何をしてでも手に入れる、と彼は誓った
三澤いづみ
第一話「血の味」
1、
薄汚れた街の片隅で、ジェスは疲れて座り込んでしまった。道行く人々は誰も彼を気に掛けようとはしない。目も向けないし、たとえ視界に入っても足を止めるはずがない。薄汚れた街の、薄汚れた冒険者。ボロ布を身にまとった風にも見える、野良犬よりも汚らしい底辺の最下層。
通りを挟んだ向こう側と違って、こっち側にはゴミが散らかり、糞尿の匂いが漂い、ジェスと似通った格好の子供達がそこらで物乞いを繰り返している。銅貨一枚のお恵みを。
すげなく断られたガキどもの低い声が聞こえる。愚痴るような、明るい声。それでもおれたち、あっちで売られてる奴隷よりいくぶんマシさ。
野良犬の姿すら日を置かずに消え失せる路地裏の手前で、ジェスは忙しなく動き回る貧しい子供たちが、自分を見ていることに気づいていた。やらねえよ、とジェスは自分の身体ごと、腕でなけなしの剣一本を抱え込む。鞘すら朽ち果てる寸前のボロ剣でも、ジェスにとっては力の象徴。このクソみたいな世界で生きていくための最後の手段だ。
世間様からは鼠に等しき下級冒険者も、ここらを住処とした子供相手にはめっぽう強い。なにしろ彼らには庇護者もいない。程度の低さなら似たようなもんだが、殴り合いならジェスに分がある。無理矢理ボロ剣を奪ったところであのガキどもにはそれでも宝の持ち腐れ、使えないし、売ったところで屑鉄以下で叩かれる。だから問題は無い。財布の中身を見せてやろうか。もしかしたらお前らの方が持ってるかもよ。
ジェスは子供の目が離れたのを知った。施してもくれない、奪えるものもない、盗んだところで手に入るのは恨みだけ。そんな男にかける時間はないのだ。
ああ、旦那様。どうぞこの哀れでちっぽけな我らに、お恵みを。おいらの妹が二日前から何も食べてないんだ。頼むよ、旦那。
耳障りな声だけは、いくらでも聞こえてくる。それでも耳をふさげないのは、誰かが近寄ってきたら身を守らなければならないからだ。それがたとえ、向こうでわざと転んで同情を誘っている子供であっても。
疲れた。だから、立ち上がって歩くのは、少し後にしたい。そんなジェスは、ただ足音を聞いた。誰も彼もが急ぎ足で、落ちた小銭を掠め取ろうと歩き回るこの通り。泥棒通りより平和で、奴隷市場より希望に満ちた、クソったれな街の外周。
ゴミゴミとして汚らしい同類どもの餌場の手前、いつもの安宿までもう少しの場所。
痛みに顔をしかめたジェスは、手のひらを舐めた。鉄の味がした。先輩冒険者に言われたことがある。生きているから血を流す。血の味は、命の味だ。それを知ってから、命と鉄と血の味は全部同じなのだと、ジェスは考えた。吐き気のするような味、美味しいとは決して思えない己の身体を巡る赤い液体。
子供の声が突然消えた。代わりに、ジェスは聞き慣れない音を耳にした。それは馬の足音だった。馬車の車輪が軋む音だった。ちょうど自分の近くで突然停車した馬車から逃れるように、ジェスは目を伏せた。
足音が近づいて来て、ジェスは俯いていた顔を上げざるを得なかった。
そこには、光があった。
より正確には光を受けてきらきらと輝く髪の毛と、やさしげで、かなしげな眼差しがあった。その視線はまっすぐにジェスを見据えていて、ジェスはその見慣れない姿、見慣れない顔に息を呑んだ。
しかし硬直したのは一瞬だ。
ジェスは、最下層の底辺らしく、相応に振る舞ってみせた。壁に背をもたれて座り込んだままでは非礼にあたる。
慌てながらも片膝付けば、布で穴を塞いだガラクタもどきの鎧が噛み合わない音を立てる。その耳障りな音に歯がみしつつも、なんとか体裁を整えて、いつか見た上級冒険者の仕草を真似る。
「すみません。お貴族様にはご不快な姿をお見せしまして、俺……私はすぐにでも視界から消え失せますんで、どうぞご容赦を」
