第167話 姉川の戦い 五

 周囲の視線が、馬上の人と彦作さんに集まった。


 次の瞬間、馬上の人が馬の腹を蹴り急加速する。大事そうに抱えていた三田村さんの首を放り投げると、両手で手綱を握って全力疾走に入った。


 周囲はそれを眺めてはいるが、余りに急な事でその場を動けた人間は殆どいない。既に駆け寄っている彦作さんと、その様子に気付いた竹中さんだけだ。


「喜右衛門殿とお見受けした!」


 彦作さんが叫ぶと同時に、手にしていた槍をぶん投げる。


 その槍は見事に馬の脚に絡まり、可哀相な事にお馬さんは前足をガクッと畳んで頭から派手に引っくり返った。当然、乗っていたお侍さんも無事ではない。

 急に止まって転んでしまった馬の背から投げ出され、ものすごい勢いで地面に激突した。


「お覚悟!」


 落下したお侍さんに向け、腰の太刀を引き抜いた彦作さんが飛びかかっていった。



◇1570年6月28日 夕刻

 近江国 北近江 姉川

 木下隊


 負傷兵の介抱に当たっていた木下隊が、俄かに騒然となった。

 既に戦はひと決まり付いており、後は織田の追撃戦の戦果を待つばかりとなっていた所へ、思いもよらぬ敵将が舞い込んできたのである。


 その将の名は、遠藤喜右衛門直経。


 自らの手勢は殿として織田の追撃部隊と応戦し、大いに奮戦するも衆寡敵せず、既に散々に討ち破られていた。

 遠藤自身も手傷を負う程に奮戦し、当主長政の小谷城撤退を助けた後、こちらも手傷を負っていた味方の将、三田村左衛門尉の首級を取り、それを手柄首として織田兵に成りすましたのである。


 そして無数に寄せる織田勢の目を見事にかいくぐり姉川を渡り、織田兵を装って信長の本陣へ入ろうと試みた。

 途中、本陣前に陣取っていた織田勢に一瞬迷った遠藤であったが、迂回するほうがかえって怪しまれると判断。敢えてそのど真ん中を通り抜けるという大胆不敵な行動を選んだ。


 だが、その判断が仇となった。


 織田本陣の前に陣取っていたのが木下隊であり、その中には竹中半兵衛がおり、そして、その半兵衛がこの戦に一族郎党を率いて参戦していたのだ。


 そこに知己の間柄である彦作がいた。


 そうでなければ、恐らく遠藤は難なく織田本陣に入り込み、三田村の首級を携えて信長の目の前まで行けたであろう。そうなれば、信長は遠藤の手にかかって敢無い最期を迎えていたかもしれない。


 その点、織田信長という人物は実に運の強い人物である。

 いつの世も、大いに名を上げる者というのは人並み外れた強運の持ち主であり、逆を言えばその強運こそが一時代を築く者の絶対条件であるとも言える。


 結果として、竹中半兵衛重治の弟、竹中彦作によって遠藤であると看破された事で、この暗殺は失敗に終わった。


 馬上から放り出された遠藤は、直後に突進してくる若武者を見据えた。


「口惜しや、やんぬるかな!」


 もとより命は捨てる覚悟である。

 この期に及んでは織田信長にも遠く及ばない。

 織田本陣は目と鼻の先であるが、この距離を駆けこんで信長を討つのは到底不可能であると判断した。


 自らの槍で遠藤を馬上から落とす事に成功した彦作は、引き抜いた太刀を握りしめて遠藤に躍り掛かる。

 戦前より遠藤を討ち取ると公言していた事もあり、彦作はこの機を必ず物にすべく乾坤一擲この瞬間に全力を注いだ。


「喜右衛門殿、お覚悟!」


 だが遠藤とて月並みの将ではない。剛勇を以って主を支え、思慮遠望を以って主を支えた浅井家の重臣である。


「彦作か! 良きかな!」


 言いながら太刀を引き抜き、彦作が突き入れた刀を弾く。

 だが、今の遠藤にはそれが精一杯であった。


 織田の追撃に散々抗い手傷を負い、更には先程の落馬で左腕が上がらず、右の足も思うように言う事を聞かない。

 薙ぎ払った彦作の太刀が再び遠藤に向けられた時、遠藤は何故か胸のつかえがすっと取れるような気がした。


(やはり織田が勝つか……朝倉に付くべきではなかったのだ)


