紅梅こうばいのように端麗で、今にも涙が零れ落ちそうな目元がいかにも悲しげに見える。権大納言は涙を流しながらすべてを忘れ、不憫ふびんな姫君をただひたすら見つめた。

 さすがに恥ずかしいのか化粧はしないが、念入りに化粧をしたような顔色で、また汗でもつれた額髪ひたいがみが指でひねったように垂れかかり、実に可憐かれんで愛らしい。権大納言は姫君の顔を眺めながら、女が白粉おしろいを塗り立てた顔は興醒きょうざめするので、このように素顔でいるべきだと思った。

 姫君は今年で十二歳になるが発育に遅れたところはなく、すらりとした優美な容姿は比類がなかった。着馴きなれた桜色の衣を六重襲むえがさねにして、落ち着いた色の葡萄染えびぞめのうちきを着こなし、人柄のよさに引き立てられて袖口や裾のつままでが見事だった。

「何とも頭が痛い。尼にでもして仏道修行させるしかないのだろうか」

 そう考えるにつけても口惜しく、涙にかき暮れた。


  いかなりし昔の罪と思ふにもこの世にいとどものぞ悲しき

  (前世の罪がどれほどひどかったのかと思うにつけ、この世が物悲しくてならない)


 権大納言が西の対屋たいのやに渡ると、吹き澄ました横笛の音が聞こえてきた。空に響き昇る見事な音色に、これは若君(妹)が吹いているに相違ないと思うと心が乱れた。

 さりげなく部屋の中をのぞくと、若君はかしこまって笛を傍らに置いた。

 桜や山吹やまぶきなどを重ねたうちきに、萌黄もえぎ狩衣かりぎぬを羽織り、葡萄染えびぞめの指貫さしぬきをはいている。顔立ちはふっくらとして色合いも美しく、目元も上品で、どことなく華やかさに満ち、指貫の裾まで零れ落ちるような愛嬌あいきょうである。きつけられる容姿は一目見ただけで落ちる涙も悲しさも忘れ、自然に微笑ほほえみが湧き上がってくるほどだった。

 権大納言は胸がつぶれる思いで若君を見つめた。

「ああ、何ということだ。この子も本来の姿で育てられたら、どれほど素晴らしく愛らしい女になるだろうか」

 若君の髪は長くはないものの、裾は扇を広げたようで、背丈にやや足りないくらいの長さで垂れかかっている様や頭の形は見ているだけで笑みが禁じ得ない。しかし、身分の高い子どもが大勢いる中で一緒に双六すごろくを打ち、にぎやかに笑い騒ぎ、まり小弓こゆみで遊んでいるのは何とも異様な光景で、権大納言の心中は暗く落ち込んでいた。

「本当に困り果てたことだ。このままでは間違いなくよくないが、今となってはなすすべもなく、女として扱うのは到底無理な話だ。やはりこの子も法師にして世間より隔離し、後世ごせの勤めをさせるのがよさそうだ。だが、本人たちにそのつもりはなく、しかもこれだけ見目のよい容姿で生まれた宿世すくせなので別の道があるかもしれない。心から望んでいないうちに出家させ、中途半端に終わってしまうのは具合が悪い。それにしても世に例のない不幸な因縁いんねんであることよ」

 権大納言は繰り返し嘆いた。

 普通、高貴な身分の子どもはだらしがなくなるものだが、この若君はしっかりとしていて、今から頼もしい様子である。学問にも優れ、朝廷の後見人にふさわしく成長している。ことや笛の音も天地を響かせるほどに見事で、読経どきょうや和歌・漢詩の朗詠などの声も、「おのも朽ち果てて、故郷に帰るのを忘れてしまうようだ」という故事の通りである。このように何事につけても申し分のない若君だったが、権大納言が思い悩むのは不憫ふびんと言うしかなかった。

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