通りを挟んだ向こう側。そこは平民の住む世界。さらにその向こう側には、お貴族様の住む世界が広がっている。貧民街をゴミ溜めと思っているであろう貴族が、あえてこんな道を通ることはない。しかし、急いでいれば、馬車が近道をすることもあるだろう。こないだそれで浮浪児が一匹、見事に撥ね飛ばされて死んでいた。平民にとって貴族は上の者。では市民権すら怪しい貧民以下の最下層、ついでに最下級の冒険者にとって、貴族なんてものは雲の上の上、逆らえば即座に処罰されかねない絶対者である。
なにしろあちらは市民様。こちらは街をうろつく不審者上がり。一応、冒険者ギルドが多少の権利を謳ってはくれるだろうが、それはあくまで上位の冒険者のための権利獲得。最下級の底辺なんぞ、街に巣くった害虫と代わりはしない。貴族の機嫌を損ねれば、良くて街から退去命令。悪ければ牢屋行きだか死罪だか。
ジェスの言葉は、かつて見た先輩たちをなぞったものだった。貴族に逆らってはいけない。貴族の機嫌を損ねてはいけない。もしまかり間違って貴族の視界に入ってしまったそのときは、光を浴びた影のようにそそくさと逃げ出すのが下級冒険者のルール。
もちろん、似たり寄ったりな程度の貧民にも適用される。
クソガキどもが黙ったのも当然だ。大人の姿も消えていた。少し前まで見えていた同類どもは、蜘蛛の子を散らす用に逃げ去った。壁の向こうか、曲がり角の先か、あるいは廃材の裏にか、誰も彼もがその馬車の姿を認めた瞬間、決して見つかるまいと一目散に隠れたのだ。
だから残ったのは、間抜けが一人。息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待つものたちから、生け贄のようにその場に取り残されたジェスだけだった。
目の前にいるのは、光を纏った、綺麗な、女性だった。ジェスは初めて見るような存在だった。少なくとも彼の人生において、こうした存在と相まみえた機会はなかった。一度として、なかった。
いつだったか知人に誘われて引き合わされた一晩いくらの娼婦とはあまりに違う、そこらに転がっている痩せ細ったメスガキでもなく、少しばかり可愛いと言われて調子に乗ったどこぞの飯屋の看板娘ともかけ離れて、綺麗に着飾った、肌が白く、手が細く、優しげな微笑みを浮かべた、まるで天使のような――ジェスは天使なんてものを見たこともないし、聞いたのも先輩がお気に入りの娼婦を褒め称えるのに使った表現だったが――たおやかで、儚げで、光に満ちた美少女を、こんなにも間近で、こんなにも真正面から目にしたのは、初めてのことだった。
本物の貴族だった。本物の美少女だった。
そこには真実があった。それは何一つ穢れを持たず、触れがたく、冒しがたい、光だった。彼女の瞳は青く澄んでいた。まるで汚泥を見たこともないかのような煌めきを湛えていて、その視線はジェスに降り注がれていた。
貴族の前を遮ってはいけない。彼らが歩いていたら、いそいで道を空けるのが当然だ。道の端に寄って通り過ぎるのを待つしかない。
おきまりの文句ひとつで逃げ去ろうとしたジェスだったが、目を逸らせず、地面に膝を突いたままの足も動かなかった。目が奪われて、その場を離れようとする気持ちは、どうしても湧いてこなかった。貴族の不興を買えば最悪死ぬ。それが分かっていても、ジェスは呆けたように、囚われたように、その場に留まっていた。
静かな佇まいで見下ろす乙女と、片膝を付き、そのまま固まって見上げ続ける間抜け面。
彼女の瞳にはジェスの汚らしい、ボロ布じみたみじめな格好と有り様が、ありありと映っていた。
