溢鬼

 その夜。

「う……ん」

 ゆかりはうなされていた。

(早く……逃げないと……もっと早く……)

 いつもと同じ、何かに追いかけられる夢だ。

 自分は必死に走っている。逃げている。

 後ろからはすさまじいスピードで、何かが迫っている。

 だめだ。あれにつかまってはだめだ。

 それだけは分かるが、自分の足は一向にスピードがでない。

 あと少しでつかまりそう――というところで、いつもなら目が覚めるのだが。

 今日は覚めない。

(いけない! これじゃあ――)

 がしりと。

 何者かが自分の足首を捕まえたところで、目が覚めた。


 真夜中の自室だ。

 ふらりと、自分が立ち上がる。

 だが、それはゆかりの意思ではない。ゆかりは自分の身体を一切動かすことができない。

 なのに、何者かが代わって自分の手足を動かしている。

(何、これ!? どうなってるの!?)

 ふらふらと、ゆかりは部屋の真ん中へと歩き出す。

 椅子を引き出し、足元へと置いた。その上へと上がる。

 そして制服のリボンを取り出すと、おもむろに電灯の根元へと結びつけ始めた。

(身体が動かない……。私の身体を乗っ取っているのは誰? どうする気!?)

 ゆかりの精神は叫び、身体を動かそうともがくが、一切干渉することができない。

 ゆかり(の身体)は、リボンの先をわっかにすると、そこへ首を通した。

(待って、まさか、首吊り――?)

 ぞっとする。

 今自分の身体が椅子を蹴り倒せば、果たして自分はどうなってしまうのか。

(やめ……、やめて! それだけは――)

 必死にもがくゆかりの後ろで、何者かがにやりと笑った気がした。

 そのとき。


 ドカッ!

 ゆかりの後ろに何かがぶつかり、ぱちんと意識がはじけた。

 無理矢理意識が放り出される感覚。

 気がつけば、目が覚めている。

 自分の身体が自分で動かせる。

 ゆかりは慌てて、リボンのわっかから首を引き抜いた。

 そして振り返ると――。

 目を疑う光景が、そこには広がっていた。

 髪を振り乱し、大口を開けて牙を剥いた異形の者――それが、のたうち、苦しんでいる。

 けむくじゃらの腕、筋骨隆々の身体。頭から伸びた角。

(あれは――鬼!?)

 その鬼ののど笛に食らいついているのは、拾った小動物だ。

 そして。

 ばくん!

 異形の者の、頭がかき消えたようになくなった。

 ばくん、ばくん!

 続いて手が、身体が。

 小動物がぱくぱくと口を動かすたびに、鬼の身体が削りとられていく。

 そう、まるで、

(まるで――鬼を食べているみたいだ)

 そんな突拍子のない想像をした自分に、ゆかりは驚いた。

 しかし、そうとしか見えない光景が続いている。

 ばくん、と。

 最後に残った足もかき消える。

 あとにはちょこんと座った小動物と、呆然とたたずむゆかりだけが残った。

「今の……なに?」

 だが、ゆかりの驚きはそれだけでは終わらなかった。

「ふむ――溢鬼いつきか。都合の良いところに都合の良いエサがいてくれたものだ。おかげで養分が摂取できたわ」

 ゆかりは耳を疑った。

「は!? え、しゃ、喋った!?」

 なんということだろう。

 小動物の口から、涼やかな青年の声が流れてきたのだ。

 それは間違いなく、言葉を操っていた。

「ああ。食事ができたゆえな。少々妖力が戻ってきた。しかしまだ尾は戻らぬな……。言の葉がやっとといったところか」

(どういうこと? なんで狐が喋るの? まだ夢見てるの? 私)

