スノードロップ
樹杏サチ
第1話
あの男は決して「駄目」だと否定しない。貰ったドレスや宝石を窓から投げ捨てても、出された温かい食事を目の前で倒しても。そして訊く。「君は作り手の気持ちを捨てるのか?」と、まるで親が子供に言い聞かせるように。スノウがあの男の言葉に反応を示した試しがない。同じ部屋にある息遣いは、風の音。ふいに話しかけられる声は、小鳥の囀り。両手に持ちきれないほどのプレゼントは、街路で人々に踏みつけられる落ち葉。だから気にしない。だから捨てる。そんなスノウの態度に、あの男は決して「駄目」だと否定しない。
だって言えるわけがないのだ。
双子の兄の目の前で、スノウを手籠めにした張本人なのだから。
けれど、たった一度だけ。
あの男が「駄目」だと、スノウの行動を否定した。
雲に手が届きそうなほど高い塔に監禁されてから一年ほどの月日が流れた。質素な寝具と、その脇に置かれた塗料すら施されていない粗末なテーブル。小窓から入り込む容赦ない日差しを浴びながら目覚める朝は、とても憂鬱だ。
煉瓦造りの塔にはびっしりと蔦が巻きつき、スノウの部屋の窓からも、いくつかの蔦や葉がむき出しに顔をのぞかせていた。
一日のうち、数回のお手洗いと、決められた時間のお風呂。当番の男に連れられて出ていく部屋の外が唯一の「外出」だ。
扉すらない部屋だというのに、満ちているのは束縛でしかない。一度、逃げられるかもしれないと部屋の外へ出たことがある。だが、下に続く螺旋階段の先で待ち受けていたのは空よりも広い絶望感だった。途中まで下りていったところで、スノウは引き返した。自分の背丈よりも高く頑丈そうな鉄格子と、見張りをする男二人が見えたからだ。
「……また手をつけていないのか。いくら不死身の身体だとしても、空腹の苦しみくらいはあるだろう」
一日に何度か訪れてくる男。名など知らない。
扉のない部屋に、プライバシーなど微塵もない。今日も男は配意の気配すら見せず入ってきた。
いつもと変わらず、男の声にスノウからの反応はない。
まるで最初から男なんて存在はこの世にいないかのように、寝具に腰をかけたまま窓の外を眺めている。
男は慣れた様子で、無言のままスノウに背を向けた。
部屋から遠ざかる気配を感じ、ようやくスノウが振り返ると、一瞬だけ男と目が合った。慌てて視線をそらし、脳裏に入り込んできた男の姿を追い出そうと再び窓の外を見た。
柔らかな光に包まれた空は、すっきりと晴れていた。
肌寒さこそ残るが、数日前までの身を射つくような寒さはない。
(そろそろ春になるのかもしれない――)
頭ひとつ、ようやく抜けられるほどの小さな窓から覗く世界が、今のスノウの全てだった。
ここに来て、晴れた日が嫌いになった。
外に干したシーツの匂い、光を反射して柔らかな景色を見せる草原。
兄と手を繋ぎながら、よく空を見上げて雲を数えた。どちらが先に多くの雲を見つけられるだろうと。つないだ手から伝わる温かさ。
なにひとつ、今は望めない。
甘すぎるほど優しい兄の笑顔も。
ふと思い出の中の兄が、醜く顔を歪めた。
あの男にスノウが肌を触れられた瞬間だった。自分と同じ真紅の眼が見開かれ、まばたきひとつしない眼の中に、怒りの焔が爆ぜた。
涙が一筋頬を伝い、それを見ながらなぜ泣いているのだろうと、いつものように手を伸ばして兄の頬に触れたかった。大丈夫だから、と。泣き虫で優しい兄をこの腕に抱きたいのに、身体はもう自分のものではないのだと、動かせない手足や唇が告げていた。
数えきれないほどの大人が兄を抑えつけているのを見て、今まで感じたこともない怒りで焼かれたように体が熱かった。
スノウは唇を噛み、思いを振り切るように視線を窓の外から再び室内に戻した。
テーブルの上には食事が置かれたままだった。
スープから昇る蒸気は失せ、空腹を刺激する匂いもない。色鮮やかな野菜のサラダの表面はもう乾ききっていた。
唯一変わらないのは、切られていない果実とその横に置かれたナイフの輝きだけ――
スノウはナイフを手に取り、果実を切り落とした。
切られた断面から、果汁があふれ出てきてトレイを濡らす。赤い果実がなぜかそのとき心臓のように見えた。
(死ねない身体ほど残酷なものはないわ)
自分の心臓を刺したとき、血は流れるのだろうか。この果実のように。
試したことはない。ただ、知識として「死ねない」と知っているだけだ。
本当に――?