その視線が、彼を捉えて離さない。ジェスは、その視線に乗せられた何かによって、急に恥ずかしさをおぼえた。自分のみっともない姿が、上手い言葉が思いつかない間抜けな頭が、悔しいくらいだった。臭くないだろうか。いや、大丈夫。少なくともこの通りに充満した糞尿と生ゴミの臭いよりは、まだ自分の汗と血の匂いの方がマシだ。
口にした言葉は間違っていただろうか。言葉使いは。声のトーンは。まだ何も言ってくれない彼女の前にあって、その空白の時間は、ジェスを不安にさせ続けた。汚い喋り、耳障りな声を思われなかっただろうか。こうなる前に、他の連中のように虫のように逃げ隠れた方が、まだ嫌悪の対象にならなかったのではなかろうか。ありとあらゆる可能性がジェスの脳裏を過ぎっては、すぐさまぐずぐずと溶け崩れる。天国のような、地獄のような、胸が苦しくなる瞬間だった。
わずか何十秒かの沈黙が、痛いほどに静寂と彼我の違いを主張して、ありありとその距離の遠さを見せつける。生きている世界が違うのだと。彼女の眼前に、お前の居場所など存在しないのだと。
馬車から降りてきて、そっと近づいて来て、困ったようにジェスを見つめている少女の前から、自分では去ることが出来なかった。
光を纏った天使は、まるで鈴を転がすような美しい声で、ようやく、ジェスに言った。片膝付いて固まっているジェスの、胸を抑えるように置いてあった手をか細い腕で取り上げると、血の滲んだ手のひらを自分の胸元に引き寄せて悲しげに目を伏せた。
ジェスは逆らえず、振り払えず、されるがままに手を取られていた。
「大丈夫? その傷は、ひどく痛そうに見えるけれど……」
「それで?」
と、尋ねたのはジェスの同業者、カタンだった。カタンはジェスと同じような境遇、同じような実力、同じような装備品ということで、最近よく話すようになった冒険者仲間である。
酒場で水より安い酒をちびちびと舐めながら、夕食代わりのひと皿を二人で分け合う。周囲にちらりと目をやれば、どいつもこいつもしけた顔してくたびれている。苛立った顔、陰気な顔、たまには陽気な男もいて、そいつは運良くどこかで儲け話にありつけたのだろう。回りの同類たちに囲まれて、自慢げに酒を一杯おごってみせる。
ジェスは目を瞬かせた。カタンが訝しんだから、つい数時間前の出来事を語っただけだ。それ以上のことはない。
「それで、って?」
「ジェス、ジェス!
「うるさいな。顔のことはほっといてよ」
「ったく、名前を聞くとか、連絡先を聞くとか、愛を囁くとか……って、相手はお貴族様だったな。馬車に乗ったお嬢様じゃあ、その先はまず無理だわな。短い恋だったな、ジェス」
「……恋、か」
「恋だろ。何をしててもつまんなそうだったお前が、そのお嬢様について語るときだけ熱く語ってたぞ。なんだよ天使って。きらきらの金髪で、顔が良くて、すらっとして、守ってやりたい系のお嬢様ってのは分かったけど、結局どこの誰なんだかサッパリだな。それも聞かなかったのか? いや、そもそもせっかく心配して声をかけてくれたんだろ。なんて答えたんだ」
「これくらい大丈夫です、って」
「で、向こうはなんて?」
「ご自愛なさってね、と心配そうな顔で言って、それで終わりさ」
ジェスの言葉に頷くと、そのまま彼女は馬車に乗って、去っていった。遠ざかるまで、お付きの御者は侍女がジェスのことをひどく警戒した目で見ていた。覚えているのはそれくらいだ。光に包まれた天使の顔と、向けられた優しい微笑みと、着ている服の煌びやかさ。ついでに馬車の豪勢さ。
己の手に目を落とす。彼女が巻いていったハンカチに、手に付いた傷からじわじわと滲んだ血が染みついてしまっている。
元の布は真っ白で、ここまで染みこんでしまった血の赤は、どれほど懸命に染み抜きしたところで手遅れだ。洗って返すことも出来はしない。ジェスは手を握り込んだ。手のひらに痛みが走り、血の滲みはますます増えた。そしてハンカチに己の血が、また深く染みこんでいったのを感じた。
