ロシアの地にて 第十八話
日が陰りはじめ、まだ氷の残る湖面から吹き付ける風が、すこし寒く感じられるようになってきた。
どちらともなく、そろそろ戻ろうかという話をしだしたとき。
圭吾がバイカル湖の湖面の方をじっと凝視していることに、ヴォルフは気付く。
「どうした?」
圭吾はそちらに視線を向けたまま、少し自信なさそうな声で。
「いや。何か、今。湖面を歩いてた人が急に消えた気がして…」
「お前、この位置から、そんなものが見えるのか!?」
ヴォルフの驚きを他所に、圭吾は丘を駆け降りていた。
圭吾が走っていく方に、ヴォルフもついて行く。
二人が丘を降り、背丈の低い草が小さな花をつけている草原を抜け、バイカル湖の西岸にたどり着く。
「どこだ?」
ヴォルフの問いに、圭吾は光を遮るために額に手を置いて目を凝らす。
「あ、あった! あの辺や。氷が少し捲れてるやろ。あそこで人影が急に見えなくなった。落ちたんちゃうかな」
「この時期、特に岸に近い部分は氷が溶けかけているところあるからな。気を付けろ」
なるべく氷がしっかり固まっていそうなところを選んで二人は圭吾が指示した方へ向かった。
そこは湖の岸から20メートルほど離れた場所で、確かに圭吾が言ったとおりに氷がめくれ波立つ水面が見えている。
圭吾は氷に膝をつくと、氷の捲れた穴の中に目を凝らす。
「………本当に、誰かいるのか? お前の見間違いってことも……」
ヴォルフも穴の反対側から覗き込む。
じっと水面に目を凝らしていた圭吾だったが、
「いた!」
そう叫んだと思うと、次の瞬間には穴の中に飛び込んでいた。
「お、おいっ!」
ちゃぽんという水音を立てて、圭吾の姿が氷の下へと消える。
バイカル湖は世界最高の透明度を誇る湖ということもあり、水中でも信じられないくら遠くまで視界が開けた。
しかし、表面が凍結している湖の水温は0度近くまで下がっている。全身が針で刺されたような痛みを感じながら、圭吾は真っすぐに水中を潜っていた。
下の方に揺らめくものが見えた。
水をかき分け泳いでいくと、その揺らめくものを掴んだ。一度掴んだ時は服しかつかめなったが、それを引き寄せもう一方の手で掴むとはっきりと人間の身体の感触があった。圭吾はそれを脇に抱えると、もう片方の手で水を掻いて水面を目指す。
一瞬、入ってきた穴がどこなのか分からなくなりそうになって焦ったが、穴から手のひらが突き入れられてひらひら動いているを見て、そちらに向かう。
ヴォルフの手の導きに、圭吾は最短距離で穴まで戻ってくると顔を出した。
「……っばぁ……」
右腕で抱えていたものを、渾身の力を込めて穴から出し氷の上に乗せようとする。気絶して水を吸った衣服を着た人間の身体は予想以上に重たく、片手では氷の穴から出すので精一杯だったが、人間の姿に戻っていたヴォルフが受け取り氷の上にあげてくれた。
「……はぁ……」
肩でぐったりと呼吸をしてから、圭吾は氷に手をついて穴から上がる。
当たり前のことだが、全身ずぶぬれだ。
「何やってんだ! お前まで死ぬ気かっ! いきなり飛び込みやがって」
ヴォルフが圭吾に怒鳴る。
圭吾は疲労感に任せるままに氷の上に仰向けに寝転がった。
「……はは、すまん。と、こんなことしてる場合ちゃうやん」
圭吾はがばっと起き上がると、湖の中からあげた人間を氷の上に仰向けにした。
それは女性だった。
呼気と心音を手のひらで確認するが、どちらも確認できなかった。
圭吾は両手を組んで女性の胸の上に置くと腕を伸ばしてリズミカルに押す。何度か押した後に、今度は女性の顎をあげさせて気道を確保したあと、鼻をつまんで人工
呼吸をした。
「今、やり方、見てたやろ。心臓マッサージ、お前頼むわ」
「お、おう」
圭吾に言われ、ヴォルフも心臓マッサージを手伝う。
しばらく圭吾が人工呼吸、ヴォルフが心臓マッサージで蘇生措置を続けると。何度目かに、女性の喉が、ごぽっと鳴った。
圭吾は口を外して、女性の顔を横に向かせてやる。
女性は水をごぼっと吐いたあと、何度か咳き込んだ。
とりあえず、蘇生したらしいことに圭吾とヴォルフは顔を見合わせて、安堵の笑みを交わした。
「次は、一刻も早く体を温めないとな。圭吾、お前もそのままにしてると凍死するぞ」
ヴォルフは自分の上着を脱いで圭吾の肩にかけてやると、女性を腕に抱いて岸へと向かう。
「……あ、ああ」
圭吾は肩にかけられたヴォルフの上着の袷をぎゅっと両手で握るようにして体を抱いた。
水中とは違う寒さが全身を襲ってくる。風が吹くたびに、冷やされた衣服が体にはりついて体温を奪っていく。
岸に着くと、ヴォルフは狼の姿になると、圭吾に女性を背中に乗せるように指示する。
意識をなくした女性を背中に乗せて、ヴォルフはくんくんと空気中の匂いを嗅いだ。
「この女の家を探そう。体を温めるものくらいあるだろう」
ヴォルフの嗅覚を頼りに三人は歩いて行く。たどり着いたのは、人里離れた一軒の民家だった。少し離れた場所には他の家々も見えるので、村のはじっこにあるのだろう。
その家は木材の豊富なこの地方伝統の、木造建築で建てられた家だった。木を組み合わせたログハウス調の建物で、小さな平屋建てだった。
ドアや窓枠などほとんどの部分が木材でできたその家は、なんだか温かみを感じさせる。
圭吾がドアを手で引くと、施錠されておらず簡単に開いた。
室内はドアを入ってすぐの部屋にダイニングテーブルと、壁際にペーチカはじめキッチンスペース、向かいの壁際には長椅子が置いてあった。奥のドアを開けると寝室となっている。
中に入るとすぐに圭吾は薪を手に取ってペーチカに火を入れる。あの鳥足の家で老婆に仕込まれたので手際よく薪を入れて火をつけた。
女性を温めなければという気持ちもあったが、何より自分が凍えそうなほど寒かったからだ。
とはいえ、ペーチカは温まるまでに時間がかかる。濡れて冷めきった服を脱ぐと
ペーチカの前に並べて、寝室から勝手にもってきた毛布にくるまった。
ヴォルフは長椅子に女性を寝かせる。
「着替えさせなければな」
ヴォルフの言葉に、圭吾は寝室にチェストがあったことを思い出して毛布を肩からかけたままモソモソと移動する。そして、チェストの中を弄ってみた。
中には女性ものの服と思われるものとは別に、小さな子供用の服も綺麗に畳んでしまわれていた。
(……子ども、おるんか……?)
しかし、この狭い家の中、子どもの姿はまったく見えない。服の大きさからするに、まだ学齢期に達するかどうかという程度の子どものように思えたのだが。
そのとき、ダイニングからヴォルフの声がする。
「圭吾、まだか?」
「あ、はいはい。ちょっと待ってて。今、みつけたから」
とりあえず女物の服を手に取ると、ダイニングに戻った。
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