疑問が漂いだしたら、もう止まらなかった。
致死量の血を流しきっても死ねないのだろうか。全てを流しきった身体は、どうなるのだろうか。
ナイフを握る手に、汗が滲んだ。
震える切っ先が、喉元に触れる。
針で刺したような、小さな痛みが喉元に触れた。ゆっくり視線を下にずらすと、珠のような赤い血がぷつりと浮かんでいる。
このまま、もしかしたら――。
「――駄目だ!」
突然の声に、スノウはナイフを手から滑らせた。
カラン、と乾いた音が部屋に響く。
心臓が、音をたてた。どくどくと、血が自分の体の中で巡っているのがわかるほどに。震える手で、ナイフを拾おうとしたそのとき。
枝のように細くなったスノウの腕を、あの男が力強く握った。
思わず振り仰いだその先にいた男の表情に、スノウは何も言えなくなった。
腕を握るその指が震えている。
焦燥と困惑、男の眼にはそれだけだった。こんなにも表情を見せる男だっただろうか。こんなにも、泣きそうな顔をしていただろうか――。
腕から伝わる温度に、スノウの鼓動が早くなる。
「命を絶つことだけは許さない。駄目だ」
この男は、忘れているのだろうか。
自分が不死身だということに。死ねない身体だというのに。
「……なぜ? ならばわたしを兄のもとへ返して!」
スノウの唇が震えた。一度声を出してしまえば、次々と思いがあふれ出た。
こんな場所にいたくないのに。兄に会いたい。また前みたいに笑いあいたい。どれも我儘な願いなんかではないのに。なぜ自分には、そんな些細なことを願わなくてはいけないのか。普通の生活を送りたいだけなのに。
視界がにじみ、涙が頬を滑り落ちた。
「それもできない……。私の顔を見るのが嫌だというのなら、もう二度とここには姿を現さないと約束する。――だから生きてくれ」
男が頭を下げた瞬間、スノウは喚くように泣きだした。声が枯れてしまうのではないかと思われるほど強く、激しく。男は一瞬ためらう気配を見せ、そして静かにスノウの体を抱きしめた。男の指がスノウの体に触れた瞬間、泣き声が止まった。
スノウは突き放すことも蹴り上げることもなく、再び泣き出した。声も出さず、静かに肩を震わせながら。
男はスノウの耳元で「すまない」と小さな声で呟くと、抱きしめていた力をいっそう強くした。
あの一件以来、男は本当にスノウの元を訪れなくなった。眠りから覚めると部屋には大量のプレゼントが置かれている。けれど、姿を見ることはなかった。そればかりか、当番の男がいつものようにやってきて、「塔の外に出ますか?」と訊いてきた。あの男の指示で、監視の目があるところならば、塔を出ても構わないのだという。
プレゼントは、相変わらず窓から投げ捨てている。あの男からの贈り物など、触れたくもない。だが、スノウは当番の者の問いかけに、迷わず頷いていた。
初めてあの男からのプレゼントを受け取ったのだ。
それから一日に一度だけ、スノウは塔の外に出ることを許された。
塔は高台の上に建てられているらしく、外に出ると遠くの景色が一望できる。塔の周りは山々に囲まれ、町も村もない。人の生活が全く感じられない景観である。ぼんやりと景色を眺めていると、ふと思い出す。自分は本当に孤独なのだと。同時に、この空虚な時間が愛おしいとも思う。今までとは違う、確かな気持ちだった。
草地の上にぺたりと座り込み、いつものように流れる雲を眺めていた。
ふと、塔の周りに花が咲いていることに気づいたスノウは、立ち上がり歩み寄る。白い花。まだスノウが兄と暮らしていたとき、修道院に植えられていた花と同じだ。寒い冬、降った雪を、天使さまが励ましのためにお花に変えてくれたのよ、と優しく語りかけてくれたのを思い出す。
スノウは胸の中に浮かんでは沈む感情を自覚していた。
あの男の腕の強さ、視線。
兄の目の前で凌辱しておきながら、甘い言葉をかけるあの男。その後スノウに触れたのは、あの日たった一度きり。乱暴に扱われたことがまるで夢だとでも言うように、あの男はスノウに優しかった。
あの日、感じた温度は確かに柔らかかった。
スノウは白い花を摘み取ると、監視の男にそっと渡した。あの男にこの花を渡して欲しい、と伝えて。
そうなのだ。
自覚はあったのだ。
だからこそ、スノウはあの男の存在を無視した。一度認めてしまえば、スノウは罪悪感に苛まれる。自分を手籠めにしたことはもちろん、今どうしているかもわからない兄に申し訳がない。憎まなければいけない相手。決して心を見せてはいけない相手。それなのに、あの男が部屋に訪れるたび、心がざわついた。なぜ、なぜ、なぜ――。
あの男に魅力なんてひとつもない。
憎んで憎んで、殺したいくらい憎い相手。
しかし、姿を現さなくなってから、スノウは安堵するどころか、さらに心が荒れた。
いっそうのこと死んでしまえばいい。この世から消えてしまえばいい。そうすれば、この正体のわからない不安に夜中目を覚ますこともなくなる。
だから彼に
あなたの死を望みます。
口にはできない、願いを込めて。
スノードロップ 樹杏サチ @juansachi
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