「ジェス。お前はバカだ。前からそうだと思ってたけど、今日確信した。お前、本当にバカだろ。もう少しこう、なんか、やりようがあるだろ! ……あー、いや、すまん。相手は貴族の令嬢だもんな。変な夢を見るよりよっぽどマシだった。忘れろ」
「でも」
「忘れるんだ、ジェス。どうせ、俺たちとは住む世界が違う相手だったんだ。変に期待して馬鹿な真似をしでかすよりは、良い夢を見たとでも思っておけ……おいおい、なんて顔してんだよ。それともなんだ、そんな高貴なお嬢様とお前がどうにかなるなんて、そんなことはありえないだろ? 忘れるなよ、俺らは所詮は最下層。下級冒険者さ。……最上位の冒険者だとか、英雄って呼ばれるくらいまで上り詰めたら……貴族との縁談なんて話もたまには聞くけどな……」
カタンはため息を深々と吐いて、ジェスの目を覗き込んだ。
「分かってるだろ、ジェス。俺とか、お前みたいな、低ランクでうだうだやってる冒険者は、どうせ元から才能なんてないんだ。どんなに頑張ったってたかが知れてる。そんなこと思い知ってるじゃねーか。だからさ、変な夢を見るんじゃねえぞ。分を弁えなかった冒険者がどうなったか、俺たちはよく知ってる」
「先輩たちのことは、言うなよ……」
「だったら言わせるなよ。高嶺の花は、眺めるだけでいいんだ。手に入れようだなんて思うな。勘違いするな。俺たちに出来ることには、限界があるんだ」
いつだって、カタンの言葉は正しかった。
「なあジェス。良い娼館があるんだ。最近、人づてに紹介してもらったところなんだが……お店の子はみんなまだ若いし、俺たちを冒険者だからって見下したりしないし、あと、結構安いからさ」
ジェスは首を横に振った。
「新しい武器を買うよ。そのためにお金は貯めておきたい」
「ボロ剣を買い換えたいのは分かるけどな。お前、ギルドで童貞って呼ばれてんだぜ」
ジェスは睨んだ。カタンは頭を下げた。
「悪かったって。何度も誘ってるのに頑なに行かないから、あいつはガキみたいに純情なのか、それとも尻の心配した方が良いのかって聞かれて、俺なりに正しい知識を教えてやったら……お前が童貞ってのがバレちまってさ。いや、でも安心した。今回の一見で、本当にホモじゃねえってのが分かったしな」
「カタンは女好きが過ぎると思うよ。装備品にもっと金を掛けたら、上に行けるくせに」
「……俺らみたいな商売じゃ、いつ死ぬか分からないんだ。死ぬ前に、できるだけたっぷり女の身体を味わっておきたい。そう思うのは変か? 今日であったお嬢様の身体にむしゃぶりつきたいって、お前も思ったんだろ?」
ジェスは黙って、目を瞑った。カタンは嘆息した。
「……悪い。忘れろって言っといて、俺から蒸し返しちまった。でもよジェス、どうして娼館に足を運ぶのが嫌なんだ? ホモじゃないなら、女を抱いてみたいって思ったこともあっただろ? それとも何か、ジェスは、市民みたいな運命的な恋愛に憧れてるクチか? 商売女は汚らわしいとか思ってるのか?」
カタンの声はきつかったが、それでもジェスは無言のままだった。
肩をすくめたカタンは、言い過ぎた、と謝った。ジェスはそこでようやく口を開いた。
「そんなことは思ってない。ただ、誰彼構わず、そういう行為に及ぶ気になれないんだ」
「
「……純情のつもりは、ないんだけど」
「まさかとは思うが、奴隷が欲しいってわけじゃないよな」
カタンは確認するように、ジェスの表情を窺った。ジェスは口ごもった。
「やめとけやめとけ。どう考えたって割りに合わねえよ。俺みたいに一時の夢を買うくらいで済ませておいた方がいいぜ。そりゃ一度買っちまえば、奴隷女は逆らえねえさ。主様には絶対服従。どんだけ性欲をぶつけたって構わない。そこまで堕ちた女だったら、どんな扱いしても文句を言うヤツはいねえ。けどさ、そいつは家を買うみたいなもんで、安宿暮らしの俺らにとっちゃ分不相応ってもんさ」
