第195話 伊藤の決意

■1573年2月末

 遠江国 浜名湖付近

 武田軍 本陣


 浜名湖沿岸を発進した武田軍の先鋒は、山県隊を中心に信濃先鋒衆が吉田城付近まで進軍。進路上に展開した石島の兵と睨み合いが続いている。

 このまま一気に岡崎城を目指すかに見えたが、武田の本陣は再び陣を敷いた。全軍は進軍を止め、主だった将は本陣へと集められている。


 用件は二つ。

 一つは、先日から続いている岡崎城攻略に関する軍議が未だに纏りを見せていない事。岡崎城をどうすべきかは、その手前に位置する吉田城攻略にも大いに影響を及ぼす事項であるからだ。

 そしてもう一つ、武田信玄に妙な面会者が訪れた事である。


「特に供の者への警戒を怠るでない。伊賀は女忍びをよく用いるという」

「ハッ」


 岡崎攻めの指揮を任されている武田勝頼から指示が飛び、妙な面会者へ入念な調べが行われる。


「御屋形様、本当にお会いになるのですか」


 勝頼の心配事は、単に警戒すべき相手であるという事に留まらない。ここ数日どうにも煮え切らない信玄の真意を探りかねている事と、その体調が思わしくない事も相まって余計に心配しているのである。


「四郎、よい」

「はっ」


 武田家の諸将が居並ぶ中、入念に身体を調べられた伊藤と、その供を務める楓が通される。

 伊藤は当然ながら丸腰であり、楓は両手に板を抱え、その上には首桶が置かれている。中には村上の首級が治められている。


 本来であれば態々軍の進行を止めてまで会うような相手ではない。しかし、山県隊との交戦で村上を討ち取り、その首級を携えて供を連れてやって来た。しかもその供をする者が年端も行かぬ少女であると言う。

 この事が武田信玄の興味を引き、かつて登用に失敗したその人物に一目会っておこうという気を起こさせたのだ。


 異様な緊張感に包まれた武田本陣に、甲冑さえ纏わずに丸腰のままの伊藤が姿を見せた。所々に村上の物であろう返り血を浴びてはいるが、一目でわかる白装束を身に纏っている。


「織田家家臣、美濃郡上八幡領主、石島洋太郎が臣下、伊藤修一郎長重に御座います」


 四方から武田家諸将の視線を浴びながら、使者の待遇で迎えられた伊藤は敢えて床几に腰を掛ける事なく、地にどっかりと腰を下ろして両手を付いた。


「毒沢における湯治の折は、お礼を申し上げる暇もなく心苦しく思っておりました。その節は大層な無礼を働きましたる事、平にご容赦下さいませ」


 唐突に数年前の事を言うが、その件について詳細を知っているのは信玄本人と武藤喜兵衛だけである。多くの将にしてみれば、そんな事よりも他に言う事があるだろうと言いたい所だ。


 はじめに口を開いたのは、諸将を束ねる立場である馬場信房であった。


「湯治の話は織田家との間で取決めの有った事、貴殿が一人の事を思うて了承した話ではない。然様な事よりもだ、此度の戦差配は貴殿のなされた事であろう。妙な策を用いられたものよ、痛くはないが鬱陶しい事この上ない物であった」


 武田軍の出した被害は微量と言える。その差配をした人物だからと言ってこの場で斬り捨てる程の事ではない。

 馬場はこの言葉で、目の前の白装束に包まれた人物の器量を探ろうとしているのだ。信玄や、武藤喜兵衛が言うような大器であるのか、自らの目で確かめたくなったのである。


 伊藤は静かに頭を上げると、僅かばかり顔を馬場へと向けた。


「申されます通り。れども、本当に痛くなかったと申せましょうや。今の武田にとって大切なのは、兵、物資、そしてもう一つ、時。我等は兵や物資に攻撃をしたのではなく、武田の持つ『時』を攻撃したので御座います」


 この言葉は尋常ではない。

 時という言葉の意味が、単純に時間であるだけならば然したる話ではないのだが、そうではない事を馬場は感じ取っていた。


(こやつ……どこまで知っておる)


 信玄の体調が思わしくない事は、一部の重臣と信玄の主治医しか知らない事実である。それを織田の将、そのさらに臣下である目の前の人物が知っているとなれば、それは大事である。


