最後の赤備え

若狭屋 真夏(九代目)

 井伊の赤鬼

井伊直弼は井伊直中の14男という到底藩主にはなれない立場に産まれた。普通は養子に行くのだが庶子のため、養子の口もなく、15年間300俵という捨扶持を与えられていた。

このころの直弼を「ちゃかぽん」と呼ばれている。

茶、歌、鼓。の事で茶道と歌、鼓に興じる人生を送っていた。

いずれも一流であり、その聡明さを表していた。

まあ、なんだかんだで井伊家15代当主となる。

のちに大老となり、「安政の大獄」を起こしたり、したことはみなさんご存知の通りである。

民衆は彼を「井伊の赤鬼」と言って恐れた。

これはもともと井伊家藩祖井伊直政の呼ばれていたあだなだ。

「赤」という色は戦場で非常に目立つ。いわば「一番先に殺される」という事を覚悟しているという事だろう。

本来は武田家家臣飯富虎昌が「最も首をあげた武将」の褒美として与えられた。

この赤い軍団をみると相手は震え上がったともいわれている。


武田家滅亡後甲斐は徳川家康の支配下にはいり家康によって、井伊直政に「赤備え」を与えられた。それ以降直政のことを「井伊の赤鬼」と呼びこれを恐れた。


真田信繁も大坂の陣の時「赤備え」で装備した軍団で家康の胆を寒からしめた。

信繁軍の赤い鎧で包まれた軍団に襲われた家康の恐怖といったらそれはなかっただろう。家康は自害しようとしたが家臣に止められなんとか命をつないだ。


そして最後の赤備えである井伊家も悲劇を迎える。

慶応2年、第二次長州征伐で井伊直憲の率いる「赤備え」の軍団が芸州口の戦法を務めた。井伊直憲は井伊直弼の次男にあたる。長州軍は最新鋭のミニエー銃を装備している。

一方井伊軍は戦国さながらの「火縄銃」が主力であった。小瀬川を渡ろうとした井伊軍に石川小五郎率いる遊撃隊がアウトレンジ戦法という方法で攻撃した。

アウトレンジ戦法とは火力の及ばない軍隊に一方的に遠方から強力な攻撃をすることである。つまり火縄銃では届かない長州軍から一方的にミニエー銃で攻撃を受けるという散々たる結果をもたらした。

この時「赤備え」がさらなる悲劇をもたらす。

「赤」は目立ちやすいと書いたが、戦闘は夜であったが目立ちやすい赤備えのおかげで長州軍は簡単に狙撃することが出来た。

井伊軍は「どこから飛んでくるかわからない」銃弾におびえ井伊軍は「由緒ある」鎧兜を脱ぎ捨てて逃げ回ったといわれている。


そして鳥羽伏見の戦いでも幕府軍の先鋒として戦うが大敗。

結局寝返っている。

この時井伊軍の兵士は「赤い」鎧兜はすべて脱ぎ捨たといわれている。

こうして「赤備え」は無くなった。

つまりは「火力による戦闘」がメインになっていく。


ちなみにこのとき使われたミニエー銃などの兵器はアメリカの南北戦争の時使われたものだといわれている。

この前南北戦争は終結して火器が過剰な状態になっておりそれが日本にもたらされたとされている。


いずれにしても戦前は銃器は出回っていたが、戦後は厳しい規制が行われ銃を持つことのできない国になった。

これは非常に幸せなことであると当時に、それ以前に多くの人間が銃器で殺されたうえの悲しい過去の結果ともいえよう。

                完

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最後の赤備え 若狭屋 真夏(九代目) @wakasaya

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