「……誰も、買うなんて言ってない」
「そんな顔しといて何言ってやがる。そりゃ、俺だって自分の女……自分だけの女を手に入れたいって思ったことはあるさ。つーか、女の子のいる店の受付ババアに金渡すたび、毎回思ってる。何度も何度も通い詰めるくらいなら、いっそそれなりの奴隷女を買っちまったた方が、長い目で見ればお得だってことはさ。でもよジェス、実際、手に入れてどうするんだ? 金持ちの道楽だったら好きにすりゃいいさ。だが、俺たちは所詮は底辺冒険者。忘れるなよ、金も力も何にもねえ俺らじゃあ、奴隷を持つことすら高望みなんだ」
カタンはつまらなそうに舌打ちした。
奴隷は決して安くはない。罪人に課せられた罰であったり多額の借金の結果などで、命を奪われない代わりに大半の自由と権利を取り上げられたのがこの国の奴隷である。購入者には服従することが義務づけられており、それだけに高価で取引されるのが常だった。
女が欲しければ一晩だけ買えばいいし、労働力が欲しいならひとを雇った方が安上がりだ。
奴隷を買うのは大半が貴族か商人、それも金と暇を持て余した大金持ちが大半だった。あるいは高位の冒険者が肉壁を求めて体格の良い成人男性を買ったり、大金を手にして若い女奴隷を買い求める、という話はまれに聞く。
何にせよ、日々の暮らしに汲汲とする底辺冒険者にとっては、雲を掴む話であることは間違いない。
「ボロ剣の買い換えにすら苦労してるお前じゃあ、奴隷女を買う金が貯まる頃には、よぼよぼの爺になっちまうよ。チンコも勃たねえ爺になってから、薄汚れた奴隷を買ってどうする? 俺らがどんだけ金を貯めたって、買えるような奴隷はお似合いのレベルだって……分かってんだろ?」
「金か、力があれば……か」
「だから一緒に娼婦を買おうぜ。俺オススメの店なら見た目も結構悪くないし、金さえ出せばサービスだってしてくれる。金で夢を買うんだったら、早いほうが良いはずだ。……死んじまったら、そんなことすら出来なくなるんだからよう。あっ、まさかジェス。お前、あの野郎に憧れてんのか?」
カタンは街で噂になっていた男の名前を出して、口汚く罵った。その男はこの街で最近名を挙げた奴隷ハーレムの主と揶揄される冒険者だった。まるで英雄のような強さと、見た目の良い奴隷を買い揃えるだけの財力を持った、上位ランクの冒険者。十代前半の奴隷少女達はみな粒ぞろいの美少女で、一人の値段で家が建つと言われるほどの価格で次々に競売に掛けられていた。それをごっそり買い浚っていったことで、趣味の良いお貴族様から目を付けられたと評判だった。
しかし、実力のある冒険者であれば、位の高い貴族であっても手が出せない。ジェスやカタンのような底辺冒険者とは事情が異なり、表立って逆らったところでお咎め無しだ。もちろん裏では何らかの手が回されているのかもしれないが、その奴隷ハーレムの主は、表から裏から、何ら掣肘を受けた様子は見当たらない。
そのくせ奴隷の印を付けた美少女達を侍らせて、しかも道行く彼女たちがいかにも幸せそうに振る舞っていることも重なって、大勢の男から嫉妬と羨望の的となっていた。
ジェスは以前、その男を目にしたことがあった。全身を固めた上質な装備品の数々。歩き方ひとつとっても相当の腕前と分かる所作。彼の後ろをついていく奴隷少女たちの、いかにも従順そうで、なのに何ら不満を覚えていない姿を見て、衝撃を受けたことは事実だった。奴隷少女たちは誰もが明るい顔をしていた。底辺そのものであるジェスやカタンといった下級冒険者や貧民街の子供達、スラム街の家無しどもの方がよっぽど暗い瞳で生きている。
