第165話 姉川の戦い 参

◆◇◆◇◆


◇1570年6月28日

 近江国 北近江

 姉川 織田軍


 浅井勢の火を噴くような突撃に、戦場にいる殆どの物が織田本陣の危機を感じ取った。だが、木下隊だけは待ちに待った状態と言って良い。


「かまえよ!」


 右翼の大将を任された木下小一郎が前線で声を張り上げ、木下隊の鉄砲が寄せてくる浅井勢を狙う。


「撃て!」


 最初の斉射である程度の敵を薙ぎ払うも、突撃の勢いを削ぐほどの働きにはならない。


「出るなよ、ここで迎え討つのだ!」


 小一郎は周囲に視線を巡らせながら、味方に前に出るなと厳命を繰り返す。しっかりと制御しておかなければ、川上衆を中心に血気盛んな連中が飛び出しかねない。そうなれば第二波、第三波の突撃を抑えきる事は難しくなる。


 坂井隊が残した若干の柵と、河川沿いのなだらかな斜面を利用して防御陣を敷いた木下隊は、程なくして浅井の突撃隊と激しい戦闘に突入した。最初に敵と接触したのは、右翼に備えた小一郎の隊であった。


 木下隊の左翼には蜂須賀正勝、中央を受け持つのはこの戦に一族郎党を率いて参戦している竹中重治と秀吉本人。


 それ等の隊も直後に戦闘状態へと突入し、瞬く間に血しぶきが舞う。浅井勢の猛攻に、木下隊は実によく耐えた。


 激しい戦闘が繰り広げられる中、中央の竹中隊が特に厳しい展開を強いられている。中央を一点突破すべく押しかけてくる浅井勢に対し、どうにかこうにか凌いでいるといった状態になっていた。

 追い散らせど追い散らせど次々と寄せてくる浅井勢に対し、反撃の糸口を見つけなければこのまま押し破られる危険もある。


(徳川は持つだろう、だがこちらが持たんか)


 時間の経過さえも待ち遠しい程に、浅井勢の猛攻が続く。その状況にあっても冷静に戦況を見つめる竹中重治の元に、その弟である竹中重矩たけなかしげのりが駆け付けた。


「兄者、喜右衛門殿はまだ寄せては来んぞ!」


 斎藤家を出奔して以降、一時的に浅井家の禄を受ける身の上であった竹中家は、少なからず浅井家中に知り人を持つ。

 遠藤喜右衛門もその一人であり、竹中重矩はこの戦に従軍する以前より、戦となれば自分が遠藤を討ち取ると公言していた。


「彦作、喜右衛門殿に固執するのはやめよ。まずはここを守り通すのだ」


 烈火のごとく攻め寄せる浅井勢に対し、木下隊は辛うじて踏み止まってはいるが、いつ突破されてもおかしくない。いかな大将首と言えども、遠藤一人に気を取られていては惨事を招く。


「次が来るぞ、全て追い返してから申せ! よいな彦作!」

「わかっております!」


 不満げに答えた重矩は、そのまま踵を返し前線へと戻った。



◇近江国 北近江

 姉川 朝倉軍


 浅井勢が捨て身の突撃を開始した頃、朝倉勢はようやく渡河を開始。織田軍の側面を防衛する為に対峙していた徳川勢との戦線を構築した。


 剛勇で知られる三河武士を中心とした徳川勢に対し、先鋒を任された真柄隊が接触。姉川の流れに足を取られる中、両軍が激しく刃を交えた。


「ゆるりと押し込む! 出過ぎるでないぞ!」


 総大将を務める朝倉景健の判断により、朝倉勢は無理な寄せをせずにゆっくりと進む。その朝倉勢の堅実な寄せに、徳川の前衛は図らずも苦戦を強いられる形となった。


(こうも易々と押し込めたとて、無駄な事か)


 真柄直隆率いる真柄隊は、河川の中腹に留まり味方の後続を待ってはいるが、味方の進軍は遅々として進まず、あまり突出しては孤立する危険もある。


(浅井頼みか、祈るより他になし)


 真柄は大槍を担ぐと、再び寄せてきた徳川兵を強引に討ち下しては徳川勢を見据えた。


(本多平八郎、居るのであれば来い!)