「して、何用で参られた」


 ここで山県昌景が話題を切り替えた。


 配下である村上を討ち取った伊藤に対し、特別な感情を抱いている訳ではない。山県自身、村上が死んだ事よりも、曽根が村上と仲違いした事のほうが余程意外であったのだ。

 伊藤は山県に笑顔を向け、しっかりと頷くようにしてここへ来た理由を述べる。


「回りくどい事は申しませぬ。東海道への西進、お諦め下され」


 陣内が騒然となる。

 散々に抵抗したあげく、然したる成果が無い中で、何を血迷ったのか今度は単身乗り込んできて『諦めろ』と言う。あきれ返る者もあれば、露骨に殺気を滾らせる者まであった。


 その陣内に静寂を齎したのは、小さく上げられた信玄の右手である。その信玄に代わり、軍の副将としての立場で働いている内藤昌秀が声をかけた。


何故なにゆえか、申せ」

 

 諦めろと言うだけならば態々ここに来なくとも出来る。

 命を捨てる覚悟でもなければ来られる場所ではない。そんな場所へ来て、あろう事か諦めろと言うからには、それなりの理由があって当然だと見ている。


 その内藤に顔を向けた伊藤は、再び地に両手を付いて頭を下げ、十分な敬意を示した後、ゆっくりと体を起こして言葉を並べ始めた。


「三河守殿を打ち破られたるは見事。なれど、浜松、更には岡崎を捨て置いたままで尾張に入らんとすれば、その兵站には大きな不安を残しましょう。そうは申せども、浜松にせよ、岡崎にせよ、一朝一夕に落とせるような城では御座いませぬ。東海道を平らげるには相応の『時』を使いまする」


 再び出された『時』という言葉。この言葉が出る度に、武田の重臣たちは背筋に冷たい物を感じる思いでいた。

 伊藤の言葉は続く。


「即ち、武田にとってこのまま東海道に留まるは、利が御座いませぬ。利が御座いませぬ故、お諦め頂きたいと申しに参りました。攻められる方には当然ながら利など御座いませぬ。その上は攻める方にも利が無いのであれば、これはいくさをする事自体が無駄で御座いましょうや。如何に」


 時を使っては利が無い。

 この事は、全てが武田信玄の命に向けられた言葉である。その事を抜きにしてしまえば、時などむしろゆったりと使ってよい状況と言えるだろう。


 時期を待ち、雪が解ければ朝倉が動けるようになる。その時間を使ってゆっくりと東海道を制すれば、武田家は東海道という優良な経済圏を手にする事にもなる。

 時間をかけ、徳川を攻め滅ぼし、信長包囲網を徐々に狭めて行けば、織田家に対して刃を向ける存在も増えてくる事は間違いない。


 だが、それには信玄の命が必要不可欠である。


 信玄であるからこそ、他国が畏怖し、協力を惜しまない。

 信玄であるからこそ、将軍家が頼り、朝倉が、浅井が、石山本願寺が頼る。


 武田家には十分な兵がある。十分な協力者もある。基盤となる甲信は治世が行き届き、内憂など無いに等しい。関東の諸勢力からの支援もある。


 だが、時が無い。


 たった一つのこの弱点を、伊藤は十分に理解しているように見えた。

 ここでようやく、信玄本人が口を開いた。


「喜兵衛」

「はっ」


 呼ばれたのは、陣内では下座に位置する場所で待機していた若者、武藤喜兵衛である。

 伊藤が来るという話があった直後、信玄は武藤喜兵衛を呼びつけていくつか会話を済ませていた。伊藤への問答は喜兵衛が行い、信玄はその伊藤の姿を観察するつもりでいる。


「御免」


 武藤は上座に並ぶ兄や、その他の諸将に頭を下げながら前を横切ると、信玄の前に座る伊藤の眼前へと歩を進めた。


「伊藤殿、お久しゅう御座りますな」

「これは武藤殿、お久しぶりで御座います」


 伊藤の返答を受けながら、武藤喜兵衛はその両目を鋭く光らせる。

 その武藤と、それに相対する伊藤。この両名へ陣内の全ての視線が注がれた。

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