毎日せせこましい糧を必死にかき集めて、なんとか這い上がろうと苦心する下民たちに比べ、何不自由ない奴隷たちと、その有り様を許す奴隷ハーレムの主のなんと優雅なことか。
「羨ましいのは分かるさ。たとえ奴隷でも、自分の女ってのがいるってのは、いいことさ。いや、奴隷だからこそ良いのかもしれねえ。でもな、あの男は俺らみたいなカスとは違うんだ。金も力も持ってる……運と頭だってあるんだ。勘違いするな。変な夢を見るな。俺らがどんなに頑張って金を貯めても、あいつの連れてる高級奴隷なんか、たった一人すら買えやしない。住む世界が違うんだよ。だから……ジェス、妙なコトは考えるなよ。……お前が出逢ったっていう貴族の嬢ちゃんのことも忘れろ。いいか、また逢おうとか、そういう偶然に期待するのもよせ。たとえその嬢ちゃんが許しても、回りが許さない」
ジェスは目を伏せた。カタンの言葉は何一つとして間違っていない、と思った。空になったグラスを握りしめたまま、目を瞑って、数時間前に見たあの笑顔を思い返した。たとえ偶然であっても、彼女と顔を合わせてはいけない。下手に近づいていると思われたら、悪い虫として容赦なく処分されるだろう。ジェスは奴隷ハーレムの主のような力も金も頭も運も、何一つとして持ち合わせていない。だから、ただまぶたの裏に焼き付いているあの微笑みを、記憶に刻み込もうと鮮明に思い描いていた。
カタンは立ち上がって、顔だけで笑った。
「ガキの頃からこんな暮らしで食いつないでる俺らと、あいつらとは、何もかも違うんだよ。最初から違うんだ。スタートが違う。あいつらの前には光が射すが、俺らは夜をこそこそ這い回る鼠と野良犬だ。神様だって手助けしちゃくれない。だから、夢を見るな。どんな手を使っても、俺にも、お前にも、絶対に出来ないことはある。たとえばどこかの遺跡で、偶然にも財宝が手に入る日が来るかも知れない。成功者として名が売れて、それまでその貴族のご令嬢が婚約者もいない立場で、結婚を申し込んだら上手いこと受け入れてもらえたとしよう。それで、お前は本当に、その娘の愛が手に入ると思うのか? 本当の愛が。真実の心が」
「それは」
「逆らえない奴隷を買うのと一緒さ。どうにかして身体を自分のものにしたって、そいつの心まではどうしようもない。他人が何考えてるかなんて分からないし、口では何とでも言えるからな。だからあの野郎、奴隷ハーレムの主様は尊敬されてんだよ。気にくわないヤツも、嫌ってるヤツも、嫉妬してるヤツも、全部あいつの奴隷の扱いだけは、所有してる奴隷娘から本当に愛されてる姿だけは、認めてる。その点で、その一点であいつはすげえよ。本物だよ。だけど、……俺とかお前みたいな、何も持たないカスに、底辺に、同じことができるか? 好きな女から、本当の愛を、真実の愛を、向けてもらえるように胸を張って、まっとうに生きられるのか?」
調子に乗って饒舌を披露するカタンの言葉は、酔いの勢いもあったが、正しいように思われた。ジェスは何も言い返せなかった。いつか見た好色勇者、見目麗しき奴隷少女たちの救い主のように、正解だけを選び続ける自信もなければ、そのための手段も持っていなかった。
雨に打たれた子犬のように、肩を落とし、唇を噛んだジェスの背中を叩いて、カタンが言った。彼の吐息には質の悪い酒の臭いが混じっていた。腐りかけた安酒の、酸っぱくて、ひどい悪臭だった。
「なあ、これから店に行こうぜ。奢ってやるからさ。一回でも生身の女を抱いてみろって。手の届く女の身体を知れば、ちゃんと忘れられるって。愛なんかなくても、肌を重ねれば気持ちよくなれる。商売女に愛なんかないさ。でも、それでも十分に満足出来る。それが世の中の真理ってやつだ。な?」
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