 ――同刻、徳川本陣。


 白煙の上がる姉川沿いから少し南の高台に、徳川の本陣が置かれている。戦況を広く見渡せる程の高台ではないが、前線がどのあたりにあるか程度の事は容易に把握できた。


「申し上げます! 朝倉勢先鋒は真柄直隆、以下その郎党と思われます!」


 本陣をひっきりなしに訪れる伝令の知らせに、一つ一つ頷いて答える徳川家康は、家臣からの出撃の進言を尽く退けては、守りに徹するよう言い聞かせていた。


「こちらは朝倉を食い止めておけばそれで良い。無駄に被害を出してはならん、守れ」

「ハッ!」


 再び、専守防衛の指示が飛ぶ。


 織田浅井が血しぶきの舞う激戦を繰り広げているのに対し、その西に位置する徳川朝倉の戦線は、両軍が互いの様子を見ながらの戦闘となった。


「平八郎、状況によっては退く。そうなれば殿は任せるぞ」


 主君家康の言葉に無言で頷いた本多平八郎は、主のその想いに微塵の疑問さえ抱いていない。


 月初に寄せられた情報によれば、武田家は内政における制度の見直しを計り、近年体調を崩していた武田信玄を気候の変化が厳しい甲斐ではなく、比較的過ごしやすい東海道は駿河の地へとその療養の場を移したという。

 体調を崩していても信玄本人が政務を取り続けなければならなかった以前と比べ、武田家内部での改革が成功した事により、信玄本人の負担が大きく減ったという事になる。


 そうなれば、信玄の体調如何では動きがあっても不思議ではない。


(このような場所で血を流している場合ではないのだ。被害を極力減らさねばならん)


 家康のこの想いは、家中の主だった者であれば誰しもが抱く想いであり、朝倉家同様、この戦闘に積極的になれない状況を作り出していた。



◇近江国 北近江

 姉川 織田本陣


 日が傾き始める頃まで戦闘は続き、ついに浅井勢が戦線の構築を仕切れなくなっていた。


 渾身の突撃は木下隊の前に次々と弾き返され、広く展開していた軍勢は時間の経過と共に姉川を追われ、次第に北岸へと打ち上げられている。


「申し上げます! 木下藤吉郎様、敵将浅井政之討ち取り!」


 続々と入る敵将討ち取りの報にも、信長は微動だにせずただ聞いているだけであった。


「申し上げます! 稲葉良通様、石島長綱様、姉川を渡河し敵側面へ攻撃を開始なされました!」


 この知らせに、ついに信長の采が振られた。

 ほら貝が鳴り響き、陣太鼓が姉川の大地に木霊する。


 織田軍総攻撃の合図に、一時は織田の本陣付近まで肉薄した浅井勢は勢いを削がれ、一斉に攻勢を強める織田勢の前に後退を開始した。


「押し返せ!」


 席を立った信長の号令により、織田の本隊も渡河を開始。次々と浅井の前線を突破しては、浅井本陣が置かれている野村へと殺到した。



 ――同刻、徳川軍。


「織田が勝ったか。者共、朝倉を蹴散らせ!」


 織田軍の総攻撃に合せるように、徳川軍もついに本腰を上げる。


 姉川沿いで乱戦に突入していた徳川勢は、味方の後続に道を譲る様に左右に展開。それによって出来た空間を通り、徳川自慢の精鋭部隊が朝倉勢に挑みかかった。


「本多隊、出るぞ!」


 その精鋭部隊の先頭に、鹿角の兜を身に付けた本田平八郎の存在がある。


 群がる朝倉の兵を自慢の名槍『蜻蛉切』で薙ぎ払い、姉川へと愛馬を押し入れる。それに続くようにして徳川の新手が次々に姉川へと入り、川面は真っ白く水しぶきに覆われた。


 浅井勢が既に潰走寸前とあって、朝倉勢も徐々に撤退を開始している。その朝倉勢の殿を受け持ったのは、先鋒として攻め寄せていた真柄直隆であった。


(あの大男、真柄か)


 平八郎の目に、川岸へ上がる朝倉勢を叱咤しつつ、自身の隊は姉川に留まる一隊が映る。その中央には、先般越前で槍を合わせたあの猛将の姿があった。


「各隊、中央を避けよ! あの隊には当たるでない、避けて進め!」


 平八郎の指示で左右に展開する徳川勢は、真柄の隊を避けつつ姉川を渡り切り、朝倉勢を追撃する構えを見せた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る