 ゆかりは混乱の極地にいる。

 頬をつねってみた。痛い。……ということは夢ではない。

「ああ、娘。食事の提供、ご苦労であった。おかげで少々力を取り戻したわ。礼を言うぞ」

 小動物がゆかりに顔を向け、話しかける。

 つられて、ゆかりもやっと口を開いた。

「な、何……。あんた、なんなのよ」

 そういうと、小動物はむっとした様子を見せた。

 そして、朗々と言う。

「あんた、とは無礼だな。われよわい千は生きる仙狐せんこぞ。敬え」

「せん、こ……?」

「九つの尾を持つ妖狐じゃ」

「九つ……って。あなた、尻尾はないじゃない」

 何の気なしに言った言葉だが、痛いところをついたらしい。

 小動物(妖狐?)はぐっと黙った。

「……忌々しい封印のせいじゃ。我の尾は、今封じられておる」

「封じられて……? どうして?」

「そのようなこと、主に話すいわれはないわ」

 つん、と顔を背ける。

 ここまでくると、小動物が喋ることに、ゆかりは若干慣れ始めていた。

 少しばかり落ち着きを取り戻し、改めて先ほどまでの状況を思い出した。

 あと少しで首を吊りかねなかった状況を。

 あらためてぞっとする。

 そして、異形の怪物。

「ねえ、さっきの……鬼みたいなの、あれはなんだったの?」

「ああ、あれは溢鬼じゃ」

「いつき?」

「取り憑いた者に首を吊らせる妖怪じゃな」

「首を……」

 無事だった首をさする。

「じゃあ私、あの鬼に取り憑かれてたってわけ? だから身動きが取れなかったの?」

「そうじゃ」

「あと少しってところで、急に意識が戻った。……じゃあ、あれってもしかして、あなたが助けてくれたの?」

「ふん。我はちょうどよい食糧がおったから喰ったまでのことよ。主のことなど知らぬ」

「喰った?」

「そう。我にとって妖怪は食糧じゃ。特に、あのような邪気からなる者はの。おかげで久々に腹がふくれたわ」

「そう、なんだ……」

 ゆかりは自称妖狐をそっと抱き上げる。

「でも、あなたがあの化け物を食べてくれなかったら、私は危なかったから……。やっぱりお礼を言うよ。どうもありがとう」

 覗き込んで目を合わせ、心から言うと、妖狐はふいと目をそらした。

「別に構わぬ」

 そっけない言い方だが、もしかしたら照れているのかもしれない。

 ゆかりはとたんに妖狐が可愛くなった。

「しかし、こんなところで食事ができたのは幸運であった。尾の封印のせいで、我の妖力はほとんどが封じられておる。野狐同然の力しかない状態でエサも探せず、行き倒れておるところを主に拾われた。危ないところであったが、溢鬼を喰ったおかげで言語を操る力は戻ったようじゃ」

「妖怪を食べると……力が戻るの?」

「いかにも。この調子で食べ続ければ、尾の封印も解けるだろう。誇るべき、我の九尾の封印がな」

 妖狐は惜しそうに、何も生えていないお尻をみやる。

「あなた……さっきみたいに、悪い妖怪を食べてくれるんだよね?」

「そうじゃ」

 ゆかりは妖狐を抱きしめた。

「だったら――私も手伝うよ」

「ぬ?」

「封印を解くの。私も手伝ってあげる」

 決意したようにいうゆかりに、妖狐は戸惑いを見せた。

「何を言うのじゃ? 人間が我の手伝いじゃと?」

「だって。あなたが力を取り戻すには、妖怪を食べる必要があるんでしょう? 悪い妖怪を食べてくれたら、さっきみたいな危険から、人を守ることができる。私みたいな目に会う人を減らせるかもしれないもん。利害は一致してるよね」

「それは……そうじゃが……」

「それに、私の命を助けてくれたお礼をしたい。だから、手伝うよ。私が、あなたのエサになりそうな妖怪を探す。見つけたら、あなたに教えるよ」

「……ふん。人間ごときの力添えがあったとて、何ができるとも思えんわ」

「そうかもしれないけど、やってみなきゃわからないじゃない。あなた一人で探してても食糧が見つからなくて、行き倒れてたんでしょう? 一人が二人に増えるだけでも違うと思う。学校の友達に聞いたりもできるし」

 妖狐はちらとゆかりを見た。

「学校……とは人間が集まる学び舎であったか」

「そう。たくさんの人がいるよ。ネットワークとしては活用できると思う」

「ねっと……? 何とやらは知らぬが、確かに、我は人の群れには混ざれぬ。主がそうした群れを利用できるというのなら、助かるやもしれぬな」

「でしょ? だから、手伝うよ」

 重ねて言うと、妖狐は思案した後、頷いた。

「ふむ。よい。ならば手を借りてやろう」

「あなた……やたらと偉そうよね……」

「当然じゃ。我は仙狐ぞ」

「センコ……。センコね。じゃあ、あなたのことセンって呼んでもいい?」

 気軽に問いかけると、妖狐はじたばたと抵抗した。

「セン? センじゃと? 我を略して呼ぶとは何事か!」

 ゆかりはしれっとしたものだ。

「だって、呼び名は何か必要だし。センコより、センの方がかっこいいし」

「そういう問題ではない! 誇り高き仙狐の我をそのように……」

「いいから、もう決めたの。静かにして。貴志が起きちゃう。……ふわあ。私も眠いや。今日のところはとりあえず寝よう」

「これ! 我は認めておらんと言うのに……!」

「ここ最近寝不足で眠いんだ。これで安眠できると思うし、私は寝るよ。明日も学校あるしね。じゃ、おやすみー」

「……!」

 まだ妖狐――センは何かガミガミと言っていたが、ゆかりは布団に入ると目を閉じた。

 すうっと落ちていくように眠りが訪れ、その後は夢も見ずに熟睡できた。

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