 主家の為に全力で戦い、主家の判断に迷い、その迷いを振り払い主家を想い、主君を想い全力で挑んだ。

 ここに、その男の生涯が幕を閉じようとしている。


 彦作が振り下ろした太刀が、遠藤の首に深々とめり込んだ。


 一振りで首を斬り落とすという技は、尋常ならざる訓練を受けた者でさえ難しい。ましてや特別に剣術の稽古を修めた訳でもない者が、戦闘中であれば出来うるはずもない。

 遠藤の身体を蹴るようにして刀を引き抜いた彦作に、遠藤の首から飛散した大量の血が浴びせられる。


 首に走った鈍痛は身体から自由を奪い、最早指先さえ動かす事の出来なくなった遠藤は蹴られた勢いで仰向けに倒れた。

 その遠藤の姿に、彦作は無言で太刀を捨てると、左の腰に残っていた小太刀に持ち替える。それはこの時代の参戦者であれば誰しもが持つ、敵将の首を取るために常備している物だ。


 己の首から大量の血液が失われた遠藤は、ただ一点空だけを見つめる。既にその思考さえも停止し、夕日に染まる北近江の空を最期に一望する景色とした。

 彦作は遠藤に馬乗りになると、先程自分が打ちいれた首の刀傷へ小太刀を差し込み、それを一気に押し込んだ。


「竹中重治が郎党、竹中彦作! 敵将、遠藤喜右衛門殿討ち取ったり!」


 血の滴り落ちる遠藤の首を高々と掲げる彦作は、北近江に降り注ぐ夕日を浴びながら言い知れぬ達成感に包まれていた。



■1570年6月28日 夜

 近江国 北近江 横山城

 石島隊


「殿、お加減は」


 十五くんが心配そうな顔で訊ねる。まったく情けなくて涙が出ます。

 木下隊で目撃してしまった彦作さんの奮闘劇に、俺はすっかりてっかり意気消沈。食欲は無くて夕餉はパス、げっそりグッタリしている。


 伊藤さんと山賊達との戦闘の後もけっこう辛かったし、吉田川での戦いも辛かったし、敦賀で朝倉兵さんの生首とご対面した時も辛かったが、流石に目の前で首をもぎ取る瞬間というのはグサッとダメージがデカイ。


「ああ、大丈夫。ちょっと疲れただけ。皆も頑張ってるし疲れたとか言ってられないけどね」


 遅れて到着した十五くんとも合流し、横山城の東側で野宿中である。


「ねえ十五くん、命の尊さって分かる?」

「はて、某にとっては殿のお命でありましょうか」


 分かる訳もないか。


(だよね、やっぱりそうだよね)


 命が尊い物だと思うのは、俺がそういう教育を受けたからに過ぎない。

 命が尊い物で、人が平等であるべきだと思うのは、そういう教育を受けたからだ。命の尊さも、人の平等も、誰かの都合に合わせて作られた偽善なんだろう。


 そしてその偽善こそ、人類が生み出した最高の文明だと思う。

 この時代で過ごしていると本当にそう痛感させられる。良く考えてみれば、俺は数えきれない程沢山の命を食べて育ってきた。俺が受けてきた教育の言う『尊い命』とは、正確に言い直せば『自分達が尊いと思う命』である。


 その線引きは実に勝手都合な物だ。

 食肉になる家畜の命は有難く頂戴し、ペットとして愛でる命は尊く守るべき物。

 そんな歪んだ教育を受けた俺には、この時代のストレートで正直な命の価値観は受け入れがたい。というだけの話だろう。


 けれど共通している事もある。

 それは『命は儚い物』という認識だ。


 脆く、儚い。それだけはこの時代の人も良く分かっている。だからこそ、失ってもそれ程嘆く事は無い。

 自分の命も、他人の命も、失う事は日常茶飯事なのだ。

 ありふれた日常の中に、命を失うという出来事が存在している。当たり前の話だが、脆く儚い物は直に壊れてしまう。

 自分や、自分が大事にしている人が死んでしまう事の想像なんて全くしない俺の時代と、いつ自分が死んでもおかしくない時代とでは、価値観の溝が深すぎる。


 伊藤さんから聞いた戦国武将の名言集に「命は軽く、名は重く」なんて物があった。死ぬか生きるかは問題ではない、どう生き、どう死ぬかが問題だ。という名言だろうか。

 そんな時代に来ているからこそ、やらなきゃならない事がある。


(守るんだ。陽の事、優理の事、美紀さんも唯ちゃんも瑠依ちゃんも。守るんだ)


 グッと歯を食いしばり、自分の膝を強く叩いた。


「殿?」


 怪訝な顔で俺を見る十五くんの肩を、俺は思い切り引っぱたいて笑顔を作った。


「そんな顔すんなって! よし、夕餉! 腹減った!」


 人を殺す強さも、首を取る強さも、それは手段であって目的ではない。必要であればやるしかないが、必要でなければやる事もない。


 ただこれだけは譲らない、俺は、絶対に皆を守る。

 たとえ時代が、人々が、命をどれだけ軽んじたとしても、俺は絶対に皆を守る。改めてそんな事を思ったりしてみた。

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